忙中閑あり~校長室より
9/30 プチ史跡巡り2 (菖蒲騎西道の庚申塔)
昨日は、青木涼真選手の活躍だけで終わってしまったので、今日こそは「プチ史跡巡り2」でいきます。
9月になってから記録的な長雨が続いていますが、この前の日曜日には薄日が差してちょっと晴れ間も見えました。そこでセキチューホームセンターへ行きがてら、少し庚申塔や石仏を巡ってきました。
国道17号を上尾運動公園交差点(丸亀製麺とマクドナルドが向かい合っている交差点)で右へ曲がり、1kmくらい行くと平塚(南)交差点(ローソンのある交差点)にぶつかります。交差点を右折し南に行くと原市、左折して北に行くと伊奈から菖蒲、騎西へ向かいます。
原市はこの町出身のお笑いコンビ「ハライチ」で一気に有名になりましたが、昔は上尾とは別の市場町でした。今もその時代の名残が感じられるいい町ですが、今日はそちらへは行かず、反対の伊奈方向へ向かいます。この道は、昔からある街道なので、道沿いに古い庚申塔や石仏などが残っています。
平塚(南)交差点から少し行くと右側にファミレスの「ばんどう太郎」がありますが、その反対側(道左側)に立派な庚申塔があります。
中央に大きく刻まれた梵字と庚申供養の字の右側にはところどころかすれていますが、「天下和順 天明五…平塚村」とあります。左側には「日月清明…講中…願主 須(?)田…兵衛」とあるようです。
天明5(1787)年は、有名な天明の大飢饉(1782-88)の真っ最中です。この時代に国内外で火山の爆発が相次ぎ、日照が遮られて冷害になったと言われています。東北地方中心に何万人も餓死者が出たり、江戸では打ちこわしが起きたりしていました。その大変な時代にこんな立派な庚申塔を建立したことを考えると、ある意味決まり文句の「天下和順」とか「日月清明」にも切実な思いがこめられていたのではないかと思います。
そこからずっと北上すると、右側に「草木万里野」というおしゃれなレストランがありますが、その少し先に小さな祠があります。中に小さ目ながら笠石をのせた立派な石塔があります。
下の台座には三猿(見ざる聞かざる言わざる)らしい模様があるので、庚申塔だと思いますが、上の尖った舟形の囲みの中には「貞享元甲子年十月吉日」と書いてあるだけです。祠の中にあるので裏側が見えませんが、もしかすると反対側に「庚申供養」などの文字や、青面金剛の像などが彫ってあるのかもしれません。
貞享年間というのは気象学的にはマウンダー極小期という太陽の活動が弱まった時期に当たります。日本では大きな飢饉などは特に歴史上起きていないようですが、ヨーロッパではペストが流行ったりテムズ川が氷結したりと大変な時代でした。
私の知る限りでは庚申塔やお地蔵さんなどには、割と宝永年間や安政年間のものが多い気がします。宝永年間には富士山、浅間山、阿蘇山が噴火するなど天災が沢山起きていましたし、安政には幕末の混乱が始まっていて政情が不安定でした。先ほどの天明や貞享もそうですが、不安な時代には信仰心が高まるということがあるのかもしれません。
三番目はさらに北上してセキチューの少し手前、奥田組奥井組(社名を間違えました。大変失礼しました。)という会社の車両基地の向かい側です。ちょっと見えにくい位置ですが、祠があり中に立派な庚申塔が建っています。
表面に彫ってある像は、庚申塔にはよく彫ってある青面金剛です。右側面に年紀が刻んであるようで、下の方に「吉日」、真ん中の当たりに「辰」と刻んであるような気がしますが、よく読み取れません。一般に青面金剛の刻んである物の方が文字で「庚申」と刻んである物より古いタイプとされているようなので、これも割と古い物と思いますが、よくわかりません。
庚申塔やお地蔵様などは、これまでは地域の人の思いによって残されてきましてが、この先は生き残れるかどうかよくわかりません。私の実家の近くでも、昔ながらの板塀と大きな桜の木で町に趣を添えていた旧家が代替わりした途端に、殺風景なコンビニや駐車場になったりしていますし、今住んでいるところの近所でも馬頭観音がいつの間にか撤去されたりしているので。
私は神も仏もあらゆるオカルト的なものも信じない(でも哲学としての仏法は信じています)人間ですが、こういったものを大事にしてきた昔からの人の気持ちはおろそかにしたくないと思っています。
9/29 プチ史跡巡り2(不発)& 祝 埼玉県立の星!青木涼真選手
最近ちょっと慌ただしかったこともあり、1か月近く更新していませんでした。
今日は久しぶりに「プチ史跡巡り2」でもいって見ようかと思いますが、その前に…。
昨日(9/28)夜のアジア大会の男子3000m障害決勝は素晴らしかったですね。皆さん見ましたか?
三浦龍司選手が大会新記録で優勝、金メダルに輝きましたが、第2位銀メダルになった青木涼真選手の走りも素晴らしかったですね。
昨日のレースでは、三浦選手がスタートから先頭に立って周回ごとに差を広げ、一時は50mくらいリードする独走態勢を作ったのですが、青木選手が最後の1周でギアを切り替えたかのような素晴らしいスパートを見せ、2位争いをしていた外国選手を振り切って、三浦選手の背中まであと2~3mというところまで追い上げました。後20mもレース距離があったら、逆転していたんじゃないかというほどの勢いでした。
青木選手は埼玉県立春日部高校陸上部の出身で、現在も埼玉に本拠を置くHONDAに所属している埼玉生え抜きの選手です。
法政大学2年の時、箱根駅伝5区の山登りで9人抜き、翌年も7人抜きという偉業を成し遂げました。法政大学では、他の長距離部員は多摩キャンパスに腰を据えて競技中心の生活をしていたのに、学業にも力を入れていた青木選手は一人だけ理系の学部だったので、小金井キャンパスと多摩キャンパスを往復しながら練習していたそうです。
こういう文武両道はやはり埼玉の県立高校出身ですね。スポーツ推薦で入ったら部活だけ、特待生で入ったら受験勉強だけ、というのとは違い、県立高校では勉強も部活も自分の限界に挑むことができますからね。「タイパ」とか「コスパ」とか、ケチなことを考えない生き方こそ、本当のエリートの生き方であり、県立高校の魂というものです。
青木選手はこの何年も3000m障害ではどうしても三浦選手に勝てない感じでしたし、箱根駅伝や実業団駅伝で見ていると長い距離が強そうな感じだったので、私は3000m障害にはこだわらないで、マラソンに挑戦してみてはどうなのか? と勝手に思っていました。
しかし昨日のレースでは、本当にあと一息で三浦選手の背中に手が届きそうでした。これはやはり、青木選手がたゆまず努力した結果でしょう。さすがは埼玉の県立高校出身者です。今後のさらなる活躍に期待したいですね。
おっと、「プチ史跡巡り2」をやってる暇がなくなりました。それは次回に回します。
8/31 また前回の続き & こんなものを読んできた49
「夏休みが終わっちゃうよ~」と子供のような叫び声をあげていますが、我々教員も夏休みは学期中より、のんびりできる時期なので、終わるのは残念です。ただ「学校は生徒がいてこそ」なので、明日からまた生徒のみんなが元気で登校してくれると嬉しいですね。待ってます。
さて前回、前々回の妻沼の聖天様の続きです。山門の横手の方に、たくさん石碑のある一角があります。
一番大きな石碑には「八海山大神、御嶽山大神、三笠山大神」と書いてあり、小さな石碑にも「一心霊神」、「小角霊神」、「高徳浪心霊神」などと刻んであります。
「一心」は江戸時代に木曾御嶽山の信仰を広めた一心行者、「小角」は山岳修験の祖と言われる役行者(えんのぎょうじゃ)ですから、この一角は山岳信仰関係のものを集めたものですね。「高徳浪心霊神」というのは私は知りません(私が知らないだけで、実は有名な可能性はありますが)が、同じ碑面の「高野浪次郎」という人と名前が似ているのでこの人のことかも知れません。また同じ面に「妻沼登山講記念」と刻まれているので、地元の講のリーダーだった人なのでしょう。ここには日本一の富士の山の浅間神社の碑がない気がしますが、もしかするとここから見えない裏の方にあるのかもしれません。
江戸時代から明治時代くらいにかけて、山岳信仰はすごく盛んだったようで、私の自宅や学校の近辺でも、富士塚(愛宕塚や御嶽塚)や石碑・石塔をよく見かけます。山岳信仰関係の石碑は山の形に先がとがったものが多いので、すぐわかります。
これらの山岳信仰の講は、定期的に料理や酒を持ち寄っては集会を開いたり、お金を積み立てて順番に富士山や大山(前々々回の8月10日付けで紹介しましたね)に参詣したりしたものです。今と違って娯楽の少ない時代には、数少ない楽しいイベントだったのでしょう。
あと、「こんなものを読んできた」第49回は前回が渋すぎたので、ラノベ作品から「手札が多めのビクトリア」を紹介しました。ラノベと言うと、中高生やオタクの読むものと思っている人もいるかもしれませんが、いい作品は侮れないですよ。
8/25 前回の続き &「またか!」
夏休みも終わり近くなって猛暑がぶり返してきました。皆様お変わりないでしょうか。
さて、今回は前回の「プチ史跡巡り2(深谷・熊谷編)」で書き残したことからいきましょう。
前回、妻沼の聖天歓喜院を紹介しましたが、境内の一角にレトロな木造モルタル平屋建ての建物があります。私が子供の頃は学校の校舎や郵便局、駅舎などには、この木造モルタルという作りが多かったですね。
で、この建物の玄関横に残っている琺瑯びきの看板が上の写真です。「妻沼ドレスメーカー女学院」と書いてあります。いろいろな意味ですごい看板です。まず「ドレスメーカーってなに?」と思った方もいるのではないか、と思います。ドレスメ-カーとは、衣服(ドレス)を作る(メイク)ことで、要するに洋裁学校ということです。
現代は衣服はお店で既製品を買うのが当たり前で、服を自分で作る人は、よほど裁縫が好きな人だけでしょう。しかし、昭和40年代の前半くらいまでは、女性向けの雑誌には付録で季節ごとの洋服の型紙が付いていたり、セーターの編み方が載っていたり、主婦が自分や家族の服を作るのは一般的でした(私も母が作ったとても「お坊ちゃん」な感じの服を着せられ恥ずかしかった記憶があります)。そのため若い女性の中には「嫁入り修行」として、洋裁や和裁を習う人が結構いたわけですね。
