校長室ブログ

2024年6月の記事一覧

6/25 プチ史跡2(7) 八丁堀探訪

 本校の多文化共生の取り組みが、活育財団主催のNext Education Award2024で最優秀賞を受賞したことは、本サイトのトップページに掲載していますが、私も先週6月22日(土)に行われたファイナルには応援に行きました。

 その時の会場は八丁堀の内田洋行「東京ユビキタス協創広場」。いやあ「八丁堀」ですよ。時代劇に出てくる江戸の中心部です。というわけで、会場に行く途中にその近辺をちょろちょろしてみました。

 その時、見つけた面白いお稲荷さんがこれです。

 なんという狭小物件! 鳥居をくぐったらすぐに曲がって住宅の壁に張り付いた階段を上った先に祠があります。この民家の車庫か店舗部分と思われるシャッターが鳥居のすぐ向こう側にあり、もし車庫だとしたらこのお宅の自動車は鳥居をくぐって出入りすることになります。如何に地価の高い都心部とはいえここまでのものは珍しいですね。

 鳥居の額には「今村幸稲荷神社」と書いてあります。この光景はさすがに目を引くと見えてネットで検索したら、たくさんヒットしました。それらによると、いつのころかは不明ですが、今村さんという人が、幸町に勧請したのが始まりで、明治6年からは日枝神社の神主がここの管理もするようになったという話が書いてあります。少なくとも150年以上の歴史があるお稲荷さんです。尊崇する人も少なからずいたようで、境内の境を示す石柵には柵を寄進したたくさんの人の名前が彫ってあります。この狭小ぶりが元からのものなのか、何らかの事情でこうなってしまったのか、などとても気になりますが、こんな風にしてもお稲荷さんをお祭りしようという地元の方の心映えが素晴らしいです。

 次は亀島橋の上からみた東京スカイツリーです。

 

 亀島橋の下を流れる亀島川は日本橋川と隅田川をつなぐ川で、江戸時代にはこのすぐそばに幕府の御船手奉行所があったそうです。今はほとんどが埋め立てられたり、暗渠になったりしていますが、昭和30年代までの江戸~東京はこんな感じの水路がたくさんある水の都だったそうです。ちょっとその時代がしのばれるような光景です。

 

6/14 プチ史跡2(6)羽生市探訪(続)

 めっきり暑くなってきました。

 私の通勤経路に広い庭のあるお宅があるのですが、つい数日前にはクチナシがきれいに咲いていたのに、急に気温が上がったせいか、今朝はもうすっかり萎れていました。また暑い夏が来るのかと思うと、今からちょっとうんざりです。

 さて、先月末に羽生に行った時の写真で、まだ紹介しきれていなかったものがあるので一気に紹介します。

 毘沙門塚古墳の前にある郵便ポストです。骨董品ではなく現役バリバリです。最近の四角いポストと違って、実用品にも美しさを求める意識が感じられていいですね。この型の鋳鉄製ポストはだんだん数が少なくなってきましたが、きちんとペンキを塗って錆を防いでいれば1,000年くらい大丈夫な耐久性はあると思います。末永く頑張ってほしいと思います。

 

 上のポストの道を挟んだ反対側にある句碑です。表面には芭蕉の「春もややけしきととのふ月と梅」の句が、裏面には、明治30年3月に「樨香菴起生」という人がまとめ役の地元の結社がこれを建てたことが刻んであります。

 現代では日本の文化は極端な東京一極集中になっていますが、江戸時代や明治・大正時代には地方の町や村にも文学や俳句などの愛好家の集まりがたくさんありました。芭蕉や小林一茶などがよく旅をしたのも、単に旅行好きとか取材のためとかではなく、地方を回って指導をして謝礼をもらう営業活動でした。

 「文学」、「羽生」とくれば、田山花袋の名作「田舎教師」ですが、それを見ても、明治時代の羽生、熊谷、行田などには、いつかは東京に出て文名を上げてやろうという夢を持った青年たちがいて、なかなか文化活動が盛んであったことがわかります。

