忙中閑あり~校長室より
2/3 祝!打ち上げ成功 & でも壁が…
生徒向けの読書案内「こんなものを読んできた」(5)と(6)を配信しました。(5)では日本のSF「なめらかな世界と、その敵」、(6)では海外SF「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を紹介しました。
こんなものを読んできた5HP.pdf こんなものを読んできた6HP.pdf
さて今朝、日本のH3ロケット5号機が打ち上げに成功したというニュースをやっていました。今回の打ち上げではGPS衛星の「みちびき」の軌道投入に成功したとのことです。GPS衛星は非常に高い軌道に正確に打ち上げる必要があるので、技術的に難度の高いミッションです。日本の宇宙技術の高さが健在であることが示されたのは、宇宙やらロケットやらが好きな私には、大変おめでたく気持ちのいいニュースでした。
とはいうものの、宇宙には私が子供のころから感じている憂鬱な壁があります。
それは、何かというと「光速の壁」です。ご存じの通り、宇宙では光より早いものはないということになっています。宇宙は広く星々への距離は光の速さでも何年もかかるほど遠いので、SF小説で描かれているように自由に星の世界を飛び回るためにはこの「光速の壁」を越えなくてはなりません。
従来の多くのSF小説ではこの光速の壁を越えるために、一瞬で空間を飛び越えるいわゆる「ワープ」のような技術を仮想していました。しかし、このような技術が実現できる可能性は極めて低いと思います。そうなると、光速を越えないスピードで宇宙を旅するしかないわけです。これだと一人の人間の寿命のうちに太陽系外の星へ行って帰ってくるのはほとんど無理そうです。
私は自分たちはともかく、未来でも人類が太陽系に閉じ込められていて、SFのように自由に宇宙を飛び回ることができない、というのが本当に嫌でした。
しかし近年になり、太陽のように惑星を持つ恒星は、昔考えられていたより沢山あり、中には地球とよく似た惑星を持っているものもありそうだということがわかってきました。上で紹介した「プロジェクト・ヘイル・メアリー」もそういう最近の成果を取り入れた小説で、主人公が目指すのは地球から12光年(光のスピードで12年かかる距離)しか離れていないタウ・セチ星系です。これくらいの距離なら光速に近いスピード(亜光速)が出せる宇宙船が作れれば、早く飛ぶ宇宙船上では時間がゆっくりになるという相対論的効果もあるので、人間の一生のうちに往復できそうです。
しかし、これも実際にはなかなか困難です。なにしろそんなスピードまで加速するには莫大な燃料が必要で、そんな量を積める宇宙船は作れそうにありません。今朝、打ち上げに成功したH3ロケットでも巨大な機体のほとんどは燃料タンクで、宇宙に行くのは先端の小さなカプセルだけです。それでもようやく地球から3万~4万㎞程度の軌道までしか行けません。
これまでに人類は月まで行きましたが、これは地球や月の引力を使ったスイングバイという方法によるものです。この方法では光速に迫るような加速は不可能です。この方法でも地球の隣の火星くらいまでは行けるかもしれません。しかし火星まででも片道数年という長い飛行が必要で、食料や水の確保、乗組員の士気や人間関係を保てるのかなどの問題があります。
この「人類が地球から出るのは容易ではない」という事実は、今はまだあまり問題ではないでしょう。しかしこの先人類の文明が発展を続けることができれば、いずれはこれが壁として立ちはだかります。その時に、未来の人たちはどうするのでしょうか? 人類はSF小説のように宇宙にまで広がっていくのか、それとも地球に封じ込められたまま終わるのか、とても興味深い問題です。
1/21 読書案内4号 & 余計な心配
生徒向け読書案内の4号を配信しました。今回はマンガ界の金字塔「ジョジョの奇妙な冒険」を紹介しています。私は小説でもマンガでも(その他でも)、元気や勇気をくれるのが名作だと思います。こんなものを読んできた4HP.pdf
さて、どうも最近年を取ったせいか、いろいろ余計な心配をしてしまうときがあります。
たとえば冬になると、温泉につかっているサルの映像がニュースで流れたりします。すごく気持ちよさそうですが、お湯から出た後はどうなっているのでしょうか。お湯からでたあと体をすぐに拭かないと湯冷めしてしまうのではないだろうか? とか、一度お湯に入ったら、もう出たくなくなってしまうのではないか? とか…。まあ、余計な心配で、おサルさんたちはなんとかやっているのだと思いますが…。
それ以外にも、最近、日本でも世界でも心配なことが増えてきました。前回書いたように、昔(20世紀・昭和)だったら当然守られるべきとされていた建前や節度がなくなって、やりたい放題、言いたい放題な人々が増えてきています。それらの言動は昔だったら周囲からとがめられていたと思うのですが、最近はそういう言動におもねる人も増えてきて、とても暮らしにくい世の中になってきています。
これらのほとんどは、一田舎校長の私などの及ぶところの問題ではないのですが、どうも気になります。
1/16 読書案内3号 & 「昭和の…」
生徒向け読書案内の3号目を配信しました。こちらのブログからもダウンロードできるようにしますので、よかったらご一読ください。こんなものを読んできた3HP.pdf
さて、最近よく「昭和の…」という表現を見かけます。「昭和レトロ屋台村」のようにノスタルジックな文脈の時もありますが(下の写真はフリー素材)、「時代おくれ」とか「古くさい」といったマイナスイメージのことが多いようです。「昭和のビジネスモデル」とか「昭和の価値観」とか…。しかし、バリバリ昭和生まれの私としては、それに異議を申し立てたいと思います。