上記の「妻沼ドレスメーカー女学院」の看板も、おそらくそのころのものでしょう。また現代だったら専門学校や専修学校などは、男女一緒が当たり前ですが、当時は嫁入り前の女性が通うのなら女性だけの方が安心、ということで「女学院」だったのかな? と思います。
さて二つ目のお題「またか!」ですが、何がまたかなのかと言うと…。
前回、深谷市人見の「人見氏累代の墓」を取り上げましたが、その後ネットなどで見てみたら、府中市の浅間山公園にも「人見四郎墓所跡」という石碑があり、太平記に出てくる人見四郎入道恩阿の墓跡ということになっているようです。ただこの石碑自体は、平成2年に府中市教育委員会が建てたもので古い物ではありません。
これの何が問題なのか?というと、ここを人見四郎の墓跡とする根拠が、非常に希薄であるということです。
上記の石碑には、ここが鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した人見四郎の墓跡と伝えられる旨の説明があるそうです。ネットで調べたところ、この説の根拠として考えられるのは、
① 「新編武蔵風土記稿」によれば、今、「墓跡」とされている辺りの丘は地元の人から人見塚と呼ばれていたという記述がある。
② 「新編武蔵風土記稿」に、この近くに上屋敷、下屋敷という地名があるが、だれの居館のあとかは不明、という記述がある。
③ 八王子の子安神社の神櫃に「多東郡住人人見四郎」と記されていたという記録がある。(現物はなし)
④「武蔵名勝図会」に、人見村は昔、人見氏の住んだところである旨の記述がある
ということのようです。
しかし、上記①~④のどれを見ても、人見四郎の墓があったことの根拠にはなっていません。①はここの丘が人見塚と言われていたというだけで、塚=墓というわけではないし、まして人見四郎と結び付けられる根拠ではありません。②も中世居館があったらしいというだけで、人見氏、人見四郎と結びつく要素はありません。③はこの地域に人見四郎と言う人が住んでいた根拠といえますが、墓があったという根拠にはなっていません(しかも現物は失われている)。④はこのあたりに人見氏が住んでいたらしいと言っていますが、「武蔵名勝図会」は、江戸時代も後半の成立で、筆者がなぜそう考えたかの根拠(地元の人がそう言っている等の)は書いてありません。
以上のようなことでWikipedia などにも、府中市の人見四郎の墓跡は根拠が薄いと書いてあります。
一方、深谷の人見の方はどうか、というと、上記の「新編武蔵風土記稿」には、地元の人が、ここが昔の人見氏の根拠地である、人見にある中世居館跡が人見氏居館の跡と言っていると書いてあります(これが正しいかはともかくそういう伝承があったということははっきりしています)。なお、公平を期すために深谷の方の弱点も上げると、一乗寺の人見氏墓所の墓石には、これを江戸時代の寛政時代に人見氏の末裔が修理した旨が書いてあるということです。この刻文からするとこちらも、本当の人見氏のものであることを疑う余地はあります。墓石の形や墓所にある板石塔婆などはすごく中世っぽいのですが。
私の見方をまとめます。
府中のあたりに人見四郎という武士が住んでいた可能性はあります(上の③)。中世の武士にはあちこちに所領がある者がいて、各地に移り住んでいたからです。たとえば武田氏といえば甲斐(山梨)の武田氏が有名ですが、若狭(福井)、安芸(広島)などにも武田氏はいました。
ただし、石碑がある場所が人見四郎の墓跡である根拠は薄弱であると思います。これに関しては府中市の「府中市史編纂だより第5号(平成30年3月27日付)」でも「現在、浅間山の山中には「人見四郎の墓跡」と刻まれた碑がありますが、現存する史料が少ないため人見氏との関係について確実な証拠はありません」と書いてあります。自分たちの市で建てた(石碑を建てたのは教育委員会、市史編纂は文化スポーツ部ですが)のにこの書き方はどうなのかな、と思ってしまいます。
さて、ここで今回のタイトル「またか!」の種明かしです。私は、今回のように東京が埼玉の歴史を簒奪しようとするケースが近年とても多いように感じています。
以前、前任校のブログで書いたのですが、与野出身で関東一円に山岳信仰を広げた一山行者の事績が大田区の御嶽神社に持っていかれているような気がしますし、武蔵一之宮も大宮の氷川神社ではなく、多摩市の小野神社が本当であるかのような言説が広がっています。(詳細については、関心があったら以下のリンクから読んでください。)
私はこれがとても不愉快です。
8/18 プチ史跡巡り2(深谷・熊谷編)
今年の夏は、暑いと言っても35度を超えるような日が少なくて、この数年の中では過ごしやすい方ですね。
さて夏休みということもあり、ここのところちょっと史跡を巡る機会に恵まれていたので、今回もプチ史跡巡り2で行きます。
一つ目の史跡は、先週訪れた「人見氏累代の墓」です。
人見氏というのは、中世(平安時代末から南北朝時代)に深谷市人見一帯を支配していた武士の一族で、源平の争乱を描いた「平家物語」や南北朝の争いを描いた「太平記」にも、この一族の人物が登場します。
このお墓は深谷市立藤沢小学校の北側にある一乗寺というお寺の境内にあります。小さい五輪の塔や、緑石で作られた板石塔婆など、いかにも中世の墓所らしい感じです。今の一乗寺はあまり大きなお寺ではありませんが、人見氏が一族の菩提所として創建したもので、800年もの歴史がある由緒正しいお寺です。
その歴史の古さとともに私がこのお寺で気になっているのが、その所在地の地名です。現在の住所は深谷市人見ですが、すぐ隣が藤沢小学校であるように、ここは昔は藤沢村と言っていたところです。明治時代に近隣の小村が合併して「藤沢村」となりましたが、合併前の旧村名には「藤沢」というのは無いようです。なぜ合併時に「藤沢村」としたのでしょうか。
「時宗」、「藤沢」と聞くと、思い出すのが時宗の総本山、藤沢市の遊行寺です。(このお寺の前の「遊行寺坂」は、箱根駅伝の復路8区の見せ場となっているので、ご存知の方もいるのでは)。 深谷の一乗寺の一帯が旧藤沢村であるというのは、この藤沢の遊行寺と何か関係があるのではないだろうか? というのが、私の長年の疑問です。明治時代に新しい村名を考える時に「時宗のお寺があるから、藤沢とすべい」と考えたのかもしれませんし、あるいは村名ではなくても、以前からこのあたりを「藤沢」と呼んでいたのかもしれません。もし藤沢というのが、古くまでさかのぼる地名だとしたら、一乗寺は数ある時宗のお寺の中でも、総本山の遊行寺と密接なつながりのある重要なお寺だった可能性がありますね。この辺りはもう少し、調べてみたい問題です。
さて、この日、もう一か所、妻沼の聖天山歓喜院です(写真はフリー素材から借りました)。
歓喜院は、日光東照宮をほうふつとさせる装飾彫刻で有名です。数年前に修復が完成して、建設当初の色を取り戻してからは、一層見ごたえのあるものになりました。
その建物の立派さもともかく、この歓喜院は平家物語にも登場する齋藤実盛の創建と伝えられています(今の建物は江戸時代に作られたものです)。
齋藤実盛はこのあたり一帯を支配する豪族だったのですが、勢力的には中小規模で、生き延びるためには自分より強いリーダーについて行かなくてはならない立場でした。
実盛は最初は、源(木曾)義仲の父親である源義賢を主人としていましたが、義賢が源氏内部の争いで源義朝の息子義平に負けて死んだ(大蔵合戦)後は、主人の敵であった義朝に仕えざるを得ませんでした。ただし実盛は義理堅い人だったので、元の主人、源義賢の息子の義仲をかばい、責任をもって安全な信濃の国に逃がします。
その後、平治の乱で源義朝が平清盛に負けて死ぬと、実盛は今度は平家に仕えることになります。何年か経ち、実盛が信濃に逃がしてやった源義仲が成長し、平家を討つために兵を起こすと、実盛は平家の軍に加わり義仲と戦うために出陣します。この時実盛は、高齢のため白髪頭になっていたのですが、若い連中になめられたり手加減されたりしたくないと言って、頭を黒く染めて出陣し、勇敢に戦って戦死します。
源義仲は、討ち取った敵の首を検分しているときに、子供の頃に自分の命を助けてくれた実盛の首を見つけ、その首を抱いて涙を流したと言われます。
と、まあこういう話です。齋藤実盛は戦乱の中で度々仕える主人を変えなければなりませんでしたが、その中でも、きちんと義理や筋を通した立派な武士として名を残しているわけです。
この時代の関東の武士というと、三度の飯よりも戦が大好き、親が死のうが息子が死のうがそれを踏み越えて戦う野蛮人のように言われていますが、平家物語には、この齋藤実盛や、一の谷の合戦で平敦盛を討ち取った熊谷直実など、この地域出身の花も実もある立派な武士が登場します。
関西の勢力の強い日本史の世界では、後進地域のように扱われることの多い関東ですが、実際には結構、文化程度が高かったのではないか、と思います。
8/10 プチ史跡巡り2(茅ケ崎~平塚)
猛暑だったり、ゲリラ豪雨だったり、台風だったりと今年の夏も大変です。
前回紹介した剣道に続き、バレーボールの定通大会に行ってきました。結果は他のページで詳報されると思いますが、本校男子バレーボール部は頑張ってベスト8まで行きました。
大会会場は今年も平塚サンライフアリーナでした。去年、時間と暑さの関係で断念した「馬入川旧橋脚」を今度こそ見てやろう、というわけで、一つ手前の茅ケ崎で電車を降りました。バスがあるはずなのですが本数が少ないので歩きます。日差しは強烈でしたが、寒気団が流れ込んでいるとかで気温はそんなに高くなく、快適に歩くことができました。
上の写真が橋脚跡です。この橋脚のすぐ向こう側に今も小出川という川が流れていますが、昔はここが相模川(馬入川)の本流だったようです。鎌倉時代の建久9(1198)年に御家人の稲毛重成という人が妻の追善供養のために架けたという話です。すごいですね。奥さんの供養のために今だったら何十億円という規模の工事を行うとは。どれだけ仲が良かったのでしょうか。
しかし、その橋は鎌倉時代末期に廃絶し、橋の跡は地中にうもれてしまいました。それが大正時代の関東大震災の際に液状化現象で地中から浮かび上がってきたそうです。ただし、上の写真に写っているのは、精巧に型を取って作られたレプリカです。本物はこの真下に埋め戻されています。
