忙中閑あり~校長室より
1/5 あけましておめでとうございます。&プチ史跡2
みなさん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
正月なので、まず最初に地元上尾の知る人ぞ知る富士山スポットから元旦に撮影した1枚。
朝方、少し雲が多かったのですが、富士山は今年もきれいに見えました。
気が付けば今年は西暦2026年、21世紀の最初の4半世紀が終わりました。私が子供の頃、21世紀は科学技術が発達してどんな夢でもかなう豊かな時代として想像されていました。しかし現実のこの4半世紀では、人権、平等、自由、国際協調などの20世紀後半には誰も否定できなかった建前が、平気で踏みにじられるようになった気がします。
次の4半世紀は、理性や公正といった価値観が蘇る時代になりますように。
さて、今回のプチ史跡2は初もうでにいった上尾の氷川鍬神社からお届けです。コロナですっかり減った初もうで客も今年は完全復活でした。というより前より人出が多いかもしれません。
この氷川鍬神社は上尾駅の近く、昔の上尾宿の中心部にあります。境内はあまり広くないのですが、富士塚や太子碑など史跡や遺物が所せましと並んでいます。今までも順次紹介してきましたが、今回はまだだったものを二つほどいってみましょう。
一つ目はこれ。
「奉納 敷石~」と書いてあるのか読めます。これは敷石供養碑ですね。「供養」というとご先祖様を祀るみたいなイメージがありますが、世のため人のために善行を施し、徳を積むことも供養といいます。このブログでも前に与野の石橋供養碑を紹介しましたが、敷石供養もその仲間です。
次はこれ。「虫火橋建設記念」と書いてあります。横には「埼玉県知事 齋藤守圀 書」とあります。
調べてみると「虫火橋」というのは、上尾(平方地区)ー川越(老袋地区)間の荒川にかかる開平橋の古い名前のようです。しかし、それなら、なぜ平方ではなくここに建っているのでしょう。昭和の初めころまで平方は上尾に負けない町だったので、建てるなら現地に近いそちらの方がよさそうなのに。また齋藤守圀という人が知事だったのは1924年の途中から27年の途中までです。ざっと調べた限りでは、開平橋に関してこんな立派な碑を建てて記念するほどの大きな工事の記録は、この時代には見当たりません。なにか知られざる改修や修繕が行われたのでしょうか。
正月早々、またわからないことに出会ってしまいました。
12/16 プチ史跡(遺物)巡り2 & こんなものを読んできた35
年も押し詰まり寒い日が続きますが、お元気でしょうか。12月は酉の市の季節です。県内だと熊谷から大宮や浦和、川口と北から南に祭の日程が並びます。屋台を出す香具師の皆さんも祭の日程を追うように旅をしているのでしょうか。
さて、今回の「プチ史跡」は史跡というより遺物です。
先日、事務室のリサイクル封筒の引き出しの中から、昔の給料袋を見つけました。旧戸田高校の時代ですから最低でも22年前ですが、戸田高校から戸田翔陽高校に変わるころには、現金支給を受けている人などほとんどいなかったので、もっと古いものかもしれません。
教員の給与は昔は毎月現金で手渡されていました(今も要求すれば現金支給は受けられると思いますが)。これは労働基準法で給与は通貨で直接、労働者に支払うことと決められており、公務員にもそれが準用されるためです。
しかし給料が20万円で50人分としても1000万円です。年齢が高い人の給料はもっと高かったでしょうし、当時はクラス数が多く、1校当たりの教員の数も今以上でした。何千万円もの現金を毎月、安全に運搬し間違いなく袋に詰めるのは事務室の人にとって大変なストレスだったと思います。
私が教員になったころには、労基法施行規則が改正されて、銀行振り込みが認められるようになっていましたが、何かの信念なのでしょうか、頑として現金で支給を受けている人たちがいました。こういう人たちの目には、事務室の人たちも自分たちと同じ、苦労や痛みを感じる人間なのだということが見えていなかったのだろうと思います。
もし今も給料の現金支給が行われていたらどうでしょうか。何しろネットで押し込み強盗の仲間を集められる時代です。毎月、決まった日にたくさんの現金輸送が行われることがわかっていたら、町中に強盗志願者があふれて大変なことになるかもしれません。
