忙中閑あり~校長室より
2/12 もったいないお祭り
一昨日(10日)の夕方、私用で東京・虎ノ門の金毘羅宮の前を歩いていると、境内の神楽殿で月次祭の神楽を奉納していました。
せっかくなので私もロウソクを献納して参拝してきましたが、こんな立派な衣裳をつけて神楽を舞っているのに見ている人が数人しかいませんでした。
前任校のブログで紹介しましたが、虎ノ門の金毘羅宮は樹木が生い茂る境内にいきなり高層オフィスビルが建っていて、社務所はビルの1階、この神楽殿は地下駐車場の入り口の上に立っているという過去と現代が交差する面白い神社です。官庁・オフィス街のど真ん中なので、近所に住んでいる一般住民の氏子さんはあまりいないのかもしれませんが、せっかくの神楽を見る人が少ないのは、とてももったいない話です。
さて、昨日は「建国記念の日」でした。一歩間違えると炎上必須の超危険な話題であることは承知していますが、ちょっとだけ書きます(以下は埼玉県教育委員会や戸田翔陽高校の意見ではありません。)
現在2月11日が「建国記念の日」となっているのは、初代の神武天皇が即位した日付を、日本書紀では「辛酉年 春正月庚辰朔」としており、これを計算すると、紀元前660年の2月11日となるからです。この記述については「辛酉の年には王朝交代(革命)が起きる」とする中国の讖緯説の影響を受けているというのがもっぱらですが、今回話題としたいのは、建国に先立って神武天皇が九州の日向から畿内の大和へ攻め上ったとされる「神武東征」についてです。
私も地歴科の教員の端くれですが、私個人としては、この「東征」は何らかの歴史的事実の反映ではないかと考えています。
理由はいくつかありますが、第1に東征のルートや行動が合理的で現実味が感じられることです。神武天皇の一行(軍)は、九州の日向(宮崎・鹿児島)を出た後、豊の宇佐(大分)、筑紫の岡(北九州)、安芸(広島)、吉備(岡山)などに立ち寄り、場合によっては何年も滞在してから畿内にやってきます。これらはいずれも古代に有力な勢力があったところで、それらを一つずつ攻略したり味方に引き入れながら、進むのは理にかなっています。また、畿内に着いてからも、最初は大阪湾に上陸しようとしてニギハヤヒ、ナガスネヒコら大和の現地勢力によって撃退されてしまい、紀州の熊野から吉野地方へと迂回して背後から大和を攻めます。この正面攻撃失敗~迂回作戦へ切り替えという軍事行動もリアルで、この話を全くの空想とするのはむつかしいと思うのです。
第2の理由としては、昔の人にこの話を創作すべき理由などなかったのでは、ということです。もし古事記や日本書紀が大和王権の正当性をアピールしたいのであれば、何も天皇家が九州から攻め上って大和を征服した話など書かずに、天皇家は最初から大和にある天の香具山あたりに降臨したような話にしておいた方が簡単です。それがそうなっていないということは、古事記や日本書紀が書かれた時代には、一般の人たちにも「神武東征」の記憶が残っていて、それを覆い隠すのが無理だったからではないでしょうか。
第二次世界大戦のあと、戦前の皇国史観への反省から古事記や日本書紀の神話が徹底的に否定されていた時代がありました。私は、古事記や日本書紀に書いてあること(特に神代の部分)が、すべて歴史的事実とするのは困難ですが、そこにある程度の歴史的事実が反映しているものと見て研究すべきだろうと思います。
2/10 春の気配 & 読書案内配信しました。
先週、ふと気がついたら校長室前の植栽の紅梅がきれいに咲いていました。
この紅梅は、現在本校で行っている道路拡幅工事に伴い、最近植えられたものなので、どこかもっと暖かい地域で育てられていたものかもしれませんが、春の兆しを感じます。
さて、生徒向け読書案内の第7回を配信しました。ほぼ週刊ペースですが、生徒に勧めたい本にそんなに代わりはないので、前任校の時の案内の書き直しも結構あり、完全新作はいまのところ半分くらいです。