レプリカとはいえ、太い丸太にほぞを切ったような跡が残りなかなかの迫力です。この橋脚からすると相当の長さと幅がある立派な橋だったと思います。ちなみに、この橋の落成式典に招待された源頼朝が、ここから鎌倉に帰る途中に落馬し、それがもとで死んだとされています。そんな橋の橋脚が残っていて見ることができるのですから、何というか感動しますね。
昔の橋と言えば、琵琶湖から流れ出す瀬田川のかかる瀬田の唐橋が有名です。672年の壬申の乱をはじめ、戦略上の要衝として何度もここを奪い合う戦いが起きています。瀬田川は川幅が広く(100m以上?)流れも速い川です。7世紀という古い時代にそんなところに橋を架けられたのですから、昔の人の技術は侮れません。
さて、ここまでくるともう茅ケ崎~平塚サンアリーナまでの距離の半分くらいは来ているので、国道1号(東海道)沿いに、サンアリーナを目指します。斜め前方に大山が見えます。
大山は関東地方の山岳信仰の中心地のひとつです。古来、大山とか筑波山とか山容の良い目立つ山は、信仰の対象になりがちでした。さいたま市近辺にもこの大山を目指す「大山街道」が何本もあり、庚申塔などの側面に大山への道案内が刻んであるのをよく見かけます。また、自動車に大山にある寒川神社のお守りのステッカーを貼っているのもよく見るので、現代にも大山信仰は生き残っています。
国道1号(東海道)を歩いていくと、流石、江戸自体の主要街道だけあって道沿いに沢山の石碑、石塔があります。
そのうちのかなりの数が、上の写真の左側のように一つの石碑に二体の像が刻まれた「双体道祖神」です。上尾市やさいたま市近辺では(私の知る範囲では)見たことがない形ですが、ネットで調べてみたら茅ケ崎~平塚あたりの東海道沿いには多いとのことです。なぜか? と言うのはわかりませんが、ところ変われば品変わるで面白いものですね。
8/6 プチ史跡巡り2 &「こんなものを読んできた47」
夏休み真っ最中ですね。
今年もいくつかの部活動が全国定通体育大会に出場しているので、副校長、教頭と手分けしてなるべく応援に行くようにしています。
先日、日本武道館で行われた剣道競技に行きました。武道館については去年書きましたので、今回は武道館の入り口にあたる江戸城田安門についてです。
田安門の外側の門の巨大な門扉を支えている蝶番の所に下の写真のような銘文が鋳込まれています。
「寛永十三○○ 九月吉日 九州豊後住人 御石火矢大工 渡辺石見守康直 作」(○○は(私には)よく読めない字)とあります。寛永13年は1636年ですが、この年に独眼竜伊達政宗が没し、翌寛永14年に島原の乱が起きています。ちょうど戦国時代から太平の時代に変わる境目あたりですね。文中の石火矢大工は、大砲を作る人の事です。当時は鉄では質の良い鋳物を作ることができず、大砲は青銅製が主でした。この蝶番も青銅製のようですが、大砲を作っていた職人が蝶番という建築資材(民生品)の製造に携わっているあたりにも、戦国から太平への流れがあるような気がします(他に大きな鋳物を作れる人がいなかった可能性もありますが)。
さてこの蝶番、写真でもおおよそわかると思いますが、軸の太さが10センチほどもある巨大なものです。蝶番というのは扉の荷重と開閉の動きの双方に耐えなくてはいけない部品です。作りがいい加減だったり、取り付けが甘かったりするとすぐにがたついたり、扉が垂れ下がったりしてしまいます(安普請の我が家では、この問題が頻発しています)。この蝶番は、作られてから400年も経っているのにがたつきもなく、巨大な門扉をしっかり支えています。すごい材質の良さと工作精度です。(扉を作った大工さんの腕も素晴らしいです。)
製作者の渡辺石見守康直が自分の名前を鋳込んで残したのは、「俺の作ったものは何百年たってもびくともしないぞ」という自信を持っていたからだと思います。この銘文を見ると、「その心意気、確かに受け取った」という気分になり、その瞬間、時間を超えて渡辺石見守と心がつながったような感じがします。こういったところが史跡や歴史的遺物の魅力ですね。
さて、「こんなものを読んできた」第47回はラリイ・ニーブンの「リングワールド」です。この作品に感化され、天文学者や宇宙工学者になったという人が沢山いる歴史的名作SFです。今読んでもそのSFらしい奇想に感動します。
7/29 いつの間にか無くなったもの(4) &「こんなものを読んできた46」
昨日の夕方の熊本の大地震には驚きました。電気や水道が止まっている地域もあるようです。この猛暑の中、避難生活を余儀なくされている方々の御苦労は大変なものだろうと思います。心よりお見舞いを申し上げます。
さて今日のお題は1年4か月ぶりの「いつの間にか無くなったもの」です。
無くなったものの一つ目は情報の信頼性です。
昨日の夜、テレビでニュースは熊本の地震のニュースに多くの時間を割いていました。川の水がバケツを揺らした時のようにバシャバシャ跳ね上がっているところとか、島原の眉山が崩落しているところとか、さまざまな被害の映像が流れていました。これを見ていて、以前だったら素直に驚いたり恐れたりしたはずなのに、最近は「この映像は本物か?」と疑う癖がついていることに気が付きました。最近は各地で災害が起きるたびに、フェイク画像や様々な偽の情報が流されます。学校の「情報」の授業では、ネットの情報はよく真偽を確かめなくてはいけない、と教えていますが、いまや何を基準に真偽を判断すればよいのか、ということが揺らいでいます。
メジャーなマスコミからネットニュースの類まで、現代では、あらゆる情報の信頼性が失われていることに気が付きました。
無くなったものの二つ目は「昆虫採集セット」です。
私が子供の頃は夏休みが近づくと学校近くの文房具店とかおもちゃ屋で「昆虫採集セット」というものを売っていました。
中身はセットの種類や値段によって異なるのですが、虫を殺すための薬剤、虫の標本が腐ったり虫に食われたりしないようにするための防腐・防虫の薬剤、これらを注射するための注射器と注射針、捕まえた虫を中に入れて殺すための毒びんなどが標準的で、高級なセットになるとチョウやガを捕まえて保管するための三角紙や三角缶、標本を作るための展翅台や展翅テープ、虫ピンなども入っていました。
昔の小学生は、これらを使って昆虫標本を作り、夏休みの自由研究として提出したりしたのですが、現代では自由研究で虫の標本を作る小学生もいなければ、そもそも子供用の「昆虫採集セット」など、どこを探しても売っていないでしょう(研究者向けの専門店で買うならともかく)。
これらが無くなった理由としては、虫が採れる草原や雑木林もめっきり少なくなったという現実的な問題や、生態系を守りましょうという自然保護的な観点などがあると思いますが、やはり一番大きなものは「生き物を殺すのは悪」という道徳的な観点ではないか、と思います。
「むやみな殺生は良くない」というのは、確かにその通りだと思います。しかし私個人の経験からは昆虫採集で得られたものも確かにあったと思います。
私は昆虫採集ではチョウが好きで、自宅の近所にいる種類は一通りを捕まえたことがあります。ルリタテハやミドリシジミなどの美しく採るのが難しいチョウを捕まえてきれいに標本にできたときなどは、すごく誇らしくてうれしかったのですが、ある時、それまで平気だった小さな生命を自分の手でつぶしていく感触が、どうにも後味が悪くなって、パタッと昆虫採集をやめました。
それ以来、虫は極力殺さないようにしています。ガガンボやカメムシ、クモ(昆虫ではないけど)などが家に入り込んだときも、「つぶせ!」「殺せ!」と叫ぶ家族をよそに、やさしく家の外に出してやるようにしているので、家族からの評判がよくありません。(蚊はさすがに叩いていますし、”G”はやらないと自分が家族にやられそうなので、やっつけていますが…)
また昆虫採集では、ある時、私の小学校でハチを捕まえてその大きさを競うというのが流行ったことがありました。花や樹液にやってくるハチを捕虫網でさらって素早く毒びん(上記)の中に放り込んで一丁上がりです(絶対マネしないでください。あえてやるなら自己責任でお願いします)。大きさと迫力がまるでプラモデルのようなオオスズメバチを捕まえた者は、英雄として尊敬されたものです。うっかり刺されると命にもかかわりかねない危険な遊びで、馬鹿と言えば馬鹿ですが、これはこれでいい経験だったと思います。
さて上の写真ですが、大型のハチの一種、クマバチ(クマンバチともいう)です。体が大きく迫力がありますが、おとなしくてめったに人を刺しません。怖がる必要はほとんどない虫です。スズメバチは毒が強く攻撃性も強くて危険ですが、これもこちらが怒らせるようなことをしなければ、まず襲っては来ません。この辺を知っていれば、何が危険か、どこまで安全かということが分かります。ところが最近の子どもは、虫が近くに飛んできたりすると、どんな種類かも考えずにむやみに大声を出したり手を振り回して追い払おうとします。スズメバチなどは脅かされると襲ってきますから、かえって危険です。
これまた私個人の経験ですが、昆虫採集(特にハチ狩り)をすることで、危険の程度を見積もり、落ち着いて対処する訓練が少しはできたような気がします。とはいえ、今は子どもが自由に虫を捕れる場所もなくなりましたから、やろうとしても難しいかもしれませんが…。
おまけは「こんなものを読んできた」の46回目、以前第36回で紹介した駄犬の「誰が勇者を殺したか」のシリーズ3作目「預言者の章」を紹介しています。以前にも書きましたが、駄犬(ひどいペンネームですね)という作者はすごく丁寧に人物描写をする人で、一般的なラノベより明らかに頭一つ抜け出ており、この小説もラノベ枠を超えた読みごたえがあります。こんなものを読んできた46(誰が勇者を殺したか 預言者の章)web.pdf
作者自身もラノベにこだわらず「いい小説」を書きたいと思っているようで、新作の「最後の魔法」と言う作品では、魔法というトリックは使いながらも、より一般的な小説の方に寄せています。とてもいい作家さんだと思います。
7/13 プチ史跡巡り2&「こんなものを読んできた45」
この土・日は雨の多さはそのままに気温が30度を超えて来て、じっと座っているだけなのに汗が止まらない感じでした。学校の方はいよいよ学期末モードです。