「こんなものを読んできた」第35回配信は、前回に引き続き蓑輪諒の歴史小説で「殿さま狸」を紹介しました。最近の歴史小説も、よく史料を読み込んで、今まであまり取り上げられなかったような人物を取り上げたり、新しい観点から事件を見直すようなものが多くて面白いですね。こんなものを読んできた35(殿様狸)web.pdf
12/9 こんなものを読んできた34 & プチ史跡2 川口の氷川神社
期末考査も修学旅行も終わったので「こんなものを読んできた」配信再開します。今回は蓑輪諒「うつろ屋軍師」です。歴史小説というジャンルもこれまでにものすごい数の作品が書かれてきたこともあり、最近ではメジャーな人物ではなく、こんな人もいたんだ! というような人物を掘り起こしてくる作品が多くなってきたような気がします。
「うつろ屋軍師」もそんな作品で、織田・豊臣・徳川と政権が変わっていく激動の時代に、主家である丹羽家を守るために苦闘した江口三右衛門正吉という人が主人公です。この時代には柴田勝家とか石田三成とかの堂々たる敗者もいましたが、そうではなく家や家臣、領民を守るために何としても生き抜こうとした人たちもいました。それも立派な生き方かなと思います。
さてプチ史跡2は川口市下青木の「鎮守氷川神社」です。先週、川口市立高校に行った際、少し時間があったので西川口から同校まで徒歩で行くことにして、道すがらに寄ってきました。
この氷川神社には初めて行ったのですが、予想以上に立派な(失礼)社殿で、神職の方も常駐しているので驚きました。境内にはたくさんの摂社などがありますが、特に目を引くのは「厄割石」と「神撰田」、「富士塚」でしょうか。
「厄割石」は、穴の開いた小さな陶器の玉に払いたい厄を吹き込んで岩にぶつけて割ると厄が払える、とするものです。全国のあちこちの神社にあるようですが、実物を見たのは初めてです。
「神撰田」(しまった!写真がない)ですが、境内に一坪くらいの田んぼが設けてあります。ここで神に供える稲を作るわけですが、神道の源流の一つが稲作にかかわる太陽神や穀物神への信仰があることをうかがわせます。
「富士塚」は、これまでも何回も書いていますが、富士山をかたどった小塚で、富士山を信仰する富士講の人たちが実際に富士山に行く代わりに、これに登ったりしたものです。この神社境内の富士塚は、鳥居から山頂までらせん状に登山道が作ってあり、たくさんの富士講の碑が建てられた立派なものです。
この富士塚の登山道には〇合目をあらわす標柱が立っているのですが、それを見ると寄進者として「新曽村」の○○(ここはよく読めない)と書いてあります。(下の写真の赤丸内)新曽と言ったら、本校の所在地なのですが、思わぬところで新曽の字に出くわしました。
この神社のある場所は江戸時代には足立郡戸田領下青木村と言われていたところです。荒川に沿って下青木村の西隣は下戸田村、その西側が新曽村でしたから、今は川口と戸田に分かれていますが、昔は地域的なつながりが深かったのかもしれません。
あとこの付近はびっくりするほど氷川神社が多い地域です。この氷川神社から半径2~3kmの範囲内に、地図上でざっと見ただけで、10(上青木、朝日、元郷、赤井、江戸袋、飯塚、鳩ケ谷、三ツ和、舎人、入谷)もの氷川神社があります。小さなお社なども含めればもっとあるかも知れません。この地域を流れる芝川(新芝川)は今もかなり川幅がありますが、昔は入間川の本流でしたから、いまよりもずっと大河だったはずです。先に挙げた神社はその川が形成した自然堤防上に散らばっています。氷川神社が元は水神信仰の神社であることを示しているように思われます。
12/4 科学と非科学の間
昨日から、2年次が修学旅行に行っているので、校内に人が少なく静かです。本校の修学旅行は、2泊3日関西方面なので、海外に行く私立や沖縄・北海道に比べると少し派手さには欠けますが、参加した生徒の皆さんにはいい思い出になるのではないでしょうか。
さて、本日のお題「科学と非化学の間」ですが、最近セブンイレブンで「水素焙煎コーヒー」というのを売っています。店頭の説明書きでは、おいしくて環境にも良いと書いてあります。
これは、私個人の感想ですが、たしかに水素焙煎コーヒーは香りに甘さがあって、おいしいと思います。もともとセブンイレブンのコーヒーはドリップ式なので、某有名コーヒーチェーンの蒸気式より繊細な味わいがありますが、水素焙煎はそれよりさらにおいしい感じです。
で、ここで気になるのはなぜ、おいしくて環境に良いのか?という点です。これについてはセブンイレブンのWEBページに説明がありました。要点をまとめると、
