校長室ブログ

忙中閑あり~校長室より

9/19 どんな本を読むべきか?

 今日の朝は久しぶりに半そでだとちょっと肌寒いほど涼しくてホッとしました。でもまだ暑さのぶり返しはあるようです。このブログを読んでくださっている皆様、お体ご自愛下さい。

 さて、前々回(9/8付け)のこのブログで、小学校の先生に対する批判めいた感じのことを書いたので、皆さんの中には「この人は小学校の先生が嫌いだったんじゃないか?」と思った人もいたのではないでしょうか? 実はその通りです。理由はいくつかありますが、強いて言うなら当時の先生には「のぞましい子供像」を押し付けてくる人が多かったからです(もちろん尊敬できる先生も何人かいましたが)。

 で、今回のお題につながるのですが、当時の小学校の先生には、読書の面でも「情操を豊かにする」本ばかり読ませようとする人が多かったように思います。小学生の頃の私はそれが性に合いませんでした。ついでに言うなら私の母親も「情操」とやらが好きでいい迷惑でした(親不孝な言いぐさですが、本当にそうでした)。

 たとえば当時の先生がよく勧めてきたのは、リンドグレーンの「長靴下のピッピ」とか、ウィーダの「フランダースの犬」とか、ドーデの「最後の授業」などの「良書」でした。まあ一応私も読んでみました。リンドグレーンなどには、今読めば子供の時には感じなかった何かがあるのかもしれません。しかし「フランダースの犬」のラストには、「おとなしく凍死するくらいなら、どんな生き方でも生き延びた方がいい」と感じました。「最後の授業」では「アルザス・ロレーヌがドイツ領に編入され、明日から学校でフランス語が使えなくなる」のが悲劇とされているのですが、妙に歴史マニアだった私は「ドイツ系住民もたくさんいるのだから、その人たちは喜んだんじゃないか?」とか考えてしまったわけです。で、先生にその辺の疑問をぶつけると、ひねくれた読み方をする困った児童という扱いになってしまい…。

 同じように、夏休みの宿題でよくあった「読書感想文」も先生たちの想定する「のぞましい感想」でないと評価されなかったように思います。たとえば太宰治の「走れメロス」という作品があります。一般的には「メロスとセリヌンティウスの篤い友情と信頼で、人間不信の王様も改心した」お話とされ、読書感想文にも期待されているのは、その線でしょう。

 しかし、私はこの作品には全体になんとなく皮肉っぽいトーンが流れているようで、作品そのものが太宰治の壮大な冗談ではないかと考えてしまいます。「走れメロス」については、米澤穂信の「氷菓」シリーズの中にも、主人公の折木奉太郎が、さまざまな突っ込みを入れてミステリー作品として読んでしまう、というお話がありますが、とにかくそんなに素直に読んでいい(もちろんそう読んでもいいですが)作品ではないと思います。

 話が長くなりましたが、何が言いたいのか、というと「何を読んで、どう感じるか」などは自由でいい、ということです。私も「こんなものを読んできた」でおすすめの本を紹介していますが、それは自分が読んで面白かった本を紹介しているだけで、それ読むかどうかはみなさんの勝手です。

 世の中には、明らかに科学的におかしなことが書いてあったり、極端な思想で事実を捻じ曲げたりのいわゆる「トンデモ本」があります。子供たちがこの手の本を読んで、それに染まったら大変だという考えもあるでしょうが、これらも含めて「何を正しいと思い、何を信じるか」は、多くの本を読み様々な知識を得たうえで自分で考えればいいことだと思います。

9/12 プチ史跡巡り2「飯田橋周辺」 & こんなものを読んできた28

 今日の午前中、ちょっと出張で飯田橋まで行ってきました。少し早めについたので江戸城の牛込門跡の石垣を見てきました。

 