久しぶりにプチ史跡巡り2をお送りします。このブログは最近どうもインドアな話題が多い気がします。前任校のブログなどを見返すとすごくアクティブに外に出ているし、本校に来てからも一昨年当たりの記事もかなりアウトドアな話題があるのに。この1年くらいはめっきり室内にこもりがちです。仕事の都合もあるのですが、やはり気力・体力の衰えが大きいのかもしれません…。
今日は先週、久しぶりに歩いてきた羽生の周辺をご紹介します。以前もこのブログでは、羽生の毘沙門堂古墳などを紹介しているので、羽生編はこれが3回目でしょうか。
羽生は江戸時代から藍染の布の産地として有名で、明治以降も繊維・衣料産業が盛んだったところです。日光街道の宿場ではないはずですが、「プラザ通り」と呼ばれている通りなどには、宿場町のような面影があります。近隣の藍や木綿の集散地として栄えていたのでしょう。この街を舞台とした田山花袋の「田舎教師」にも、上京して文名を上げてやろうという野心に燃えた若者たちがいた様子が描かれています。
そんな歴史のある街ですから、駅の周辺の住宅地にもちょっと歩いただけで、地蔵様、布袋様、宝登山神社の分社(写真上から)などのお堂や祠があります。こういうものが大事にされているのを見ると嬉しくなりますね。
またこの近辺には木造の工場の建屋が建っているところがあります。おそらく昭和の戦前か戦後まもなくに建てられたと思われる体育館のように大きくて、採光を重視した大きな縦長のガラス窓がたくさん付いているすごいカッコいい建物です。どう見ても個人住宅の敷地内なので、踏み込んでいくわけにもいかず、写真を撮るのもはばかられますが、何とかしてそのうち見学させてもらえないでしょうか。
市街中心部、プラザ通りの和田百貨店さんと羽生市民プラザの間には、こんな銅像が立っています。
これはだれかというと清水卯三郎(1829-1910)と言う人です。この人は今放送中のNHKの朝の連続ドラマ「風、薫る」にも登場しています。日本橋で海外から輸入した商品を手広く扱う『瑞穂屋』の主人で、主人公の女性二人にチャンスを与えるナイスな紳士という役どころです。
実際の清水卯三郎も、幕末には薩摩藩とイギリスが戦争になった時に和平交渉の通訳として活躍したり、パリの万国博覧会では日本風の茶店を開店して人気を集めるなど活躍しました。明治になってからも上記の輸入雑貨店を経営したり、勧業博覧会を開いて海外の文物や技術の導入に努めるなど、日本の産業近代化に貢献しました。
今回のドラマにあたっては、卯三郎を演じる坂東彌十郎さんが羽生市を訪問するなどのイベントはあったようですが、今一つ盛り上がりに欠ける感じです。渋沢栄一に比べると大物感がないかもしれませんが、こういった人の働きがあって日本の近代化が成功したのですから、もうちょっとこの機会に有名になってもいい人物だと思います。
「こんなものを読んできた」再開後の2回目は、ニーブン&パーネル「神の目の小さな塵」です。こんなものを読んできた45web.pdf
最近は高校生でSFが好き、という人はあまり見かけませんが、私が高校生の頃は部活で「SF研究会」が珍しくないほど、SFと言うのは任期のジャンルでした。ニーブンとパーネルのコンビも当時は、ハードSFの代表作家として有名でした。今読んでも十分に面白い作品です。
7/6 「夏は暑くなったか?」
学校の方は今日で1学期の期末考査が終わり、明日からは答案返却や成績処理などが始まります。
今年の梅雨は本当に雨がおおいですね。そのせいであまり暑くなくて(湿度はうっとうしいですが)助かりますが、天気予報では、今週の後半あたりから、猛烈に暑くなると言っています。熱中症に気を付けましょう。
昔を思い出してみると、私が小学生だった半世紀前には夏休みでも朝夕は涼しく、朝は早起きしてラジオ体操、その後は暑くなる前に宿題や勉強をしましょう、と言われていました。昼間はもちろん暑かったのですが、エアコンのある家などは少なく、網戸と扇風機でしのぐことができました。
実感として今の夏の方が暑いのですが、本当のところどれくらい暑くなったのでしょうか。と言うわけで、気象庁のWebサイトからデータを引っ張ってきて、また調べてみました。
上のグラフですが、1時間ごとのデータが取得できたのは1978年までだったので、1978年と去年2025年について、未明の1時から深夜24時までの1時間ごとに、7月21日から31日までの11日間の平均の気温を描いたものです。なぜ11日間の平均にするのかと言えば、特定の1日だけだと、特別暑い日とか涼しい日とかだったりするかもしれないからです。
見てのとおり、どの時間でも1978年より2025年の方が2~3度くらい暑くなっています。特に一番暑い昼間の13時~15時頃の時間が、1978年では32~33度に収まっているのに、2025年では35度を超えています。35~36度の体温に近いラインを超えるか超えないか、というのが、体感上の大きな境目になっている気がします。
さてグラフでは、最近の方が暑いのが一目瞭然なのですが、この差が統計上有意といえるのか?についても一応、検定しておきます。
結果は以下の通りです。午後2時の平均気温で1978年の32.3℃と2025年の35.9℃を比べて、「p値が0.002031」とは「差があると言って間違いである確率は1000分の2程度」ということです。要するにはっきり差があるわけです。
帰無仮説: 平均の差 = 0
標本 1:(1978年)
n = 11, 平均 = 32.3, 標準偏差 = 3.19
平均の標準誤差 = 0.961821
平均の95%信頼区間: 30.1569 から 34.4431
標本 2:(2025年)
n = 11, 平均 = 35.9, 標準偏差 = 1.08
平均の標準誤差 = 0.325632
平均の95%信頼区間: 35.1744 から 36.6256
検定統計量: t(20) = (32.3 - 35.9)/1.01545 = -3.54523
両側p値 = 0.002031
(片側 = 0.001015)
と言うわけで、温暖化が存在することは間違いありません。
こうなると、何とかしてこれを食い止めたいわけですが、「二酸化炭素を削減しさえすれば良い」という思い込みは間違いです。なぜなら温暖化の主原因が二酸化炭素である、と確かめられたわけではないからです。
過去の歴史を見ると、数千年前の縄文時代にも今よりもさらに暑く、北極・南極の氷が解けて海面が今より数十メートルも高かった時代がありました。この時代には人間が排出する二酸化炭素などは今と比べてほんの僅かでした。この点を考えると、二酸化炭素が温暖化の主たる原因であるという仮説には疑問があります。
もちろん、とりあえず二酸化炭素削減に取り組むのは良いと思います。しかし「それさえやっていれば」と思考停止してしまうと、温暖化の原因の究明ができなくなってしまいます。
今は人類の生存に関わる温暖化の問題ですら、金儲けの種にして二酸化炭素の排出権取引などが行われていますし、反二酸化炭素は巨大なビジネスチャンスとなっています。これらの反二酸化炭素を商売にしている人たちにとっては、二酸化炭素以外の温暖化の原因が解き明かされては困るのでしょうが、そんなことをやっているうちに、どんどん手遅れになってしまいます。
科学的な精神でもっと真剣に取り組まないと温暖化対策はできません。(真剣に取り組んでもできないかもしれませんが)。
6/29 AIにムッとした話
このところほとんどお日様の姿を見ない日が続いていますが、お元気ですか。学校の方は今週から期末考査に入ります。試験前なのでこの前やっと再開した「こんなものを読んできた」もまたしばらく休みです。
さて、前回、前々回の台風の記事で、「AIとムッと来るやり取りがあった」と書きましたが、それがどのようなものだったか、という話です。
①台風の上陸日時について分析するため、去年も利用したJCDPの台風データを使おうと思ったのですが、このデータは2019年までです。2020年以降を追加しようと思い、とあるAIに2020年以降に日本に上陸した台風の一覧を作成を頼みました。そうしたら一覧表を作ってくれたので、とりあえずチャットを閉じました。
②その後、データをまとめようとしたところ、なぜか先ほど入手したデータ一覧の2025年の3つの台風の上陸日の日付が「XX」となっていることに気が付きました。
③そこで再度AIとのチャットを開き、再度、2020年以降に日本に上陸した台風の一覧を求めました。今度も一覧を作ってくれましたが、なぜか2024年までしかデータが入ってていません。
④そのため「2025年のデータはどうなっているのか?」と聞いたのですが、そうしたら「2025年はまだシーズン途中なのでデータがない」と答えてきました。
⑤驚いて「今年は2026年だよ。気は確かですか?」と聞き返したところ、こんどは「気は確かだよ。ああ、今は2026年と言う想定なんだね」という感じの返事を返してきました。
⑥私が「いや想定ではなくて本当に2026年なのだ」と言っても、AIは、「今は2025年である。そのため2026年という未来から2025年という過去を振り返る設定で答えを求められても、答えはない」という主張を繰り返します。
⑦そこで私は前回のチャット(上の①)で作ってもらったデータを示して、「前回はこういうデータをもらった。このデータの「XX」になっているところを知りたいのだ」と、ピンポイントでリクエストしました。
⑧ところが、AIは「このデータは何らかの目的で作られた架空のものだ。」と言い返してきました。さらにこのデータの日時の部分が「XX」となっていることこそ、架空である証拠だ、と主張してきました。
⑨このままでは話がすすまないので、私は自分で気象庁のWebサイトを調べて、「2025年には間違いなく3つの台風が上陸した。その上陸日を知りたい」と質問しました。
⑩ところがAIはこれでも認めずに「架空データ説」を繰り返し、その根拠として「気象庁発表の公式データに2025年のデータはない」と断言してきました。
⑪そこで、私はさっき自分でデータを調べた(上記⑨)気象庁のページのURLを張り付けて「ここで調べたらちゃんとのっていた」と反論しました。
⑫そうしたところ、AIは一転して「あなたのデータが正しい。自分のデータが間違っていた。」と誤りを認めました。しかし、次はなぜ自分の間違ってしまったか(間違って当然だったか)の言い訳をはじめました。しかも偉そうに「なぜ、あなたが正しいか説明するね」的な口調で!!
