校長室ブログ

2026年1月の記事一覧

1/19 完全数の悪夢 & こんなものを読んできた38

  超私事で恐縮ですが、以前このブログで悪夢を見ることが多いと書いたように、今朝も妙な夢を見てしまい、朝起きた時からなんか疲れた感じでした。

 今日見た夢がどんなものだったか、というと「『奇数の完全数はない』ことを証明する方法を閃いてしまい、一生懸命計算しているのだが、できそうでできない。」というものです。

 まず、完全数というのは何かと言いますと、「自分自身を除く約数の合計が自分自身になる数」です。具体的には、

6=1+2+3

28=1+2+4+7+14

のような数です。 

 この定義は、そんなに難しいものには見えませんが、28の次は496、その次は8128、さらにその次は33,550,336と、「○○数」と呼ばれるものの中でも出現頻度が低いものです。

 この完全数については、まず、それが無限にあるかどうかも証明されていませんし、いままでに分かっている完全数は、全部偶数(2で割り切れる)で、奇数(2で割り切れない)の完全数が存在するのかしないのかも分かっていません。

 小学校で習うような足し算と掛け算だけで出来上がっている完全数ですが、上のようなこともいまだに謎なわけです。それをもし証明できたら、フィールズ賞やアーベル賞(数学の世界のノーベル賞みたいな賞)も取れるかもしれません。(フィールズ賞は若手だけ)

 その証明を閃めいてしまうというのは、それだけなら良い夢なのでしょうが、そのための計算を延々と続けているのは悪夢としか言いようがありません。そもそも高校の時に数学で赤点すれすれだった(その割には数学は好き)私が、完全数の証明などできるわけはなく、実際、目が覚めてから、夢の中の計算過程をなるべく思い出して、じっくり考えてみたら、すぐに間違いだとわかり全然ダメでした。いや、疲れました。

 「こんなものを読んできた」38回目は宮部みゆきの名作「蒲生邸事件」です。昭和初期の2.26事件を舞台にした時間旅行SFミステリーという盛沢山な趣向の作品ですが、2月が近づいてくると読み返したくなります。

こんなものを読んできた38(蒲生邸事件)WEB.pdf

※上記の文中で2.26事件の発生年を間違えていたので、差し替えました。

 

 

 

 

1/13 新しい四半世紀 & プチ史跡2(上尾駅近くの2つの神社)

  先週から今週にかけて、朝夕が氷点下の冷え込みが続いていますが、みなさんお元気でしょうか。

 前に、地球温暖化の影響で北極や南極の氷が溶けて冷たい水が流れ出ると海水温が下がり冬は寒くなる、という話を聞きましたが、本当かもしれません。

 先週は8日(木)に始業式があり、本校でも3学期が始まりましたが、始業式では前回このブログでも書いたように、21世紀の新たな四半世紀が始まるにあたり、「21世紀最初の四半世紀はあまり良い時代だったとは言えなかった。これからの21世紀を生徒の皆さんの世代でより良いものにしてほしい」という話をしました。

 令和8年3学期始業式.pdf

 今回のプチ史跡2では、前回の「初もうでシリーズ」の続きではありませんが、私の地元上尾駅周辺の2つの神社を紹介します。

 戸田翔陽高校のブログなのだから、戸田の史跡を紹介すればよいと思われる方もいるかもしれませんが、本校を含めた現在の戸田市の中心的な市街地のある場所は、江戸時代にはほぼ水田地帯でした。そのためか本校から気軽に行ける範囲には神社等はあまりありません。現在では戸田市の西の端になる美女木やその北側のさいたま市内谷周辺の方が古くから開けた土地だったらしく、寺や神社がたくさんあります。

 と言い訳をした後、本題に戻ります。一つ目は今年最初のブログでも出てきた氷川鍬神社です。上尾駅の南側、丸広SCのすぐ隣にあります。この神社については、前任校のブログでも書いた(氷川鍬神社について(与野高校ブログ).pdf)のですが、多少付け加えたいことがあるので、再論します。

 

 

 この神社はもともとは鍬神を祭る「鍬太神宮」でした。その由来としては、寛永8年の末に北の桶川の方から、鍬神の御神体の入った櫃を引いた童子が歌い踊りながらやってきた。童子たちは上尾宿の本陣前に台車を残して消えたので、上尾宿の人々は御神体を祭る神社を建てた、というものです。