 飯田橋駅の西口を出ると、駅前の道を挟んで両側に牛込門の跡の石垣が残っています。門そのものは明治に入って間もなく撤去されたのですが、土台の石垣は残されました。これだけ堅固なものを撤去すると工事の手間と費用も馬鹿にならないからでしょうか。

 

 また駅前には牛込門の石垣に使われていた石も野外展示されています。側面にこの門の工事を担当した蜂須賀阿波の守の名が刻印されています。東京の皇居周りにはこういった遺跡・遺構が点在していて楽しいですね。

 次は飯田橋の駅の中です。これは帰りに撮りました。

 飯田橋の駅は現在は西口側に中心が移っていて、東口から入ると電車に乗るまでに使われていないホーム東側の部分を100m以上歩くことになります。この古いホームの部分の屋根は柱が曲線でそのまま梁に変わるとても美しい構造をしています。そして、この柱の鉄骨はよく見るとレールを曲げたもののようです。

 

 柱のクローズアップです。車輪がのる上面が内側、枕木に接する下面を外側にして2本束ねて柱にしていることがわかります。

 昔はあちこちの駅でこういったレールを構造材に使ったホームの屋根がみられましたが、最近は建て替えられて少なくなってきました。飯田橋の駅のここの屋根はそれらのうちでも美しいものの一つだと思います。

 さて、もう一つのお題、「こんなものを読んできた」。今回はハインラインの「大宇宙の少年」です。私は子供のころに夢中になって読んだ記憶があるのですが、他にもこの作品を読んでSF好きになったという人がたくさんいるようです。こんなものを読んできた28(大宇宙の少年)web.pdf

 

9/8 プチ史跡巡り2 やはり遺跡でしたか!

 9月に入り、日差しはやや弱まりましたが、暑いですね。「暑さ寒さも彼岸まで」のことわざ通りになればよいのですが。

 さて、今日はちょっとだけです。

 このブログでも、たびたび「土の盛り上がりをみると古墳に見える病気」を発症している私ですが、その原点は、子供のころ住んでいた見沼区大和田にあった謎の土の山でした。

 東武野田線(最近はアーバンパークラインと言うそうですが)の大和田駅の南方数百メートル、子供のころ私がよく虫取りでうろついていた雑木林の中に、長径20m、短径15mくらい、高さ2~3mほどの土の小山がありました。

 小学館の「マンガ日本の歴史」や学研の学習百科事典を読破して、妙に歴史や考古学が好きだった私は、「これは古墳かも?」と考えました。そして、この小山の近くの農家(このお宅では金魚を養殖していたので、たまに買いに行ってました)の人に聞いてみたのですが「わからない」とのことでした。そこで小学校の先生にも聞いてみましたが、「こんなところに古墳があるわけない。」と言われました。当時の私はまだ素直で、先生は何でも知っていると思っていたので、「じゃあ、違うのかなぁ」と思ったものです。

 さて、この間、このことを思い出して、前にも利用させていただいた国土地理院の陰影図で見てみました。昔、私が不思議に思った場所には、ちゃんと小山が二つ表示されています(13の数字左上)。

 その同じ場所を、さらにさいたま市遺跡地図(この地図も便利で素晴らしいです。)で見ると、二つの山のうち、北側の方が赤くなっていて遺跡番号「12-209」となっています。

 詳細な情報を見ると、ここは「埋蔵文化財包蔵地」「塚・散布地」「中世」とのことで、古代の古墳とはされていませんが、人為的な塚として認定されています。また古代には13の数字左の黒点の交差点の少し南まで見沼の入り江が細長く入り込んでいたようです。ここの十字路の東西の道は大宮と岩槻を結ぶ古い街道で、辻には今も六地蔵が残っています。この周辺は昔は何らかの重要ポイントだったのかもしれません。

 50年以上、ずっとこの問題が頭に引っかかっていたのですが、古墳かどうかはさておき「遺跡ではないか」と思った私の直感は間違っていなかったのですね。思わず大威張りしてしまいました。

