校長室ブログ

忙中閑あり~校長室より

8/22 こんなものを読んできた26 & 「上り坂の時代」

 「暑い」といってもどうしようもないですが、暑いですね。

 夏休みも終盤ですが、みなさん、夏休みにやろうと思っていたことはできましたか。

 さて、ここのところ、マニアックな古書を取り上げることが多かった「こんなものを読んできた」ですが、今回は若い人にも手に取ってもらえそうな昨年のベストセラー「成瀬は天下を取りにいく」を紹介しました。ベストセラーになるだけあってすごく面白いですが、それだけではないものもある作品だと思います。こんなものを読んできた26(成瀬は天下を取りにいく)web.pdf

 今日のもう一つのお題ですが、先日、こんなものを買ってしまいました。

 

 Fujica35Mという古いカメラです。昔、私の父親(もう故人です)が愛用していたカメラの同型品です。今のカメラにはない全金属性のずっしり感がたまりません。

 興味のない方には恐縮ですが、Fujica35Mは撮影対象との距離を測る測距儀が内蔵されているレンジファインダータイプのカメラです。

 測距儀の原理について簡単に説明します。周りの物を片方ずつ目をつぶって見てみましょう。近くにあるものほど右目と左目で見え方が違うはずです。人間は脳内でこの見え方の差を分析することで立体感を感じています。測距儀にも人間の目のように左右に離れた二の窓があり、外部の風景(光)を取り込んでいます。この左右二つの窓の映像を人がのぞき込むファインダーの中央に鏡やプリズムを使って重ねて映し出すのですが、この映像は近いものほど左右にズレて見えます。このズレがなくなるようダイヤルを回して調整してやると、ダイヤルの回転量で対象物への距離が測れます。光学技術と機械技術を合わせたすごく巧妙な仕組みです。

 さらに私が入手したFujica35は後期型のMLというタイプで、シチズン製のLVシャッターという仕組みもついています。

 興味のない方にはますます恐縮なのですが、写真というのは絞りを開いてとると、ピントの合う範囲が狭くなってボケやすくなります。手前の被写体だけピントが合っていてバックがボヤっとしている写真がありますが、これは絞りを開いて撮影しているわけです。逆に絞りを閉じるとピントの合う範囲が広くなって、後ろの方から前の方までくっきり映ります。ただ絞りの開閉に合わせて、シャッタースピードも速くしたり遅くしたりしないときれいな写真はとれません。

 LVシャッターではこの複雑な調整をコンピューターの助けを借りず、歯車やカムだけで実現しています。同じくらいの明るさでボケ方の違う写真を、一つのダイヤル操作だけで撮ることができる精巧な仕組みです。

 Fujica35は1957年に発売され、翌1958年のベルギー万博で銀メダルを受賞しています。日本の工業技術が欧米の物マネを脱して、本家欧米をしのぐ品質を誇るようになっていった時代です。まさに日本が上り坂の時代の製品です。

 今の日本は打って変わって産業や技術が低迷し、そのうっぷんを晴らすかのようにネット上での揚げ足取りやヘイトが横行しています。投資や金融、ICTもいいですが、農業や工業で物を作りださなくては、根本的な豊かさは増しません。このカメラを作っていた時代のような、まじめなものつくりをする国に戻らなくては、と思います。

 ちなみにこのカメラの発売価格は15,900円でしたが、その年の国家公務員の初任給は9,200円だったそうです。くそ真面目で朴念仁の見本のような私の父が、給料の2か月分に近い(今で言ったら40万円くらい?)カメラを買っていたとは驚きです。実は結構な趣味人だったのかなと思います。

 

8/19 小言幸兵衛

 古典落語に小言幸兵衛という演目があります。長屋の大家なのに入居希望者に次から次へとケチをつけて追い払ってしまうという困った年寄りの話です。私も年を取ったので小言が多くなってきました。

 折からの残暑の中、内にこもっていた小言を一斉開放して、暑気払いをしたいと思います。(される皆さんはたまったものではないと思いますが…。)

 小言その1「えんみ」ってなんだよ!