①水素焙煎では、焙煎するときの燃料に普通のガスではなく水素ガスを使う。
②水素で焙煎すると普通のガスより、火力の調整幅が広く、特に弱火が使えるので、コーヒーの味が引き出せる。
③水素ガスは燃えても二酸化炭素が出ないので、環境にやさしい。
ということです。
①と②について、水素ガス(図左)は都市ガス=メタン(図中)やプロパンガス(図右)と違い、炭素(黒の玉)を含まず、全量がよく燃える水素(白の玉)なので、細火でも安定して燃え火力調整がうまくできるというのは、なんとなく納得です。また③についても、水素ガスには炭素原子が入っていないので、燃焼によって二酸化炭素が出るはずがありません。
セブンイレブンによる説明は筋が通っていて、ここまでは良いのですが、ここから先がちょっと問題です。
まず、③についてですが、確かに水素の燃焼では二酸化炭素は出ません。しかし、その水素はおそらく電気分解で製造されたものでしょう。電気分解を行うための電気がどのように作られたかが問題です。火力発電ならそこで二酸化炭素が排出されますし、原子力なら二酸化炭素は出ませんが、処理と保管が厄介な放射性廃棄物の問題があります。
電気自動車や燃料電池車などと同様に、その場で二酸化炭素が出ないからエコ、というのはちょっと違うのではないかと思います。背景まですべてひっくるめたトータルで考えないと…。
次にこれはセブンイレブンとは関係なく、同社に責任はない話ですが、「水素焙煎コーヒーは健康に良い」とか言い出す人が、ネット上に現れています。
同じように「水素」とついたものとして、水に水素ガスを溶け込ませた「水素水」というものがあります。電子部品の洗浄に使うと、水に含まれる微小な泡で高い洗浄力が得られるというものです。これについても「抗酸化作用がある」とか「健康に良い」という人がいますが、医学的・科学的には証明されていません。
また仮に水素水が健康によいということが、将来、科学的に立証されたとしても、「水素焙煎コーヒー」は豆を焙煎するのに水素を使っているだけで、水素水とは関係ないはずです。ネットの「健康に良い」とかいう説は、「水素」という言葉につられて、水素水と同様の効果(とされるもの)があるかのように言っているのでしょう。
こういった言説は非科学的なだけでなく、それを流布されることは、販売者のセブンイレブンにとっても迷惑でしょう。私としても水素焙煎コーヒーはとてもおいしいので、外野のせいでそれが怪しい健康食品のように扱われて評判が悪くなっては困ります。
今回、特定の会社の特定の商品について書きましたが、これはその商品を宣伝しようとする意図ではなく、それをきっかけに科学的に考える習慣を広げようと考えたからです。念のため申し添えておきます。
12/2 「こんなものを読んできた」第33回 & ちょっとだけ「プチ史跡」
昨日に引き続き更新です。
期末考査も終わったので、生徒向け読書案内「こんなものを読んできた」の配信を再開します。配信してもどれくらいの人が読んでくれているのか皆目わからないのですが、先日、「読みました」と声をかけてくれ、しばらくマニアなトークに付き合ってくれた人がいました。反響があるのはうれしいものですね。SNSで「いいね」やフォローが欲しくて、手段をえらばない行動に走る人がいるのもちょっとわかる気がします。
今回紹介したのは、アマゾンのサブスクで読んだラノベ「アルマーク」です。よくある話といえばそうなのですが、読後感が良い作品なので紹介しました。
さて今回もおまけにちょっとだけ、史跡を紹介します。
この写真は何か? というと、旧中山道と県道51号(川越上尾線 ) の交差点の少し北側の愛宕神社境内にある水準点です。水準点とは地図などを作るときの高さ(標高)の基準となる点で、写真の物は16.4mの水準点です。かなり年季が入った感じですが、非常に大事なものです。もし他の場所で水準点を見つけても、傷つけたり壊したりしないよう気を付けてください。
12/1 プチ史跡巡り2 小鹿野編
学校の方は今日が期末試験最終日です。2年次生はこの後、修学旅行へ、他の年次の人も冬休みに向けた各種行事に入っていきます。
