校長室ブログ

2024年12月の記事一覧

12/27 年末御挨拶ほか

 早いもので、今年もあと数日になりました。今日は昔風言いうと「官庁御用納め」というやつで、明日から新年5日まで公立学校を含むお役所は原則休みです。

 生徒の方はすでに25日から冬季休業に入っていますが、24日の終業式では「何を頑張ったかは、人それぞれですが、今、終業式の時にここにいるということさえも一つの成果です。冬休みには少しゆっくりできるでしょうから、2025年は何を頑張るか目標をたてましょう」という話をしました。

 今日の日本の状況の中で、明るく前向きに生きていくというのは、生徒たちのような若者にとってなかなか大変なことだと思います。戸田翔陽の生徒たちには、しっかり勉強して真っ当に生きていく人に成長してほしいと思います。

 それはさておき、今年の冬至は12月21日でした。クリスマスは25日、当たり前ですが大みそかは31日、新年は1月1日です。毎年考えるのですが、これらを一致させられないものかと。つまり、冬至を1年の終わり(12月31日)になるようにし、ついでにクリスマスイブもこの日に揃え、次の日を1月1日とするのです。なぜそうしたいと思うのかは、以前に別の学校のブログ(暦について抜粋.pdf)に書いたので、時間のある方はご覧ください。そうするとすごくすっきりすると思うのですが。

 今年は久しぶりに寒い冬のようです。インフルエンザも流行しているとかですので、皆様、年末年始もお体御自愛ください。

12/20 落語鑑賞会、とても楽しかったですね。

 すでに広報部の方でも投稿されていますが、昨日、今年度の芸術鑑賞会として、真打の三遊亭道楽師匠、同じく三遊亭朝橘師匠、二つ目の三遊亭らっ好さんの三方をお招きして、落語を鑑賞しました。(師匠と呼ぶのは真打の方だけだそうなので、らっ好さんだけ「さん」とさせていただきました。)

 

 道楽師匠の御挨拶をいただいた後、朝橘師匠とらっ好さんのテンポの良い掛け合いによる「落語入門」、「落語体験」と続き、みんなの気分がすっかり盛り上がった後、古典落語3本を聞きました。

 らっ好さんの「つる」は、日々精進に努められている若手の落語家さんらしく、とても丁寧に演じられていて、笑うべきところでしっかり笑わせてもらいました。

 次の朝橘師匠の「荒茶」は、関ケ原の合戦前夜に徳川家康の軍師本多正信が、豊臣家の家臣を取り込むために茶会を開く、という講談の演題を元にした落語です。私は他の方の「荒茶」を聞いたことがないので、朝橘師匠が、どの程度自分流にアレンジしたのかわかりませんが、重厚な豪傑なのにどこか間抜けな加藤清正とか、目立ちたがりで脳筋な福島正則とかのキャラクターが見事に演じ分けられていて、歴史好き・戦国時代好きなら思わずニヤリとしてしまう感じで、とても楽しめました。

 トリの道楽師匠には古典の「牛ほめ」を風格たっぷりにお話いただきました。「牛ほめ」には、今の高校生にはわからないような言葉(たとえば「其角の発句」とか「秋葉の火伏の札」とか(注))も結構出てくるので、ちょっとむつかしいかな?と思ったのですが、道楽師匠の落語の巧みさに引き込まれて、なんとなく伝わるのか、生徒たちは大爆笑をしていました。

 おりからの寒さを吹き飛ばすような熱気の楽しいイベントでした。

 

(注)

「其角の発句」 松尾芭蕉の弟子の宝井其角の俳句のこと。

「秋葉の火伏の札」秋葉神社のお札は、古くから火事の予防(火よけ・火伏)に御利益があるとして有名。ちなみに総本社は静岡県浜松市ですが、さいたま市西区中釘の秋葉神社も関東総社として高い格式を誇っています。

 

12/17 学期末 & 寝ながら考えたこと(2)他

 学校の方は期末考査・答案返却も終わりました。今週から来週にかけでは昨日の食育講演会のような普段はできない様々な講演や芸術鑑賞などの行事が続きます。

 今日の朝、自宅を出ると朝焼けの残る西の空に残月と電柱に止まったカラスがなかなかいい風景を作っていました。

 

 スマホのカメラなのでこんなものですが、冬らしく透明な空や複雑に絡み合った電線のシルエットもいい感じです。欲を言えば本格的な望遠レンズで月をもっと大きく写したかった気がしますが…。

 さて、私は先週に引き続き、この土・日(14・15日)も風邪がぶり返して寝込んでしまいました。そこで寝ながら前回の大阪城に続き、今回は戦国時代の戦いで各大名が動員した兵力はどれくらいだったのか、などということを考えました。

