3/24 修了式・いつの間にか無くなったもの(3)
今日は修了式でした。生徒のみなさんは明日から春休みです。修了式では史記の「桃李言わざれども、下自ずから蹊をなす」という言葉を例にとって話をしました。この言葉は「人格の優れた人の下に、特に言いふらさなくてもは徳を慕って人が集まってくる」ことのたとえですが、今回は「成蹊」の部分から、「人々が少しづつ踏み固めればいつの間にか森の中に道ができるように、毎日少しずつ積み重ねれば、大きな成果を達成できる」という話をしました。
あと読書案内「こんなものを読んできた」の12回目を配信しました。
さて、いつの間にか無くなったものの第3回目です。まずは下の写真をご覧ください。
ちょっと見ずらいかもしれませんが、石碑にみずらを結った古代風の男性の像が線刻されています。これは何かというと聖徳太子の像碑です。これは私の地元、上尾駅前の氷川鍬神社の境内にあるものですが、古くから日本では、聖徳太子そのものを信仰の対象とする「太子信仰」が盛んでした。この神社だけでなくあちこちの寺社の境内に同じような太子像や碑が残っています。
これほど日本人の崇敬を集めてきた聖徳太子ですが、最近の歴史教科書では聖徳太子という名前は登場しません。出てくる場合も「厩戸皇子(聖徳太子)」のような扱いです。
これはなぜかというと、最近、聖徳太子の事績とされることに疑いを持ったり、あるいは存在そのものまで疑うような流行があるからです。これらの説を唱える人には、理由として「聖徳太子の実在を示す同時代の史料がない」と言っている人が多いようです。しかし「同時代史料がない」ということを実在を疑う理由とするなら、現代に伝わる日本最古の歴史書・文献は8世紀初頭に編纂された「古事記」や「日本書紀」ですから、8世紀より前の人物や事件はすべて同時代の史料がなく疑わしいことになります。聖徳太子だけを捏造された架空の人物とする理由にはなりません。
確かに聖徳太子に関わる様々な伝承には、神聖化や粉飾がみられます。みんながわいわいしゃべっているのを聞き分けたという有名な逸話もそうですし、「厩戸」という名前の由来の、母親が馬小屋で産気づいて生まれたという逸話もキリスト教(当時中国に来ていたネストリウス派)の影響があるという説があるくらいです。とはいえ、聖徳太子の没後、早い段階から神格化や太子信仰の芽生えがあったことなどから、偉大な人物としての太子の記憶が当時の人々の中にあったことは確かでしょう。
歴史のイメージというのは確かに改編されることはあります。たとえば坂本龍馬などは興味深い人物ではありますが、冷静に考えれば、幕末の混乱でひと旗上げようとする政治ブローカー、イギリスとつながって武器を売りまくろうとした武器商人だったと思います。ところが司馬遼太郎の「竜馬がゆく」のおかげで明治維新を作り出した英雄のように信じられるようになりました。しかしそれにしても、龍馬の人脈の広さや、さまざまな事件に顔をだす抜群の行動力という芯となる事実があってこその英雄化です。
ですから、聖徳太子についても「十七条憲法」「冠位十二階」などが、全て太子の功績によるものではないとしても、天皇家と蘇我氏の間の難しい関係をうまく保ちながら、政治運営した偉大な皇族政治家であったことは疑いがないのではないかと思います。
根拠のあやふやな批判を真に受けて、長く親しまれた「聖徳太子」の名前が教科書から消されているのは、どうも理解できません。とある教科書会社は「厩戸皇子(聖徳太子)」と表記する理由を、聖徳太子は後世につけられた呼称で、当時はそう呼ばれていなかったから、のように言っていますが、これはものすごくおかしな議論です。後世につけられた呼称というのなら、中国の皇帝で「煬帝」、「玄宗」とかいうのも、日本の天皇で「応神天皇」というのもみんな死後に贈られた名(諡号)です。これらを使わずに楊広とか李隆基とかホムタワケとか言い出したら、大混乱が生じ、歴史嫌いの生徒がどっと増えてしまいそうです。
中途半端な屁理屈を真に受けて、長年親しまれた「聖徳太子」の呼び方を消し去ろうとするのは無理のある話です。