この数日、朝夕は冷え込みましたが、空が澄んで日差しの暖かい本当にいい天気が続いています。私が子供のころ”Beautiful Sunday ”という曲が大流行したことがありました。日本語だと「美しい日曜日」となり、私的には「日」という本来抽象的な時間の概念に「美しい」という物質の状態を表す形容詞をかぶせるのは、少し違和感がありますが、昨日などは「それもいいか」と思ってしまうような一日でした。
さて、先週の金曜日もいい天気でしたが、総合学科校長会のために小鹿野高校へ行ってきました。少し早めについたので、経路上のいくつかの史跡を回りました。
一つ目は、小鹿野化石館と「ようばけ」です。
今ではすっかり山地となっている秩父地方ですが、太古には古秩父湾という海でした。秩父からは巨大なサメなど海洋生物の化石が多数出土していますが、最も有名なものがパレオパラドキシアです。パレオパラドキシアは秩父鉄道の蒸気機関車「パレオエクスプレス」の名の由来ともなっている巨大な海獣で、これの化石の復元模型が小鹿野化石館にあります。
ウイキペディアさんに載っている復元図で見ると手足の長いセイウチのような微妙な格好ですね。まだ完全に海の生活に適応しきっていないような感じです。
この化石館のすぐ近くにあるのが、「ようばけ」です。「はけ」というのは崖や急斜面のことで、「ようばけ」も赤平川の浸食により形成された断崖で、断面にきれいに地層の重なりが見えます。
「ようばけ」は崩れやすいので近づくのは危険とのことですが、この辺りの河岸の斜面はいかにも化石が出そうなところです。この日も遠足の小学生の団体がネイチャーガイドの人に案内されて化石採掘に出かけていくところと会いました。大正時代には盛岡高等農林学校在学中の宮澤賢治も地質の巡検に来たことがあるようです。
また私的には「赤平(あかひら)川」という地名が気になります。なんとなくアイヌ語地名ぽい(北海道の赤平市のように)気がして…。小鹿野の辺りは山に囲まれた程よい平地で、古くから人々が住んでいた場所ですから、アカヒラというのもすごく古い地名なのかもしれません。県内には坂戸に「越辺(おっぺ)川」という川もありますが、関東地方にはほかにもアイヌ語語源の可能性のある地名がたくさんあります。
この日のもう一つの探訪地は知る人ぞ知る「お塚古墳」です。
こんもりときれいに盛り上がった塚の上に小さな社がある変哲のない小古墳に見えますが、この古墳には「羊太夫の墓である」という伝承があるそうです。「羊太夫」とは何かという話は少し長くなります。
群馬県吉井町(今は高崎市の一部)にある日本3古碑の一つ、多胡碑の碑文中に、上野国に多胡郡を作り「羊」という人物に与えたと読める部分(異説あり)があります。これが「羊太夫」で、中世の説話集などに、群馬と奈良の都を1日で往復したとか、朝廷に謀反を疑われて討伐されたとかの伝説がのっています。星野之宣のマンガ「宗像教授シリーズ」にも登場し、海外から渡来した胡人(ペルシア人など)の首長だったのではないかという説が展開されています。大変、夢のある話なのですが、私はこの伝説は、史実を反映したものではないと思います。(私がいつでもキワモノの説を支持すると思ったら大間違いですよ!)
なぜなら、羊太夫の説話がのっているのは中世(南北朝期)から後の文献ばかりで、古代からの伝承かどうかはっきりしないからです。これらの説話は多胡碑の「三百戸郡成給羊成多胡郡」とある部分を「三百戸を郡と成し羊に給いて多胡郡と成せ」と読んだことによるものでしょう。しかし、この部分は「羊を給いて多胡郡と成す」と読む、要するに新設の多胡郡に設立の原資として家畜の羊を渡したという説の方が正しいのでは、という気がします。
また、郡を任されるほどの人物が「羊」という名前だけで、姓もなく無位無官というのも疑問です。仮に「羊」が無位無官の地方豪族だったとしても、郡を任せる時点で何らかの官に任命するのではないかと思います。そうしたらその任命についても記録したはずです。この碑文の後半には、郡を作る命令をした人の名が出てきますが、こちらは「左中弁正五位下多治比真人」のように詳しく官職・位階・姓を書いていますから…。
まあ、それはともかく、この小鹿野に「羊太夫」の墓と言い伝えられる古墳がある(群馬県にも「羊太夫の墓」がある)というのが面白いと思います。小鹿野から国道299号をたどればすぐに群馬県の上野村に出ますが、この辺りは古くから「羊太夫」伝説のある上野国との関係の深い地域だったのでしょう。
11/25 明日から期末テスト & 嫌いな言葉「タイパ」