皆さんご存知のアニメの「ちびまる子ちゃん」は1970年代の小学生で、私とほぼ同世代です。同級生の一人に花輪君という子がいます。執事が自動車で送り迎えし、夏休みや冬休みには海外で休暇を過ごすとても裕福な家の子です。しかし彼は、あまり裕福ではない家の子のまる子や、いかにも貧乏長屋の子といった「はまじ」たちと対等に接しています。自分の裕福な家庭環境を隠しもしませんが、その一方で自分もまる子たちも人として平等だと思っている感じです。まる子たちも花輪君をうらやましがることはありますが、卑屈にはなりません。
これが昭和の雰囲気です。令和の今より、ずっと人権や平等の意識、民主主義の理想などが強く存在していました。学級の係や委員を決める時も、担任の先生は男女平等を今より強く意識して指導していたと思いますし、「人は見かけよりも能力・人柄」という考えも強く、男女を問わず人の美醜を論評することは、少なくとも公式な場では憚るべきこととされていました(陰ではブスとかデブの悪口もありましたが)。これは敗戦・占領による民主化から20年~30年しか経過しておらず、その雰囲気がまだ残っていたからかもしれません。それが実現していたかはともかくとして、人権とか平等とかの理想や建前を今よりはっきりと言うことができたのが「昭和」でした。
これに対し今日の令和は、理想も建前も後退した本音丸出しの時代です。生まれた家庭の裕福さや親の社会的地位が子供の人生を決めるとする「親ガチャ」や、容姿に恵まれた者がそうでない者より優れているかのように振る舞う「ルッキズム」などが、批判されるでもなく「だってそれが世の中だろ。仕方ないじゃん」という妙な現実主義とともに横行しています。お年寄りを狙った「オレオレ詐欺」や「アポ電強盗」などは、昭和の悪人の皆さんも手口は思いつけたでしょう(なにしろ「3億円事件」をやってのけた人もいますし)。でもやらなかったのだと思います。ところが令和は、SNSで押し込み強盗の要員を募集すると素人の若者が躊躇なく集まってくる時代です。昭和に育った私から見ると、強いものの傲慢や横暴、差別が横行し、弱いものから奪うことを恥じない令和は、野卑で野蛮な時代に思えます。
今の日本では、経済も技術も世界水準から立ち遅れ、国民の間に格差と分断も拡がる一方ですが、その背景にはこうした精神の劣化があると思います。今こそ理想や建前をきちんと語れる「昭和」の精神を復活させるべきではないでしょうか。
1/10 三学期開始 & 読書案内始めました。
今週の8日(水)に始業式、9日(木)から通常授業が始まり、三学期が始動しました。
始業式の校長講話(「講話」というほどためになる話はできないんですが)では、本校の校長室には歴代校長の写真がないことを題材に話をしました。
上述のように本校の校長室には、校長室の必需品ともいえる歴代校長の写真がありません。通常だと写真が並んでいる場所には戸田翔陽高校初代(戸田高校から通算だと14代)の黒岩校長先生の書いた「一期一会」の色紙が一枚だけ掛かっています。
私が20年前に本校にいたときに、黒岩校長が「俺は写真を飾るのは嫌い」と言っていたのを覚えているので、「言ったとおりにしたんだなぁ」と思いますが、そうした理由は、きっとこの「一期一会」なのだろうと思います。「一期一会」とはもとは茶道の言葉で、人と一緒に茶を喫し語り合うその瞬間は、一回限り、一回勝負の真剣さで向い会うべきであるというような意味です。写真の額があれば、取り合えず「昔、そういう校長がいたんだな」という形は残せます(それを眺めるのも結構、面白いのですが…)。しかし写真はただの写真、かつて存在した人の抜け殻のようなものです。黒岩先生としては、そんな抜け殻にこだわるのではなく、校長として在任している間に、校長として何ができるか? ということに集中すべきだと考えていたのだろうと思います。
始業式では、生徒にその話から「毎日を一回勝負の真剣さで生きていきたいよね」と呼びかけました。
さて、そんなわけで私も校長として何かしなくてはならないと思うわけですが、昨年末から生徒向けに読書案内の配信を始めました。
私がこれまで読んできた本を生徒に紹介して、できれば読んでもらいたいというものですが、読まなかったとしてもこんな本があるんだ、と読んだようなつもりになってもらえればと考えています。それでいいのか?という方もいるでしょうが、私自身も新聞や雑誌の書評欄であらすじだけ読んで、読んだようなつもりになっている本が結構ありますので、それもありだろうと思います。大体2週間に一回くらいのペースで発信していきたいと思っていますが、少し遅れてこのブログにも載せていこうかなと思います。
1/6 年始御挨拶
皆様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
長かったはずの今年の正月休みも終わってみればあっという間でした(ふぅ)。特に私は先月27日の御用納めの後、28日の夕方からインフルエンザA型にかかってしまいました(年末に「皆さんお気をつけて」と書いたばかりなのに)ので、休み前半はほとんど何もできませんでした。
29日は一日中38~39度台の熱が続き大変でしたが、30日に年末ぎりぎりまでやっているお医者さんに駆け込んでインフルエンザ特効薬「ゾフルーザ」を処方してもらいました。インフルエンザウィルスのRNA複製を阻害し、体内のウィルスを消滅させる薬だという話です。
昔は風邪やインフルエンザというと、布団にくるまってビッショリ汗をかいて熱を下げたものです。大量の発汗で熱が下がった後のすっきりと脱力した感じが、台風一過の青空のようだったのを思い出します。