今回紹介したのはトレヴェニアンの「シブミ」です。日本文化をこよなく愛し、日本精神の真髄を追求するドイツ系ロシア人の殺し屋ニコライ・ヘルが主人公で、その行き過ぎ気味の日本愛から日本ではイロモノ扱いされていた作品ですが、現在のいろいろな面で地に落ちた日本の状況から見ると、高潔なニコライ・ヘルの精神を逆輸入したい気がします。よかったらみなさんも読んでみてください。こんなものを読んできた7HP.pdf
2/3 祝!打ち上げ成功 & でも壁が…
生徒向けの読書案内「こんなものを読んできた」(5)と(6)を配信しました。(5)では日本のSF「なめらかな世界と、その敵」、(6)では海外SF「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を紹介しました。
こんなものを読んできた5HP.pdf こんなものを読んできた6HP.pdf
さて今朝、日本のH3ロケット5号機が打ち上げに成功したというニュースをやっていました。今回の打ち上げではGPS衛星の「みちびき」の軌道投入に成功したとのことです。GPS衛星は非常に高い軌道に正確に打ち上げる必要があるので、技術的に難度の高いミッションです。日本の宇宙技術の高さが健在であることが示されたのは、宇宙やらロケットやらが好きな私には、大変おめでたく気持ちのいいニュースでした。
とはいうものの、宇宙には私が子供のころから感じている憂鬱な壁があります。
それは、何かというと「光速の壁」です。ご存じの通り、宇宙では光より早いものはないということになっています。宇宙は広く星々への距離は光の速さでも何年もかかるほど遠いので、SF小説で描かれているように自由に星の世界を飛び回るためにはこの「光速の壁」を越えなくてはなりません。
従来の多くのSF小説ではこの光速の壁を越えるために、一瞬で空間を飛び越えるいわゆる「ワープ」のような技術を仮想していました。しかし、このような技術が実現できる可能性は極めて低いと思います。そうなると、光速を越えないスピードで宇宙を旅するしかないわけです。これだと一人の人間の寿命のうちに太陽系外の星へ行って帰ってくるのはほとんど無理そうです。
私は自分たちはともかく、未来でも人類が太陽系に閉じ込められていて、SFのように自由に宇宙を飛び回ることができない、というのが本当に嫌でした。
しかし近年になり、太陽のように惑星を持つ恒星は、昔考えられていたより沢山あり、中には地球とよく似た惑星を持っているものもありそうだということがわかってきました。上で紹介した「プロジェクト・ヘイル・メアリー」もそういう最近の成果を取り入れた小説で、主人公が目指すのは地球から12光年(光のスピードで12年かかる距離)しか離れていないタウ・セチ星系です。これくらいの距離なら光速に近いスピード(亜光速)が出せる宇宙船が作れれば、早く飛ぶ宇宙船上では時間がゆっくりになるという相対論的効果もあるので、人間の一生のうちに往復できそうです。
しかし、これも実際にはなかなか困難です。なにしろそんなスピードまで加速するには莫大な燃料が必要で、そんな量を積める宇宙船は作れそうにありません。今朝、打ち上げに成功したH3ロケットでも巨大な機体のほとんどは燃料タンクで、宇宙に行くのは先端の小さなカプセルだけです。それでもようやく地球から3万~4万㎞程度の軌道までしか行けません。
これまでに人類は月まで行きましたが、これは地球や月の引力を使ったスイングバイという方法によるものです。この方法では光速に迫るような加速は不可能です。この方法でも地球の隣の火星くらいまでは行けるかもしれません。しかし火星まででも片道数年という長い飛行が必要で、食料や水の確保、乗組員の士気や人間関係を保てるのかなどの問題があります。
この「人類が地球から出るのは容易ではない」という事実は、今はまだあまり問題ではないでしょう。しかしこの先人類の文明が発展を続けることができれば、いずれはこれが壁として立ちはだかります。その時に、未来の人たちはどうするのでしょうか? 人類はSF小説のように宇宙にまで広がっていくのか、それとも地球に封じ込められたまま終わるのか、とても興味深い問題です。
1/21 読書案内4号 & 余計な心配
