校長室ブログ

2025年5月の記事一覧

5/26 こんなものを読んできた18 & かけはし高等特別支援学校との交流

 こんなものを読んできた18を配信しました。今回紹介したのは城平京「虚構推理」です。詳しくは本文を読んでいただきたいのですが、私はこの作品には推理小説というジャンルそのものの意義への問があると思っています。

こんなものを読んできた18(虚構推理)web.pdf

 さて、今年も本校と同じ敷地にある戸田かけはし高等特別支援学校の「かけはしカフェ」が開きます。

 かけはし特支の実習の一環として開かれるもので、手作りのチョコクロワッサンやパウンドケーキが100円、ラテアートが200円と、価格も大変お得になっています。今年度から木曜日・金曜日の営業となり、近いところでは5/29・30、6/5・6、6/26・27に営業予定だそうです。営業時間は10:10~11:50(ラストオーダー11:40)です。

 

 先日プレオープンにお呼ばれしたのでさっそく行ってきました。明るくて気持ちの良いお店ですので、上記の開店日にお近くにお寄りの際はぜひご来店ください

また、先日はかけはし特別支援の体育祭がありました。本校からも20名以上の有志が参加して一緒に競技をしましたが、一生懸命の大切さが伝わってくるような素晴らしい体育祭でした。

  

 今年度から本校の文化祭の校内公開に、かけはし特別支援の生徒さんにも来ていただくことになりましたが、同じ世代の仲間として、少しづつ一緒にできることを増やしていければと思います。 

 

5/21 「こんなものを読んできた(17)」 & 都市伝説を追う

 今日はいい天気でしたが、ここのところ雨が多いですね。アジサイも咲き始めましたし、もう梅雨に入ってしまうのでしょうか? 近年は気候が変動しているようで、昔からの季節感がどんどん通用しなくなっています。

 本校では中間考査も終わり、今日はスポーツテストでした。走ったりボールを投げたり、記録の差はもちろんありますが、だらだらやっている人がいないのはとても素晴らしいことだと思いました。

 

 さて、お題のひとつ目です。

 中間考査も終わったので、「こんなものを読んできた」の配信を再開しました。今回紹介するのは、数年前に埼玉のご当地マンガ「埼玉の女子高生ってどう思いますか」で話題となった渡邉ポポの新作「ポンコツ魔王の田舎暮らし」です。

こんなものを読んできた17(ポンコツ魔王の田舎暮らし)Web.pdf 

 私がここで何か言うより、実際に作品を読んでもらうのがよいのですが、渡邉ポポさんの漫画には、人の弱さや困った性質も否定せずに受け入れていくやさしさが底流していて、私は好きですね。

 お題ふたつ目です。

 先日の夕方、給食を食べているとき「給食費を払っているのに『いただきます』を言う必要はない、という保護者の意見で、『いただきます』を廃止した学校があるそうだ」という話題が出ました。

 「本当かな」と思ったので、ネットで調べてみたら、私と同じような時期に同じような疑問を持った方がいたようで、この問題を詳しく調べたブログがありました。

 電脳藻屑 さんの「電脳塵芥 四方山雑記」というブログの2025年5月9日付けの「学校給食時の「いただきます」が廃止されたという都市伝説に関する検証」という記事です。(直リンクは貼っていませんが、検索すればすぐ見つかると思います。)。非常に深く正確に調べているので、私が今さら付け加えるようなことはありません。これを直接読んでいただければよいのですが、私の理解したところの要点をザックリまとめると、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①「いただきます廃止の学校がある」という話は、都市伝説である。

 この話は1990年代から、数年おきに新聞・雑誌やインターネットで話題になっている。しかし、どれも出所をたどると「~と聞いた」、「~という学校があるそうだ」と伝聞の形になってしまう。この話の火元の一つは、永六輔(とても人気のあった放送作家・タレント)氏の1990年代のラジオ番組や講演、著書と思われるが、それを見ても、「いつ、どこで、そのようなことがあった」が示されているものはない。

②1990年代から、今日までの間に話の中身が変形してきている。

 この話の原型は、1990年代ころ、北陸地方で「いただきますと一緒に行っている合掌の動作は、仏教的で公教育の政教分離原則に反するのではないか」という保護者からの批判があり、これにこたえて「合掌の号令」をやめた、という話と思われる。これは当時の新聞や教育関係の書籍にも取材したうえで書かれた記事があり、根拠のある話である。