これだけ盛大に間違っておきながら「ごめんなさい」の一言もありませんでした。しかも上の⑧~⑩あたりのやり取りの際には、何となくAIの回答に「やれやれ物分かりが悪い人だけど、これも仕事だから丁寧に説明してあげなくては」、「噛んで含めるようにやさしく説明してあげます」的な偉そうな雰囲気が漂っている気さえします。これにはなかなかムッと来ました。
最近、これからは人間が知識を蓄えなくてもAIが何でも教えてくれるから、AIを使う方法さえ知っていればよい、ということをいう人が沢山います。
しかし、AIは時々、上のような大間違いをします。しかもそれを指摘してもなかなか間違いを認めません。このブログでは去年も蛾の種の同定をめぐるAIとのやり取りを紹介しました(2025/6/26「AIの反抗?①」、2025/6/27「AIの反抗?②」)が、AIの往生際の悪さは相当なものです。
私のような執念深い人なら、AIに間違いを認めさせるまで論争しますが、そんなにしつこくない人なら、途中で折れてAIの言い分を聞いてしまうかもしれません。 AIの言っていることが正しいかどうかを判断するために、人間には論理性と正しい基礎知識がこれまで以上に必要です。
私は前から主張していますが、初等・中等教育の段階、若くて記憶力のいい時代にどれだけしっかりとした知識を詰め込めるかが大切です。知識・教養軽視の人がよく言う「地頭」とやらは、知識を蓄えた後に発揮すればいいですし、同じ「地頭」なら考える材料となる知識が豊富な方が有利に決まっています。今後もというか、今後こそ一人一人の頭の中に正しい知識を蓄積する教育が大切です。
6/26 「台風は早くなったか?」(続)
台風の影響か今日もどんより湿っぽいですね。今回の台風は、学校が休みの土日の内に去ってしまいそうで、何よりです。
さて、前回、「台風の来る時期は早くなったと言えるだろうか?」と言うことについて、私なりの見解を述べました。しかし家に帰ってからつらつらと考えたところ、「上陸日の平均日で見た結果では、納得しない人もいるかも」と思い当たりました。
なぜなら、15歳と65歳の平均年齢は40歳、39歳と41歳の平均年齢も40歳です。「平均なんてインチキだろ」と言い出す人がいるかもしれません。データを見るときは平均だけでなくデータのバラツキ(分散)も見なくてはならないというのは基本です。
前回の回帰分析や多重比較にも分散の要素はちゃんと入っているのですが、よりわかりやすくするために、台風の「もっとも早い上陸日」とか、「台風シーズンの長さ」を使った分析もしてみました。「シーズンの長さ」を問題にするのは、台風が来る時期が早くなる方だけでなく遅くなる方にも伸びているかもしれないからです。
これを次のような方法で調べてみました。使っているのは今回もHADです。
① 1877年から2025年までのデータを3年や5年など一定の期間で区切り、その間の台風の一番早い上陸日、一番遅い上陸日、その差(台風シーズンの長さ)を求める。
※ここで3年とか5年の期間とするのは、台風が全く来ない年とか、1個しか上陸しない年もあるからです。
② ①で求めた日にちについて、回帰分析を行い、「台風の来る時期が早くなっていないか」や「台風シーズンが長くなっていないか」を検証する。
結論として「台風が早く来るようになったとは言えない」という前回の結果は、今回も変わりませんでした。また、台風シーズンも長くなったとは言えませんでした。
検証は、3年区切り、5年区切り、15年区切りで行い、いずれも同じような感じでしたが、以下に5年区切りの結果を上げておきます。
【台風の来る時期が早くなっていないか 5年区切り】
上のグラフで見ると、各年の最初の台風の上陸の平均はおおよそ、4月1日から数えて80~90日目(7月末~8月初め)くらいです。しかし、年によるバラツキが大きいことが分かります。次にこれが「早くなってきているか」という点です。回帰直線(青い直線)はわずかに右下がりで係数は-0.137(毎年3時間くらい早くなる)となっていますが、p値は0.785です。この係数はほとんど信頼に値しないので、「早くなっているとは言えない」ことが分かります。
【台風シーズンが長くなっていないか 5年区切り】
上のグラフで見ると、台風のやってくる季節の長さの平均は110~120日くらいです。しかし、こちらも年によるバラツキが大きいことが分かります。次にこれが「長くなってきているか」という点です。長くなっているのであれば、回帰直線(青い直線)は右上がりになるはずですが、係数は-0.104と逆にわずかに右下がりになっています。p値も0.853とほとんど信頼に値せず、「台風シーズンが長くなっているとは言えない」ということになります。
6/24 「台風は早くなったか?」
今度の週末にもまた台風が来るようです。しかも二つも。土・日のうちに通過してくれればよいのですが、平日に来て臨時休校になったりすると、生徒の皆さんも学校としてもいろいろ大変です。
さて、昔は台風のことを「野分」と言ったりしました。枕草子に「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ(台風の次の日は、しみじみと趣深い)」とか書いてあったり(*)、源氏物語にも「野分」という帖(章)がありますが、「野分」とは野原の草を吹き倒す強い風のことで、秋のものとされています。
台風=秋という認識だったわけです。それが今年は前回の5号と合わせて、6月に3つもやって来ます。そうなると世の中には、「こんなに台風が早く来るのは気候がおかしい。温暖化だ!大変だ!!(二酸化炭素狩りをしなくては…)」という話が出てくるわけですが、今回は少し落ち着いて「それは本当か?」ということを考えてみたいと思います。
去年もこのブログで、「台風はだんだん強くなっているのではないか?」という仮説について考えました。(2025年4月28日)今回もその時のデータ(JCDPのデータセット)に最近数年分のデータ(気象庁等)を追加して考えます。(この追加データを巡って、とあるAIとなかなかムッと来るやり取りがあったのですが、それはまたの機会にします。)手順は以下のような感じです。分析には、前回と同じくHAD(関西学院大学の清水裕士先生が提供している統計分析ツール)を使わせていただきます。
①1877年から昨年2025年までに日本に上陸した台風のすべてについて上陸日を調べます。
②上陸日を4月1日を起点とする数字に変換します。(4月1日は1、2日は2とします。)
③上の②の4月1日起点日数を目的変数、西暦年を説明変数として、回帰分析を行います。
で、その結果が以下です。
グラフ(散布図)を見ると、台風上陸日の平均は、4月1日から150日目前後(8月末から9月初め)です。グラフは見ての通り横長に四角っぽく広がっており、回帰直線も「やや右下がりかな?」という程度です。「年」の係数はー0.045なので、1年につき0.045日(約1時間)台風が来るのが早まっている可能性を示していますが、p値が0.232もあり、これでは「台風は年々早まっている」という仮説に十分な信頼性があるとは言えません。(仮説に信頼性があるとみなすには、一般的な社会現象などで0.05未満、厳密さを求められる医学や薬学などでは0.01未満が求められます。)
もうちょっと大きなまとまりで見たらどうだろう、というわけで、観測期間を30年区切りで6期に分け、その期ごとに比較するというのも試してみました。グループ(期)間に有意な差があれば、仮説の信頼性を主張できるというわけです。
その結果が上のグラフです。これはちょっといい感じに見えますが、第5期(1990~2010年代)のところでデータが反発していて、きれいな右下がりではありません。また各期の平均値の差が統計的に有意といえるかどうかを多重比較してみると、以下のようになります。
一番、P値の低い1期(1870~90年代)と4期(1960~80年代)の比較でも0.1なので、こちらもあまり確かな仮説とは言えません。
個別に見ても、過去には1956年の4月25日、1910年の5月11日などのデータがあり、われわれのイメージはともかくとして、今の段階で台風が来るのが早くなったとは言えないようです。
ちょっと気になる点と言えば、第6期のデータのバラツキが大きい(グラフの分布範囲を示す縦線が長い)ことでしょうか。これは、台風が特定の期間に集中してくるのではなく、早い時期から遅い時期までばらけて来る(台風シーズンの長期化?)ということを表わしています。ただ、この第6期は、2020年からの6年分なのでデータ数が他の期よりも少ないということもあり、まだ何とも言えません(*2)。今後もっとデータが積み上がれば、はっきりするでしょう。
いずれにせよ物事はイメージだけで語らず、きちんとデータ分析をすることが大切でしょう。
(*1)清少納言は、この後の部分で庭の柵や垣根、植込が荒れていたり、木が倒れたり枝が折れているのも面白いと言ったり、普段はすっと美しい人が、風の音で寝られなくて、ぼさぼさの頭でぼうっとしているのがすごくいい、と言ったりしています。なんというか超マニアックな人ですね。
(*2)念のためデータの個数の均等化を図って、15年刻みの10期に分けなおして比較してみましたが、有意水準ギリギリの0.049と0.043という組み合わせがいくつかあるだけで、ほぼ同じような傾向でした。
6/17 閑話 & こんなものを読んできた44
