校長室ブログ

9/30 プチ史跡巡り2 (菖蒲騎西道の庚申塔)

 昨日は、青木涼真選手の活躍だけで終わってしまったので、今日こそは「プチ史跡巡り2」でいきます。

 9月になってから記録的な長雨が続いていますが、この前の日曜日には薄日が差してちょっと晴れ間も見えました。そこでセキチューホームセンターへ行きがてら、少し庚申塔や石仏を巡ってきました。

 国道17号を上尾運動公園交差点(丸亀製麺とマクドナルドが向かい合っている交差点)で右へ曲がり、1kmくらい行くと平塚(南)交差点(ローソンのある交差点)にぶつかります。交差点を右折し南に行くと原市、左折して北に行くと伊奈から菖蒲、騎西へ向かいます。

 原市はこの町出身のお笑いコンビ「ハライチ」で一気に有名になりましたが、昔は上尾とは別の市場町でした。今もその時代の名残が感じられるいい町ですが、今日はそちらへは行かず、反対の伊奈方向へ向かいます。この道は、昔からある街道なので、道沿いに古い庚申塔や石仏などが残っています。

 平塚(南)交差点から少し行くと右側にファミレスの「ばんどう太郎」がありますが、その反対側(道左側)に立派な庚申塔があります。

 中央に大きく刻まれた梵字と庚申供養の字の右側にはところどころかすれていますが、「天下和順 天明五…平塚村」とあります。左側には「日月清明…講中…願主 須(?)田…兵衛」とあるようです。

 天明5(1787)年は、有名な天明の大飢饉(1782-88)の真っ最中です。この時代に国内外で火山の爆発が相次ぎ、日照が遮られて冷害になったと言われています。東北地方中心に何万人も餓死者が出たり、江戸では打ちこわしが起きたりしていました。その大変な時代にこんな立派な庚申塔を建立したことを考えると、ある意味決まり文句の「天下和順」とか「日月清明」にも切実な思いがこめられていたのではないかと思います。

 そこからずっと北上すると、右側に「草木万里野」というおしゃれなレストランがありますが、その少し先に小さな祠があります。中に小さ目ながら笠石をのせた立派な石塔があります。

 下の台座には三猿(見ざる聞かざる言わざる)らしい模様があるので、庚申塔だと思いますが、上の尖った舟形の囲みの中には「貞享元甲子年十月吉日」と書いてあるだけです。祠の中にあるので裏側が見えませんが、もしかすると反対側に「庚申供養」などの文字や、青面金剛の像などが彫ってあるのかもしれません。

 貞享年間というのは気象学的にはマウンダー極小期という太陽の活動が弱まった時期に当たります。日本では大きな飢饉などは特に歴史上起きていないようですが、ヨーロッパではペストが流行ったりテムズ川が氷結したりと大変な時代でした。

 私の知る限りでは庚申塔やお地蔵さんなどには、割と宝永年間や安政年間のものが多い気がします。宝永年間には富士山、浅間山、阿蘇山が噴火するなど天災が沢山起きていましたし、安政には幕末の混乱が始まっていて政情が不安定でした。先ほどの天明や貞享もそうですが、不安な時代には信仰心が高まるということがあるのかもしれません。

 三番目はさらに北上してセキチューの少し手前、奥田組奥井組(社名を間違えました。大変失礼しました。)という会社の車両基地の向かい側です。ちょっと見えにくい位置ですが、祠があり中に立派な庚申塔が建っています。

 

 表面に彫ってある像は、庚申塔にはよく彫ってある青面金剛です。右側面に年紀が刻んであるようで、下の方に「吉日」、真ん中の当たりに「辰」と刻んであるような気がしますが、よく読み取れません。一般に青面金剛の刻んである物の方が文字で「庚申」と刻んである物より古いタイプとされているようなので、これも割と古い物と思いますが、よくわかりません。

 庚申塔やお地蔵様などは、これまでは地域の人の思いによって残されてきましてが、この先は生き残れるかどうかよくわかりません。私の実家の近くでも、昔ながらの板塀と大きな桜の木で町に趣を添えていた旧家が代替わりした途端に、殺風景なコンビニや駐車場になったりしていますし、今住んでいるところの近所でも馬頭観音がいつの間にか撤去されたりしているので。

 私は神も仏もあらゆるオカルト的なものも信じない(でも哲学としての仏法は信じています)人間ですが、こういったものを大事にしてきた昔からの人の気持ちはおろそかにしたくないと思っています。