7/31 史跡巡り2 「なんでも古墳に見える病気」
前回、滑川古墳群について書きましたが、この際、今手持ちの古墳関係の話を放出します。
まずは前回のフォローです。前回「滑川総合高校近くの中丸稲荷も古墳かもしれない」と書いた件ですが、ネットに「中丸稲荷は滑川古墳群の30号墳の上に立っている」と書かれている記事がありました。陰影図で見るときれいな円形のでっぱり(下の図の赤丸の中)なので納得です。多分間違いないと思います。
ただこの一角の青や緑の線の部分の陰影はなんでしょうか。明治迅速図などの古い地図でみるとこの辺りは森林で、等高線も滑らかに通っているので、近年の造作の可能性が高そうです。この辺りは緩やかな丘陵地なのですが、その斜面に住宅地の道路を削りだした際、出た土を道端に積んだため盛り上がったのが青い部分、家一列分の平坦な土地(青と緑の間)を作り、次の段のために土を盛り上げたのが緑の線、稲荷の円墳はたまたまそのラインに重なっただけなのかも知れません。
さて、ここからが今回の本題です。前任校のブログで「与野公園付近にやたらとある富士塚などの墳丘は古墳群では?」と書いたことがあります。与野塚めぐりまとめ.pdf
その時に調べた旧与野市の「与野の歴史」(1988年)では「与野市域内に墳丘を持つ古墳は、現在のところ一基も発見されていません」と書いてあり、埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」(1994年)では、浅間神社富士塚、大国社塚、御嶽塚については「古墳」であるとされていました。しかし私としては、与野公園内の墳丘群なども含めて古墳群とすべきではないか、と考えていました。
先日、ちょっと別のことが気になってさいたま市遺跡地図というのを眺めていたら、なんと中央区本町東に「巽遺跡」「巽古墳群」と書いてあるじゃないですか! Wikipediaを見てみると、1989年に1号墳、2001年には2号墳が発見されたと書いてあります。
上の地図の青い楕円が「巽古墳群」を含む「巽遺跡」とされるあたりです。古墳は住宅建設で削られてしまったようですが、国土地理院の陰影図で見ると青い円の内外に怪しげな陰影が複数あります。
この場所から数百メートル西側の前にブログに書いた与野公園周辺を陰影図を使って改めて見てみます。(前は陰影図の存在を知りませんでした。)
中央やや左下のくっきりしたでっぱりは、富士塚です。その右斜め上のでっぱりは、天祖神社の墳丘、左上のうっすらとしたでっぱりは、私がブログで削平された墳丘ではないかと書いたもの、公園から道路を隔てた上の方にある割とはっきりしたでっぱりは御嶽社の御嶽塚です。その他にも富士塚を取り囲むように複数の円形のでっぱりがあります。
地図左端の方のバイパスに近いところの大国社の墳丘は、「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」で「古墳」と書いてあるものですが、あまり目立ちません。現地に行くと明らかに一段高いところに祠が立っているのですが。これらも含めて与野本町の辺りは、やはり大規模な古墳群だと思います。
私は、滑川古墳群のような小規模な古墳の群れや吉見百穴のような群集墓を見ると考えてしまうのですが、こういった墓を作った(埋葬された)人たちはどういう人たちだったのでしょうか?
大阪の大山古墳(仁徳天皇陵)のような墳丘長が百メートルを超えるような巨大古墳は、「大王」と呼ばれたような人のものでしょうし、行田の丸墓山のような直径数十メートルの古墳も、江戸時代で言えば大名のような地域の支配者のものだったろうと思います。
しかし直径10数メートルから2・3メートルしかないような古墳は、どうだったのでしょうか。地方の役人や軍人で、現代の会社や役所で言えば部長や課長クラスの、ヒラよりちょっとだけ偉くなったくらいの人が「俺も偉くなったのだから、一丁、古墳を作ってみるか?」と思ったのかもしれません。あるいは見栄を張りたい家族から「お隣さんは古墳を作ったらしいよ。うちも作りましょうよ。」とかせっつかれて、頑張ったのかもしれません。吉見の百穴などはマンションのように分譲されたのをローンを組んで購入していたのかもしれません(さすがにローンはないか…)。そんなことを考えると、これらの古墳の陰には、なかなか涙ぐましいものがあったのではないかと思います。