昨夜の地震にはびっくりしましたね。わりと強い揺れだったこともともかく、スマホやタブレットが一斉になりだして、ちょっとパニック感がありました。いざというときに慌てない心構えを練らなくてはと思いました。
さて、梅雨のこの季節、通勤途中の野原に小さなピンク色の花が咲いています。(ピントが後ろに抜けてしまいました。(-_-;))
小さな花がらせん状に咲く、その名も「ネジバナ」というスズランの仲間です。この花については前任校のブログでちょっと書いた気がしますが、またの名を「モジズリ」や「シノブモジズリ」と言うそうです。
それで思い出すのが、高校生のころ夏休みの宿題で暗記させられた百人一首の「陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」(河原左大臣)という歌です。
意味としては、「私の心は、陸奥の信夫文字摺り(信夫郡の特産品の乱れた模様の絞り染めの布)のように乱れてしまった。他ならないあなたのために」みたいな感じです。
上のネジバナはそのねじれた様子が、絞り染めの布模様のようだということで別名「モジズリ」というようですが、とても清楚なたたずまいで、河原左大臣の歌の恋に夢中になって頭がグルグルしてしまっているような情熱的な感じとはちょっと似合わない気がするのですが…。
百人一首の他の歌はほとんど忘れてしまいましたが、いくつか覚えているのが、この歌とか「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」という在原業平の歌などです。こちらは「竜田川」というとても面白い落語のネタになっているので、よく覚えています。
さて、一学期も落ち着いてきたので、読書案内の「こんなものを読んできた」を再開しました。再開第1回目は、いま売れているという町田その子さんの「コンビニ兄弟」です。
6/8 自然との関わり方
1か月近く更新できないうちに、梅雨になってしまいました。今年の5月は比較的初夏らしい気持ちのいい日が多かった気がしたのに、梅雨その後はまた猛暑が来るかと思うとがっかりです。
さてこの間、出張で六本木まで行ってきました。夕方、日が落ちてくると東京タワーがきれいです。
で、それもともかく、見ていただきたいのは、六本木ヒルズから見た近くの街並みです。
都会の真ん中ですが、屋上やベランダなどちょっとした場所にも植木鉢やプランターで木が植えてあるので、以外と緑が豊かです。こういったところは日本の伝統的な良いところかなと思います。
一方、昨年からの熊の被害が止まりません。昨日あたりからは宇都宮の住宅地や繁華街にクマが出没してニュースになっています。
熊の世界に文化や伝承があるのかどうかは知りませんが、クマという種がヒトという種を恐れなくなってきているのではないか? という気がします。
ほとんどの動物はヒトを恐れ警戒すると聞いたことがあります。それはおそらく我々人類の祖先が何百万もかけて、狩猟の技術を磨き、自分たちよりも強い生き物も知恵とチームワークで倒してきたからだと思います。この何百万年もかけて、他の動物の心に叩き込んできたヒトへの恐れが揺らいでいるのかもしれません。
あとは、ヒトの活動圏が広がり過ぎて、動物たちの世界が狭くなりすぎたので、ちょっとしたことで人間側に溢れ出るようになってしまったのかもしれません。
人と自然のバランスを考え直した方がいいのかも、と言う気がしますね。
5/11 最近気になったこと(2)
連日の投稿になりますが、またネットの記事でどうしても気になったものがあるので、書かせてもらいます。
本題に入る前に、前回宝くじの買い方について書いたものの補足です。これについてはどうしても「連番が買った方が何となく得では」と思いがちです。私も長い事そう思っていました。これについて昔書いた解説がありましたので、載せておきます。宝くじ解説.pdf
さて本日の本論です。先週、私も取っている某新聞社のWebサイトに「年3万人超死亡、日本人の死因8位 新型コロナ5類から3年の現在地」という見出しの有料記事が出ました。
見出しのとおり、コロナの騒動が終わって3年たつが、コロナでは年に3万人を超える人が死んでいて、日本人の死亡原因の8位である。特に高齢者にとっては重大な脅威である。と述べ、要するにコロナの怖さを忘れるな、と警鐘を鳴らすような記事でした。
私は一読して良くない記事だと思いました。どこが良くないか論じる前に下のグラフをご覧下さい。
これは厚生労働省の令和6年「人口動態統計月報年計」からのデータです。上の新聞記事もおそらくデータの出所は同じ筈です。
記事で言う「3万人超」は数字単体でみると、すごく多く見えますが、令和6年度の死亡総数は160万5千人を超えているので、百分率なら2.2%です。第8位も嘘ではないのですが、老衰や誤嚥性肺炎よりも下位です。コロナ騒ぎ以前であれば、コロナを特に抜きだしたカウントなどしていなかったので、この分はおそらく「肺炎」などの中に溶け込んでいただろうと思います。
このグラフで見ると記事が主張するようなコロナの脅威は、(少なくとも私には)あまり感じられません…。
記事を書いた人は「それでも3万人も死んでいるんだぞ」と言うかもしれません。もちろん人は長生きする方がいいでしょうし、私も長生きしたいです。しかし、人はいつかは必ず死にます。人がコロナという病気で亡くなるのは自然死です。誤解をおぞれずに言うなら、特別なことではありません。
それよりは、上のグラフには載っていませんが、「日本には自殺者が毎年2万人前後いる」という方が問題です。自殺は病気とは違い、不自然で悲惨な死に方です。こちらこそ社会問題として取り組むべきでしょう。
要するに上の記事は、自分の書きたい方向性に合わないデータには触れずに、都合のいいところだけつまみ食いしています。こういったやり方で人々の恐怖や不安をあおるような記事はやめてほしいものです。
最近、クルーズ船の中でハンタウィルスに感染する人が出た、というニュースがありました。マスコミなどが二匹目のドジョウを狙って、またコロナの時のような大騒ぎに仕立て上げてしまわないが心配です。
5/8 最近気になったこと(加筆5/9)
連休前にネットで読んだ記事がどうにも気になったので、少しだけ書きます。
その記事の内容をざっくりまとめると、
ネット配信者のひげおやじ氏が宝くじをバラで買うのを見たひろゆき氏が、バラで買うのは損だという旨の発言をした。さらに、ひげおやじ氏が、自分は連番6バラ4の割合で買う、といったところ、その買い方では、連番10割にしたら当たっていた3000円を失う、と指摘した。今、これがネットで波紋を広げている。
というものです。
私は日頃、ひろゆき氏の個々の意見には賛成できないこともあります(賛成できることもあります)が、他の人が触れない物事の本質にズバッと切り込む得難い論客だと思っています。ただ、今回の件では、ひろゆき氏が上の報道通りの発言を本当にしたとすれば(ネットでよくある切り抜きとかでなければ)、そこには何点か誤りがあります。
まず前半部分です。宝くじ1枚ごとの期待値は、連番でもバラでも同じです。買い方で変わることはありません(10枚買っても100枚買っても同じ)。しかし連番で買えば、もし1等が出たときに前後賞も取れる可能性が高いので、大きな金額を当てる夢があります。その意味では、ひろゆき氏の連番で買うほうがいいという主張も心情的にはわかります。その一方で世の中には、バラで買って1枚ずつ「当たっているかも」と確かめるのが好きだ、という人もいるでしょう。要するに気分や楽しみ方の問題で、連番とバラどちらが得とは言えません。
後半部分です。宝くじはバラで買っても番号最後の一桁は0~9までが1枚ずつ入るようになっています。だから10枚買えば最後の一桁で決まる末等は必ずあたります。したがって、ひげおやじ氏の買い方でも損はしません。
さてしかし、今回紹介したネット記事で私が一番あきれたのは、ひろゆき氏やひげおやじ氏の発言より、この件についてコメントした「芸能ジャーナリスト」の発言です。
それは、「確率論で言えば、ひろゆき氏の指摘は正しいです。連番で買えば一定額が戻る可能性は高く、理屈としては“損をしにくい買い方”です。…」というものです。
上で説明した通り、連番で買ってもバラで買っても、宝くじの期待値は同じです。「損をしにくい」買い方などありません。「確率論」とか「理屈としては」とか言っていますが、この「芸能ジャーナリスト」の発言には「確率論」も「理屈」も全くありません。
ひろゆき氏とひげおやじ氏の発言は、個人の意見・感想なので、別にきっちり正確である必要はないと思います。またそれを報じることもいいでしょう。しかしこの「芸能ジャーナリスト」のコメントは明らかに間違っています。
記事の全体構造をよく見れば、筆者はこの問題について答えを示していません。しかし、「芸能ジャーナリスト」のコメントがこの問題へのジャッジのような印象を受ける形になっています。これでは「連番のほうがバラより損をしない」という間違った考えを世の中に広げかねません。
こういう記事を書くのであれば、ひろゆき氏の主張を「ひろゆき氏がこう言いました」と報じるだけにしておくか、記者の責任として何が正しいのか検証して結果を示すかのどちらかです。中途半端な形で不確実な情報を世間に流すのは、無責任だと思います。
