校長室ブログ

2024年10月の記事一覧

10/28 もうすぐ「翔陽祭」

 秋も深まりだいぶ寒くなってきました。近年は「暑い」から「寒い」までが、ほんの半月くらいで変化するので、この週末などは半そでの人もいればコートで冬支度を固めた人までいるというカオスな状態でした。

 さて、今週の金曜日から一週間にわたり「翔陽祭」が開催されます。文化祭と体育祭を合わせて「翔陽祭」ですが、今年はそれに20周年記念行事も加わります。その中の11月2日(土)は文化祭の一般公開です。(入場には事前予約(締め切り済み)が必要です。予約されていない方の御来校は申し訳ありませんがお断りします。)

 と、こう書くと「え、今頃文化祭なの!? 遅くない?」と思った方もいるかもしれません。現在、全日制普通科の高校の文化祭はほとんどが9月初めから中旬までで、専門高校も10月中旬くらいが多いので、11月初めに文化祭を開催する本校は、珍しく見えると思います。

 しかし私が高校生の頃は、いわゆる進学校と言われるような学校でも文化祭は、早いところで9月中旬、遅いところでは10月上旬ころに実施していたと思います。当時の文化祭にはグラウンドでキャンパスファイヤーをして盛り上がる「後夜祭」がつきものでした。ある程度、日が短くなって後夜祭の時間に暗くなっていないと、焚火や花火が映えないので、あまり早い時期には文化祭を設定しにくかったと思います。本校の「翔陽祭」は古式ゆかしい伝統を受け継いだもの、ということになります。

 ところが、1990年代から「大学受験に向けての切り替えを早くするため」というのを理由に、いわゆる進学校から文化祭を前倒しするところが増えてきました。その動きがあっという間に広がり、文化祭と言ったら9月初めという今日の状況が作られました。

 しかし私は、文化祭はそろそろ10月~11月に戻してもいいのではないか? と思います。

 現在の9月初めの文化祭では、暑すぎて様々な弊害が起きています。まず食中毒が怖くて迂闊に食べ物の模擬店などはできません。次に生徒やお客さんの健康を考えると、冷房をフル回転させざるを得ませんが、電気代は一年間のピーク電力によって決まりますので、文化祭の日にどんどん電気を使うと、そのあと1年間の電気代すべてが引き上げられてしまいます。

 そもそも、文化祭を早めた大きな理由は大学受験でしたが、それが一番厳しかったのは、第2次ベビーブームと言われた1970年代生まれの人たちの時代でしょう。子供の数は今の2倍、大学の数は今の半分くらいだったので、ざっくり言って大学に入るのは、今の4倍むつかしかったことになります。それに比べれば、現在の大学受験は楽なものですし、さらに年々、同世代の人口は減少し、大学受験は易化の一途です。もはや、大学受験は文化祭を早める理由とはなりにくくなっています。

 それに昔の大学受験が厳しかった時代にも、難関大学に受かるような高校生は、部活動や文化祭準備などと勉強のメリハリをきちんとつけて両立させていました(私はダメでしたが)。文化祭と受験勉強の両立もできないようでは先が思いやられます。

 現代は何かというと「自己責任」と言い出す時代なのですから、この辺も自己責任でいいのではないでしょうか。

10/19 小話3編

 中間考査も終わり2学期後半です。

 本日は土曜日ですが、中学生向けの体験授業を行っています。多くの中学生の皆さんに来ていただきました。私が昔、本校で体験授業をやっていた時は、エジプト象形文字で御札を作ろう、みたいなことをやっていた気がするのですが、今日の体験授業は、わりといつも通りのガチな感じのものが多かったように思います。ですが、妙に甘い授業をしたりしない方が、「高校に入学したらこんな感じなんだ」と理解していただけて良いかもしれません。

 さて、先日のスーパームーンは見ましたか?