今回は特効薬のおかげで汗をかくこともなく、一晩寝たら31日の朝には完全に熱が下がっていました。科学の発達はすごいですね。しかし、このゾフルーザにも抵抗力を持つ耐性株のウィルスが発生してきているというのですから、自然の力も恐るべしです。
休み後半にはインフルエンザの隔離期間が終わったので、足慣らしを兼ねて上尾・二ツ宮の氷川神社に初もうでに行きました。この神社については前任校や前前任校の時のブログでも取り上げましたが、見事な浮彫のある本殿を持つ由緒正しい神社です。またここも大宮・高鼻の氷川神社の末社なのですが、埼玉県に住んでいるとそこら中にある氷川神社は、実は多くの謎を秘めた神社だったりします。この辺については昔まとめたので、よかったら下のリンクから読んでみてください。氷川神社.pdf
いつもは無人で社務所も拝殿の扉もしまっているのですが、この日はまだ正月三が日のうちとあって、初もうでの人影もちらほらと見え、なんと赤袴の巫女さんまでいました。私もしっかり祈願してきました。
12/27 年末御挨拶ほか
早いもので、今年もあと数日になりました。今日は昔風言いうと「官庁御用納め」というやつで、明日から新年5日まで公立学校を含むお役所は原則休みです。
生徒の方はすでに25日から冬季休業に入っていますが、24日の終業式では「何を頑張ったかは、人それぞれですが、今、終業式の時にここにいるということさえも一つの成果です。冬休みには少しゆっくりできるでしょうから、2025年は何を頑張るか目標をたてましょう」という話をしました。
今日の日本の状況の中で、明るく前向きに生きていくというのは、生徒たちのような若者にとってなかなか大変なことだと思います。戸田翔陽の生徒たちには、しっかり勉強して真っ当に生きていく人に成長してほしいと思います。
それはさておき、今年の冬至は12月21日でした。クリスマスは25日、当たり前ですが大みそかは31日、新年は1月1日です。毎年考えるのですが、これらを一致させられないものかと。つまり、冬至を1年の終わり(12月31日)になるようにし、ついでにクリスマスイブもこの日に揃え、次の日を1月1日とするのです。なぜそうしたいと思うのかは、以前に別の学校のブログ(暦について抜粋.pdf)に書いたので、時間のある方はご覧ください。そうするとすごくすっきりすると思うのですが。
今年は久しぶりに寒い冬のようです。インフルエンザも流行しているとかですので、皆様、年末年始もお体御自愛ください。
12/20 落語鑑賞会、とても楽しかったですね。
すでに広報部の方でも投稿されていますが、昨日、今年度の芸術鑑賞会として、真打の三遊亭道楽師匠、同じく三遊亭朝橘師匠、二つ目の三遊亭らっ好さんの三方をお招きして、落語を鑑賞しました。(師匠と呼ぶのは真打の方だけだそうなので、らっ好さんだけ「さん」とさせていただきました。)
道楽師匠の御挨拶をいただいた後、朝橘師匠とらっ好さんのテンポの良い掛け合いによる「落語入門」、「落語体験」と続き、みんなの気分がすっかり盛り上がった後、古典落語3本を聞きました。
らっ好さんの「つる」は、日々精進に努められている若手の落語家さんらしく、とても丁寧に演じられていて、笑うべきところでしっかり笑わせてもらいました。
次の朝橘師匠の「荒茶」は、関ケ原の合戦前夜に徳川家康の軍師本多正信が、豊臣家の家臣を取り込むために茶会を開く、という講談の演題を元にした落語です。私は他の方の「荒茶」を聞いたことがないので、朝橘師匠が、どの程度自分流にアレンジしたのかわかりませんが、重厚な豪傑なのにどこか間抜けな加藤清正とか、目立ちたがりで脳筋な福島正則とかのキャラクターが見事に演じ分けられていて、歴史好き・戦国時代好きなら思わずニヤリとしてしまう感じで、とても楽しめました。
トリの道楽師匠には古典の「牛ほめ」を風格たっぷりにお話いただきました。「牛ほめ」には、今の高校生にはわからないような言葉(たとえば「其角の発句」とか「秋葉の火伏の札」とか(注))も結構出てくるので、ちょっとむつかしいかな?と思ったのですが、道楽師匠の落語の巧みさに引き込まれて、なんとなく伝わるのか、生徒たちは大爆笑をしていました。
おりからの寒さを吹き飛ばすような熱気の楽しいイベントでした。
(注)
「其角の発句」 松尾芭蕉の弟子の宝井其角の俳句のこと。
「秋葉の火伏の札」秋葉神社のお札は、古くから火事の予防(火よけ・火伏)に御利益があるとして有名。ちなみに総本社は静岡県浜松市ですが、さいたま市西区中釘の秋葉神社も関東総社として高い格式を誇っています。
12/17 学期末 & 寝ながら考えたこと(2)他
学校の方は期末考査・答案返却も終わりました。今週から来週にかけでは昨日の食育講演会のような普段はできない様々な講演や芸術鑑賞などの行事が続きます。
今日の朝、自宅を出ると朝焼けの残る西の空に残月と電柱に止まったカラスがなかなかいい風景を作っていました。
スマホのカメラなのでこんなものですが、冬らしく透明な空や複雑に絡み合った電線のシルエットもいい感じです。欲を言えば本格的な望遠レンズで月をもっと大きく写したかった気がしますが…。
さて、私は先週に引き続き、この土・日(14・15日)も風邪がぶり返して寝込んでしまいました。そこで寝ながら前回の大阪城に続き、今回は戦国時代の戦いで各大名が動員した兵力はどれくらいだったのか、などということを考えました。
たとえば関ケ原の戦い(1600年)では、諸説ありますが、東西両軍あわせて15万人を超える兵力がぶつかったとされています。この数について、私はそんなに動員できたのだろうか? と疑問に思っているわけです。