 この話は中部東海地方に多い鍬神信仰と同じ話です。鍬神信仰は、伊勢神宮別宮の伊雑宮のお田植祭りで使われた鍬を神体にして、これを村から村へリレーのように歌い踊りながら送っていくというものです。宗教的な熱狂が突発的に発生して地域一体に拡散する現象なので、地域を統治する大名や幕府から治安を脅かすものとして危険視されることもあったようですが、今でも愛知県や岐阜県などには、これに由来する「鍬神社」がたくさんあります。

 「なるほど、これが上尾まで広がったのね」と納得できればそれで終わりなのですが、そうはいかないところがあります。中部・東海地方で先述の「鍬神信仰」が最も盛んだったとされるのは、明和年間(18世紀後半)で、各地の「御鍬神社」もこのころにできたようです。ところが上尾に鍬神の櫃がやってきたのは寛永年間(17世紀前半)とされていて、100年以上早いのです。このこと自体は、鍬神信仰が実は非常に息が長く、繰り返しブームになっていたのだと考えることもできますが、だとしても、本場の中部・東海地方よりも早く、鍬神をまつる神社が上尾にできたことになります。また、なぜ中部・東海からはるか離れた上尾に鍬神をまつる神社ができたのか、とか、鍬神信仰の広がりは中部東海を超えて、関東にまで及んでいたのだろうか、いろいろな謎があるわけです。

 もう一つは、上尾駅の北側、線路沿いの道を少し行ったところにある小さな社「胡桃下稲荷」です。飲食店の多い繁華街に商売繁盛の神として五穀豊穣の神である稲荷社があるのは珍しくありませんが、ここの稲荷はよく見かける伏見稲荷や豊川稲荷ではなく、笠間稲荷(茨城県笠間市)の末社です。

 この本社の笠間稲荷が実はなかなか不思議な神社なのです(上尾胡桃下稲荷について(与野高校ブログ).pdf)。上尾駅の近くにこういう二つの面白い神社があるというところが、私としてはなかなか気に入っています。

 

 

 

 

 

1/7 「こんなもの読んできた」36・37 & プチ史跡2(鳩ケ谷探訪

 生徒の皆さんは、明日から3学期ですよ。忘れずに学校に来てください。

 まず、「こんなものを読んできた」は年末・年始に生徒に配信した36回と37回をまとめて掲載します。

こんなものを読んできた36(誰が勇者を殺したか)web.pdf

こんなものを読んできた37(航宙軍士官)web.pdf

 さて次は「プチ史跡2」ですが、正月2日に親戚のいる鳩ケ谷方面に行ってきたので、その探訪記です。

 鳩ケ谷は今は川口市の一部ですが、昔は日光御成道の宿場として栄えた独自のアイデンティティーを持った街です。戦前に一度川口市と合併しましたが、戦後にまた分離して周囲を川口市に囲まれた状態で存続し、平成の大合併でまた川口市と合併したという沿革を持っています。

 まずは、鳩ケ谷の総鎮守氷川神社から。

 この神社は応永元(1394)年(室町時代)に創建されたそうですが、社殿も参道も立派で、当日は初もうで客が一ノ鳥居のところから行列をする賑わいでした。氷川神社は埼玉から東京にかけては、たくさんあるのにそれ以外の地区ではほとんど見られません。前にも書きましたが、氷川神社のこのローカル性は、本来、地域限定のローカルな神様を祭る神社だったからだと思います。現在の主神スサノオノミコトは、武蔵国造として出雲系の一族がやってきた後の後付けでしょう。

 次は、鳩ケ谷の本通り(御成道)にある十一屋北西酒店です。

 宿場町の商家の造りをそのまま残す店舗と蔵は国の登録有形文化財になっています。しかし、今回取り上げたのはそれだけが理由ではありません。

 私の地元上尾には、清酒「文楽」の蔵元がありますが、その文楽を作っているのが北西酒造、販売部門が十一屋です。上尾の北西酒造と鳩ケ谷の北西酒店はつまり親戚同士というわけです。鳩ケ谷の十一屋さんは、明治時代に店を構えて今のご主人は4代目とのことです。上尾の北西酒造とはずいぶん前に枝分かれしたことになりますが、いまだに縁がつながっていて、この店で売られている「純米吟醸 鳩ケ谷宿」や「純米吟醸 御成姫」は上尾の文楽の協力で出来上がったそうです。