何にせよ、宝くじの1等や前後賞が当たる確率は、道を歩いていて隕石に当たる確率と同じくらい低いという話を聞いたことがあります(検証したことはないですが多分本当でしょう)。「絶対当ててやる」と熱くなって全財産を突っ込むような真似はしない方がいいでしょう。
5/7 もう初夏ですね。
またまた間隔があいてしまいましたのでちょっとだけ。
更新を怠っている間に季節はすっかり初夏になりました。
先日、埼玉県総合スポーツセンターに行ったら、その敷地内に芍薬の花が咲いていました。
シャクヤクの花期はそんなに長くないので、まさに見ごろのいいタイミングで見ることができ、運がよかったですね。
さて、先週の5月1日は、在校生保護者対象の学校公開でした。この日、先に春休み中に生徒会のみなさんと制作していた本校のマスコット「パレットちゃん」の立体像が、お披露目されました。
微妙にゆるい感じがチャームポイントです。スリーピー(眠そう)な目は、三部制の本校で頑張っている本校の生徒の皆さんを表現し、しっぽの3の字と3色の風船は本校の三部制を表わしています。今後、いろいろなところで本校のPRに活躍してくれると思います。
4/21 久々の更新 &「プチ史跡2?」
最近、妙に忙しく随分更新間隔があいてしまいました。この間に始業式と入学式があり、令和8年度が本格的にスタートしました。
入学式では、バーナード・ショーの「人生は自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることだ」という言葉を引いて、新入生諸君には戸田翔陽高校でしっかりと自分を創っていってほしいという話をしました。R8入学式式式次.pdf
さて「プチ史跡2?」ですが、先日、浦和の別所沼公園の一角で、何とも不思議な場所を発見しました。
手前の滑らかな枕状の石と、その奥の表面にマーク(円形の溝の中に金属のピンが三角形に埋め込まれたもの)のある四角い石、さらにその奥の三段に積まれた石塔のようなもの一対。まるで何か宗教的な祭壇のようです。
マークのついた四角い石は、何かの境界石か測量の基点のような感じです。この場所が別所沼公園の南東の角で道路と公園の境に近いことからも、何かの基準点の可能性は高いと思います。しかし手前の丸い石は何なのでしょう。特に文字や像は刻まれておらず、仏塔や庚申塔の類ではなさそうです。ですが滑らかできれいな形をしていて、どことなく厳かでありがたい感じです。
これは私の推測ですが、この丸い石(と四角い石の組み合わせ)が、どことなくありがたい感じだったので、誰かが石を積んで左右の塔を作り祭壇のような形をととのえてしまったのではないでしょうか。
各地には、巨大な岩や不思議な形の岩を御神体にしている神社がありますが、その発祥は案外、この場所のようなことだったのかもしれません。
不思議な形の石や岩があり、「なんとなく有難いかも!?」と思った誰かがお賽銭や花を供えると、それに続く人が次第に増えていき、自然に信仰の場所が出来上がり、やがて祠や玉垣が建てられて、いつの間にか神社の誕生! という流れです。
現代では土地が高価で所有権もはっきりしているので自然発生で神社ができる、という流れは難しい気がします。しかし、もしかするとこの場所にも何十年か何百年後かには、小さな神社が立っている可能性はあります。私たちは、あらたな史跡誕生の過程を見ているのかもしれません。
4/2 新年度始まる & 寝苦しい夜は(続)
昨日から新年度が始まりました。新着任者を迎え、今年度もますます元気な戸田翔陽高校でありたいと思います。
春休みも後半戦、桜がちょうど見ごろを迎えていますが、連日の雨で花見はちょっとやりにくい感じですね。
この春休み中に生徒会の皆さんと取り組んでいる本校のマスコット「パレットちゃん」の製作は快調です。近日中にお披露目できると思います。
さて、先日の続きですが、前回取り上げた問題の続きとして「元の長方形のタテ・ヨコを求めなさい。」というのを考えたらどうか、と書きました。それについて考えてみます。
元の長方形を区切った縦3列の内、一番横幅の小さい左側の列の幅をxとすると、真ん中の列は、x+2.5、右側の列はx+3と書けます。同じように横3行のうち、一番高さの小さい下の行の高さをyとすると、真ん中の行はy+1、上の列はy+3と書けます。
外周は55㎝とわかっているので、55=2(x+x+2.5+x+3)+2(y+y+1+y+3)という式ができます。
この式を整理して6=x+yとなります。要するにxとyは足して6になればいい(ただし0よりは大きい)ということなので、縦横はこの範囲内で変化し、一つの形に決まりません。
一つの形に決まらないことが分かったところでさらに問いを追加して、元の大きな長方形の面積の最大を求めよ、みたいな問題を作ることもできますね。
しかしここまでくると寝ながら暗算とはいかなくなって、起き上がって紙で計算をはじめたりするので、寝付けない時に数学パズルでも、という本来の狙いからは完全にずれてきてしまうのですが…。
3/31 年度の終わり & 寝苦しい夜は…
今日で令和7年度も終わりです。今日を最後に退職したり転任したりする方がおり、寂しいですが、明日からはまた新年度が始まります。気を取り直して頑張らなくては。
春休みに生徒会の諸君が本校のマスコット「パレットちゃん」の立体像を作るというので技術顧問をしています。微妙なユルさをどう表現できるのかが、ポイントですね。
さて、「春眠暁を覚えず」といいますが、私の場合、花粉症もあり春は寝つきが悪く眠りも浅くつらい季節です。某社の運動や睡眠状態の記録が取れるスマートウォッチを使っているのですが、それによるとほぼ毎日、「睡眠の質=悪い。短く回復効果のない睡眠」と診断されています。
そんな寝つきの悪い時は、なるべく仕事のことを考えずに、数学パズルなどを考えるようにしているのですが、ここのところ気に入っているのが、最近、電車の中の日能研の広告に載っていた栄東中学校の問題です。
(画像ではなく文字での説明にしますが、日能研や栄東中の方で著作権的に問題があるとお考えなら、ご連絡ください。私の意図は、いい問題なので広く紹介しようということなのですが…)
たしか、長方形を井桁型に9つに区切り、区切られた長方形一つ一つの外周の長さが、
18 23 24
14 19 20
12 17 18
のようになっているとき、この長方形の外周の長さを求めなさい、というような問題でした。
私の答えは55cmです。(多分あってるでしょう)。どう考えたかというと、
①9つの長方形の外周を合計すると165cmです。
②この165cmには何が含まれているのか? ということを考えます。まず元の大きな長方形の外周が1回分含まれます。次は長方形を区切る井桁型の線です。井桁のタテ・ヨコは外周のタテ・ヨコと同じですが、9つの長方形の外周を合計すると、隣り合う長方形との境は2回数えていることになるので、井桁型の線は2回分数えていることになります。
③上の②から165cmは外周1回分+井桁2回(=外周2回)です。165cmを3で割って55cmとなります。
熟練の小学生(?)なら、ぱっと解き方が思いつくのかもしれませんが、中学・高校の数学を知っていると逆に難しく考えてしまいそうです。
さてここで上の問題に、(2)として「元の長方形のタテ・ヨコを求めなさい。」を付け加えたらどうでしょう。「外周が分かっているのなら簡単なのでは」と思うかもしれませんが、私が考えが正しければ、これは不可能な(答えがない)問題です。
この問題についての私の考えは、次回以降に述べますが、こんなことを考えているから余計寝られないのかもしれません。
3/25 修了式、「すごいぞ!ATM」 & こんなものを読んできた43
昨日は年次(他校の学年みたいなもの)の終わりの修了式でした。今日から生徒は春休みに入っています。修了式では、世界ではまた戦争が起きているが、我々は身近なところから争いをなくしていきたいということと、習慣化することは苦手の克服に有効だ、と言う話をしました。修了式校長講話.pdf
さて、2番目の「すごいぞ!ATM」です。先週、私は帰宅途中の某コンビニでお金を下ろした際に、ATMから現金を取り忘れるという失敗をしてしまいました。自宅に帰ってから気が付いたのですが、「もう、ダメだろう」と思ってしょんぼりしてしまいました。
しかし、どうしても現金が必要だったので気を取り直して、翌日、下ろしに行ったところ、残高が私の予測より多くなっています。「あれっ」と思って計算してみると、昨日、ATMに置き忘れた金額が口座に戻っていたようです。そんなことが起こるのか!? と思って調べてみたら、某コンビニにおいてあるATMには、一定時間、現金が取られないでいると、それを回収して元の口座に戻す機能が付いているとのことです。「すごい!なんて行き届いた親切な機械なんだ!」 と感心してしまいました。(試してやろう、とするのは危険なのでやめてください。)
親切な機械、といえば、最近のAIはすごく人の機嫌を取るのが上手ですね。何か質問をすると「素晴らしい着眼点です!」とか、「実にいい質問ですね」とか、まず誉め言葉が返ってきます。世の中には、これがうれしくて一日中、AIとチャットしている人がいるとかの話も聞きます。
最近、人と人の関係は、ネットの揚げ足取りや中傷誹謗が横行し、困っている人がいても「自己責任」で切りすてる殺伐としたものになっているのに、機械の方は人に優しいとは不思議なものです。