 たとえば関ケ原の戦い(1600年)では、諸説ありますが、東西両軍あわせて15万人を超える兵力がぶつかったとされています。この数について、私はそんなに動員できたのだろうか? と疑問に思っているわけです。

 こういう議論をするときによく出てくるのが石高1万石=軍役250人という目安です。これは明治時代の陸軍参謀本部の戦史研究の中から出てきた数字だそうです。税率が5公5民(50%)だとして、石高1万なら税収は5000石、米1石は人1人の1年分の消費量だそうで、5000石なら5000人分の食糧です。その5%の250人の軍役は確かに可能そうです。しかし、食料が足りればいいという問題ではないでしょう。

 一つ目は隊列の問題です。10万人の軍がいたとします。2列縦隊で前後1m間隔で行進すると隊列の長さは5万メートル=50㎞になります。もっと詰められるのではと思うかもしれませんが、私はこのくらいが限度だと思います。横に何列並べるかは道幅によりますが、現在各地に残っている江戸時代の宿場町では普通自動車のすれ違いがやっとのところが多いようです。戦国時代の街道もそんなものだったとするとせいぜい3m~4mくらいでしょう。電話も無線機もない時代、道の片側は前後を連絡する伝令のために開けておきたいので、道幅一杯には広がれません。前後の間隔も、刀や槍などの携行武器がぶつからないようにするためには、ある程度広くとる必要があります。

 次は補給や宿泊の問題です。当時の兵隊は各自、糒(ほしいい)などの携行食料を持っていたという話ですが、自分で持てる量で長期間の行動は不可能でしょう。昔の日本人は1人1日3合(約450g)の米を食べたという話なので、米だけに換算しても10万人だと1日4.5トン必要です。この量を上記のような道路事情で輸送し、間違いなく配給するのは大変です。道中の農村から調達(略奪)するとしても、隊列が50kmもありますから、先頭の部隊が立ち寄った村に後続の部隊が行っても、もう食料がないわけです。毎日、どの部隊がどの村で調達(略奪)するかの計画を細かく立てる必要があります。夜も全部隊が野天で野宿というわけにもいきませんし、衛生(トイレ)問題も大変です。食事中の方がいたら恐縮ですが、10万人がそこら中で大小の用をたしたら、その街道はどうなってしまうのでしょう…。

 さらに言えば、ずっと後の戊辰戦争の時は、最大の戦いであった鳥羽伏見の戦いでも、兵力は両軍合計で1万5千人くらいです。江戸時代の長い泰平で各藩とも軍縮が進んでいたこともあるのかもしれませんが、定期航路による輸送網が全国に発達し、さらに蒸気船などによる支援もある時代の戦争でも戦いの規模は数千人単位でした。

 これを考えると戦国時代の合戦で何万人もの軍勢というのは、ちょっと信じがたいなと思うのです。

 インターネットでは「中国の戦国時代(紀元前5~3世紀)と比べると日本はスケールが小さい」みたいな意見が聞かれます。たとえば紀元前262~260年に秦と趙が戦った長平の戦いでは、両軍で100万を超える兵力がぶつかり、敗れた趙の兵隊20万人が生き埋めにされた、とか書いてありますが、それこそ信じられません(20万人もの捕虜がおとなしく埋められるとは思えないですし…)。現在、長平の古戦場からは「生き埋め」の話を裏付けるかのように大量の人骨が発見されているそうですが、その遺骨の数を調べてみたりすれば、その辺の真偽が明らかになるかもしれません。

 

 

12/13 寝ながら考えたこと

 本日2本目の更新です。実は私、修学旅行から帰った後、風邪を引き、今週の初めは寝込んでいました。寝ているとやることもないので、いろいろと不要不急なことを考えてしまいますが、その時、考えていたのが修学旅行で見てきた大阪城は、「一体どうやって作ったのだろうか?」ということです。

 「どうやって」と言っても大型の機械などない時代ですから、人が手で持つ道具で作ったに決まっています(私はピラミッドは宇宙人や魔法使いが作った的な考え方はしませんので)が、どれくらいの人数でどのくらいの期間かければ、あんな広大で堅固な城を作れたのか? ということです。

   

 

 大阪城は南北の差し渡しがそれぞれ約1Kmで、外周だけでなく堀が二重・三重になっているため、石垣や塀の延長は10km前後はあると思います。石垣も雑然と石を積み上げたものではなく、ぴったりと石を切り合わせた精緻な作りです。石を積む作業そのものは農民や足軽などを動員するとしても、監督・指導には熟練の石工が何百人も必要でしょう。石垣の中に立つ建築物も巨大な木材を使った重厚なもので、大変高度な技術の産物です。素人をかき集めてどうにかできるようなものではありません。何百人、何千人という腕のいいとび職や大工さん、左官屋さんなどが必要でしょう。