 最近、テレビ番組の食レポをみていると、出演している人たちがみんな「えんみ」「えんみ」としゃべっています。何のことかと思えば塩味「しおあじ」のことのようです。昔(といってもつい10年前くらい)はこういう言い方はあまり聞かなかったと思います。甘い味のことを「甘味(かんみ)」と言ったりするので、その影響でしょうか。あるいは栄養学かなにかの業界用語なのでしょうか。

 しかし、塩の味なのだから「しおあじ」というのが、耳で聞いてもわかりやすく。テレビやラジオのような音声による伝達では一番間違いがないはずです。また日本語としても、ほかに言い換えのない場合を除いては、カタカナ言葉や音読みの漢語をさけ、訓読みの大和言葉を使う方がのぞましいと思います。ところが最近の食レポでは「えんみ」と言わなければ食通ではないかのような、妙な気どり感を伴って、みんな「えんみ」「えんみ」と言っています。

 私は「えんみ」というと、まず「厭魅(古代に人を呪い殺すために行った呪法)」を思い浮かべてしまうのですが。

小言その2「…になります」って別になってねえよ!

 飲食店などで注文したものを店員さんが持ってきてくれる時に、近年では「こちらハンバーグセットになります」のような言い方をよく聞きます。私も、その場で店員さんに絡むようなことはしませんが、心になかでは「何がなりますだよ。何もなってねえよ!」と悪態をついてしまいます。この場合正しい言い方は「ハンバーグセットです」とかあるいは丁寧に「ハンバーグセットでございます」だと思うのですが。

 私の考えるに、この「…なります」は、「です」とはっきり断定することを避けてワンクッション入れることで、なんとなく責任をぼやかそうとする気持ちの表れではないでしょうか。同じような精神がもっとはっきり現れているのは、やはり20年位前からよく聞くようになった「正しい日本語(?)」のように語尾を上げた英語の疑問文のようなイントネーションで区切りながら話す話し方です。これも「自分の考えや見立ては必ずしもそうではないけれど、みんながそう言うから、言ってます」という言い訳を感じさせます。

 私が若いころにも、よく意見を言うときに「ある意味では」というのを頭につける人たちがいました。そういう時に、私は「ある意味でそうなら、別の意味もあるんだよね? それは何?」と聞き返していましたが、別の意味を答えてくれた人はいませんでした。これもそう言うとちょっと知的な感じで、考え深いように聞こえるから枕詞のように使っていたのでしょう。

 「こういったあいまいな表現を日本語から追放したい」というのが、私の悲願ですが、実現はむつかしそうですね。

3,リュックを前向きに持つな!

 先日、外出した際にどこかの路線の車内アナウンスで「混雑時にはリュックは前向きにお持ちください」のようなことを言っていました。とんでもない、と思いました。

 車内が混んでいるときにリュックサックを背中側に持っていると、知らないうちに人にぶつけてしまってトラブルになったり、目が届かないのでポケットの中のものを盗まれたりする心配があります。その点では腹側にもつのは改善策といえます。しかし、腹側にリュックを回すと重心のバランスをとるために、上半身を後ろにそらすことになります。こうなると身体+荷物の前後幅は広くなります。またさらにこの状態でスマホなどをいじると手が前に突き出されて、さらに場所を取り、混雑時には大変な迷惑です。

 私の考える最も良い持ち方は何かというと、背中からおろして手で持ち、体の前方に下げることです。腰回りより足のほうが細いし、上半身は足の上の方へ前傾するので、混雑する電車の中で最小限の面積しかとりません。

 この持ち方だと手がふさがるので「スマホの操作ができないじゃないか!?」という方もいるかもしれません。そういう疑問に対する私の答えは一つです。「(混雑の中では)操作するな!」。

8/14 最近行った所(続)& こんなものを読んできた25

 昨日の続きです。8月6日には平塚に全国定時制通信制のバレーボール大会を見に行きました。平塚市内で39度を記録したという猛暑の中、平塚駅から会場まで2km弱を歩きました。

 

 最初の史跡はこれ(上の写真)です。何の変哲もない道路の写真です。もしかしてこの軽トラが歴史的遺物なのか? ってそんなわけはありません。写真の歩道橋に書かれた字を見てください。「若松八千代歩道橋 東海道本通り線」と書いてあります。そう、この道が昔の東海道なのですね。東海道は国道1号線として東京から京都まで続いていますが、平塚ではこの道より少し北側のバイパスが国道1号となっていて、街中を通る旧東海道は国道指定から外れています。

