校長室ブログ

忙中閑あり~校長室より

8/31 また前回の続き & こんなものを読んできた49

 「夏休みが終わっちゃうよ~」と子供のような叫び声をあげていますが、我々教員も夏休みは学期中より、のんびりできる時期なので、終わるのは残念です。ただ「学校は生徒がいてこそ」なので、明日からまた生徒のみんなが元気で登校してくれると嬉しいですね。待ってます。

 さて前回、前々回の妻沼の聖天様の続きです。山門の横手の方に、たくさん石碑のある一角があります。

 一番大きな石碑には「八海山大神、御嶽山大神、三笠山大神」と書いてあり、小さな石碑にも「一心霊神」、「小角霊神」、「高徳浪心霊神」などと刻んであります。

 「一心」は江戸時代に木曾御嶽山の信仰を広めた一心行者、「小角」は山岳修験の祖と言われる役行者(えんのぎょうじゃ)ですから、この一角は山岳信仰関係のものを集めたものですね。「高徳浪心霊神」というのは私は知りません(私が知らないだけで、実は有名な可能性はありますが)が、同じ碑面の「高野浪次郎」という人と名前が似ているのでこの人のことかも知れません。また同じ面に「妻沼登山講記念」と刻まれているので、地元の講のリーダーだった人なのでしょう。ここには日本一の富士の山の浅間神社の碑がない気がしますが、もしかするとここから見えない裏の方にあるのかもしれません。

 江戸時代から明治時代くらいにかけて、山岳信仰はすごく盛んだったようで、私の自宅や学校の近辺でも、富士塚(愛宕塚や御嶽塚)や石碑・石塔をよく見かけます。山岳信仰関係の石碑は山の形に先がとがったものが多いので、すぐわかります。

 これらの山岳信仰の講は、定期的に料理や酒を持ち寄っては集会を開いたり、お金を積み立てて順番に富士山や大山(前々々回の8月10日付けで紹介しましたね)に参詣したりしたものです。今と違って娯楽の少ない時代には、数少ない楽しいイベントだったのでしょう。

 あと、「こんなものを読んできた」第49回は前回が渋すぎたので、ラノベ作品から「手札が多めのビクトリア」を紹介しました。ラノベと言うと、中高生やオタクの読むものと思っている人もいるかもしれませんが、いい作品は侮れないですよ。

 こんなものロ読んできた49(ビクトリア)web.pdf

8/25 前回の続き &「またか!」

 夏休みも終わり近くなって猛暑がぶり返してきました。皆様お変わりないでしょうか。

 さて、今回は前回の「プチ史跡巡り2(深谷・熊谷編)」で書き残したことからいきましょう。

 前回、妻沼の聖天歓喜院を紹介しましたが、境内の一角にレトロな木造モルタル平屋建ての建物があります。私が子供の頃は学校の校舎や郵便局、駅舎などには、この木造モルタルという作りが多かったですね。

 

 で、この建物の玄関横に残っている琺瑯びきの看板が上の写真です。「妻沼ドレスメーカー女学院」と書いてあります。いろいろな意味ですごい看板です。まず「ドレスメーカーってなに?」と思った方もいるのではないか、と思います。ドレスメ-カーとは、衣服(ドレス)を作る(メイク)ことで、要するに洋裁学校ということです。

 現代は衣服はお店で既製品を買うのが当たり前で、服を自分で作る人は、よほど裁縫が好きな人だけでしょう。しかし、昭和40年代の前半くらいまでは、女性向けの雑誌には付録で季節ごとの洋服の型紙が付いていたり、セーターの編み方が載っていたり、主婦が自分や家族の服を作るのは一般的でした(私も母が作ったとても「お坊ちゃん」な感じの服を着せられ恥ずかしかった記憶があります)。そのため若い女性の中には「嫁入り修行」として、洋裁や和裁を習う人が結構いたわけですね。

 上記の「妻沼ドレスメーカー女学院」の看板も、おそらくそのころのものでしょう。また現代だったら専門学校や専修学校などは、男女一緒が当たり前ですが、当時は嫁入り前の女性が通うのなら女性だけの方が安心、ということで「女学院」だったのかな? と思います。

  さて二つ目のお題「またか!」ですが、何がまたかなのかと言うと…。

  前回、深谷市人見の「人見氏累代の墓」を取り上げましたが、その後ネットなどで見てみたら、府中市の浅間山公園にも「人見四郎墓所跡」という石碑があり、太平記に出てくる人見四郎入道恩阿の墓跡ということになっているようです。ただこの石碑自体は、平成2年に府中市教育委員会が建てたもので古い物ではありません。

 これの何が問題なのか?というと、ここを人見四郎の墓跡とする根拠が、非常に希薄であるということです。

 上記の石碑には、ここが鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した人見四郎の墓跡と伝えられる旨の説明があるそうです。ネットで調べたところ、この説の根拠として考えられるのは、