こういう議論をするときによく出てくるのが石高1万石=軍役250人という目安です。これは明治時代の陸軍参謀本部の戦史研究の中から出てきた数字だそうです。税率が5公5民(50%)だとして、石高1万なら税収は5000石、米1石は人1人の1年分の消費量だそうで、5000石なら5000人分の食糧です。その5%の250人の軍役は確かに可能そうです。しかし、食料が足りればいいという問題ではないでしょう。
一つ目は隊列の問題です。10万人の軍がいたとします。2列縦隊で前後1m間隔で行進すると隊列の長さは5万メートル=50㎞になります。もっと詰められるのではと思うかもしれませんが、私はこのくらいが限度だと思います。横に何列並べるかは道幅によりますが、現在各地に残っている江戸時代の宿場町では普通自動車のすれ違いがやっとのところが多いようです。戦国時代の街道もそんなものだったとするとせいぜい3m~4mくらいでしょう。電話も無線機もない時代、道の片側は前後を連絡する伝令のために開けておきたいので、道幅一杯には広がれません。前後の間隔も、刀や槍などの携行武器がぶつからないようにするためには、ある程度広くとる必要があります。
次は補給や宿泊の問題です。当時の兵隊は各自、糒(ほしいい)などの携行食料を持っていたという話ですが、自分で持てる量で長期間の行動は不可能でしょう。昔の日本人は1人1日3合(約450g)の米を食べたという話なので、米だけに換算しても10万人だと1日4.5トン必要です。この量を上記のような道路事情で輸送し、間違いなく配給するのは大変です。道中の農村から調達(略奪)するとしても、隊列が50kmもありますから、先頭の部隊が立ち寄った村に後続の部隊が行っても、もう食料がないわけです。毎日、どの部隊がどの村で調達(略奪)するかの計画を細かく立てる必要があります。夜も全部隊が野天で野宿というわけにもいきませんし、衛生(トイレ)問題も大変です。食事中の方がいたら恐縮ですが、10万人がそこら中で大小の用をたしたら、その街道はどうなってしまうのでしょう…。
さらに言えば、ずっと後の戊辰戦争の時は、最大の戦いであった鳥羽伏見の戦いでも、兵力は両軍合計で1万5千人くらいです。江戸時代の長い泰平で各藩とも軍縮が進んでいたこともあるのかもしれませんが、定期航路による輸送網が全国に発達し、さらに蒸気船などによる支援もある時代の戦争でも戦いの規模は数千人単位でした。
これを考えると戦国時代の合戦で何万人もの軍勢というのは、ちょっと信じがたいなと思うのです。
インターネットでは「中国の戦国時代(紀元前5~3世紀)と比べると日本はスケールが小さい」みたいな意見が聞かれます。たとえば紀元前262~260年に秦と趙が戦った長平の戦いでは、両軍で100万を超える兵力がぶつかり、敗れた趙の兵隊20万人が生き埋めにされた、とか書いてありますが、それこそ信じられません(20万人もの捕虜がおとなしく埋められるとは思えないですし…)。現在、長平の古戦場からは「生き埋め」の話を裏付けるかのように大量の人骨が発見されているそうですが、その遺骨の数を調べてみたりすれば、その辺の真偽が明らかになるかもしれません。
12/13 寝ながら考えたこと
本日2本目の更新です。実は私、修学旅行から帰った後、風邪を引き、今週の初めは寝込んでいました。寝ているとやることもないので、いろいろと不要不急なことを考えてしまいますが、その時、考えていたのが修学旅行で見てきた大阪城は、「一体どうやって作ったのだろうか?」ということです。
「どうやって」と言っても大型の機械などない時代ですから、人が手で持つ道具で作ったに決まっています(私はピラミッドは宇宙人や魔法使いが作った的な考え方はしませんので)が、どれくらいの人数でどのくらいの期間かければ、あんな広大で堅固な城を作れたのか? ということです。
大阪城は南北の差し渡しがそれぞれ約1Kmで、外周だけでなく堀が二重・三重になっているため、石垣や塀の延長は10km前後はあると思います。石垣も雑然と石を積み上げたものではなく、ぴったりと石を切り合わせた精緻な作りです。石を積む作業そのものは農民や足軽などを動員するとしても、監督・指導には熟練の石工が何百人も必要でしょう。石垣の中に立つ建築物も巨大な木材を使った重厚なもので、大変高度な技術の産物です。素人をかき集めてどうにかできるようなものではありません。何百人、何千人という腕のいいとび職や大工さん、左官屋さんなどが必要でしょう。
ネットで調べたらゼネコン大手の大林組が現代技術で大阪城を作ったらどうなるのか試算した結果というのがありました(https://www.obayashi.co,jp/kikan_obayashi/upload/image/016_IDEA.pdf))。それによると、石垣等の土木工事に工期32か月、天守閣や櫓などの建築工事に工期69か月、単純に工期を合計すると101か月(約8年半)。かかる人工(人数×日数)は木造で復元した場合は約88万(これは建築工事分だけ?)となっています。
現在の大阪城は、豊臣秀吉が作った大阪城が大阪夏の陣・冬の陣で完全に破壊された後、徳川幕府が一から作り直したものです。この時かかった工期は1620年から1629年にかけての約9年から10年であることがわかっています。現代技術を使った試算と1年くらいしか違わないのですから、これはすごいことです。動員された労働者については、ちょっと調べられませんでしたが、整地や石垣積みなど土木工事をすべて人力でやるのであれば、建築部分と合わせて200万とか300万とかのスケールで人工が必要でしょう。「人工」は人数×日数なので、同時に働いている人数はもっと少ないはず(一人の人が何日も働くので)ですが、それでも同時に何千人も働いていたと思います。