 さらに元をただせば、北西酒造さんの一族は近江から来たようですが、埼玉県の各地の蔵元にはご先祖が近江商人だったというところがたくさんあります。秩父の「秩父錦」の矢尾酒造さんもそうですし、毛呂山の「琵琶のさゞ波」の麻原酒造さんも近江出身です。

 いまや、技術的・経済的にすっかり立ち遅れた感のある今の日本ですが、立ち直るきっかけは、こういう日本独自の家業や縁を大切にする風土にあるかもしれない、と思うのですが。

 最後は、鳩ケ谷の本町から南に下った八幡木地区の八幡神社です。八幡神社があるので八幡木、なのでしょうが、この辺りは昔は中居村と言っていた所です。こちらは、氷川神社とは違い初もうでの人もおらず静かでしたが、この神社の本殿は側面に施された浮彫が見事です。 三面、全部写真に撮ったので掲載します。

 八幡神社は、京都の岩清水八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮のように、歴代の源氏が尊崇した神社なので、浮彫も源氏ゆかりの「鎌倉繁盛」といわれる組み物の図柄が多いようです。ここの浮彫も一番上が「鶴の放生」、中が「天狗と源義経」、下が「源為朝の土人退治(ポリコレ的にまずそうな表現ですが、ここはそのままで)」で「鎌倉繁盛」のようです。

 躍動感のある素晴らしい作品です。作られた当時は彩色されていたはずなので(日光東照宮や妻沼の聖天山のように)さらに見事だったろうと思います。

 これは全く何の根拠もありませんが、上尾の向山不動堂や二ツ宮氷川神社の浮彫と作風が似ている気がします。向山不動堂の方は明治に作られ、山田弥吉という職人さんの作品だということがわかっています。

 神社の本堂には、こういう浮彫が施されていることが多く(はがされてただの板壁になっているところもありますが)、それを見て歩くのもなかなか楽しいものです。

 

 

 

 

1/5 あけましておめでとうございます。&プチ史跡2

 みなさん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 正月なので、まず最初に地元上尾の知る人ぞ知る富士山スポットから元旦に撮影した1枚。

 

 朝方、少し雲が多かったのですが、富士山は今年もきれいに見えました。

 気が付けば今年は西暦2026年、21世紀の最初の4半世紀が終わりました。私が子供の頃、21世紀は科学技術が発達してどんな夢でもかなう豊かな時代として想像されていました。しかし現実のこの4半世紀では、人権、平等、自由、国際協調などの20世紀後半には誰も否定できなかった建前が、平気で踏みにじられるようになった気がします。

 次の4半世紀は、理性や公正といった価値観が蘇る時代になりますように。

 さて、今回のプチ史跡2は初もうでにいった上尾の氷川鍬神社からお届けです。コロナですっかり減った初もうで客も今年は完全復活でした。というより前より人出が多いかもしれません。

 

 この氷川鍬神社は上尾駅の近く、昔の上尾宿の中心部にあります。境内はあまり広くないのですが、富士塚や太子碑など史跡や遺物が所せましと並んでいます。今までも順次紹介してきましたが、今回はまだだったものを二つほどいってみましょう。

 一つ目はこれ。

 

 「奉納 敷石~」と書いてあるのか読めます。これは敷石供養碑ですね。「供養」というとご先祖様を祀るみたいなイメージがありますが、世のため人のために善行を施し、徳を積むことも供養といいます。このブログでも前に与野の石橋供養碑を紹介しましたが、敷石供養もその仲間です。

 次はこれ。「虫火橋建設記念」と書いてあります。横には「埼玉県知事 齋藤守圀 書」とあります。

 調べてみると「虫火橋」というのは、上尾(平方地区)ー川越(老袋地区)間の荒川にかかる開平橋の古い名前のようです。しかし、それなら、なぜ平方ではなくここに建っているのでしょう。昭和の初めころまで平方は上尾に負けない町だったので、建てるなら現地に近いそちらの方がよさそうなのに。また齋藤守圀という人が知事だったのは1924年の途中から27年の途中までです。ざっと調べた限りでは、開平橋に関してこんな立派な碑を建てて記念するほどの大きな工事の記録は、この時代には見当たりません。なにか知られざる改修や修繕が行われたのでしょうか。

 正月早々、またわからないことに出会ってしまいました。