① 「新編武蔵風土記稿」によれば、今、「墓跡」とされている辺りの丘は地元の人から人見塚と呼ばれていたという記述がある。

② 「新編武蔵風土記稿」に、この近くに上屋敷、下屋敷という地名があるが、だれの居館のあとかは不明、という記述がある。

③ 八王子の子安神社の神櫃に「多東郡住人人見四郎」と記されていたという記録がある。(現物はなし)

④「武蔵名勝図会」に、人見村は昔、人見氏の住んだところである旨の記述がある

ということのようです。

 しかし、上記①~④のどれを見ても、人見四郎の墓があったことの根拠にはなっていません。①はここの丘が人見塚と言われていたというだけで、塚=墓というわけではないし、まして人見四郎と結び付けられる根拠ではありません。②も中世居館があったらしいというだけで、人見氏、人見四郎と結びつく要素はありません。③はこの地域に人見四郎と言う人が住んでいた根拠といえますが、墓があったという根拠にはなっていません(しかも現物は失われている)。④はこのあたりに人見氏が住んでいたらしいと言っていますが、「武蔵名勝図会」は、江戸時代も後半の成立で、筆者がなぜそう考えたかの根拠(地元の人がそう言っている等の)は書いてありません。

 以上のようなことでWikipedia などにも、府中市の人見四郎の墓跡は根拠が薄いと書いてあります。

 一方、深谷の人見の方はどうか、というと、上記の「新編武蔵風土記稿」には、地元の人が、ここが昔の人見氏の根拠地である、人見にある中世居館跡が人見氏居館の跡と言っていると書いてあります(これが正しいかはともかくそういう伝承があったということははっきりしています)。なお、公平を期すために深谷の方の弱点も上げると、一乗寺の人見氏墓所の墓石には、これを江戸時代の寛政時代に人見氏の末裔が修理した旨が書いてあるということです。この刻文からするとこちらも、本当の人見氏のものであることを疑う余地はあります。墓石の形や墓所にある板石塔婆などはすごく中世っぽいのですが。

 私の見方をまとめます。

 府中のあたりに人見四郎という武士が住んでいた可能性はあります(上の③)。中世の武士にはあちこちに所領がある者がいて、各地に移り住んでいたからです。たとえば武田氏といえば甲斐(山梨)の武田氏が有名ですが、若狭(福井)、安芸(広島)などにも武田氏はいました。

 ただし、石碑がある場所が人見四郎の墓跡である根拠は薄弱であると思います。これに関しては府中市の「府中市史編纂だより第5号(平成30年3月27日付)」でも「現在、浅間山の山中には「人見四郎の墓跡」と刻まれた碑がありますが、現存する史料が少ないため人見氏との関係について確実な証拠はありません」と書いてあります。自分たちの市で建てた(石碑を建てたのは教育委員会、市史編纂は文化スポーツ部ですが)のにこの書き方はどうなのかな、と思ってしまいます。

 さて、ここで今回のタイトル「またか!」の種明かしです。私は、今回のように東京が埼玉の歴史を簒奪しようとするケースが近年とても多いように感じています。

 以前、前任校のブログで書いたのですが、与野出身で関東一円に山岳信仰を広げた一山行者の事績が大田区の御嶽神社に持っていかれているような気がしますし、武蔵一之宮も大宮の氷川神社ではなく、多摩市の小野神社が本当であるかのような言説が広がっています。(詳細については、関心があったら以下のリンクから読んでください。)

 私はこれがとても不愉快です。

一山行者を取り返せ.pdf

一宮論争.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

8/18 プチ史跡巡り2(深谷・熊谷編)

 今年の夏は、暑いと言っても35度を超えるような日が少なくて、この数年の中では過ごしやすい方ですね。

 さて夏休みということもあり、ここのところちょっと史跡を巡る機会に恵まれていたので、今回もプチ史跡巡り2で行きます。

 一つ目の史跡は、先週訪れた「人見氏累代の墓」です。

 人見氏というのは、中世(平安時代末から南北朝時代)に深谷市人見一帯を支配していた武士の一族で、源平の争乱を描いた「平家物語」や南北朝の争いを描いた「太平記」にも、この一族の人物が登場します。

 このお墓は深谷市立藤沢小学校の北側にある一乗寺というお寺の境内にあります。小さい五輪の塔や、緑石で作られた板石塔婆など、いかにも中世の墓所らしい感じです。今の一乗寺はあまり大きなお寺ではありませんが、人見氏が一族の菩提所として創建したもので、800年もの歴史がある由緒正しいお寺です。

