8/25 前回の続き &「またか!」
夏休みも終わり近くなって猛暑がぶり返してきました。皆様お変わりないでしょうか。
さて、今回は前回の「プチ史跡巡り2(深谷・熊谷編)」で書き残したことからいきましょう。
前回、妻沼の聖天歓喜院を紹介しましたが、境内の一角にレトロな木造モルタル平屋建ての建物があります。私が子供の頃は学校の校舎や郵便局、駅舎などには、この木造モルタルという作りが多かったですね。
で、この建物の玄関横に残っている琺瑯びきの看板が上の写真です。「妻沼ドレスメーカー女学院」と書いてあります。いろいろな意味ですごい看板です。まず「ドレスメーカーってなに?」と思った方もいるのではないか、と思います。ドレスメ-カーとは、衣服(ドレス)を作る(メイク)ことで、要するに洋裁学校ということです。
現代は衣服はお店で既製品を買うのが当たり前で、服を自分で作る人は、よほど裁縫が好きな人だけでしょう。しかし、昭和40年代の前半くらいまでは、女性向けの雑誌には付録で季節ごとの洋服の型紙が付いていたり、セーターの編み方が載っていたり、主婦が自分や家族の服を作るのは一般的でした(私も母が作ったとても「お坊ちゃん」な感じの服を着せられ恥ずかしかった記憶があります)。そのため若い女性の中には「嫁入り修行」として、洋裁や和裁を習う人が結構いたわけですね。
上記の「妻沼ドレスメーカー女学院」の看板も、おそらくそのころのものでしょう。また現代だったら専門学校や専修学校などは、男女一緒が当たり前ですが、当時は嫁入り前の女性が通うのなら女性だけの方が安心、ということで「女学院」だったのかな? と思います。
さて二つ目のお題「またか!」ですが、何がまたかなのかと言うと…。
前回、深谷市人見の「人見氏累代の墓」を取り上げましたが、その後ネットなどで見てみたら、府中市の浅間山公園にも「人見四郎墓所跡」という石碑があり、太平記に出てくる人見四郎入道恩阿の墓跡ということになっているようです。ただこの石碑自体は、平成2年に府中市教育委員会が建てたもので古い物ではありません。
これの何が問題なのか?というと、ここを人見四郎の墓跡とする根拠が、非常に希薄であるということです。
上記の石碑には、ここが鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した人見四郎の墓跡と伝えられる旨の説明があるそうです。ネットで調べたところ、この説の根拠として考えられるのは、
① 「新編武蔵風土記稿」によれば、今、「墓跡」とされている辺りの丘は地元の人から人見塚と呼ばれていたという記述がある。
② 「新編武蔵風土記稿」に、この近くに上屋敷、下屋敷という地名があるが、だれの居館のあとかは不明、という記述がある。
③ 八王子の子安神社の神櫃に「多東郡住人人見四郎」と記されていたという記録がある。(現物はなし)
④「武蔵名勝図会」に、人見村は昔、人見氏の住んだところである旨の記述がある
ということのようです。
しかし、上記①~④のどれを見ても、人見四郎の墓があったことの根拠にはなっていません。①はここの丘が人見塚と言われていたというだけで、塚=墓というわけではないし、まして人見四郎と結び付けられる根拠ではありません。②も中世居館があったらしいというだけで、人見氏、人見四郎と結びつく要素はありません。③はこの地域に人見四郎と言う人が住んでいた根拠といえますが、墓があったという根拠にはなっていません(しかも現物は失われている)。④はこのあたりに人見氏が住んでいたらしいと言っていますが、「武蔵名勝図会」は、江戸時代も後半の成立で、筆者がなぜそう考えたかの根拠(地元の人がそう言っている等の)は書いてありません。
以上のようなことでWikipedia などにも、府中市の人見四郎の墓跡は根拠が薄いと書いてあります。
一方、深谷の人見の方はどうか、というと、上記の「新編武蔵風土記稿」には、地元の人が、ここが昔の人見氏の根拠地である、人見にある中世居館跡が人見氏居館の跡と言っていると書いてあります(これが正しいかはともかくそういう伝承があったということははっきりしています)。なお、公平を期すために深谷の方の弱点も上げると、一乗寺の人見氏墓所の墓石には、これを江戸時代の寛政時代に人見氏の末裔が修理した旨が書いてあるということです。この刻文からするとこちらも、本当の人見氏のものであることを疑う余地はあります。墓石の形や墓所にある板石塔婆などはすごく中世っぽいのですが。
私の見方をまとめます。
府中のあたりに人見四郎という武士が住んでいた可能性はあります(上の③)。中世の武士にはあちこちに所領がある者がいて、各地に移り住んでいたからです。たとえば武田氏といえば甲斐(山梨)の武田氏が有名ですが、若狭(福井)、安芸(広島)などにも武田氏はいました。
ただし、石碑がある場所が人見四郎の墓跡である根拠は薄弱であると思います。これに関しては府中市の「府中市史編纂だより第5号(平成30年3月27日付)」でも「現在、浅間山の山中には「人見四郎の墓跡」と刻まれた碑がありますが、現存する史料が少ないため人見氏との関係について確実な証拠はありません」と書いてあります。自分たちの市で建てた(石碑を建てたのは教育委員会、市史編纂は文化スポーツ部ですが)のにこの書き方はどうなのかな、と思ってしまいます。
さて、ここで今回のタイトル「またか!」の種明かしです。私は、今回のように東京が埼玉の歴史を簒奪しようとするケースが近年とても多いように感じています。
以前、前任校のブログで書いたのですが、与野出身で関東一円に山岳信仰を広げた一山行者の事績が大田区の御嶽神社に持っていかれているような気がしますし、武蔵一之宮も大宮の氷川神社ではなく、多摩市の小野神社が本当であるかのような言説が広がっています。(詳細については、関心があったら以下のリンクから読んでください。)
私はこれがとても不愉快です。