 それにしても小学校の先生は何を根拠に「古墳のはずがない」と断言したのでしょう。歴史を商売とする人の端くれになった今の私の目から見れば、大和田の周辺は低地と台地の境目で中世の城塞や館の跡なども点在し、中世の塚や古代の古墳があってもそんなにおかしくない場所なのですが…。なんか微妙に子供の夢をつぶされたような気がします。私だったら、「そうかもしれないね。調べてごらん」と言ったと思うのですが。

 上記の地図の引用については一応学術・教育目的の利用条件には合っていると考えていますが、もし不都合があればお知らせ下さい。

9/2 こんなもの読んできた27 & 初めて見ました!

 夏休明け最初の「こんなものを読んできた」は、アイザック・アジモフの「銀河帝国興亡史」です。本文中にも書きましたが、私が中・高生のころ、SFファン界隈では「銀河帝国興亡史」を読んでいないと、「もぐり」「素人」扱いされ軽蔑されたものでした。私はひねくれ者だったので「だったら俺は読まない」と決心し、50年近くこの作品に背を向けていましたが、もうそろそろ読んでもいいかと思い、今回ようやく読破しました。

 こんなものを読んできた27(銀貨帝国の興亡)web.pdf

  さて、出勤途中にこんなチョウを見ました。

 

 私がこれまで見たことのないチョウだったので、調べてみたらおそらくムラサキシジミのようです。シジミチョウの仲間は体も小さく羽根を閉じていると目立たないのですが、羽根の内側が美しい金属光沢をもっています。しかしスマホを構えて待っていても、なかなか羽根の内側を見せてくれません。そこでちょっと気の毒ですが、飛んでもらうことにしました。(下記のリンクをクリックすると動画がダウンロードできます)

 VID_20250902_064011387 - Trim.mp4

 動画は一瞬過ぎるので、ファイルからフレームを抜き出してみました。形はぶれていますが、深い青色はわかると思います。

 シジミチョウの仲間には、他にも羽根の内側が鮮やかな緑色のミドリシジミや、きれいなオレンジ色のベニシジミ、白銀色のウラギンシジミなどきれいな蝶がたくさんいます。そこら中の芝生や草むらで見かけるヤマトシジミ(1センチ5ミリくらいの白っぽいチョウ)も、よく見ると羽根の内側が金属光沢のある薄いムラサキ色でなかなかきれいです。

 今回見つけたムラサキシジミは色がきれいなだけでなく、幼虫の時にアリを引き付ける匂いを出して、アリに自分の護衛をやらせる不思議な習性をもった蝶としても有名です。日本では割と広い範囲に生息しているようですが、私は初めて見ました。こういったことがあった日には、何かいいことがありそうです。

 

 

8/22 こんなものを読んできた26 & 「上り坂の時代」

 「暑い」といってもどうしようもないですが、暑いですね。

 夏休みも終盤ですが、みなさん、夏休みにやろうと思っていたことはできましたか。

 さて、ここのところ、マニアックな古書を取り上げることが多かった「こんなものを読んできた」ですが、今回は若い人にも手に取ってもらえそうな昨年のベストセラー「成瀬は天下を取りにいく」を紹介しました。ベストセラーになるだけあってすごく面白いですが、それだけではないものもある作品だと思います。こんなものを読んできた26(成瀬は天下を取りにいく)web.pdf

 今日のもう一つのお題ですが、先日、こんなものを買ってしまいました。

 