 昔の東海道を歩けてしみじみ、と言いたいところですが、よく考えたら、私は毎日、昔の中山道を自転車で走って上尾駅まで通勤していました。行為としてはあまり差がないですね。

 次はここ、旧東海道「馬入川の渡し」跡です。

 

 この写真は、「馬入川の渡し」の石碑のある所から川の方を向いてとった写真です。手前の方に川を引き込んだ港があってたくさんのレジャーボートが係留されていますが、その向こうに国道1号が川を越える橋が見えます。

 いつもの明治迅速図でみると、街道は今と同じ位置を通っていて細い橋がかけられています。馬入川の流れはその橋のところでゆるく湾曲し、写真を撮った堤防のある場所は川に突き出していて、そこに集落があります。橋のできる前の江戸時代には、この辺りが渡し場だったのでしょう。

 家に帰ってきてから気が付いたのですが、国道1号の橋を渡ってあと2kmくらい行くと、「旧相模川橋脚跡」があります。これは関東大震災の時に液状化現象で水田の中から鎌倉時代の木製の橋脚が浮上してきたものです。鎌倉時代には、相模川(馬入川)の本流は今より東側を通っていたことになりますが、明治迅速図を見てもこの辺りは堤防の跡が蛇行しているので、相模川(馬入川)は頻繁に流れを変える暴れ川だったと思われます。

 ちなみに相模川(馬入川)の橋というと、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、相模川の橋の落成式に出かけた際に、落馬してそれが原因で死んだとされています。この橋脚跡のところで落馬したのでしょうか。平塚に行く前に知っていれば頑張って見に行ったのに惜しいことをしました。

 さて「こんなものを読んできた」第25回は、明日が8月15日の終戦の日であることもあり、戦争を描いたSFの古典、ジョー・ホールドマンの「終わりなき戦い」を紹介しました。こんなものを読んできた25(終わりなき戦い)web.pdf

 今となっては古くて入手しにくい本ですが、いい本だと思います。

8/13 プチ史跡巡り2「最近行った所」

 夏至を過ぎて1月半、だいぶ日も短くなり、日差しもやや弱まってきました。しかし体にまとわりつくような蒸し暑さはまだまだ続きそうです。

 さて今月に入ってから全国定通大会の応援であちこち行きましたので、そのついでに巡った史跡をまとめて紹介します。

 一つ目は江戸城田安門と日本武道館です。

 日本武道館は旧江戸城の北の丸にありますが、北の丸に入るための門が田安門です。お堀を渡る橋の上から田安門の外側の高麗門(これは固有名詞ではなく様式名)を見ると門越しに武道館の屋根の擬宝珠、前に取り上げた爆風スランプの曲でいうところの「光るたまねぎ」が見えます。

 

 武道館は現代建築ですが、建てられたのは前回の東京オリンピックの時の1964年、1966年にはビートルズの来日公演の会場となり、それ以来、外国のミュージシャンにとっても聖地のような存在となった歴史的建造物です。

 高麗門をくぐると、ちょっとした広場があり右側に櫓門(これも様式名)が見えます。いかにも強固でお城というのが本質的に軍事施設であることを感じさせます。とはいえ、江戸城の壁や門には矢狭間(弓や鉄砲で敵を討つための隙間)が設けられていないですね。天下を治める徳川将軍の居城ですから、ここで戦闘をすることになるとは考えていなかったのでしょうか(実際に実戦は経験していないですし)。

 

 田安門を出た靖国通りに面した場所に、ちょっと変わった塔が立っています。

 

 西洋風の建物を作ろうとして、そうしきれなかったような不思議な感じです。明治の最初のころには、こういう「疑洋風」の建築があちこちに建てられました。説明看板によれば、この塔は「常燈明台」と呼ばれるもので明治4年に招魂社(今の靖国神社)の燈明として建てられましたが、当時は海からも見えたので灯台の役割も果たしていたとのことです。しかし「海から見えた」というのは本当でしょうか。昔は東京湾の埋め立てがあまり進んでおらず、今よりずっと海が近かったとはいえ、こことと東京湾の間には江戸城が挟まっていますとはいえ、ちょっと信じがたいのですが。

 もう一つ武道館近くで「九段会館」です。

 