早いもので明日から期末考査です。翔陽生のみなさんは、勉強もさることながら、かぜやインフルエンザにかからないよう注意してください。試験で最も大事なことは休まないことですから。
試験前なので「こんなものを読んできた」はお休みです。いろいろあって中間~期末にはあまり配信できませんでした。試験後は冬休みに向けて再開するべく、少し書き溜めておこうと思います。
さて、本日のお題の2つ目は「嫌いな言葉」シリーズです。前から時々、嫌いな言葉については触れていましたが、ついに待望(誰が待望しているのでしょうか?)のシリーズ化です。その第1弾は「タイパ」です。
タイパはタイムパフォーマンスの略で、Cost Performanceから派生した和製英語です。
私はこの言葉を使う人を信用しません。仮に初対面の人がこの言葉を使ったとしたら、もう永久にその人を信用しないでしょう。
この言葉のシンプルな意味としては「時間当たりの効率」ということでしょう。その意味で使われているのであれば、この言葉には特別な意味合いはありません。しかし、実際に使われる場面としては、手間がかかったり困難が予想される仕事から逃げる言い訳として「そんなタイパの悪い仕事はやっていられない」という感じに使われることが多いと思います。
ちゃんとした仕事にはしかるべき手間と時間がかかるものです。たとえば伝統工芸の漆塗りのような仕事では、下地から仕上げまで何度も漆を塗り、磨き、また塗り重ねるという手間と時間が必要です。手間を惜しんで、1回で分厚く塗るというわけにはいきません。それと同様に、どんな仕事でもきちんと仕上げるにはそれなりの手間と時間が必要です。
もちろん私も、手間がかかるだけの無駄な仕事(ブル・シット・ジョブ)がいいというつもりはありません。同じ仕事なら短時間で片付けたほうがいいでしょう。
しかし、上記のような名人と言われる職人さんの仕事には、そもそも無駄な動作がありません。毎日何百回何千回と繰り返して最適化された動作で複雑な工程をよどみなくこなしていきます。そうなるためには何年にも及ぶ修練が必要です。職人の仕事に限らず、そういった地道な努力に耐えられる精神と覚悟のない者が、自分にはできない言い訳として「タイパが悪い」と言っている気がします。「タイパ」という言葉の実際の使われ方にはこういったニュアンスが漂うようで、その品性の低さはまさに唾棄に値します。
勉強などでも、同じことが言えます。私の経験では「いい参考書」「いい問題集」、「能率の良い勉強法」を探し回っている人ほど、勉強はできないものです。まず手元にある教科書をよく読む。今持っている問題集を繰り返し解いてみるのが、最も早い成績アップの道だと思います。
11/18 祝! 戸邉さん厚生労働大臣賞受賞 プチ史跡巡り2 早川雪洲の机
11月16日(日)に開かれた全国高等学校定時制通信制生活体験発表大会に、本校4年次の戸邉菜月さんが埼玉県代表として出場し、第2席の厚生労働大臣賞を受賞しました。詳しくは追ってほかの記事が出ると思いますが、まずは速報です。
さて、次にプチ史跡巡り2です。
上記の大会のために訪れた六本木のハリウッドビューティープラザのホール前の廊下に、早川雪洲愛用のライティングデスクが置いてありました。黒檀(?)で作られたキャビネットの全体に精緻な彫刻が施された見事な机です。
早川雪洲ってだれ? と思った人も多い(というかほとんど?)と思います。
早川雪洲(1886~1973)は、第二次世界大戦の前からアメリカ映画界で活躍していた日本人俳優です。雪洲は身長171cmと明治生まれとしてはかなりの長身でした。当時はアメリカの白人男性の平均身長も170をやや超える程度だったと思われますので、体格的にも引けを取らず、顔だちも端正で中々のイケメンでした(下の写真の机の上のパネル参照)。1910年代後半~30年代には、白人女性を誘惑する危険なアジア人男性の役どころで大人気だったようです。
私は早川雪洲の出演した映画は、彼の晩年に近い「戦場にかける橋(1957)」しか見たことがありません。この時、雪洲はもう70歳くらいでしたが、厳格だが武士道精神をもった軍人の役を演じ、好評を博しました。
その雪洲の机がなぜ、ここにあるのでしょうか。ハリウッド美容専門学校(メイ・ウシヤマ学園)は1925年創立という歴史ある専門学校ですが、その創始者、牛山清人(*)が、ハリウッドで早川雪洲の付き人をしていたという縁があるようです。牛山は当初、俳優を目指しスタントマンなどをしていましたが、手先が器用でメイクアップが上手だったので、そちらの専門家となり、帰国して学校を開いたとのことです。