 ネットで調べたらゼネコン大手の大林組が現代技術で大阪城を作ったらどうなるのか試算した結果というのがありました(https://www.obayashi.co,jp/kikan_obayashi/upload/image/016_IDEA.pdf))。それによると、石垣等の土木工事に工期32か月、天守閣や櫓などの建築工事に工期69か月、単純に工期を合計すると101か月(約8年半)。かかる人工(人数×日数)は木造で復元した場合は約88万(これは建築工事分だけ?)となっています。

 現在の大阪城は、豊臣秀吉が作った大阪城が大阪夏の陣・冬の陣で完全に破壊された後、徳川幕府が一から作り直したものです。この時かかった工期は1620年から1629年にかけての約9年から10年であることがわかっています。現代技術を使った試算と1年くらいしか違わないのですから、これはすごいことです。動員された労働者については、ちょっと調べられませんでしたが、整地や石垣積みなど土木工事をすべて人力でやるのであれば、建築部分と合わせて200万とか300万とかのスケールで人工が必要でしょう。「人工」は人数×日数なので、同時に働いている人数はもっと少ないはず(一人の人が何日も働くので)ですが、それでも同時に何千人も働いていたと思います。

 そしてこのように技術者・労働者を動員すれば、建築資材、衣食住の提供も膨大で現代で言うところの物流管理も重要になってきます。ソロバンと帳面だけでこれらをどうやって成し遂げたのか、考えるだけで気が遠くなりそうです。

 しかし、このことについて私が考えた一つの可能性は、現代の我々は、便利な機械や技術に頼って、自分たちの能力に勝手に限界を設けてしまっているのかも知れない、ということです。本来の人間の能力は我々が思うよりずっと高く、ピラミッドもストーンヘンジもモアイ像も、我々が忘れてしまった知恵やコツがあれば、案外、簡単に作れてしまうのかもしれません。

(追記) 上の大林組による試算のレポートは、専門的な工法や詳しい見積もりも載っていてとても面白いです。大林組は大阪城の復元天守閣を施工した会社なのですね。復元天守閣はコンクリート造りのビルなのですが、昭和の初めに建てられ、もはやそれ自体が歴史的な価値をもつので、国の登録文化財になっています。復元とは言え細かいところまで作りこまれたきれいなお城だと思います。

 

 

 

 

 

12/13 異文化体験授業に参加しました。

 韓国語の授業の一環として、異文化体験を実施したことについては、すでに広報部の方で掲載済みですが、(韓国語Ⅰ・体験授業!!)昨日、Ⅱ部とⅢ部で行われた体験授業(のⅡ部の方)に私も飛び入り参加しました。(写真。別に顔を隠す必要もないんですが…)

 李氏朝鮮時代の王様の装束(袞龍袍)で、昔、うちの家族がよく見ていた韓国ドラマ「チャングム」や「イ・サン」でおなじみの格好です。すっかり「私のことは大王様と呼んでね」という気分でしたが、この衣装のベルトが古代日本のものにそっくりであることに感慨深いものを感じました。

 下の写真は千葉県松戸市の小野遺跡から出土したもので、帯は腐食してなくなっていますが、金具と装飾板は残っています。バックルの形式は違いますが、上の衣裳のものとよく似ていることがわかると思います。(写真は「文化遺産オンライン」のページから借りました。著作権的に問題がある場合はご連絡下さい。)

 

 なぜ、このような類似があるのかというと、これらはいずれも中国に源流があるからです。 

 中国で三国~南北朝の数百年にわたる戦乱が終わり、強大な隋・唐帝国が成立したころ、周辺に当たる朝鮮や日本でも国家形成が進みました。これら周辺国では中国と交流し文化や制度を取り入れましたが、服装の制度についても、各民族の独自性を盛り込みながらも基本的には、中国風のものを整えました。上の写真のベルトはまさにその時代のものです。

 中国とは海を隔てつかず離れずの交流をしていた日本では、その後、中国文化の影響を受けながらも自分流にアレンジして日本文化を形成し、服装もどんどん変化して和服が作られていきました。しかし、それでも貴族の正装の束帯には、石帯を締める形が残っています。

 一方、朝鮮半島は中国と地理的に近かったので、各時代により強く中国の影響を受けました。上の李氏朝鮮王国時代の王様の服装(袞龍袍)も、中国の明の時代の服制に準じたものです。

 このような違いはありますが、日本も韓国も東アジア文化圏の一員です。親子兄弟でも時にケンカをすることがあるので、いつでも仲良く、とはいかないかもしれませんが、近隣の諸国とは基本的に良好な関係を保っていけるといいなと思います。

 