 Fujica35Mという古いカメラです。昔、私の父親(もう故人です)が愛用していたカメラの同型品です。今のカメラにはない全金属性のずっしり感がたまりません。

 興味のない方には恐縮ですが、Fujica35Mは撮影対象との距離を測る測距儀が内蔵されているレンジファインダータイプのカメラです。

 測距儀の原理について簡単に説明します。周りの物を片方ずつ目をつぶって見てみましょう。近くにあるものほど右目と左目で見え方が違うはずです。人間は脳内でこの見え方の差を分析することで立体感を感じています。測距儀にも人間の目のように左右に離れた二の窓があり、外部の風景(光)を取り込んでいます。この左右二つの窓の映像を人がのぞき込むファインダーの中央に鏡やプリズムを使って重ねて映し出すのですが、この映像は近いものほど左右にズレて見えます。このズレがなくなるようダイヤルを回して調整してやると、ダイヤルの回転量で対象物への距離が測れます。光学技術と機械技術を合わせたすごく巧妙な仕組みです。

 さらに私が入手したFujica35は後期型のMLというタイプで、シチズン製のLVシャッターという仕組みもついています。

 興味のない方にはますます恐縮なのですが、写真というのは絞りを開いてとると、ピントの合う範囲が狭くなってボケやすくなります。手前の被写体だけピントが合っていてバックがボヤっとしている写真がありますが、これは絞りを開いて撮影しているわけです。逆に絞りを閉じるとピントの合う範囲が広くなって、後ろの方から前の方までくっきり映ります。ただ絞りの開閉に合わせて、シャッタースピードも速くしたり遅くしたりしないときれいな写真はとれません。

 LVシャッターではこの複雑な調整をコンピューターの助けを借りず、歯車やカムだけで実現しています。同じくらいの明るさでボケ方の違う写真を、一つのダイヤル操作だけで撮ることができる精巧な仕組みです。

 Fujica35は1957年に発売され、翌1958年のベルギー万博で銀メダルを受賞しています。日本の工業技術が欧米の物マネを脱して、本家欧米をしのぐ品質を誇るようになっていった時代です。まさに日本が上り坂の時代の製品です。

 今の日本は打って変わって産業や技術が低迷し、そのうっぷんを晴らすかのようにネット上での揚げ足取りやヘイトが横行しています。投資や金融、ICTもいいですが、農業や工業で物を作りださなくては、根本的な豊かさは増しません。このカメラを作っていた時代のような、まじめなものつくりをする国に戻らなくては、と思います。

 ちなみにこのカメラの発売価格は15,900円でしたが、その年の国家公務員の初任給は9,200円だったそうです。くそ真面目で朴念仁の見本のような私の父が、給料の2か月分に近い(今で言ったら40万円くらい?)カメラを買っていたとは驚きです。実は結構な趣味人だったのかなと思います。

 

8/19 小言幸兵衛

 古典落語に小言幸兵衛という演目があります。長屋の大家なのに入居希望者に次から次へとケチをつけて追い払ってしまうという困った年寄りの話です。私も年を取ったので小言が多くなってきました。

 折からの残暑の中、内にこもっていた小言を一斉開放して、暑気払いをしたいと思います。(される皆さんはたまったものではないと思いますが…。)

 小言その1「えんみ」ってなんだよ!

 最近、テレビ番組の食レポをみていると、出演している人たちがみんな「えんみ」「えんみ」としゃべっています。何のことかと思えば塩味「しおあじ」のことのようです。昔(といってもつい10年前くらい)はこういう言い方はあまり聞かなかったと思います。甘い味のことを「甘味(かんみ)」と言ったりするので、その影響でしょうか。あるいは栄養学かなにかの業界用語なのでしょうか。

 しかし、塩の味なのだから「しおあじ」というのが、耳で聞いてもわかりやすく。テレビやラジオのような音声による伝達では一番間違いがないはずです。また日本語としても、ほかに言い換えのない場合を除いては、カタカナ言葉や音読みの漢語をさけ、訓読みの大和言葉を使う方がのぞましいと思います。ところが最近の食レポでは「えんみ」と言わなければ食通ではないかのような、妙な気どり感を伴って、みんな「えんみ」「えんみ」と言っています。

 私は「えんみ」というと、まず「厭魅(古代に人を呪い殺すために行った呪法)」を思い浮かべてしまうのですが。

小言その2「…になります」って別になってねえよ!