生徒向け読書案内の4号を配信しました。今回はマンガ界の金字塔「ジョジョの奇妙な冒険」を紹介しています。私は小説でもマンガでも(その他でも)、元気や勇気をくれるのが名作だと思います。こんなものを読んできた4HP.pdf
さて、どうも最近年を取ったせいか、いろいろ余計な心配をしてしまうときがあります。
たとえば冬になると、温泉につかっているサルの映像がニュースで流れたりします。すごく気持ちよさそうですが、お湯から出た後はどうなっているのでしょうか。お湯からでたあと体をすぐに拭かないと湯冷めしてしまうのではないだろうか? とか、一度お湯に入ったら、もう出たくなくなってしまうのではないか? とか…。まあ、余計な心配で、おサルさんたちはなんとかやっているのだと思いますが…。
それ以外にも、最近、日本でも世界でも心配なことが増えてきました。前回書いたように、昔(20世紀・昭和)だったら当然守られるべきとされていた建前や節度がなくなって、やりたい放題、言いたい放題な人々が増えてきています。それらの言動は昔だったら周囲からとがめられていたと思うのですが、最近はそういう言動におもねる人も増えてきて、とても暮らしにくい世の中になってきています。
これらのほとんどは、一田舎校長の私などの及ぶところの問題ではないのですが、どうも気になります。
1/16 読書案内3号 & 「昭和の…」
生徒向け読書案内の3号目を配信しました。こちらのブログからもダウンロードできるようにしますので、よかったらご一読ください。こんなものを読んできた3HP.pdf
さて、最近よく「昭和の…」という表現を見かけます。「昭和レトロ屋台村」のようにノスタルジックな文脈の時もありますが(下の写真はフリー素材)、「時代おくれ」とか「古くさい」といったマイナスイメージのことが多いようです。「昭和のビジネスモデル」とか「昭和の価値観」とか…。しかし、バリバリ昭和生まれの私としては、それに異議を申し立てたいと思います。
皆さんご存知のアニメの「ちびまる子ちゃん」は1970年代の小学生で、私とほぼ同世代です。同級生の一人に花輪君という子がいます。執事が自動車で送り迎えし、夏休みや冬休みには海外で休暇を過ごすとても裕福な家の子です。しかし彼は、あまり裕福ではない家の子のまる子や、いかにも貧乏長屋の子といった「はまじ」たちと対等に接しています。自分の裕福な家庭環境を隠しもしませんが、その一方で自分もまる子たちも人として平等だと思っている感じです。まる子たちも花輪君をうらやましがることはありますが、卑屈にはなりません。
これが昭和の雰囲気です。令和の今より、ずっと人権や平等の意識、民主主義の理想などが強く存在していました。学級の係や委員を決める時も、担任の先生は男女平等を今より強く意識して指導していたと思いますし、「人は見かけよりも能力・人柄」という考えも強く、男女を問わず人の美醜を論評することは、少なくとも公式な場では憚るべきこととされていました(陰ではブスとかデブの悪口もありましたが)。これは敗戦・占領による民主化から20年~30年しか経過しておらず、その雰囲気がまだ残っていたからかもしれません。それが実現していたかはともかくとして、人権とか平等とかの理想や建前を今よりはっきりと言うことができたのが「昭和」でした。
これに対し今日の令和は、理想も建前も後退した本音丸出しの時代です。生まれた家庭の裕福さや親の社会的地位が子供の人生を決めるとする「親ガチャ」や、容姿に恵まれた者がそうでない者より優れているかのように振る舞う「ルッキズム」などが、批判されるでもなく「だってそれが世の中だろ。仕方ないじゃん」という妙な現実主義とともに横行しています。お年寄りを狙った「オレオレ詐欺」や「アポ電強盗」などは、昭和の悪人の皆さんも手口は思いつけたでしょう(なにしろ「3億円事件」をやってのけた人もいますし)。でもやらなかったのだと思います。ところが令和は、SNSで押し込み強盗の要員を募集すると素人の若者が躊躇なく集まってくる時代です。昭和に育った私から見ると、強いものの傲慢や横暴、差別が横行し、弱いものから奪うことを恥じない令和は、野卑で野蛮な時代に思えます。