 その歴史の古さとともに私がこのお寺で気になっているのが、その所在地の地名です。現在の住所は深谷市人見ですが、すぐ隣が藤沢小学校であるように、ここは昔は藤沢村と言っていたところです。明治時代に近隣の小村が合併して「藤沢村」となりましたが、合併前の旧村名には「藤沢」というのは無いようです。なぜ合併時に「藤沢村」としたのでしょうか。

 「時宗」、「藤沢」と聞くと、思い出すのが時宗の総本山、藤沢市の遊行寺です。(このお寺の前の「遊行寺坂」は、箱根駅伝の復路8区の見せ場となっているので、ご存知の方もいるのでは)。 深谷の一乗寺の一帯が旧藤沢村であるというのは、この藤沢の遊行寺と何か関係があるのではないだろうか? というのが、私の長年の疑問です。明治時代に新しい村名を考える時に「時宗のお寺があるから、藤沢とすべい」と考えたのかもしれませんし、あるいは村名ではなくても、以前からこのあたりを「藤沢」と呼んでいたのかもしれません。もし藤沢というのが、古くまでさかのぼる地名だとしたら、一乗寺は数ある時宗のお寺の中でも、総本山の遊行寺と密接なつながりのある重要なお寺だった可能性がありますね。この辺りはもう少し、調べてみたい問題です。

 さて、この日、もう一か所、妻沼の聖天山歓喜院です(写真はフリー素材から借りました)。

 

 歓喜院は、日光東照宮をほうふつとさせる装飾彫刻で有名です。数年前に修復が完成して、建設当初の色を取り戻してからは、一層見ごたえのあるものになりました。

 その建物の立派さもともかく、この歓喜院は平家物語にも登場する齋藤実盛の創建と伝えられています(今の建物は江戸時代に作られたものです)。

 齋藤実盛はこのあたり一帯を支配する豪族だったのですが、勢力的には中小規模で、生き延びるためには自分より強いリーダーについて行かなくてはならない立場でした。

 実盛は最初は、源(木曾)義仲の父親である源義賢を主人としていましたが、義賢が源氏内部の争いで源義朝の息子義平に負けて死んだ(大蔵合戦)後は、主人の敵であった義朝に仕えざるを得ませんでした。ただし実盛は義理堅い人だったので、元の主人、源義賢の息子の義仲をかばい、責任をもって安全な信濃の国に逃がします。

 その後、平治の乱で源義朝が平清盛に負けて死ぬと、実盛は今度は平家に仕えることになります。何年か経ち、実盛が信濃に逃がしてやった源義仲が成長し、平家を討つために兵を起こすと、実盛は平家の軍に加わり義仲と戦うために出陣します。この時実盛は、高齢のため白髪頭になっていたのですが、若い連中になめられたり手加減されたりしたくないと言って、頭を黒く染めて出陣し、勇敢に戦って戦死します。

 源義仲は、討ち取った敵の首を検分しているときに、子供の頃に自分の命を助けてくれた実盛の首を見つけ、その首を抱いて涙を流したと言われます。

 と、まあこういう話です。齋藤実盛は戦乱の中で度々仕える主人を変えなければなりませんでしたが、その中でも、きちんと義理や筋を通した立派な武士として名を残しているわけです。

 この時代の関東の武士というと、三度の飯よりも戦が大好き、親が死のうが息子が死のうがそれを踏み越えて戦う野蛮人のように言われていますが、平家物語には、この齋藤実盛や、一の谷の合戦で平敦盛を討ち取った熊谷直実など、この地域出身の花も実もある立派な武士が登場します。

 関西の勢力の強い日本史の世界では、後進地域のように扱われることの多い関東ですが、実際には結構、文化程度が高かったのではないか、と思います。

 

 

 

 

8/10 プチ史跡巡り2(茅ケ崎~平塚)

 猛暑だったり、ゲリラ豪雨だったり、台風だったりと今年の夏も大変です。

 前回紹介した剣道に続き、バレーボールの定通大会に行ってきました。結果は他のページで詳報されると思いますが、本校男子バレーボール部は頑張ってベスト8まで行きました。

 大会会場は今年も平塚サンライフアリーナでした。去年、時間と暑さの関係で断念した「馬入川旧橋脚」を今度こそ見てやろう、というわけで、一つ手前の茅ケ崎で電車を降りました。バスがあるはずなのですが本数が少ないので歩きます。日差しは強烈でしたが、寒気団が流れ込んでいるとかで気温はそんなに高くなく、快適に歩くことができました。

 上の写真が橋脚跡です。この橋脚のすぐ向こう側に今も小出川という川が流れていますが、昔はここが相模川(馬入川)の本流だったようです。鎌倉時代の建久9(1198)年に御家人の稲毛重成という人が妻の追善供養のために架けたという話です。すごいですね。奥さんの供養のために今だったら何十億円という規模の工事を行うとは。どれだけ仲が良かったのでしょうか。