12/7 さすがに疲れました…修学旅行最終日

 帰宅してすぐにブログ更新をする元気がなかったので、翌日になりましたが、修学旅行の記事を一応最後まで。

 最終日の12月6日は、大阪市内班別見学です。

 宅配してもらう荷物をトラックに積んだら出発です。

 生徒の皆さんが出発したら先生方は大阪市内に分散して巡回です。私は大阪城公園の方に行きました。途中何組かの翔陽生に出会いましたが、あまり大勢ではありませんでした。道頓堀とか心斎橋の方に行った人が多いのかもしれません。

 ここからはちょっと史跡巡りになります。大阪城には昔も来たことがあるのですが、今回改めて見て、その大きさと堅牢さにびっくりします。今残っている大阪城は豊臣秀吉が作ったものではなく、豊臣氏を滅ぼした後に徳川幕府が立て直したものですが、戦国時代を通じて発達した築城技術の頂点を感じます。巨大な石材を精密に組み合わせた石垣も見事ですし、石垣の裏側の兵隊を伏せさせておくための階段を見ても、城が軍事施設なのだということがよくわかります。

 それを見て考えたのが、15代将軍徳川慶喜公のことです。慶喜公は鳥羽伏見の戦いで幕府軍が薩長軍に破れた後、大阪城を放棄して江戸に引き上げました。このことについて大阪城で戦えば勝てたのではないか、と慶喜公の弱腰を批判する人がいます。しかし私は慶喜公のその後の身の処し方などから考えて、慶喜公はこの堅固な大阪城で戦って戦争が長期化することを避けたのではないかと思います。

 当時の薩摩や長州の後ろにはイギリスがくっ付いて武器や技術の支援をしていましたし、幕府にはフランスが接近して援助を申し出ていました。慶喜はイギリスやフランスの支援を受けて内戦をやった挙句、これらの国の植民地になってしまう危険を考えたのでしょう。臆病の批判を受けることを承知で日本のために決断した立派なリーダーだったと思います。

 場内にある豊臣秀吉を祭る豊国神社にやってきました。巨大な銅像は秀吉だそうですが、私的にはちょっとマッチョすぎる気がします。

 私のイメージだと秀吉は、武芸よりは頭脳で勝負する感じの細身で小柄な感じなのですが。

 織田信長から「サル」の愛称で呼ばれた秀吉にちなんでか、境内に猿回しの芸人さんが来ていました。おサルさんが妙に哲学的な雰囲気を漂わせています。

 

 集合場所の新大阪駅にみんな帰ってきました。「お疲れさまでした。」

 

東京駅に着いたところで解散です。週末はゆっくり休んで、また月曜日に会いましょう。

 

 

12/5 修学旅行も山場です。

 修学旅行の二日目は、いよいよ今回の山場、USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)です。

 下を歩く人の頭上をかすめるようにジェットコースターが疾走し、ゲスト(来場者)の歓声(悲鳴)が響き渡るところなど、東京の方の有名なランドとは、また異なった趣きを感じます。

 平日なのにとても賑やかで、まるでお祭りのようです。

 私なんかはもともと人混みが苦手なので、賑やかさと楽しさのエネルギーに当てられてへとへとになってしまいましたが、生徒のみんなは満足してもらえたでしょうか。

(おまけ)ゲストの食事やおやつのおこぼれをもらえるせいでしょうか、USJのすずめはフクフクに太っていてとてもかわいいです。

12/4 修学旅行1日目

 今日は修学旅行の1日目でした。旅行の様子は公式インスタグラムの方にもどんどんアップしていますし、年次の方でもWEBページにあげると思います。そちらもぜひ見ていただきたいのですが、それはそれとして、こちらにも私視点で掲載します。

 新幹線のぞみで出発です。集合時間が早かったのに、ほぼ定刻通りに行動できました。いいスタートになりました。

 

 Ⅰ部帯のクラスは時間調整をかねてポートタワーで記念撮影をしました。低い塔ですが赤い支柱が青空に映えて美しいですね。この形は鼓をイメージしたものだそうです。

 

 次に「人と防災未来センター」へ行きました。時間が押して駆け足になってしまいましたが、災害への備えを考えさせられる施設で、生徒からは「もっとじっくり見たかった。」などの声が聞かれました。

 午後の後半は市内自由見学です。私はまず豚まんの元祖と言われる老舗「老祥記」の豚饅頭を食べに中華街へ。

 小振りな豚まんですが、濃厚な味で美味です。お値段も5個600円と観光地らしからぬリーズナブルなものでますます良いですね。

 その後は北野の異人館の方へ、

 煉瓦塀の続く趣きのある路地があったり、

 

 

洋館の玄関の屋根に置物のような猫がいたり、ぶらぶらしながら、有名な風見鶏の家(トーマス邸)まで行きました。

 

 宿に帰って夕食です。バイキング形式でしたが、量も味も前任校で行った某有名ホテルよりずっと上で生徒の皆さんも満足できたのではないでしょうか。

 

大きなケガや病気もなく1日目は終了です。