そしてこのように技術者・労働者を動員すれば、建築資材、衣食住の提供も膨大で現代で言うところの物流管理も重要になってきます。ソロバンと帳面だけでこれらをどうやって成し遂げたのか、考えるだけで気が遠くなりそうです。
しかし、このことについて私が考えた一つの可能性は、現代の我々は、便利な機械や技術に頼って、自分たちの能力に勝手に限界を設けてしまっているのかも知れない、ということです。本来の人間の能力は我々が思うよりずっと高く、ピラミッドもストーンヘンジもモアイ像も、我々が忘れてしまった知恵やコツがあれば、案外、簡単に作れてしまうのかもしれません。
(追記) 上の大林組による試算のレポートは、専門的な工法や詳しい見積もりも載っていてとても面白いです。大林組は大阪城の復元天守閣を施工した会社なのですね。復元天守閣はコンクリート造りのビルなのですが、昭和の初めに建てられ、もはやそれ自体が歴史的な価値をもつので、国の登録文化財になっています。復元とは言え細かいところまで作りこまれたきれいなお城だと思います。
12/13 異文化体験授業に参加しました。
韓国語の授業の一環として、異文化体験を実施したことについては、すでに広報部の方で掲載済みですが、(韓国語Ⅰ・体験授業!!)昨日、Ⅱ部とⅢ部で行われた体験授業(のⅡ部の方)に私も飛び入り参加しました。(写真。別に顔を隠す必要もないんですが…)
李氏朝鮮時代の王様の装束(袞龍袍)で、昔、うちの家族がよく見ていた韓国ドラマ「チャングム」や「イ・サン」でおなじみの格好です。すっかり「私のことは大王様と呼んでね」という気分でしたが、この衣装のベルトが古代日本のものにそっくりであることに感慨深いものを感じました。
下の写真は千葉県松戸市の小野遺跡から出土したもので、帯は腐食してなくなっていますが、金具と装飾板は残っています。バックルの形式は違いますが、上の衣裳のものとよく似ていることがわかると思います。(写真は「文化遺産オンライン」のページから借りました。著作権的に問題がある場合はご連絡下さい。)
なぜ、このような類似があるのかというと、これらはいずれも中国に源流があるからです。
中国で三国~南北朝の数百年にわたる戦乱が終わり、強大な隋・唐帝国が成立したころ、周辺に当たる朝鮮や日本でも国家形成が進みました。これら周辺国では中国と交流し文化や制度を取り入れましたが、服装の制度についても、各民族の独自性を盛り込みながらも基本的には、中国風のものを整えました。上の写真のベルトはまさにその時代のものです。
中国とは海を隔てつかず離れずの交流をしていた日本では、その後、中国文化の影響を受けながらも自分流にアレンジして日本文化を形成し、服装もどんどん変化して和服が作られていきました。しかし、それでも貴族の正装の束帯には、石帯を締める形が残っています。
一方、朝鮮半島は中国と地理的に近かったので、各時代により強く中国の影響を受けました。上の李氏朝鮮王国時代の王様の服装(袞龍袍)も、中国の明の時代の服制に準じたものです。
このような違いはありますが、日本も韓国も東アジア文化圏の一員です。親子兄弟でも時にケンカをすることがあるので、いつでも仲良く、とはいかないかもしれませんが、近隣の諸国とは基本的に良好な関係を保っていけるといいなと思います。
12/7 さすがに疲れました…修学旅行最終日
帰宅してすぐにブログ更新をする元気がなかったので、翌日になりましたが、修学旅行の記事を一応最後まで。
最終日の12月6日は、大阪市内班別見学です。
宅配してもらう荷物をトラックに積んだら出発です。
生徒の皆さんが出発したら先生方は大阪市内に分散して巡回です。私は大阪城公園の方に行きました。途中何組かの翔陽生に出会いましたが、あまり大勢ではありませんでした。道頓堀とか心斎橋の方に行った人が多いのかもしれません。
ここからはちょっと史跡巡りになります。大阪城には昔も来たことがあるのですが、今回改めて見て、その大きさと堅牢さにびっくりします。今残っている大阪城は豊臣秀吉が作ったものではなく、豊臣氏を滅ぼした後に徳川幕府が立て直したものですが、戦国時代を通じて発達した築城技術の頂点を感じます。巨大な石材を精密に組み合わせた石垣も見事ですし、石垣の裏側の兵隊を伏せさせておくための階段を見ても、城が軍事施設なのだということがよくわかります。
それを見て考えたのが、15代将軍徳川慶喜公のことです。慶喜公は鳥羽伏見の戦いで幕府軍が薩長軍に破れた後、大阪城を放棄して江戸に引き上げました。このことについて大阪城で戦えば勝てたのではないか、と慶喜公の弱腰を批判する人がいます。しかし私は慶喜公のその後の身の処し方などから考えて、慶喜公はこの堅固な大阪城で戦って戦争が長期化することを避けたのではないかと思います。
当時の薩摩や長州の後ろにはイギリスがくっ付いて武器や技術の支援をしていましたし、幕府にはフランスが接近して援助を申し出ていました。慶喜はイギリスやフランスの支援を受けて内戦をやった挙句、これらの国の植民地になってしまう危険を考えたのでしょう。臆病の批判を受けることを承知で日本のために決断した立派なリーダーだったと思います。
場内にある豊臣秀吉を祭る豊国神社にやってきました。巨大な銅像は秀吉だそうですが、私的にはちょっとマッチョすぎる気がします。
私のイメージだと秀吉は、武芸よりは頭脳で勝負する感じの細身で小柄な感じなのですが。
織田信長から「サル」の愛称で呼ばれた秀吉にちなんでか、境内に猿回しの芸人さんが来ていました。おサルさんが妙に哲学的な雰囲気を漂わせています。
集合場所の新大阪駅にみんな帰ってきました。「お疲れさまでした。」
東京駅に着いたところで解散です。週末はゆっくり休んで、また月曜日に会いましょう。