 この建物は昭和9(1934)年に「軍人会館」として建てられ、1936年の2.26事件の時は戒厳司令部がおかれるなど歴史の激動を体験してきた建物ですが、2011年の東日本大震災の時に中核施設のホールの天井が崩落したため、現在は一部分を残して、後ろ側に見える高層ビルに建て替えられています。

 

 とはいえ、正面玄関を入ったところのファサードはドアや壁、天井など隅々まで美しい意匠に満ちていて、現代には決して作ることのできない美しさです。今の我々からするとこれらの細かな装飾や意匠は「贅沢」や「無駄」に見えますが、現代建築以前の建築家にとっては、これらの装飾は公共建築には欠かせないものでした。この建物ができた1930年代には、ドイツのバウハウスで始まった現代建築の動きが広りつつあり、このような優雅な建物は作られなくなってきていました。九段会館は軍人会館として大日本帝国の威信を示す建物だったので、その時代としてもちょっと古いセンスでつくられたのでしょう。

 実は私、高校生の時、合唱コンクールの関東大会で九段会館のホールで歌ったことがあるのですが、その時も美しい建物だな、と感動した覚えがあります。ただ、トイレの便器の取り付け位置がやたらと低く「昔の日本人は小さかったのか?」という疑問も感じましたが…。

 写真を入れていたら長くなってしまったので、「最近行った所」は次回に続くことにします。 

 

 

 

8/7 全国定通バレーボール大会に行ってきました。

 昨日(8/6)、全国定時制通信制バレーボール大会の応援に行ってきました。

 男女とも同日・同時刻の試合だったので、女子の方は副校長先生に行ってもらい、私は男子の会場、平塚サンライフアリーナへ行きました。

 1回戦の結果は2-0で2回戦以降に進出しました。

 対戦相手は広島県立三原高校でした。三原といえば横山大観の愛したお酒「酔心」で有名ですね。(えっ。その認識は私だけ?) 1セット、2セットとも、こちらが連続ポイントをとって「いいぞ!」と喜んでいると、相手も頑張って点数を取り返してくるという接戦でしたが、競り勝って見事2回戦以降に進出です。

 私が見に行ってもちゃんと勝てることを立証してくれた男子バレーボール部の諸君ありがとう(前回の記事参照)。

 

 同じころ行われていた女子も2-0で勝って2回戦に進みました。

 先ほど入った連絡によれば、男子は抽選でシードになり、女子も2回戦を突破したそうです。上に行くほど相手も強くなっていきますが、思い切りぶつかっていってください!

 今回はあまり余計なことは書かずに終わります。

 

8/5 定通剣道大会 & 「大きなたまねぎの下で」

 昨日は日本武道館で開かれた全国高等学校定時制通信制体育大会「第56回剣道大会」に行ってきました。

 夕方にちょっと用事があり残念ながら最後までは見られなかったのですが、剣道の試合というのも面白いですね(生で公式戦を見たのは初めてでした)。

 私のような素人には動きが早すぎてどっちが勝ったのかもよくわからないのですが、個人戦の1回戦から勝ち上がっていくにつれ、男女とも踏み込みの音や竹刀の打撃音がどんどん鋭くなって、戦いのレベルが上がっていくのが感じられます。

 団体戦は時間の都合で男子しか見られませんでしたが、埼玉県の合同チームには、昔、結構流行った「六三四の剣(村上もとか)」というマンガの主人公のように上段で構える自分のスタイルを崩さない選手や、大きな相手に何度も吹っ飛ばされながらも、機敏な動きで粘り強く反撃する小柄な選手などもいて個性と根性のあるいいチームだなと思いました。そこに本校の選手が参加でき、一緒にがんばれたのは素晴らしいことだと思います。女子の方は見られなかったのですが、埼玉Bチームはトントンと勝ち上がって入賞したそうです。私が見ていなかったのが良かったのかもしれません。(昔からワールドカップやオリンピックを見ようとすると、妻から「あんたがみると負けるからやめろ」と言われているので…。)

 ところで、昨日は地下鉄の九段下の駅から武道館に行きました。九段下の駅の発車を知らせるメロディは、爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で」なんですね。タイトルの「たまねぎ」は武道館の屋根の擬宝珠をたまねぎにたとえたもので、私のようなバブル世代にはとても懐かしい曲です。メロディーも美しくて名曲だと思いますが、現代の高校生くらいの人には、この歌はいろいろ理解不能かもしれません。