 この碑の場所は今は線路近くのほったらかしの空き地、といった感じですが、行田から来た街道が羽生の町に入る所なので、昔はかなり人通りの多い目立つ場所だったと思います。「春もやや~」は芭蕉の句の中でも人気があったようで、この句の碑は全国各地に立っています。

 この句の裏側に、もう一つ石碑が立っていますが、私的にはこの碑がとても気になります。碑の表面に4、5行ほど文字が刻んであります。右側2行は割と文字が残っているのですが、これが微妙に判読できません。真ん中の行はなんとなく「餞田嘉平次(?)」と人名が刻んであるような気がします。左側はすっかり文字が薄れているますが、何か「羽生~」のような気もします。こういう読めそうで読めない石碑を見るとフラストレーションがたまります。

 最後の写真はさらにその数日前に、誠和福祉高校へ行った時のもので、同校の敷地の真ん中を流れる「会の川」です。この川は羽生と加須の市境になっていて北側が羽生市、南側が加須市です。今はちょっとした用水路くらいにしか見えない会の川ですが、江戸時代の利根川改修以前は利根川の本流の一つでした。市境はその名残をとどめているわけです。

 両岸に桜が植えてあるので、春にはものすごくきれいです。校内にこんな桜の名所があるとは、実に素晴らしい学校(本校とは生徒の通学区域がかぶらなそうなので、手放しでほめてしまいます)です。戸田翔陽高校には桜の木が少ないので実にうらやましい限りです。

 

 

6/6 「かけはしのカフェに行きました」他

 前回は学校外の話題でした。続きはそのうちに書きますが、今日は学校内の話題にします。

 とはいえ、ちょっとだけ前回の補足です。前回、前の学校ブログで与野周辺にたくさんある塚のことを書いたと書きましたが、それをまとめてみました。「与野塚めぐりまとめ.pdf」興味のある方は読んでみてください。

 それでは、今回の本編です。

小話(1)かけはしのカフェに行きました。

 今日は同じ敷地内にある戸田かけはし高等特別支援学校の「Cafe 虹のかけはし」の「翔陽デー」に御招待いただきました。戸田かけはしでは、生徒の自立する力を育てる様々な実習を行っていますが、このカフェもその一環です。戸田かけはしの生徒の皆さんが、飲み物や手作りのケーキやパンをサービスしてくれます。

 私は写真のラテアートとココアマーブルとチョコレートのパウンドケーキ2種類を買いました。ラテアートは戸田かけはしの校章ですね。ケーキは自宅に持って帰ってゆっくりいただきます。

 今月は7日(金)と28日(金)(いずれも10:10~11:50、ラストオーダー11:40)に開くそうですので、ぜひ皆さんもご来店ください。

  ところで皆さんは「インクルーシブ」という言葉をご存じでしょうか。日本は「障害者権利条約」という条約を批准しています。その条約では教育は原則インクルーシブで行うべきとなっています。インクルーシブ教育とは様々な障害のある子供を排除せず、全ての子供を一緒に教育するということです。とはいえ設備や人員、児童生徒の安全の問題などがあり、この理想を一気に達成するのがむつかしいのも事実です。

 戸田翔陽高校と戸田かけはし高等特別支援学校は同じ敷地を共有する兄弟校です。本日、カフェに招待していただいたように、今後も職員・生徒の交流を増やし、一緒にできる教育活動も増やしていき、インクルーシブの理想に近づいていけたらいいな、と思います。

 

小話(2)不思議な木の枝

 戸田翔陽高校の東側外周に沿った防球フェンスの一角に、下の写真のような木(枯れ木)の枝があります。

 

 この枝ですが、防球フェンスの金網をきれいに突き抜けるように生えています。今は根っこの方が伐採されているので、まるで宙に浮いたように見えます。フェンス内側に残っている切り株などから推測すると、元々は赤線で示したような感じに生えていたのだと思いますが、道路側に伸びてフェンスの外側に突き出た枝が太く成長するにつれ、枝の内部にフェンスの金網を取り込んでしまったようです。