12/5 修学旅行も山場です。
修学旅行の二日目は、いよいよ今回の山場、USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)です。
下を歩く人の頭上をかすめるようにジェットコースターが疾走し、ゲスト(来場者)の歓声(悲鳴)が響き渡るところなど、東京の方の有名なランドとは、また異なった趣きを感じます。
平日なのにとても賑やかで、まるでお祭りのようです。
私なんかはもともと人混みが苦手なので、賑やかさと楽しさのエネルギーに当てられてへとへとになってしまいましたが、生徒のみんなは満足してもらえたでしょうか。
(おまけ)ゲストの食事やおやつのおこぼれをもらえるせいでしょうか、USJのすずめはフクフクに太っていてとてもかわいいです。
12/4 修学旅行1日目
今日は修学旅行の1日目でした。旅行の様子は公式インスタグラムの方にもどんどんアップしていますし、年次の方でもWEBページにあげると思います。そちらもぜひ見ていただきたいのですが、それはそれとして、こちらにも私視点で掲載します。
新幹線のぞみで出発です。集合時間が早かったのに、ほぼ定刻通りに行動できました。いいスタートになりました。
Ⅰ部帯のクラスは時間調整をかねてポートタワーで記念撮影をしました。低い塔ですが赤い支柱が青空に映えて美しいですね。この形は鼓をイメージしたものだそうです。
次に「人と防災未来センター」へ行きました。時間が押して駆け足になってしまいましたが、災害への備えを考えさせられる施設で、生徒からは「もっとじっくり見たかった。」などの声が聞かれました。
午後の後半は市内自由見学です。私はまず豚まんの元祖と言われる老舗「老祥記」の豚饅頭を食べに中華街へ。
小振りな豚まんですが、濃厚な味で美味です。お値段も5個600円と観光地らしからぬリーズナブルなものでますます良いですね。
その後は北野の異人館の方へ、
煉瓦塀の続く趣きのある路地があったり、
洋館の玄関の屋根に置物のような猫がいたり、ぶらぶらしながら、有名な風見鶏の家(トーマス邸)まで行きました。
宿に帰って夕食です。バイキング形式でしたが、量も味も前任校で行った某有名ホテルよりずっと上で生徒の皆さんも満足できたのではないでしょうか。
大きなケガや病気もなく1日目は終了です。
12/3 明日から修学旅行 & コラッツ予想
明日から2年次生は修学旅行で阪神方面へ行きます。私も「団長」ということで、一緒に行きますので、旅行中の様子もできたらこのブログで報告したいと思います。いつもと違う場所でいつもと違うものを食べたり、経験したりできるのが旅行の魅力ですから、二年次生の皆さんは大いに楽しんできてほしいと思います。
さて、本日の2題目です。明日から旅行に行くぞ、という以外に今日はあまりネタがないので、前回のモンティ・ホール問題につづいて、もう一つ数学パズル的なネタを書いてみます。
数学でまだ未解決の問題の一つに「コラッツ予想」というのがあります。
「どんな整数(任意の整数)でも、偶数の(2で割り切れる)ときは2で割る。奇数の(2で割り切れない)ときは3倍して1を足す。この計算の結果にまた同じ操作を繰り返す。何回か繰り返せば必ず1になる。」
というものです。試しにやってみると、たとえば「5」なら、5→16→8→4→2→1 と5回の計算で1になります。しかし、これが本当にすべての整数で成り立つかどうか? ということが、まだわかっていないのです。
現代にはコンピュータがあるので、10数行の簡単なプログラムで上の計算を試してみることはできます(私もやってみました。下記参照)。しかし具体的な数字でどれだけ計算しても、もしかすると例外があるかもしれません。どんな数でも例外なく1になるということを理屈で説明できないと、数学的な証明とは言えません。
なにしろ小学校で習う四則計算しか使われていない問題なので、中学校や高校で数学が得意だった人なら、「任意の整数を文字であらわして数式を書いていけば、すぐ証明できるのでは」と考えるかもしれません。ところがこれが80年以上にわたって解決していないのです。
この問題には日本の企業の1億2千万円をはじめ、たくさんの懸賞金がかけられているので、もし解決できれば大金を手にすることができます。しかし、高々数億のお金よりも(お金も欲しいですが)数学の歴史上に不朽の名声を残せるという方が魅力的ですね。
(おまけ)下記はPythonで作った任意の整数についてコラッツ予想が成り立っているかを計算するプログラムです。計算したい数字を入力すると、途中経過と計算にかかったステップ数を表示します。GoogleColaboratoryなどのサービスを使えば、ブラウザー上で動かすことができますので、よかったらいろいろな数字を試してみてください。(あまり大きな数だとメモリオーバーでフリーズしてしまうかもしれませんが。)
##コラッツ予想の計算をするプログラム
n0=input("整数を入力")
n1=int(n0)
c=0
while True:
if n1%2==0:
n2=n1/2
n1=n2
c=c+1
else:
n2=n1*3+1
n1=n2
c=c+1
print(int(n1))
if n2==1:
print("回数" ,c)
break
11/27 モンティ・ホール問題(解答編)
前回の解答です。正解はマリリンの言う通り「変えた方が得」です。
こう書くと、「なんで!? 1つが外れのドアが分かっていて、残り2つのうち1つがあたりなんだから、正解の確率は50%。どっちを選んでも同じなのだから、変えても変えなくても同じはず。」と思った方も多いのでないでしょうか?