 そもそも出だしの「ペンフレンドのふたりの恋は~」の「ペンフレンド」がわからないでしょう。電子メールもLINEもなかった昔には「文通」という趣味がありました。「文通」というのは遠い地域に住んでいる人と郵便で手紙をやり取りをすることで、これで仲良くなった人がペンフレンドです。では、そもそも遠い地域に住んでいる人とどうやって知り合うのか? というと、雑誌などの「文通コーナー」です。当時は「中1時代」(旺文社)とか「中1コース」(学研)とかの中高生向け学年誌があり、これらの雑誌に必ずあったのが、読者投稿欄や文通コーナーでした。

 文通相手を探す人は、ここで募集のため自己PRを載せるのですが、ありがちなのが自分のスペックを盛ってしまうことです。たとえばへたくそなのに「バンドでギター弾いてます。エリック・クラプトン(*1)のコピーしてます」みたいに。また文通の相手が決まって、手紙のやり取りを重ねていくと写真の交換をしたりするのですが、この時にもつい見栄を張って自分ではなくかっこいい友達の写真を送ってしまうことも起きるわけです。(今のSNSでもスペックの偽装はありがちですから、この辺はあまり変わらないかもしれません。)

 しかし、そういうことをやっていると、いざ文通相手と本当に会おう(今でいうところのオフ会?)となったときに困ってしまいます。

 「大きなたまねぎの下で」も、男の子がペンフレンドの女の子にどうしても会いたくなって、思い切って日本武道館で行われるコンサートのチケットを贈るのですが、待ち合わせの場所に女の子が来ない、という歌です。

 この歌の男の子と女の子は写真の交換などはしていないようですが、もしかすると相手の女の子は、文通で少し自分を盛っていて、あるいは盛っていなくても自分に今一つ自信がなくて、実際に会って男の子をがっかりさせてしまうことを恐れて来ないのかもしれません。また、もしかすると女の子には約束を守る気はあったのに親に止められてしまった、という可能性もあります。この歌は1989年の発売だそうです。この年は昭和最後・平成最初の年で、中・高生の男女交際が禁止されるほど古臭い世の中ではありませんが、それでも「女の子が顔も知らない相手に会いに行くのはやめなさい」という親は普通にいたと思います。あるいは女の子は地方に住んでいて単純に東京までくるお金が用意できなかったのかもしれません。この歌は男の子の側から見た歌ですが、女の子の側から見ても歌や物語がつくれそうな気がします(*2)。

 この歌の発売された1989年には、まだインターネットや電子メールは(一般人が使える形では)ないし、携帯電話も普及していなかった(車載電話や肩から下げるショルダーフォンはあった)時代です。しかし、この数年後にはインターネットを爆発的に普及させたWindows95が発売されますから、今から思えば、「ペンフレンド」を題材にした歌を作るにはギリギリの時代だったわけですね。

(*1)エリック・クラブトンは、1970~80年代におけるギターの神。クラプトンとジミー・ページ、ジェフ・ベックを日本では三大ギタリストと呼んでいた。

(*2)※女の子の側から見た歌もしっかり作られてました。YURIMARI「初恋~はるかなる想い〜」(1999年)という曲ですが、私的にはあまりピンとこない曲ですね。また、なんと今年「大きなたまねぎの下で」の映画が作られてました。でもこのLINEの世の中に、男の子と女の子をどうすれちがわせたのでしょうか? 

8/1 こんなものを読んできた24 & 「上尾運動公園には富士塚が埋まっている?」

 今年もなぜか週末になると台風が接近してきます。今日も午後になって雨が強まってきました。風水害にはお互い気をつけましょう。

 ここのところちょっと間が開いてしまいましたが、読書案内「こんなものを読んできた第24回」配信しました。昔懐かしいSF小説、シマックの「中継ステーション」です。

こんなものを読んできた24web(中継ステーション).pdf

 今から60年以上前に書かれた小説ですが、米ソ対立による核戦争、地球滅亡の恐怖はありながらも、進歩や共存への希望も感じさせるいかにも20世紀らしい作品です。

 さて、読書案内だけで終わるのも何なので、ここのところ続いている古墳やらに関する記事のおまけです(べつにそんなのはいらん!という声が聞こえてきそうですが、お付き合いください)。

 最近、滅法気に入っている国土地理院の陰影図で、私の地元上尾の辺りを眺めていたら、よく走りに行く上尾運動公園のところに妙なものがあるのに気が付きました。

 

 運動公園の陸上競技場のスタンドの北側にくっきり示されたこのでっぱりは一体!? 