今の日本では、経済も技術も世界水準から立ち遅れ、国民の間に格差と分断も拡がる一方ですが、その背景にはこうした精神の劣化があると思います。今こそ理想や建前をきちんと語れる「昭和」の精神を復活させるべきではないでしょうか。
1/10 三学期開始 & 読書案内始めました。
今週の8日(水)に始業式、9日(木)から通常授業が始まり、三学期が始動しました。
始業式の校長講話(「講話」というほどためになる話はできないんですが)では、本校の校長室には歴代校長の写真がないことを題材に話をしました。
上述のように本校の校長室には、校長室の必需品ともいえる歴代校長の写真がありません。通常だと写真が並んでいる場所には戸田翔陽高校初代(戸田高校から通算だと14代)の黒岩校長先生の書いた「一期一会」の色紙が一枚だけ掛かっています。
私が20年前に本校にいたときに、黒岩校長が「俺は写真を飾るのは嫌い」と言っていたのを覚えているので、「言ったとおりにしたんだなぁ」と思いますが、そうした理由は、きっとこの「一期一会」なのだろうと思います。「一期一会」とはもとは茶道の言葉で、人と一緒に茶を喫し語り合うその瞬間は、一回限り、一回勝負の真剣さで向い会うべきであるというような意味です。写真の額があれば、取り合えず「昔、そういう校長がいたんだな」という形は残せます(それを眺めるのも結構、面白いのですが…)。しかし写真はただの写真、かつて存在した人の抜け殻のようなものです。黒岩先生としては、そんな抜け殻にこだわるのではなく、校長として在任している間に、校長として何ができるか? ということに集中すべきだと考えていたのだろうと思います。
始業式では、生徒にその話から「毎日を一回勝負の真剣さで生きていきたいよね」と呼びかけました。
さて、そんなわけで私も校長として何かしなくてはならないと思うわけですが、昨年末から生徒向けに読書案内の配信を始めました。
私がこれまで読んできた本を生徒に紹介して、できれば読んでもらいたいというものですが、読まなかったとしてもこんな本があるんだ、と読んだようなつもりになってもらえればと考えています。それでいいのか?という方もいるでしょうが、私自身も新聞や雑誌の書評欄であらすじだけ読んで、読んだようなつもりになっている本が結構ありますので、それもありだろうと思います。大体2週間に一回くらいのペースで発信していきたいと思っていますが、少し遅れてこのブログにも載せていこうかなと思います。
1/6 年始御挨拶
皆様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
長かったはずの今年の正月休みも終わってみればあっという間でした(ふぅ)。特に私は先月27日の御用納めの後、28日の夕方からインフルエンザA型にかかってしまいました(年末に「皆さんお気をつけて」と書いたばかりなのに)ので、休み前半はほとんど何もできませんでした。
29日は一日中38~39度台の熱が続き大変でしたが、30日に年末ぎりぎりまでやっているお医者さんに駆け込んでインフルエンザ特効薬「ゾフルーザ」を処方してもらいました。インフルエンザウィルスのRNA複製を阻害し、体内のウィルスを消滅させる薬だという話です。
昔は風邪やインフルエンザというと、布団にくるまってビッショリ汗をかいて熱を下げたものです。大量の発汗で熱が下がった後のすっきりと脱力した感じが、台風一過の青空のようだったのを思い出します。
今回は特効薬のおかげで汗をかくこともなく、一晩寝たら31日の朝には完全に熱が下がっていました。科学の発達はすごいですね。しかし、このゾフルーザにも抵抗力を持つ耐性株のウィルスが発生してきているというのですから、自然の力も恐るべしです。
休み後半にはインフルエンザの隔離期間が終わったので、足慣らしを兼ねて上尾・二ツ宮の氷川神社に初もうでに行きました。この神社については前任校や前前任校の時のブログでも取り上げましたが、見事な浮彫のある本殿を持つ由緒正しい神社です。またここも大宮・高鼻の氷川神社の末社なのですが、埼玉県に住んでいるとそこら中にある氷川神社は、実は多くの謎を秘めた神社だったりします。この辺については昔まとめたので、よかったら下のリンクから読んでみてください。氷川神社.pdf