 飲食店などで注文したものを店員さんが持ってきてくれる時に、近年では「こちらハンバーグセットになります」のような言い方をよく聞きます。私も、その場で店員さんに絡むようなことはしませんが、心になかでは「何がなりますだよ。何もなってねえよ!」と悪態をついてしまいます。この場合正しい言い方は「ハンバーグセットです」とかあるいは丁寧に「ハンバーグセットでございます」だと思うのですが。

 私の考えるに、この「…なります」は、「です」とはっきり断定することを避けてワンクッション入れることで、なんとなく責任をぼやかそうとする気持ちの表れではないでしょうか。同じような精神がもっとはっきり現れているのは、やはり20年位前からよく聞くようになった「正しい日本語(?)」のように語尾を上げた英語の疑問文のようなイントネーションで区切りながら話す話し方です。これも「自分の考えや見立ては必ずしもそうではないけれど、みんながそう言うから、言ってます」という言い訳を感じさせます。

 私が若いころにも、よく意見を言うときに「ある意味では」というのを頭につける人たちがいました。そういう時に、私は「ある意味でそうなら、別の意味もあるんだよね? それは何?」と聞き返していましたが、別の意味を答えてくれた人はいませんでした。これもそう言うとちょっと知的な感じで、考え深いように聞こえるから枕詞のように使っていたのでしょう。

 「こういったあいまいな表現を日本語から追放したい」というのが、私の悲願ですが、実現はむつかしそうですね。

3,リュックを前向きに持つな!

 先日、外出した際にどこかの路線の車内アナウンスで「混雑時にはリュックは前向きにお持ちください」のようなことを言っていました。とんでもない、と思いました。

 車内が混んでいるときにリュックサックを背中側に持っていると、知らないうちに人にぶつけてしまってトラブルになったり、目が届かないのでポケットの中のものを盗まれたりする心配があります。その点では腹側にもつのは改善策といえます。しかし、腹側にリュックを回すと重心のバランスをとるために、上半身を後ろにそらすことになります。こうなると身体+荷物の前後幅は広くなります。またさらにこの状態でスマホなどをいじると手が前に突き出されて、さらに場所を取り、混雑時には大変な迷惑です。

 私の考える最も良い持ち方は何かというと、背中からおろして手で持ち、体の前方に下げることです。腰回りより足のほうが細いし、上半身は足の上の方へ前傾するので、混雑する電車の中で最小限の面積しかとりません。

 この持ち方だと手がふさがるので「スマホの操作ができないじゃないか!?」という方もいるかもしれません。そういう疑問に対する私の答えは一つです。「(混雑の中では)操作するな!」。

8/14 最近行った所(続)& こんなものを読んできた25

 昨日の続きです。8月6日には平塚に全国定時制通信制のバレーボール大会を見に行きました。平塚市内で39度を記録したという猛暑の中、平塚駅から会場まで2km弱を歩きました。

 

 最初の史跡はこれ(上の写真)です。何の変哲もない道路の写真です。もしかしてこの軽トラが歴史的遺物なのか? ってそんなわけはありません。写真の歩道橋に書かれた字を見てください。「若松八千代歩道橋 東海道本通り線」と書いてあります。そう、この道が昔の東海道なのですね。東海道は国道1号線として東京から京都まで続いていますが、平塚ではこの道より少し北側のバイパスが国道1号となっていて、街中を通る旧東海道は国道指定から外れています。

 昔の東海道を歩けてしみじみ、と言いたいところですが、よく考えたら、私は毎日、昔の中山道を自転車で走って上尾駅まで通勤していました。行為としてはあまり差がないですね。

 次はここ、旧東海道「馬入川の渡し」跡です。

 

 この写真は、「馬入川の渡し」の石碑のある所から川の方を向いてとった写真です。手前の方に川を引き込んだ港があってたくさんのレジャーボートが係留されていますが、その向こうに国道1号が川を越える橋が見えます。