 しかし、その橋は鎌倉時代末期に廃絶し、橋の跡は地中にうもれてしまいました。それが大正時代の関東大震災の際に液状化現象で地中から浮かび上がってきたそうです。ただし、上の写真に写っているのは、精巧に型を取って作られたレプリカです。本物はこの真下に埋め戻されています。

 レプリカとはいえ、太い丸太にほぞを切ったような跡が残りなかなかの迫力です。この橋脚からすると相当の長さと幅がある立派な橋だったと思います。ちなみに、この橋の落成式典に招待された源頼朝が、ここから鎌倉に帰る途中に落馬し、それがもとで死んだとされています。そんな橋の橋脚が残っていて見ることができるのですから、何というか感動しますね。

 昔の橋と言えば、琵琶湖から流れ出す瀬田川のかかる瀬田の唐橋が有名です。672年の壬申の乱をはじめ、戦略上の要衝として何度もここを奪い合う戦いが起きています。瀬田川は川幅が広く(100m以上?)流れも速い川です。7世紀という古い時代にそんなところに橋を架けられたのですから、昔の人の技術は侮れません。

 

 さて、ここまでくるともう茅ケ崎~平塚サンアリーナまでの距離の半分くらいは来ているので、国道1号(東海道)沿いに、サンアリーナを目指します。斜め前方に大山が見えます。

 

 大山は関東地方の山岳信仰の中心地のひとつです。古来、大山とか筑波山とか山容の良い目立つ山は、信仰の対象になりがちでした。さいたま市近辺にもこの大山を目指す「大山街道」が何本もあり、庚申塔などの側面に大山への道案内が刻んであるのをよく見かけます。また、自動車に大山にある寒川神社のお守りのステッカーを貼っているのもよく見るので、現代にも大山信仰は生き残っています。

 国道1号(東海道)を歩いていくと、流石、江戸自体の主要街道だけあって道沿いに沢山の石碑、石塔があります。

 

 そのうちのかなりの数が、上の写真の左側のように一つの石碑に二体の像が刻まれた「双体道祖神」です。上尾市やさいたま市近辺では(私の知る範囲では)見たことがない形ですが、ネットで調べてみたら茅ケ崎~平塚あたりの東海道沿いには多いとのことです。なぜか? と言うのはわかりませんが、ところ変われば品変わるで面白いものですね。

8/6 プチ史跡巡り2 &「こんなものを読んできた47」

 夏休み真っ最中ですね。

 今年もいくつかの部活動が全国定通体育大会に出場しているので、副校長、教頭と手分けしてなるべく応援に行くようにしています。

 先日、日本武道館で行われた剣道競技に行きました。武道館については去年書きましたので、今回は武道館の入り口にあたる江戸城田安門についてです。

 田安門の外側の門の巨大な門扉を支えている蝶番の所に下の写真のような銘文が鋳込まれています。

「寛永十三○○ 九月吉日 九州豊後住人 御石火矢大工 渡辺石見守康直 作」(○○は(私には)よく読めない字)とあります。寛永13年は1636年ですが、この年に独眼竜伊達政宗が没し、翌寛永14年に島原の乱が起きています。ちょうど戦国時代から太平の時代に変わる境目あたりですね。文中の石火矢大工は、大砲を作る人の事です。当時は鉄では質の良い鋳物を作ることができず、大砲は青銅製が主でした。この蝶番も青銅製のようですが、大砲を作っていた職人が蝶番という建築資材(民生品)の製造に携わっているあたりにも、戦国から太平への流れがあるような気がします(他に大きな鋳物を作れる人がいなかった可能性もありますが)。

 さてこの蝶番、写真でもおおよそわかると思いますが、軸の太さが10センチほどもある巨大なものです。蝶番というのは扉の荷重と開閉の動きの双方に耐えなくてはいけない部品です。作りがいい加減だったり、取り付けが甘かったりするとすぐにがたついたり、扉が垂れ下がったりしてしまいます(安普請の我が家では、この問題が頻発しています)。この蝶番は、作られてから400年も経っているのにがたつきもなく、巨大な門扉をしっかり支えています。すごい材質の良さと工作精度です。(扉を作った大工さんの腕も素晴らしいです。)

 製作者の渡辺石見守康直が自分の名前を鋳込んで残したのは、「俺の作ったものは何百年たってもびくともしないぞ」という自信を持っていたからだと思います。この銘文を見ると、「その心意気、確かに受け取った」という気分になり、その瞬間、時間を超えて渡辺石見守と心がつながったような感じがします。こういったところが史跡や歴史的遺物の魅力ですね。

 さて、「こんなものを読んできた」第47回はラリイ・ニーブンの「リングワールド」です。この作品に感化され、天文学者や宇宙工学者になったという人が沢山いる歴史的名作SFです。今読んでもそのSFらしい奇想に感動します。

こんなものを読んできた47(リングワールド)web.pdf