いつもは無人で社務所も拝殿の扉もしまっているのですが、この日はまだ正月三が日のうちとあって、初もうでの人影もちらほらと見え、なんと赤袴の巫女さんまでいました。私もしっかり祈願してきました。
12/27 年末御挨拶ほか
早いもので、今年もあと数日になりました。今日は昔風言いうと「官庁御用納め」というやつで、明日から新年5日まで公立学校を含むお役所は原則休みです。
生徒の方はすでに25日から冬季休業に入っていますが、24日の終業式では「何を頑張ったかは、人それぞれですが、今、終業式の時にここにいるということさえも一つの成果です。冬休みには少しゆっくりできるでしょうから、2025年は何を頑張るか目標をたてましょう」という話をしました。
今日の日本の状況の中で、明るく前向きに生きていくというのは、生徒たちのような若者にとってなかなか大変なことだと思います。戸田翔陽の生徒たちには、しっかり勉強して真っ当に生きていく人に成長してほしいと思います。
それはさておき、今年の冬至は12月21日でした。クリスマスは25日、当たり前ですが大みそかは31日、新年は1月1日です。毎年考えるのですが、これらを一致させられないものかと。つまり、冬至を1年の終わり(12月31日)になるようにし、ついでにクリスマスイブもこの日に揃え、次の日を1月1日とするのです。なぜそうしたいと思うのかは、以前に別の学校のブログ(暦について抜粋.pdf)に書いたので、時間のある方はご覧ください。そうするとすごくすっきりすると思うのですが。
今年は久しぶりに寒い冬のようです。インフルエンザも流行しているとかですので、皆様、年末年始もお体御自愛ください。
12/20 落語鑑賞会、とても楽しかったですね。
すでに広報部の方でも投稿されていますが、昨日、今年度の芸術鑑賞会として、真打の三遊亭道楽師匠、同じく三遊亭朝橘師匠、二つ目の三遊亭らっ好さんの三方をお招きして、落語を鑑賞しました。(師匠と呼ぶのは真打の方だけだそうなので、らっ好さんだけ「さん」とさせていただきました。)
道楽師匠の御挨拶をいただいた後、朝橘師匠とらっ好さんのテンポの良い掛け合いによる「落語入門」、「落語体験」と続き、みんなの気分がすっかり盛り上がった後、古典落語3本を聞きました。
らっ好さんの「つる」は、日々精進に努められている若手の落語家さんらしく、とても丁寧に演じられていて、笑うべきところでしっかり笑わせてもらいました。
次の朝橘師匠の「荒茶」は、関ケ原の合戦前夜に徳川家康の軍師本多正信が、豊臣家の家臣を取り込むために茶会を開く、という講談の演題を元にした落語です。私は他の方の「荒茶」を聞いたことがないので、朝橘師匠が、どの程度自分流にアレンジしたのかわかりませんが、重厚な豪傑なのにどこか間抜けな加藤清正とか、目立ちたがりで脳筋な福島正則とかのキャラクターが見事に演じ分けられていて、歴史好き・戦国時代好きなら思わずニヤリとしてしまう感じで、とても楽しめました。
トリの道楽師匠には古典の「牛ほめ」を風格たっぷりにお話いただきました。「牛ほめ」には、今の高校生にはわからないような言葉(たとえば「其角の発句」とか「秋葉の火伏の札」とか(注))も結構出てくるので、ちょっとむつかしいかな?と思ったのですが、道楽師匠の落語の巧みさに引き込まれて、なんとなく伝わるのか、生徒たちは大爆笑をしていました。
おりからの寒さを吹き飛ばすような熱気の楽しいイベントでした。
(注)
「其角の発句」 松尾芭蕉の弟子の宝井其角の俳句のこと。
「秋葉の火伏の札」秋葉神社のお札は、古くから火事の予防(火よけ・火伏)に御利益があるとして有名。ちなみに総本社は静岡県浜松市ですが、さいたま市西区中釘の秋葉神社も関東総社として高い格式を誇っています。
12/17 学期末 & 寝ながら考えたこと(2)他