 今年一番に大きな月、というだけあってすごい明るさでした。上の写真もF5.8で1/150という普通に昼間にスナップをとるような絞りとシャッタースピードでとったものです。ご近所の家からも月見をしているような会話が聞こえてきて、秋には月見という伝統文化が根強く残っている感じでした。

 秋、といえば、本校の裏庭に2本あるのザクロの木の実が赤く色づいてきました。

 

 まだちょっと熟し方が足りませんが、もう少しして実が割れてきたら食べごろになります。ザクロの実は、中の種をくるんでいる赤いゼリーのような部分が食用で、甘酸っぱいベリー系の味がします。

 20年前の本校の生徒にはザクロの実をとってきて食べる人が結構いましたが、今の生徒たちはどうなのでしょうか。最近のなんでもきれいに加工されたものしか食べたことのない人たちには、はじけて割れた実の中から赤いぶつぶつをすくいだして食べる、などというのは汚らしいような感じがしてだめかもしれません。

 

 試しに1個切ってみましたが、まだ皮に割れ目も入っていない実なので、中身も青臭い味がして食べられませんでした。よく時期を見計らって鳥に食べられないうちに収穫したいと思います。

 

 

10/14 「人間性のある社会」

 朝夕の空気が冷たくなってきて、どこからともなく金木犀の花の香も漂ってくるようになりました。今日は休みですが、この先、予定が立て込んでいてしばらく更新できないかもしれませんので、更新しておきます。

 先週の金曜日、「全国高校総合学科教育研究大会」に行ってきました。研究発表の後の講演は、ハッシャダイソーシャル共同代表の三浦宗一郎氏でした。ハッシャダイソーシャルは、"すべての若者に自分の人生を自分で選ぶ力を"をヴィジョンに若者のキャリア教育や自立支援を行う一般社団法人です。団体名のハッシャダイは英語とかではなく、若者たちを世の中に飛び立たせる「発射台」という意味だそうです。

 

 三浦氏の講演で、心に一番残ったのは「子供たちに『社会性のある人間になれ』というなら、社会も『人間性のある社会』になるべきだ」というところでした。

 「社会性」とは何か、というそもそもの問題はおくとして、一般的に「社会性のある人間になれ」とは、「元気よく挨拶ができ、場の雰囲気を読んで、人とうまく楽しく付き合える人になれ」というような意味だと思います。こういった人であれば、仕事をしていくうえで困ることも少ないでしょうし、会社やら社会やらにとって「使い勝手」の良い便利な人材(人財)でしょう。しかし、全ての人にそういう人間であることが求められるとすると、恥ずかしがり屋で人と一緒にいるより一人で何かをしている方が好きだ、という人はどうしたらいいのでしょう。

 前回、私は「子供たちに望ましい個性だけを求めるのでは、本当の個性尊重ではない」という話を書きました。三浦氏のお話は、それと同じところに根があるもので「子供たちに集団(社会)に溶け込むように強制するのではなく、社会の方が様々な子供を受け入れる寛容で優しさのある社会になるべきだ」という趣旨だと思います。非常に共感させられる講演でした。

 「昔はよかった」という話をするのは年寄りの証拠ですが、老人の特権でもあります。その観点で言いますと、今の社会は、私が若かったころ(1980~90年代)にくらべてあらゆる面でずっと不寛容だと感じます。芸能人などは私生活の問題やちょっとした言葉遣いの誤りなどがあれば、ものすごい勢いでバッシングされますし、一般人の我々も周囲から非難されないために、わずかな落ち度もないように神経をすり減らして生きています。私にはこういった現代の不寛容は、正義感からというより人の非をあげつらって叩くのを楽しむといった貧しい品性から発しているように思えます。

