校長室ブログ

8/18 プチ史跡巡り2(深谷・熊谷編)

 今年の夏は、暑いと言っても35度を超えるような日が少なくて、この数年の中では過ごしやすい方ですね。

 さて夏休みということもあり、ここのところちょっと史跡を巡る機会に恵まれていたので、今回もプチ史跡巡り2で行きます。

 一つ目の史跡は、先週訪れた「人見氏累代の墓」です。

 人見氏というのは、中世(平安時代末から南北朝時代)に深谷市人見一帯を支配していた武士の一族で、源平の争乱を描いた「平家物語」や南北朝の争いを描いた「太平記」にも、この一族の人物が登場します。

 このお墓は深谷市立藤沢小学校の北側にある一乗寺というお寺の境内にあります。小さい五輪の塔や、緑石で作られた板石塔婆など、いかにも中世の墓所らしい感じです。今の一乗寺はあまり大きなお寺ではありませんが、人見氏が一族の菩提所として創建したもので、800年もの歴史がある由緒正しいお寺です。

 その歴史の古さとともに私がこのお寺で気になっているのが、その所在地の地名です。現在の住所は深谷市人見ですが、すぐ隣が藤沢小学校であるように、ここは昔は藤沢村と言っていたところです。明治時代に近隣の小村が合併して「藤沢村」となりましたが、合併前の旧村名には「藤沢」というのは無いようです。なぜ合併時に「藤沢村」としたのでしょうか。

 「時宗」、「藤沢」と聞くと、思い出すのが時宗の総本山、藤沢市の遊行寺です。(このお寺の前の「遊行寺坂」は、箱根駅伝の復路8区の見せ場となっているので、ご存知の方もいるのでは)。 深谷の一乗寺の一帯が旧藤沢村であるというのは、この藤沢の遊行寺と何か関係があるのではないだろうか? というのが、私の長年の疑問です。明治時代に新しい村名を考える時に「時宗のお寺があるから、藤沢とすべい」と考えたのかもしれませんし、あるいは村名ではなくても、以前からこのあたりを「藤沢」と呼んでいたのかもしれません。もし藤沢というのが、古くまでさかのぼる地名だとしたら、一乗寺は数ある時宗のお寺の中でも、総本山の遊行寺と密接なつながりのある重要なお寺だった可能性がありますね。この辺りはもう少し、調べてみたい問題です。

 さて、この日、もう一か所、妻沼の聖天山歓喜院です(写真はフリー素材から借りました)。

 

 歓喜院は、日光東照宮をほうふつとさせる装飾彫刻で有名です。数年前に修復が完成して、建設当初の色を取り戻してからは、一層見ごたえのあるものになりました。

 その建物の立派さもともかく、この歓喜院は平家物語にも登場する齋藤実盛の創建と伝えられています(今の建物は江戸時代に作られたものです)。

 齋藤実盛はこのあたり一帯を支配する豪族だったのですが、勢力的には中小規模で、生き延びるためには自分より強いリーダーについて行かなくてはならない立場でした。

 実盛は最初は、源(木曾)義仲の父親である源義賢を主人としていましたが、義賢が源氏内部の争いで源義朝の息子義平に負けて死んだ(大蔵合戦)後は、主人の敵であった義朝に仕えざるを得ませんでした。ただし実盛は義理堅い人だったので、元の主人、源義賢の息子の義仲をかばい、責任をもって安全な信濃の国に逃がします。

 その後、平治の乱で源義朝が平清盛に負けて死ぬと、実盛は今度は平家に仕えることになります。何年か経ち、実盛が信濃に逃がしてやった源義仲が成長し、平家を討つために兵を起こすと、実盛は平家の軍に加わり義仲と戦うために出陣します。この時実盛は、高齢のため白髪頭になっていたのですが、若い連中になめられたり手加減されたりしたくないと言って、頭を黒く染めて出陣し、勇敢に戦って戦死します。

 源義仲は、討ち取った敵の首を検分しているときに、子供の頃に自分の命を助けてくれた実盛の首を見つけ、その首を抱いて涙を流したと言われます。

 と、まあこういう話です。齋藤実盛は戦乱の中で度々仕える主人を変えなければなりませんでしたが、その中でも、きちんと義理や筋を通した立派な武士として名を残しているわけです。

 この時代の関東の武士というと、三度の飯よりも戦が大好き、親が死のうが息子が死のうがそれを踏み越えて戦う野蛮人のように言われていますが、平家物語には、この齋藤実盛や、一の谷の合戦で平敦盛を討ち取った熊谷直実など、この地域出身の花も実もある立派な武士が登場します。

 関西の勢力の強い日本史の世界では、後進地域のように扱われることの多い関東ですが、実際には結構、文化程度が高かったのではないか、と思います。