学校の方は期末考査・答案返却も終わりました。今週から来週にかけでは昨日の食育講演会のような普段はできない様々な講演や芸術鑑賞などの行事が続きます。
今日の朝、自宅を出ると朝焼けの残る西の空に残月と電柱に止まったカラスがなかなかいい風景を作っていました。
スマホのカメラなのでこんなものですが、冬らしく透明な空や複雑に絡み合った電線のシルエットもいい感じです。欲を言えば本格的な望遠レンズで月をもっと大きく写したかった気がしますが…。
さて、私は先週に引き続き、この土・日(14・15日)も風邪がぶり返して寝込んでしまいました。そこで寝ながら前回の大阪城に続き、今回は戦国時代の戦いで各大名が動員した兵力はどれくらいだったのか、などということを考えました。
たとえば関ケ原の戦い(1600年)では、諸説ありますが、東西両軍あわせて15万人を超える兵力がぶつかったとされています。この数について、私はそんなに動員できたのだろうか? と疑問に思っているわけです。
こういう議論をするときによく出てくるのが石高1万石=軍役250人という目安です。これは明治時代の陸軍参謀本部の戦史研究の中から出てきた数字だそうです。税率が5公5民(50%)だとして、石高1万なら税収は5000石、米1石は人1人の1年分の消費量だそうで、5000石なら5000人分の食糧です。その5%の250人の軍役は確かに可能そうです。しかし、食料が足りればいいという問題ではないでしょう。
一つ目は隊列の問題です。10万人の軍がいたとします。2列縦隊で前後1m間隔で行進すると隊列の長さは5万メートル=50㎞になります。もっと詰められるのではと思うかもしれませんが、私はこのくらいが限度だと思います。横に何列並べるかは道幅によりますが、現在各地に残っている江戸時代の宿場町では普通自動車のすれ違いがやっとのところが多いようです。戦国時代の街道もそんなものだったとするとせいぜい3m~4mくらいでしょう。電話も無線機もない時代、道の片側は前後を連絡する伝令のために開けておきたいので、道幅一杯には広がれません。前後の間隔も、刀や槍などの携行武器がぶつからないようにするためには、ある程度広くとる必要があります。
次は補給や宿泊の問題です。当時の兵隊は各自、糒(ほしいい)などの携行食料を持っていたという話ですが、自分で持てる量で長期間の行動は不可能でしょう。昔の日本人は1人1日3合(約450g)の米を食べたという話なので、米だけに換算しても10万人だと1日4.5トン必要です。この量を上記のような道路事情で輸送し、間違いなく配給するのは大変です。道中の農村から調達(略奪)するとしても、隊列が50kmもありますから、先頭の部隊が立ち寄った村に後続の部隊が行っても、もう食料がないわけです。毎日、どの部隊がどの村で調達(略奪)するかの計画を細かく立てる必要があります。夜も全部隊が野天で野宿というわけにもいきませんし、衛生(トイレ)問題も大変です。食事中の方がいたら恐縮ですが、10万人がそこら中で大小の用をたしたら、その街道はどうなってしまうのでしょう…。
さらに言えば、ずっと後の戊辰戦争の時は、最大の戦いであった鳥羽伏見の戦いでも、兵力は両軍合計で1万5千人くらいです。江戸時代の長い泰平で各藩とも軍縮が進んでいたこともあるのかもしれませんが、定期航路による輸送網が全国に発達し、さらに蒸気船などによる支援もある時代の戦争でも戦いの規模は数千人単位でした。
これを考えると戦国時代の合戦で何万人もの軍勢というのは、ちょっと信じがたいなと思うのです。
インターネットでは「中国の戦国時代(紀元前5~3世紀)と比べると日本はスケールが小さい」みたいな意見が聞かれます。たとえば紀元前262~260年に秦と趙が戦った長平の戦いでは、両軍で100万を超える兵力がぶつかり、敗れた趙の兵隊20万人が生き埋めにされた、とか書いてありますが、それこそ信じられません(20万人もの捕虜がおとなしく埋められるとは思えないですし…)。現在、長平の古戦場からは「生き埋め」の話を裏付けるかのように大量の人骨が発見されているそうですが、その遺骨の数を調べてみたりすれば、その辺の真偽が明らかになるかもしれません。