それにしても早川雪洲といい牛山清人といい、まだ映画産業が始まったばかりのアメリカに飛び込んで活躍するとはすごいですね。今のすっかり自信を失って内向きになってしまった日本人は明治生まれのバイタリティーを見習うべきではないでしょうか。
(*)本校卒業生もお世話になっているメイ・ウシヤマ学園の創業者を敬称抜きなのは、ちょっと引っかかる感じはあったのですが、100年も前の方なら、もう歴史上の人物(豊臣秀吉とか徳川家康というのと同じ)だろうと思ったのと、「早川雪洲」との記述のバランスをとりました。
11/12 プチ史跡巡り2 中浦和の板石塔婆
昨日、別所沼公園から中浦和駅周辺を歩く機会がありました。中浦和駅近くの浦和でも有数のうなぎの老舗「萬店」さんの駐車場の一角に古い石碑(写真下)があります。以前から存在は知っていたのですが、近くに寄ってみたことがありませんでした。
頭がとがった石板で、中世にたくさん建てられた板石塔婆であることは見当が付きました。板石塔婆は全国に分布していますが、この石碑のように秩父山の緑色の石(緑泥片岩)で作られたものは「武蔵型板碑」と呼ばれ、埼玉県近辺でたくさん見られます。説明看板によれば、この板碑は弘安4(1281)年に建てられたものだそうで、だとすると現存する板碑の中でもかなり古いものと言えます。
私はこういう石碑が好きなので、見つける度に寄り道して見物していますが、私の見た中でこの板碑に匹敵するほど古いものは、建長8(1256)年に建てられたという、羽生の毘沙門山古墳のところの巨大板塔婆くらいです。あちこちで見かける庚申塔や馬頭観音などは、古くても江戸時代の元禄年間や宝永年間くらいでしょう。
ただ、この板碑はナメクジでも這いまわったような茶色い傷あとが全面にあります。かろうじて梵字や蓮花が刻んであるのがわかり、その左側にも年紀などの刻字があったような感じですが、ほとんど碑面が読み取れません。説明看板には「浦和市観光協会」と書いてあるので、それ自体が20年以上前の物です。茶色の傷がどのようにしてついたのかわかりませんが、20年前にはもっと鮮明に碑面が読み取れたのかもしれません。
弘安4年と言えば、元(モンゴル人が建てた中国の王朝)と高麗(昔朝鮮半島にあった国)の連合軍による2回目の日本侵攻(弘安の役)があった年です。この2回にわたる元・高麗連合軍の侵攻(いわゆる蒙古襲来)については、以前は奇跡的に暴風雨が吹いて助かったという「神風」説が主流でしたが、最近は鎌倉幕府が外交や諜報活動を通じて情勢を分析し、侵攻に備えて防衛設備や動員体制を整えていたから勝てた、とする説の方が有力です。
きちんと情報を分析し勝つ(負けない)ための準備を十分にしておく、理性的な態度が必要であるというのは、現代にも通じる教訓ですね。
11/10 追悼 晋平太さん
この週末、ネットのニュースを見ていたら、ラッパーの晋平太さんが亡くなったというニュースがありました。
私は特にHIPHOPやラップが好きというわけではないのですが、数年前、晋平太さんとお会いし、ちょっとだけですがお話をしたことがあるので驚きました。
なぜ晋平太さんと話をする機会があったのかというと、前任校で行われたPTA主催の生徒向け講演会の講師としてお招きしたからです。
講演のタイトルはたしか、「言葉のパワー」でした。日本を代表するラッパーとして活動されてきた経験を元に、言葉を発することで人とつながり、自分の未来を切り開いていくことができる。それだけでなく、たとえ過去がつらいものだったしても、現在の自分が言葉を発することで未来の自分を作っていけば、それは自分にとって意味のあるものになる、というお話だったと思います。
講演の開始前に少しお話をしたのですが、本質的に真面目な人柄なのに、ラッパーとしてはあまり生真面目な感じにはしたくないし…みたいな雰囲気で、自信と含羞が入り混じった微妙な感じがとても魅力的でした。
私は、今は「言葉」が危機に瀕していると思います。ネットを中心に、揚げ足取りや「切り取り」が横行し、故意に人の言葉を曲解しての中傷(言いがかりともいう)や、明らかな虚偽の流布まで平然と行われています。
そのような時代であればこそ、晋平太さんのお話されていた「言葉のパワー」、人と人をつなげる言葉の力を取り戻し、育てていかなければと思います。
ご冥福をお祈りいたします。