 その話が様々な人の口や筆を経るうちに、「合掌の号令」の廃止が「いただきます」の廃止にすり替わり、さらに2000年前後からは、廃止の理由が「給食費を払っているのに」に置き換えられたバージョンが広がりだした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ということになると思います。

 私的には②の「合掌は政教分離に反する」という批判は厳格すぎる気もしますが、様々な宗教の原理主義的な宗派からすれば「合掌は仏教の礼拝形式だから従えない」という主張はあっても不思議ではありません。その権利は尊重されるべきだと思います。

  それが20世紀末ごろ、学校と保護者の間のトラブルが社会問題化するようになってきたのに合わせて、全国的に通用する話題で、しかも当時の世相からあっても不思議ではない「給食費」の問題に置き換わったようです。 そして様々な人が出所を確認しないままに、この話を自分の講演や著作等に引用し続けた結果、すっかり「そういうことがあった」という伝説が定着してしまったようです。

 これは、私の想像ですが、もしかするとネットなどでこの話を読み、まねをして学校に「いただきます」を言うのはおかしい、と実際に言ってみる人もいるかもしれません。そうすると伝説によって事実が作られてしまう可能性もあるわけです。

 だれも責任を取らない形で、いい加減な話が流通するネット社会の情報の典型例を見たような気がします。

 

5/8 これを便利とよぶのか? &「こんなものを読んできた」16

 春の連休が終わってしまいました。今年は前半と後半がはっきり分かれた形だったので、あまり連休感がなかったかもしれません。

 

 連休の間にすっかり陽気は初夏のようになりました。校庭の端の方に生えているクローバーの群落が甘い香りを漂よわせ、ハチやチョウが蜜を求めて集まってきています。

 さて、「こんなものを読んできた」第16回は、最近の1か月をかけて読み進めてきた北村薫「円紫さんと私」シリーズです。こんなものを読んできた16(円紫さん)Web.pdf

 このブログでも何回か触れましたが、この作品は1980年代末~90年代前半くらいの作品(最新刊の「太宰治の辞書」はのぞく)です。読むと、この20~30年の間に見られなくなったものや変わってしまったことに気づかさせられることが多くて楽しいのですが、生徒の皆さんのような若い人にはあまり受けない作品かもしれません。

 この20~30年の間に変わってしまったといえば、「電話」の使い方、使われ方です。

 この何年かで、私は休み明けに「電話をかけたのに連絡が付きませんでした」と怒られることが多くなりました。「おかしいな。ずっと自宅にいたから電話をとりそこなったことはないはずだが?」と思って確認すると、たいていの場合、スマートフォンの着信履歴にだけ不在着信が残されていて、自宅の固定電話にはかかってきた跡がありません。

 こういうときには、私と相手の方の電話に対する感覚が違うのだなと思います。

 相手の方は、スマートフォンは常に肌身離さず持ち歩いて、LINEでも音声通話でもすぐにレスポンスするべきだ、と思っているのでしょう。 私の感覚では、スマートフォンは外出時などに連絡をとる道具だと思っているので、自宅では充電器につないで、ほったらかしにしています。

 私としては、非常連絡先として自宅の固定電話の番号を届け出ているのだから、まず自宅番号にかけて不在だったり外出中だったりしたときに、次の策としてスマートフォンにかけるのが筋ではないか? と思うのですが…。最近は自宅番号が書いてあってもそこにかけることは考えもしない人が増えたようです。

 「時代がそうなのだから、合わせなさいよ」と言われそうですが、私はこの点に関しては断固として合わせる気がありません。スマートフォンでいつでも連絡が取れるというのは便利なようですが、「いつ連絡が入るかわからないから手放せない」というのでは、スマートフォンの奴隷です。これを便利と呼ぶのでしょうか?

 また、以前にも書きましたが、最近はLINEなどでいつでも連絡が取れるせいか、若い人たちの間では待ち合わせの場所や時間を決めてそれを守る、という習慣がなくなったようです。

 上田秋成の「雨月物語」には、赤穴宗右衛門という人が殿様に監禁され親友の丈部左門との再会の約束に間に合わなくなったので、切腹して死霊となって会いに行ったという話があります。(ちょっとBLの雰囲気もある話です。そういうのが好きな人は是非、読んでみてください。)

 約束に遅れそうになるたびに腹を切っていたら命がいくつあっても足りませんが、今は、簡単に約束して簡単にキャンセルするのが当たり前になり、約束の重さが軽くなった気がします。