 いつもの明治迅速図でみると、街道は今と同じ位置を通っていて細い橋がかけられています。馬入川の流れはその橋のところでゆるく湾曲し、写真を撮った堤防のある場所は川に突き出していて、そこに集落があります。橋のできる前の江戸時代には、この辺りが渡し場だったのでしょう。

 家に帰ってきてから気が付いたのですが、国道1号の橋を渡ってあと2kmくらい行くと、「旧相模川橋脚跡」があります。これは関東大震災の時に液状化現象で水田の中から鎌倉時代の木製の橋脚が浮上してきたものです。鎌倉時代には、相模川(馬入川)の本流は今より東側を通っていたことになりますが、明治迅速図を見てもこの辺りは堤防の跡が蛇行しているので、相模川(馬入川)は頻繁に流れを変える暴れ川だったと思われます。

 ちなみに相模川(馬入川)の橋というと、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、相模川の橋の落成式に出かけた際に、落馬してそれが原因で死んだとされています。この橋脚跡のところで落馬したのでしょうか。平塚に行く前に知っていれば頑張って見に行ったのに惜しいことをしました。

 さて「こんなものを読んできた」第25回は、明日が8月15日の終戦の日であることもあり、戦争を描いたSFの古典、ジョー・ホールドマンの「終わりなき戦い」を紹介しました。こんなものを読んできた25(終わりなき戦い)web.pdf

 今となっては古くて入手しにくい本ですが、いい本だと思います。

8/13 プチ史跡巡り2「最近行った所」

 夏至を過ぎて1月半、だいぶ日も短くなり、日差しもやや弱まってきました。しかし体にまとわりつくような蒸し暑さはまだまだ続きそうです。

 さて今月に入ってから全国定通大会の応援であちこち行きましたので、そのついでに巡った史跡をまとめて紹介します。

 一つ目は江戸城田安門と日本武道館です。

 日本武道館は旧江戸城の北の丸にありますが、北の丸に入るための門が田安門です。お堀を渡る橋の上から田安門の外側の高麗門(これは固有名詞ではなく様式名)を見ると門越しに武道館の屋根の擬宝珠、前に取り上げた爆風スランプの曲でいうところの「光るたまねぎ」が見えます。

 

 武道館は現代建築ですが、建てられたのは前回の東京オリンピックの時の1964年、1966年にはビートルズの来日公演の会場となり、それ以来、外国のミュージシャンにとっても聖地のような存在となった歴史的建造物です。

 高麗門をくぐると、ちょっとした広場があり右側に櫓門(これも様式名)が見えます。いかにも強固でお城というのが本質的に軍事施設であることを感じさせます。とはいえ、江戸城の壁や門には矢狭間(弓や鉄砲で敵を討つための隙間)が設けられていないですね。天下を治める徳川将軍の居城ですから、ここで戦闘をすることになるとは考えていなかったのでしょうか(実際に実戦は経験していないですし)。

 

 田安門を出た靖国通りに面した場所に、ちょっと変わった塔が立っています。

 

 西洋風の建物を作ろうとして、そうしきれなかったような不思議な感じです。明治の最初のころには、こういう「疑洋風」の建築があちこちに建てられました。説明看板によれば、この塔は「常燈明台」と呼ばれるもので明治4年に招魂社(今の靖国神社)の燈明として建てられましたが、当時は海からも見えたので灯台の役割も果たしていたとのことです。しかし「海から見えた」というのは本当でしょうか。昔は東京湾の埋め立てがあまり進んでおらず、今よりずっと海が近かったとはいえ、こことと東京湾の間には江戸城が挟まっていますとはいえ、ちょっと信じがたいのですが。

 もう一つ武道館近くで「九段会館」です。

 