 上尾運動公園の陸上競技場外周のランニングコースは毎週のように走っていますが、こんなでっぱりはありません。地図の該当部分もほかと同じ観覧席になっています。となるとこのでっぱりは陸上競技場が作られる以前の地形を示したものと思われます。

 しかし、いつもの明治迅速図ではこの部分はただ「畑」となっていて何も表現されていません。運動公園ができた1960年代以前にはここの部分は県の農業試験場でしたが、いつもお世話になっている「今昔マップ」のサイトで見ても、この時代の地図は範囲外になっていて見られません。国土地理院のサイトに農業試験場時代の空中写真がありました。この位置には建物はなく、てっぺんが平らになった円形の構造があるような気もします。気がする程度ではっきり確認できませんが。

 ただ、陰影図に見えるきれいに丸くとがった形状はおそらく富士塚でしょう。となると、運動公園の観覧席のここの部分には富士塚が埋まっていることになりますね。

 現在、この辺りの地名は愛宕3丁目です。昔は上尾下町と言っていたのが明治末年に愛宕となったので古い地名ではありませんが、この辺りには昔、愛宕山と呼ばれていた山林があり、現在地に移転する前の愛宕神社もこの辺にあったというのが地名の由来だそうです。「愛宕(あたご)」はもともと山岳信仰に関係がある地名なので、愛宕と言われる土地に富士塚があったのは納得できます。

 

7/31  史跡巡り2 「なんでも古墳に見える病気」

 前回、滑川古墳群について書きましたが、この際、今手持ちの古墳関係の話を放出します。

 まずは前回のフォローです。前回「滑川総合高校近くの中丸稲荷も古墳かもしれない」と書いた件ですが、ネットに「中丸稲荷は滑川古墳群の30号墳の上に立っている」と書かれている記事がありました。陰影図で見るときれいな円形のでっぱり(下の図の赤丸の中)なので納得です。多分間違いないと思います。

   

 ただこの一角の青や緑の線の部分の陰影はなんでしょうか。明治迅速図などの古い地図でみるとこの辺りは森林で、等高線も滑らかに通っているので、近年の造作の可能性が高そうです。この辺りは緩やかな丘陵地なのですが、その斜面に住宅地の道路を削りだした際、出た土を道端に積んだため盛り上がったのが青い部分、家一列分の平坦な土地(青と緑の間)を作り、次の段のために土を盛り上げたのが緑の線、稲荷の円墳はたまたまそのラインに重なっただけなのかも知れません。

  さて、ここからが今回の本題です。前任校のブログで「与野公園付近にやたらとある富士塚などの墳丘は古墳群では?」と書いたことがあります。与野塚めぐりまとめ.pdf

 その時に調べた旧与野市の「与野の歴史」(1988年)では「与野市域内に墳丘を持つ古墳は、現在のところ一基も発見されていません」と書いてあり、埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」(1994年)では、浅間神社富士塚、大国社塚、御嶽塚については「古墳」であるとされていました。しかし私としては、与野公園内の墳丘群なども含めて古墳群とすべきではないか、と考えていました。

 先日、ちょっと別のことが気になってさいたま市遺跡地図というのを眺めていたら、なんと中央区本町東に「巽遺跡」「巽古墳群」と書いてあるじゃないですか! Wikipediaを見てみると、1989年に1号墳、2001年には2号墳が発見されたと書いてあります。

 

 上の地図の青い楕円が「巽古墳群」を含む「巽遺跡」とされるあたりです。古墳は住宅建設で削られてしまったようですが、国土地理院の陰影図で見ると青い円の内外に怪しげな陰影が複数あります。 

 この場所から数百メートル西側の前にブログに書いた与野公園周辺を陰影図を使って改めて見てみます。(前は陰影図の存在を知りませんでした。)

 

 中央やや左下のくっきりしたでっぱりは、富士塚です。その右斜め上のでっぱりは、天祖神社の墳丘、左上のうっすらとしたでっぱりは、私がブログで削平された墳丘ではないかと書いたもの、公園から道路を隔てた上の方にある割とはっきりしたでっぱりは御嶽社の御嶽塚です。その他にも富士塚を取り囲むように複数の円形のでっぱりがあります。

 地図左端の方のバイパスに近いところの大国社の墳丘は、「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」で「古墳」と書いてあるものですが、あまり目立ちません。現地に行くと明らかに一段高いところに祠が立っているのですが。これらも含めて与野本町の辺りは、やはり大規模な古墳群だと思います。

 私は、滑川古墳群のような小規模な古墳の群れや吉見百穴のような群集墓を見ると考えてしまうのですが、こういった墓を作った(埋葬された)人たちはどういう人たちだったのでしょうか?

