4/22 「やらかしてしまった!?」&プチ史跡2(2)赤山通りの石塔など
先週金曜日(4/19)に前任校の与野高校に事務連絡(兼離任式)に行ってきました。
「離任式」は人事異動で転出した教職員が、年度末に残してしまった事務的な処理や連絡を片付けるとともに、生徒諸君にお別れの挨拶をするという、学校の伝統的な行事です。ここ数年はコロナ禍とやらで、実施しなかったりオンラインやビデオメッセージに代えたりすることが多かったのですが、ようやく復活してきました。しかし「いやぁ、復活してよかった…」とのんきに出かけて行ったのですが、ふたを開けてみたら出席者はなんと私一人でした。コロナ以前はよほどのことがない限りみんな出席したものですが…。離任式の伝統もコロナのせいで断絶しかかっているのでしょうか。私が行かなければ、離任式は流会となり行事の手間を一つ減らせたのに、すっかりやらかしてしまいました。
しかし、行ってしまった以上はせっかくなので、離任者を代表して「与野高生の多くが持っているまじめさは、得難い才能であり、今後の人生で大きな武器になる」、「自分の夢や目標を恥ずかしがらずに大きな声で語ることが、実現への第一歩である」という話をしてきました。
さて、与野に行ったついでに与野近辺の史跡探索をしてきました。与野高校から本町通り(羽根倉街道)を北に数百メートル行くと赤山街道との交差点にぶつかります。赤山街道は江戸時代に関東郡代として関東の幕府直轄地の管理を任されていた伊奈氏の本拠赤山陣屋(川口)と、各地に置かれた陣屋を結ぶ道です。
交差点を右(東)に曲がって少しいったうなぎ屋さんの店の前にお地蔵さんのお堂が大小2棟と石塔2基が立ち並んでいます。
左側のお地蔵様(上の写真左)は、2mを超えそうな立派なもので、お堂も小さな銅鑼や鐘を備えた他ではあまり見ないほど立派なものです。見えるところには年紀などはありませんが、さいたま市のWEBページによれば江戸時代後期のものだそうです。
並んだ石塔の中に道標を兼ねた「甲子塔」(上の写真右)があります。「甲子塔」とは「庚申塔」と同じようなもので、暦で「甲子」の日にみんなで集まる「甲子講」の人たちが建てたものです。ここの甲子塔は道標を兼ねていて、正面左側は「引又(志木市)二里」、正面右側は「川越四里」、右側面は「浦和一里」、左側面は「大宮十五丁、原市三里、一ノ宮鳥居十丁、岩槻三里」と刻んであります。
この距離表示を見て気が付くのは「この甲子塔は元々はこの場所ではないところにあったのではないか?」ということです。なぜそう思うのかというと、「一ノ宮鳥居十丁」と「大宮十五丁」の記述です。昔の10丁は1~1.1㎞に相当しますが、石塔の現在位置から氷川神社の一の鳥居までは2㎞以上あります。「大宮十五丁」の記述についても同様で、この石塔は昔はもっと大宮に近い位置に立っていたのではないかと思います。たとえばここから赤山通りをずっと東に行った中山道との交差点(上木崎交差点)付近なら、距離的によく合います。
それと同じく半ば地面にうずもれるように立っている「右秋葉大…(おそらく秋葉大権現)」「左石尊大…(おそらく石尊大権現)」と彫られた石塔も移設されてきたのではないかと思います。なぜなら、このあたりで「秋葉」といえばさいたま市西区中釘の秋葉神社ですが、今、石塔が立っている位置と向きでは、秋葉神社は左側になるはずだからです。
また「石尊」についてですが、ちょっと調べたら面白いことがわかりました。「石尊権現」というのは、山岳信仰の中心地大山(神奈川県)の神、阿夫利神の別名ですが、ネットで調べたらさいたま市南区関(中浦和の駅の近く)に「石尊大権現」の石塔が残っているそうです。もしかすると昔は南区関に「石尊権現」を祀った施設があったのかもしれません。そうだとするとその場所は本町通りを南下し突き当りの庚申堂の分岐を右側に行った先になります。この石塔が今の位置から少し離れた赤山通り交差点の西側に東を向いて立っていたとすれば、「右秋葉大権現、左石尊大権現」で方角がぴったり合います。
南区関は与野から本校へ向かう道の途中ですから、なんとなく不思議な縁も感じます。関の「石尊大権現」については、もう少し調べたくなってきました。