 この建物は昭和9(1934)年に「軍人会館」として建てられ、1936年の2.26事件の時は戒厳司令部がおかれるなど歴史の激動を体験してきた建物ですが、2011年の東日本大震災の時に中核施設のホールの天井が崩落したため、現在は一部分を残して、後ろ側に見える高層ビルに建て替えられています。

 

 とはいえ、正面玄関を入ったところのファサードはドアや壁、天井など隅々まで美しい意匠に満ちていて、現代には決して作ることのできない美しさです。今の我々からするとこれらの細かな装飾や意匠は「贅沢」や「無駄」に見えますが、現代建築以前の建築家にとっては、これらの装飾は公共建築には欠かせないものでした。この建物ができた1930年代には、ドイツのバウハウスで始まった現代建築の動きが広りつつあり、このような優雅な建物は作られなくなってきていました。九段会館は軍人会館として大日本帝国の威信を示す建物だったので、その時代としてもちょっと古いセンスでつくられたのでしょう。

 実は私、高校生の時、合唱コンクールの関東大会で九段会館のホールで歌ったことがあるのですが、その時も美しい建物だな、と感動した覚えがあります。ただ、トイレの便器の取り付け位置がやたらと低く「昔の日本人は小さかったのか?」という疑問も感じましたが…。

 写真を入れていたら長くなってしまったので、「最近行った所」は次回に続くことにします。 

 

 

 

8/7 全国定通バレーボール大会に行ってきました。

 昨日(8/6)、全国定時制通信制バレーボール大会の応援に行ってきました。

 男女とも同日・同時刻の試合だったので、女子の方は副校長先生に行ってもらい、私は男子の会場、平塚サンライフアリーナへ行きました。

 1回戦の結果は2-0で2回戦以降に進出しました。

 対戦相手は広島県立三原高校でした。三原といえば横山大観の愛したお酒「酔心」で有名ですね。(えっ。その認識は私だけ?) 1セット、2セットとも、こちらが連続ポイントをとって「いいぞ!」と喜んでいると、相手も頑張って点数を取り返してくるという接戦でしたが、競り勝って見事2回戦以降に進出です。

 私が見に行ってもちゃんと勝てることを立証してくれた男子バレーボール部の諸君ありがとう(前回の記事参照)。

 

 同じころ行われていた女子も2-0で勝って2回戦に進みました。

 先ほど入った連絡によれば、男子は抽選でシードになり、女子も2回戦を突破したそうです。上に行くほど相手も強くなっていきますが、思い切りぶつかっていってください!

 今回はあまり余計なことは書かずに終わります。

 

8/5 定通剣道大会 & 「大きなたまねぎの下で」

 昨日は日本武道館で開かれた全国高等学校定時制通信制体育大会「第56回剣道大会」に行ってきました。

 夕方にちょっと用事があり残念ながら最後までは見られなかったのですが、剣道の試合というのも面白いですね(生で公式戦を見たのは初めてでした)。

 私のような素人には動きが早すぎてどっちが勝ったのかもよくわからないのですが、個人戦の1回戦から勝ち上がっていくにつれ、男女とも踏み込みの音や竹刀の打撃音がどんどん鋭くなって、戦いのレベルが上がっていくのが感じられます。

 団体戦は時間の都合で男子しか見られませんでしたが、埼玉県の合同チームには、昔、結構流行った「六三四の剣(村上もとか)」というマンガの主人公のように上段で構える自分のスタイルを崩さない選手や、大きな相手に何度も吹っ飛ばされながらも、機敏な動きで粘り強く反撃する小柄な選手などもいて個性と根性のあるいいチームだなと思いました。そこに本校の選手が参加でき、一緒にがんばれたのは素晴らしいことだと思います。女子の方は見られなかったのですが、埼玉Bチームはトントンと勝ち上がって入賞したそうです。私が見ていなかったのが良かったのかもしれません。(昔からワールドカップやオリンピックを見ようとすると、妻から「あんたがみると負けるからやめろ」と言われているので…。)