これはマリリンに反対した多くの人(数学の専門家含む)の意見と同じです。しかしこれは間違いです。それはなぜか? という説明はネット上にたくさんありますが、どれもわかりづらいですね。私の感覚では、この問題は理系的に数式を使うより、ゲームの流れに沿って物語的(文系的)に説明した方が、すっと理解できるように思います。
上のように当たりのドアがAだったとしましょう。その場合のゲームの流れは下の3パターンです。
①観客がAを選んだとします。観客が選んだドアを開けると勝ち負けがわかってゲームが終わってしまうので、モンティはAを開けることはできません。BとCのどちらかを開けることになります。この場合、観客はAのまま変えないか、モンティが開けなかった方(Bを開けたらC、Cを開けたらB)に変えるかを選べますが、変えなければ当たり、変えれば外れです。
②観客がBを選んだとします。観客が選んだドアを開けると勝ち負けがわかってゲームが終わってしまうので、モンティはBを開けることはできません。当たりのAも同じ理由で開けられないので、モンティはCを開けることになります。この場合にCは外れなので、観客はBのままで変えないか、Aに変えるかを選ぶことになりますが、変えなければ外れ。変えれば当たりです。
③観客がCを選んだとします。観客が選んだドアを開けると勝ち負けがわかってゲームが終わってしまうので、モンティはCを開けることはできません。当たりのAも同じ理由で開けられないので、モンティはBを開けることになります。この場合にBは外れなので、観客はCのままで変えないか、Aに変えるかを選ぶことになりますが、変えなければ外れ。変えれば当たりです。
このように「変えたとき」に外れるのは最初にAを選んでいたときだけです。最初にBとCを選んでいた場合には、変えれば当たるので、変えたときに当たる確率は2/3、外れる確率は1/3で、変えた方が得です。
これは正解のドアがBやCであっても、文字が入れ替わるだけで同じことです。自慢じゃありません(と言いつつ自慢です)が、私のこの説明の書き方が、一番わかりやすいんじゃないかと思います。
筋道通りに考えればすぐに理解できるのに、数学者の中にはこの結論に納得がいかず、コンピュータシミュレーションで何億回も試行して検証した人もいたそうです。人間って面白いですね。
11/25 モンティ・ホール問題
先日、「情報」の授業を見学しに行ったところ、その中で「モンティ・ホール問題」に触れていました。
この問題については、前々任校の時にブログに書いたことがありますが、もう削除されてしまっていますし、また自分でも時々おさらいしないと忘れてしまうので、備忘録のようなつもりでまた書いてみます。
この問題ですが、モンティ・ホールというのは昔、アメリカで人気があったテレビ司会者です。彼の番組に、観客が舞台に上がり、3つあるドアから高級車の入ったドアを当て、当たれば車がもらえる、というコーナーがあったそうです。
そのコーナーでは、まず観客は3つのドアから一つ選びます。
その答えを聞いた後、司会者のモンティが外れのドアを1つ開けて教えてくれます。
ここでモンティは観客に、「選んだドアを変えてもいいですよ。変えますか?」と尋ねます。
さて、ここでドアを変えたほうが得なのか、否か? というのがモンティ・ホール問題です。
1990年に、当時アメリカで天才として有名だった女性マリリン・サバントの「マリリンに聞け」という新聞コラムに、読者がこの問題について質問したところマリリンは「変えた方が得」と答えました。
それに対し、数学の専門家も含むたくさんの人たちが、「変えても変えなくても、確率は同じ、マリリンは間違っている」と反論しました。中には「やはり女性は頭が悪い」と差別的な批判をした人もいたようです。
さて、マリリンと批判した人たちのどちらが正しかったのでしょうか? 皆さんはどう考えますか? というところで次回へ続きます。暇な人は考えてみてください。
11/19 月夜・失われつつあるものなど
昨日の帰宅時に東の空を見るとちょうど月が昇ってくるところでした。とりあえずスマホのカメラで撮った写真がこれです。
月は露出オーバーで滲んでいるし、デジタルズームと増感の影響でザラザラに粒子が荒くなっていますが、たなびく雲がまるで昔の中国の屏風絵のようですし、手前の傘を持った人のシルエットもちょっと不思議な感じで、なかなか面白い写真になりました。
さて、話は全く変わりますが、先日、ちょっと用事があり久しぶりに秩父鉄道に乗りました。東行田で降りたのですが、いつの間にか無人駅になっていました。帰りに熊谷の駅で聞くと、秩父鉄道はほとんど無人駅になってしまったとのことでした。数年前にSUICAが使えるようになって、秩父鉄道も近代化したな、と思っていたのですが、それは無人化の前触れだったのですね。