 それに比べ1980~90年代はバブル全盛で経済的に余裕があったからかもしれませんが、人々は今よりもずっと機嫌がよく人に思いやりがありました。このように書くと、現在の方が様々な面で人権意識などは進歩していると反論する人もいると思います。しかし少なくともこの時代に「新幹線のグリーン車に子供を乗せるな」とか「高齢者は社会負担だから自決しろ」とか、そういったことを真顔で恥ずかしげもなく発言する人はいませんでいた。景気の良い時代には、自分と他人の差異や他人の不手際に目くじらを立てて差別したりいじめたりしなくても、人々にはもっと楽しいことがありました。

 孟子は「恒産なくして恒心なし(人心を安定させるためには、経済的に安定させることが必要、という意味)」と言いましたが、人にやさしい社会を作るためには、衰退した経済力を立て直し、生活に不安のない社会を作るしかないと思います。

 

10/7 生活体験発表会に行きました。

 本校では明日から中間考査です。生徒の皆さんは頑張ってください。

 さてこの前の土曜日(10月5日)に、桶川のさいたま文学館で開かれた埼玉県高等学校定時制通信制「生徒生活体験発表会」(定時制通信制教育振興会主催)に行ってきました。

 

 県内の定時制高校に通う15人の生徒の皆さんが、自分の生活体験を発表しましたが、どの人も率直に自分の体験を語っていて、今、この時代に定時制・通信制高校に通う皆さんのリアルを感じました。特に一人の人が、「小学校や中学校で、個性が大切、個性を伸ばせと言われたのに、自分らしくあろうとすると先生たちから厳しく指導され、つらかった」というようなことを話していたのは、心に響きました。

 現行の学習指導要領ではあまり使われていないようですが、以前は教育関係の様々な文書で「望ましい集団活動」とか「望ましい人間関係」とかのような形で「望ましい」という言葉をよく見かけました。そして、これらを通じて最終的に「望ましい」個性や資質を育成しようという考え方がありました。私はこれが、ずっと疑問でした。個性というのは本来、方向性がないものです。個性を伸ばすと言っておきながら、それに「望ましい」というフィルターをかけたら、それはもう個性の尊重ではありません。それにその「望ましい」というのは誰にとって望ましいのか、誰がその基準を決めるのか、その主語を隠したまま漠然と「望ましい」というのはとても胡散臭い感じです。学校や教育は、個性の領域にまで口を出すべきではないような気がします。

 また近年のこの「個性尊重」で、「自分らしく」とか「かけがえのない自分」とか言いすぎたせいで、「自分は何のとりえもない。全然、特別な存在じゃない」と苦しんでいる子供たちも少なくないような気がします。

 私などは、自分がそんなに「特別」じゃなくてもあまり気になりません。仕事の面でも県内に100人以上いるごく普通の校長の一人で、仮に私がいなくなったとしても、すぐに誰かがその穴を埋めるでしょう。趣味に関しても。模型工作はキャリアが長いだけあってそこそこの腕前ですが、プロモデラー(そういう仕事が世の中にはあります)になれるほどではないし、ランニングも近所の運動公園のジョギングコースを走っている週末ランナーの中では早いほう、という程度です。しかし、まあそれで充分で、それ以上になろうとは思いません。

 最近の教育施策のキーワード「個別・最適化」に真っ向から喧嘩を売るようで、ちょっとまずいかな、とは思うのですが、私個人としては、教育において無理に「個性を伸ばせ」とかいうのはやめたらどうかと思っています。「学校は一般的な社会人としての標準的な能力を目的とした教育をする場である」と明言して、一定の水準を保つ努力をしたほうが、教える側、教えられる側ともに楽になるのではないか、と思います。「それでは個性や資質がつぶれてしまう」とおっしゃる方もいるかもしれませんが、私は別に個性的な生徒を抑圧しろと言っているわけではありません。本当に優れた個性や資質なら、放っておいても伸びていくはずです。それに学校がとやかく言うこともないでしょう。繰り返しになりますが、無理にすべての人が「特別な自分」になる必要などないのですから、そういった「特別な自分」プレッシャーを子供たちにかけるのはやめようというだけです。

 と、そんな感じでいろいろなことを考えさせられた1日でした。