 ところで、昨日は地下鉄の九段下の駅から武道館に行きました。九段下の駅の発車を知らせるメロディは、爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で」なんですね。タイトルの「たまねぎ」は武道館の屋根の擬宝珠をたまねぎにたとえたもので、私のようなバブル世代にはとても懐かしい曲です。メロディーも美しくて名曲だと思いますが、現代の高校生くらいの人には、この歌はいろいろ理解不能かもしれません。

 そもそも出だしの「ペンフレンドのふたりの恋は~」の「ペンフレンド」がわからないでしょう。電子メールもLINEもなかった昔には「文通」という趣味がありました。「文通」というのは遠い地域に住んでいる人と郵便で手紙をやり取りをすることで、これで仲良くなった人がペンフレンドです。では、そもそも遠い地域に住んでいる人とどうやって知り合うのか? というと、雑誌などの「文通コーナー」です。当時は「中1時代」(旺文社)とか「中1コース」(学研)とかの中高生向け学年誌があり、これらの雑誌に必ずあったのが、読者投稿欄や文通コーナーでした。

 文通相手を探す人は、ここで募集のため自己PRを載せるのですが、ありがちなのが自分のスペックを盛ってしまうことです。たとえばへたくそなのに「バンドでギター弾いてます。エリック・クラプトン(*1)のコピーしてます」みたいに。また文通の相手が決まって、手紙のやり取りを重ねていくと写真の交換をしたりするのですが、この時にもつい見栄を張って自分ではなくかっこいい友達の写真を送ってしまうことも起きるわけです。(今のSNSでもスペックの偽装はありがちですから、この辺はあまり変わらないかもしれません。)

 しかし、そういうことをやっていると、いざ文通相手と本当に会おう(今でいうところのオフ会?)となったときに困ってしまいます。

 「大きなたまねぎの下で」も、男の子がペンフレンドの女の子にどうしても会いたくなって、思い切って日本武道館で行われるコンサートのチケットを贈るのですが、待ち合わせの場所に女の子が来ない、という歌です。

 この歌の男の子と女の子は写真の交換などはしていないようですが、もしかすると相手の女の子は、文通で少し自分を盛っていて、あるいは盛っていなくても自分に今一つ自信がなくて、実際に会って男の子をがっかりさせてしまうことを恐れて来ないのかもしれません。また、もしかすると女の子には約束を守る気はあったのに親に止められてしまった、という可能性もあります。この歌は1989年の発売だそうです。この年は昭和最後・平成最初の年で、中・高生の男女交際が禁止されるほど古臭い世の中ではありませんが、それでも「女の子が顔も知らない相手に会いに行くのはやめなさい」という親は普通にいたと思います。あるいは女の子は地方に住んでいて単純に東京までくるお金が用意できなかったのかもしれません。この歌は男の子の側から見た歌ですが、女の子の側から見ても歌や物語がつくれそうな気がします(*2)。

 この歌の発売された1989年には、まだインターネットや電子メールは(一般人が使える形では)ないし、携帯電話も普及していなかった(車載電話や肩から下げるショルダーフォンはあった)時代です。しかし、この数年後にはインターネットを爆発的に普及させたWindows95が発売されますから、今から思えば、「ペンフレンド」を題材にした歌を作るにはギリギリの時代だったわけですね。

(*1)エリック・クラブトンは、1970~80年代におけるギターの神。クラプトンとジミー・ページ、ジェフ・ベックを日本では三大ギタリストと呼んでいた。

(*2)※女の子の側から見た歌もしっかり作られてました。YURIMARI「初恋~はるかなる想い〜」(1999年)という曲ですが、私的にはあまりピンとこない曲ですね。また、なんと今年「大きなたまねぎの下で」の映画が作られてました。でもこのLINEの世の中に、男の子と女の子をどうすれちがわせたのでしょうか?