 大阪の大山古墳(仁徳天皇陵)のような墳丘長が百メートルを超えるような巨大古墳は、「大王」と呼ばれたような人のものでしょうし、行田の丸墓山のような直径数十メートルの古墳も、江戸時代で言えば大名のような地域の支配者のものだったろうと思います。

 しかし直径10数メートルから2・3メートルしかないような古墳は、どうだったのでしょうか。地方の役人や軍人で、現代の会社や役所で言えば部長や課長クラスの、ヒラよりちょっとだけ偉くなったくらいの人が「俺も偉くなったのだから、一丁、古墳を作ってみるか?」と思ったのかもしれません。あるいは見栄を張りたい家族から「お隣さんは古墳を作ったらしいよ。うちも作りましょうよ。」とかせっつかれて、頑張ったのかもしれません。吉見の百穴などはマンションのように分譲されたのをローンを組んで購入していたのかもしれません(さすがにローンはないか…)。そんなことを考えると、これらの古墳の陰には、なかなか涙ぐましいものがあったのではないかと思います。

 

7/28 史跡巡り2 滑川編3「滑川古墳群」

 延々と引っ張ってきた滑川編も今日で終わりにしたいと思います。

 先日、月の輪神社を見てから滑川総合高校の方へ戻る途中、住宅地の中の公園?空き地?に、ちょっとした土の盛り上がりがあるに気が付きました(下の写真)。

 ちょっとわかりづらいですが、写真中ほどの木の影があるあたりから奥の方が数十センチほど周りより高くなっています。これは「なんか、ちょっと古墳っぽいな」と思いました。なんでそう思ったのかというと、以前千葉の風土記の丘資料館を見に行った時に見学した龍角寺古墳群の群集する小古墳によく似ていたからです。

 みなさん古墳というと大阪の大山古墳(いわゆる仁徳天皇陵)とか行田の丸墓山古墳とかのような大きなものを思い浮かべるかもしれません。しかしそんな大きいものはむしろ少数派で、古墳には10メートル前後から数メートルといった小さなものがたくさんあります。

 ネットで調べてみると月の輪駅周辺は、今は住宅地や耕地になっていますが、かつて百基以上の古墳が群集していた「滑川古墳群」の場所だそうです。駅の北側には「こふん公園」があり古墳群の一部が保全されています。先日紹介した月の輪神社も古墳の上に社殿があるそうです。

 

 もう一度、月の輪神社の写真を見てみると確かに周囲より一段高い場所に社殿があります。国土地理院のページで地形の凸凹を陰影で表現した地図がみられるので、それを見てみると

 参道(左側の道)の突き当りの赤い丸の辺りが盛り上がっていることがわかります。

 そこでさっきの住宅地の中の空き地の盛り上がりも同じ地図で見てみると、こんな感じです。

 

 

 地図中央の部分ですが、南側が丸く北側が四角い前方後円墳のように見えなくもないですね。うーむ怪しい。

 ちなみに先述の「こふん公園」の辺りはこんな感じです。

 こふん公園は地図上の×印の斜め下(南東)の辺りですが、丸い古墳が2基あるのがわかります。×印の左(西側)の辺りにも見事に丸い墳丘が群集していますね。これらもまず確実に古墳でしょう。これらの外にも、国土地理院の陰影図でみると、月の輪駅周辺には無数の怪しいでっぱりがあることがわかります。

 滑川総合高校の裏門近くの「中丸稲荷」という神社も、周りより小高いところに社殿があります。これも国土地理院の地図で見てみます。

   