 本校のフェンス沿いにはこれと同じようにフェンスに張り付いたようになっている木の枝の跡が何か所かあります。年月をかけて少しづつ成長し、フェンスを完全に取り込んでしまった植物の生命力に驚かされます。私たちも小さな努力をこつこつ積み重ねれば、すごい技術や能力を身につけられるかもしれません。頑張らなければ! と思います。

 

6/3 プチ史跡2(5)古墳のある街(羽生)

 先週は出張の関係で1週間のうちに2回も羽生市を訪問しました。出張の行き帰りに大急ぎでいくつかの史跡を見てきましたので、その成果を発表します。

 まず羽生駅におりますと駅で出迎えてくれるのが、ご当地キャラクターのいがまんちゃん(右)とむじなもん(左)です。いがまんちゃんの元になったのは、饅頭の上にお赤飯が乗っている「いが饅頭」です。何とも言えない不思議なお菓子ですが、私は結構好きですね。

 

 今回の出張の目的地、羽生市民プラザは東口ですが、あえて西口に降り、東亜酒造さんの工場の前を北へ進みます。行田へつながる古い街道に突き当たったところの小高い墳丘の上に保呂羽神社があります。地図では「神社」となっていますが、祀られているのは「蔵王権現」なので神仏習合の山岳信仰の祠です。鳥居などもありません。境内の看板には鎌倉時代の武将和田義盛と絡めた由来が書いてありましたが、名称といい祭神といいこの祠は秋田県の山岳信仰の霊場「保呂羽(ほろわ)山」と関係のあるものでしょう。岩手県内や三陸地方には保呂羽神社が点在し、信仰を集めているようですが、なぜ遠く離れたここ羽生に保呂羽神社があるのかはちょっと謎です。

 

 そこからいかにも昔の街道という感じの道を東に歩き、秩父鉄道の踏切(写真)と東武鉄道の踏切を渡ると、こんもりとした森のある一角が見えてきます。

 

 

 

 

 このこんもりとした森は、それ自体が墳丘長が60m以上もある前方後円墳「毘沙門山古墳」という史跡です。この古墳の前方部の上に地元の様々な神社を合祀した社があり、後円部のふもとに毘沙門堂があり、さらに境内には稲荷社や馬頭観音の石塔などが散在し、さながら「宗教センター」の様相を呈しています。

 古墳の上に神社やお堂が立っているのは、結構よく見られる形で、この近所では羽生市立村君小学校の隣にある永明寺古墳 (墳丘上に薬師堂が立っている)などが有名です。このように古墳の上に神社等が建てられるのは、古墳が何かしらの宗教的畏敬を払うべきものとして地元の人々に扱われてきたためだと思います。ここの毘沙門山古墳の上の社は、明治時代に地元のいくつかの社を合祀して建てられたものということなので、比較的新しいものですが、下の毘沙門堂は建長8(1256)年に北条時頼により創建されたという長い歴史をもつものです。毘沙門堂が創建されたころは、後ろの古墳ももっとはっきり形が残っていたでしょうから、その麓にお堂を建てるということには意図的なものがあったはずです。

 

 毘沙門堂の隣に立っている大きな石碑は、お堂の創建と同じ建長8年に建てられた板石塔婆です。この巨大な石は古墳の石室の天井板を転用したものではないか? と言われています。きれいな緑色の石(緑泥片岩)で明らかに特別な用途のために遠くから運ばれてきたものでしょう。ちなみに板石塔婆としては日本最大とのことです。

 さて、この毘沙門山が古墳なので、さっき見てきた保呂羽神社の墳丘も古墳かな、と思ったら、やはりここも5世紀から6世紀ころに作られた円墳ないしはホタテ貝式古墳だそうです(羽生市のWebページによる)。私の前任地の与野高校にも学校周辺にこれと同じような墳丘の上に神社というパターンのものが密集しています。前任校のブログでこれは古墳群ではないか? と書いたのですが、羽生の例を見てますますそんな気がしてきました。

 ほかにも見どころがたくさんあった羽生ですが、長くなってきたので続きはまた今度にします。