それに伴いなくなりつつあるのが、硬い紙の切符(硬券)です。今あるものを売り切ったらもう新しいものは作らないようなので、記念に1枚買っておきました。私が小さい時には、切符と言ったら硬券で、窓口で「○○まで子供1枚」と言うと、駅員さんが行先、金額別に斜めに切符がさしてあるフォルダーから引き抜いて渡してくれました。なお、子供用の場合には、はっきりわかるように切符の「小」と書いてあるところの斜め線をハサミでチョキンと切ってくれました。駅にある切符フォルダーがかっこよくて好きだったのに、もうすぐ見られなくなりそうです。
なくなりつつあるといえば、日本といわず海外といわずなくなりつつあるのが「建て前」を守る精神です。なんとなく世の中では「建て前ばかり言うな」とか「本音で生きろ」のように、「建て前」というのは悪いもののように言われています。しかし、私は「建て前」を守ってこそ、人は立派に生きられるのだと思います。
たとえば、人を人種や肌の色で差別してはいけないという「建て前」や人の物を盗んではならないという「建て前」は守らなければなりません。ところが近年は、日本でも海外でもそういう建て前を踏みにじり、言いたい放題、やりたい放題、自己都合丸出しの人がまかり通る世の中になりつつあるようです。従来は洋の東西を問わず、本音(欲望や感情)をコントロールし、建て前(公益や理性)と両立できる人が立派な人として尊敬され、そうなるために人は学問や修養を積むべきだとされてきたはずです。やはり人間は、「あるがまま」「そのまま」ではだめだと思うのですが。
11/7 後夜祭(2)花火!
今年の翔陽祭は開校20周年ということで、後夜祭で花火をあげました。
予算の関係もあり、そんなにすごいものではないだろうと思っていたのですが、ところがところが予想外にすごかったです。距離が近いせいもあるのでしょうが、本校上空に大輪の花が次々と開いて、感動しました。花火屋さんはかなりサービスしてくれたのでは…。ありがとうございます。
スマホのカメラなので、今一つすごさは伝わらないかと思いますが。とりあえず写真を上げておきます。
11/7 翔陽祭、大詰め
先週から休みを挟んで開催されている翔陽祭も、今日の体育祭と明日の総合閉祭式を残すのみです。
今日の体育祭は北風は冷たかったものの、雲一つない青空となりました。100m競争や対抗リレーのようなガチな競技から、大玉運びや障害物競走のような色物競技まで、熱戦が繰り広げられました。それにしても今日は光が強く澄んでいて実に写真日和でした。本日のベストショットはこれです。
本日の大トリ、男子対抗リレーです。バトンを振り上げてゴールをする瞬間の影が面白くとれました。
ちなみに今これを書いているすぐそばの中庭では、土曜日に雨で延期になった中夜祭を後夜祭に改めてやっています。参加自由なのに、たくさんの人が残って盛り上がっています。周囲が暗くなっているとネオンも照明も映えますね。やはり文化祭は秋が深まってからがいいですね(ちょっと寒いですが…)。
11/1 20周年記念行事・翔陽祭始まる・憧れの苔玉
今日から翔陽祭が始まりました。
今日と明日(要事前予約)の文化祭、来週の体育祭を合わせて翔陽祭です。熱く楽しい1週間になると良いのですが。
翔陽祭の開催式に先立って、本校の20周年記念行事を行いました。本校が平成17年4月に埼玉県で初めての「パレットスクール(多部制・単位制総合学科)」として誕生してから今年でちょうど20年です。第2代から第7代まで歴代の校長先生が、お祝いに駆けつけてくれました。初代の黒岩校長先生だけは、すでに亡くなられているので御招待できませんでしたが、私が以前、教員として本校に勤めていた時に直接ご指導いただいた校長先生でしたので、あまりに早い御他界が惜しまれてなりません。
翔陽祭開催式では、有志による合唱や軽音楽部のバンド演奏などに加え、教員バンドの参加(写真下)もあり、大いに盛り上がりました。
文化祭の校内公開では、お隣の戸田かけはし高等特別支援学校のお店で苔玉を購入しました。私は子供の頃から、盆栽とかつりしのぶとか、苔玉などのようなものが大好きで、苔玉は憧れのアイテムでした。小学校低学年のころ仲が良かった友達の家にたくさんの盆栽があって、遊びに行くと何かして遊ぶより、見事な盆栽を見る方が楽しかったのを思い出します。
そのころ(小学校低学年)の私の夢は、一日も早く定年退職して盆栽や苔玉づくりでもしながら、のんびり引退生活をすることでしたが、実際自分が還暦を過ぎてみると、どうもそういうわけにはいかない感じになってきました…。せめて今日買った苔玉を心の友として大事にしたいと思います。