 地図上の鳥居のマークのすぐ左が丸く盛り上がっているのがわかりますが、この周辺はどうもちょっとへんですね。稲荷神社の前の道とその右(東側)の道路の作る角にそって土地が四角く高くなっています。またその内側にも直線的に高くなっている場所があり、鳥居マークの左(西)のところで外側、内側とも盛り上がりが切れているような感じです。

 なにかこの場所に館が寺院のような大規模な施設があり、盛り上がりの切れ目の位置に門があったのかもしれません。ちょっとこの辺りの郷土史の本か何かで調べてみたくなりました。

 以前、前任校のブログで「与野公園周辺に古墳群があるのでは」と書いた時には「土の盛り上がりを見ると古墳に見えてしまう病気じゃないか」と言われたりしましたが、今回の疑惑はかなり確度が高いと思います。

7/25 史跡巡り2滑川編(続)「福正寺」など

 前回の滑川「月の輪神社」の続きです。

 月の輪神社の裏側の道路向かいに天台宗の「月光山福正寺」というお寺があります。このお寺は勢至菩薩を祭る勢至堂が有名なのですが、これを最初に建立したのも九条兼実(1149~1207年)とされています。

 伝承によれば、建久年間に九条兼実がこの地に下向して居住していた際、自分の守り本尊である勢至菩薩を祭ったのが福正寺の勢至堂で、京都に帰る際、自分の像を納めたのが月の輪神社ということになっています。

 私は、この話はおそらく事実ではないと思います。兼実について書かれた様々な記事には関東に下向した話など載っていないからです。兼実は関白も務めた大貴族です。後の戦国時代になると、中央の貴族が地方に下向する例はたくさん出てきますが、この時代に元関白が関東に下ったりすれば、大事件です。そのことの記述がないはずがはありません。また兼実は日記魔で数十年にわたって「玉葉」という日記を書いています。関東に下向したのならば、そのことを 必ず書き残しているはずです。

 ただ私もこの滑川と九条兼実の間にきわめて強い縁があったことは事実だと思います。

 九条兼実は政治家としては有職故実(先例やしきたり)を重んじる保守的な姿勢の人だったといわれています。しかし、その一方で源頼朝に征夷大将軍の宣下(任命)が下るよう後押しをしたり、浄土宗の開祖の法然に深く帰依し、法然やとその弟子の親鸞を援助するなど革新的な面もありました。そして法然は、当時から「勢至菩薩の生まれ変わりである」と言われていたそうです。その勢至菩薩は「月の化身」とされ、月齢23日の月の出を待ちながら念仏を唱える「二十三夜講」の本尊です。この福正寺の勢至堂でも二十三夜待ちが盛んだったようです。

 福正寺の山号が「月光山」、祭っているのは「月の化身」の勢至菩薩、建立したのは「月輪殿」こと九条兼実、土地の名前は「月の輪」、みんなつながってきましたね。

 福正寺は、先日は山門のあたりを外からのぞかせていただいただけ(檀家でもないのにお寺にずかずか入りこめません)でしたが、その時、ふと思いついたことがありました。「勢至堂があるなら、近くに庚申塔や庚申堂もあるのではないか」と

 なぜ、こんなことを思ったかというと、私の地元、上尾市の17号国道日の出交差点近くに室町時代の月待板碑が出土した勢至堂跡がありますが、そこに立派な庚申塔があるからです。「月待ち講」は十五夜や二十三夜など特定の月齢の月の出を待って念仏を唱えるものです。「庚申講」は庚申の夜、寝ている間に三尸(さんし)とう虫が体から抜け出て閻魔に罪の報告しに行くのを防ぐため、みんなで集まって寝ないようにするものです。一般参加者にとっては、「月待ち講」も「庚申講」もみんなでワイワイやる行事として同じようなものでしょう。だからでしょうか、勢至堂と庚申塔は相性がいいようです。

 というわけで探してみるとありました。山門の横のほうに、「猿田彦大神」の碑が。

 あれ、庚申塔じゃないの?と思うかもしれませんが、「猿田彦大神」の碑と庚申塔は実は同じようなものです。なぜかというと、庚申(かのえさる)と猿田彦(さるたひこ)、両方「さる」だからです。かつての神仏習合の日本の宗教間の中では、こんな感じで次々とつながる複雑かつ重層的な関係がありました。

 ともかく、こんな風に自分の予想が当たるとなんか気持ちがいいですね。また長くなりましたがあと1回「滑川編」で引っ張りたいと思います。