おまけの「こんなものを読んできた」第43回は、今村翔吾「イクサガミ」です。昔からある時代小説にラノベのスピード感を加えたような、なかなかいい作品です。こんなものを読んできた43web.pdf
3/16 卒業式 & 天変地異? &「こんなもの」42
先週は卒業式がありました。3年次、4年次あわせて173名が、戸田翔陽高校から巣立っていきました。
式辞では、今ではあまり歌われなくなった「仰げば尊し」の歌を引いて、卒業した皆さんが力強く生きていけるよう祈念しました。R7卒業式式辞.pdf
さて、この週末もいい天気でしたが、土曜日(3月14日)のお昼ごろ、私の住んでいる上尾近辺では、一時空が黒ずんで、太陽の光がオレンジ色に暗くなるという現象が起きました。また空から、黒いふわふわした灰のようなものが降ってきて、車の屋根に付着する(下の写真)という現象も起こりました。私の家族が「なにこれ!?」と驚いていましたし、道を歩いている人たちにも、これに気付いて空を見上げている人が沢山いました。。
そのちょっと前、午前10時半ころに私が、国道17号の歩道橋を通った際、南の東京方面は良く晴れているのに、北の群馬・栃木方面の空に黒っぽい靄が見え、「なんだろう?」と思っていたのですが、どうやら、それが上尾の上空まで来たようです。
私は一時期、鹿児島に住んでいたことがあるので、「この現象は桜島の噴火に似ているな」と思いました。しかし降ってきた灰は、鉱物質の火山灰ではなく、植物か鳥の羽のように繊維質でふわふわした感じです。「どこかで山火事でもあったんじゃないか?」と考えたのですが、家族は「何で山火事?、火山爆発? もしかしてミサイルでも落ちた?」と騒いでいます。私の経験によれば火山爆発ではかなり遠くまで爆音や空震が伝わるはずですし、経験はないですが(当たり前ですが)、ミサイルの着弾でも爆音が遠くまで届いたり、空高く爆煙が上がると思うので、私は「火山でもミサイルでもないと思う」と言いました。ちょうどお昼時だったので、ニュースになっていないかと思って、テレビをつけてみましたが、何も言っていません。それでも家族は、「パニックにならないよう情報を抑えているのかも」と陰謀論じみたことまで言い出していました。
結局、この日はよくわからず、翌日(15日)になって、ネット上で群馬・栃木・埼玉県境の渡良瀬遊水地で大規模な野焼きをした灰が風に乗って飛ばされたという記事を見つけたので、一応納得できました。しかし、某国による度々の弾道ミサイル実験や最近の自然災害の多さを考えると、人々が不安になる気持ちはわかります。皆さんの住んでいる地域では、どうでしたか?
おまけの「こんなものを読んできた」第42回は、タイトルを「こんなものを読んで…ません」と一部変更してお送りします。何でタイトルを変えたのか、については本文をお読みください。
3/6 合格発表 & こんなものを読んできた41
今日は埼玉県公立高校の入学者選抜の合格者発表でした。今はインターネットによる発表になったので、合格者発表と言っても、合格した人が書類を取りに来るだけの静かなものになりました。
「こんなものを読んできた」41回は王城夕紀「マレ・サカチのたった一つの贈り物」を紹介しています。インターネットが現在以上に影響力を持ち、資本主義経済が破綻しかかっている近未来の世界を舞台にした抒情感あふれる作品です。
インターネットの発達には目覚ましいものがありますが、近年はそれが誹謗中傷や事実無根のデマの流布に使われ、メリットを覆い隠すほどのデメリットが目立ってきている気がします。
2/25 光の春 &「こんなものを読んできた」40回
入学者選抜前日なので手短に。
今日は朝から雨ですが、この前の三連休は、「光の春」という言葉がぴったりの天気でした。あちらこちらで梅の花が咲きほころび、よい匂いを漂わせていました。
本校も含め明日、明後日は埼玉県公立高校の入学者選抜です。受検生の皆さんは全力を出し切ることだけ考えて挑んでください。私はキリスト教徒ではありませんが、聖書の中の「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。」という言葉が好きです。まずは、その日、その時に全力を出し切ることが大切だと思います。
もう春です。様々な別れや新しい出会いのある季節です。前向きな気持ちで行きましょう。
「こんなものを読んできた」は、2月になると読み返してしまう、北村薫の「鷺と雪」です。北村薫の直木賞受賞作品ですが、代表作の「ベッキーさんシリーズ」の最後を飾るにふさわしい、余韻のある作品です。こんなものを読んできた40(鷺と雪)web.pdf
2/3 経験値 & こんなものを読んできた39・39.5
朝の冷え込みはあい変わらずですが、日差しは力強くなってきました。
さて、先日、「福祉」の実習授業に招待されました。教員がデイサービスなどの利用者の役をして、生徒の皆さんが介護職員の役を務めるという実戦形式の授業で手浴やマッサージをしてもらいました。
その実習の内容として「利用者に話かけて打ち解ける」というのもあるようで、私についた生徒の皆さんが、いろいろと話しかけてくれます。「好きな食べ物は何ですか」とか「好きな色は何ですか」とか…。
その中で「何か最近ハマっているものはありますか」というのがあって、そこで私は一瞬フリーズしてしまいました。毎週見ているドラマとか、休みの日にやっている趣味、というのはあるのですが、「ハマっている」というほど夢中になっているものがないことに気が付いたからです。
若いころは毎週見ているドラマやアニメなどを見損なったりしたら、ものすごく悔しがりましたし、睡眠時間を削って模型を作ったりしたものです。しかし最近はそんなパワーがありません。テレビなどはネットの見逃し配信があるというのもありますが、作りかけの模型を半月くらいほったらかし、とか、ランニングでも目標タイムや目標距離を達成するためガンガン追い込むという気力がでなくて途中でやめるとか、とにかく熱量がたりません。
これにはもしかするとこれまでに積み重ねてきた「経験値」が関係しているのかもしれません。ドラマとか小説とかでは「同じような話が前にもあったな」とか、模型作りでは「この場合、こんな塗装方法があったな」という感じで、よく言えば落ち着いて対処できるように、悪く言えば感動が減っているように思います。
これは子猫にねこじゃらしを見せると夢中になって飛びついてくるのに、老猫になるとチロっと見るだけだったり、ほんのお愛想程度に前足を伸ばしておしまいだったり、全然乗ってきてくれないのと似ています。人生を楽しむには、もう少し心の若返りをしないとだめですね。
次に「こんなものを読んできた」第39回・第39.5回は、日本最古の書物「古事記」です。(長くなったので2回分に分けました。)
私が小学生のころ、近所に新しい本屋さんができて、開店セールで古本の安売りをやっていたことがありました。その時、まとめ買いしてきた中の一冊が、大学のテキストに使うような注釈付きの「古事記」でした。当時の私は活字の印刷されたものは何でも読むくらい読書好きだったので、古典文法など全く知らないのに闇雲に読んでしまいました。
この本は建国の神話を扱っているため左右両翼(最近は何が左で何が右かよくわかりませんが。)から、政治的に批判されたり利用されたりしてきました。しかし、そんなこととは関係なくとても面白い本です。特に建国の英雄時代を描いた中つ巻は、すごく面白いので、読んだことのない方にはぜひ読んでみることをお勧めします。
1/19 完全数の悪夢 & こんなものを読んできた38
超私事で恐縮ですが、以前このブログで悪夢を見ることが多いと書いたように、今朝も妙な夢を見てしまい、朝起きた時からなんか疲れた感じでした。
今日見た夢がどんなものだったか、というと「『奇数の完全数はない』ことを証明する方法を閃いてしまい、一生懸命計算しているのだが、できそうでできない。」というものです。
まず、完全数というのは何かと言いますと、「自分自身を除く約数の合計が自分自身になる数」です。具体的には、
6=1+2+3
28=1+2+4+7+14
のような数です。
この定義は、そんなに難しいものには見えませんが、28の次は496、その次は8128、さらにその次は33,550,336と、「○○数」と呼ばれるものの中でも出現頻度が低いものです。
この完全数については、まず、それが無限にあるかどうかも証明されていませんし、いままでに分かっている完全数は、全部偶数(2で割り切れる)で、奇数(2で割り切れない)の完全数が存在するのかしないのかも分かっていません。
小学校で習うような足し算と掛け算だけで出来上がっている完全数ですが、上のようなこともいまだに謎なわけです。それをもし証明できたら、フィールズ賞やアーベル賞(数学の世界のノーベル賞みたいな賞)も取れるかもしれません。(フィールズ賞は若手だけ)
その証明を閃めいてしまうというのは、それだけなら良い夢なのでしょうが、そのための計算を延々と続けているのは悪夢としか言いようがありません。そもそも高校の時に数学で赤点すれすれだった(その割には数学は好き)私が、完全数の証明などできるわけはなく、実際、目が覚めてから、夢の中の計算過程をなるべく思い出して、じっくり考えてみたら、すぐに間違いだとわかり全然ダメでした。いや、疲れました。
「こんなものを読んできた」38回目は宮部みゆきの名作「蒲生邸事件」です。昭和初期の2.26事件を舞台にした時間旅行SFミステリーという盛沢山な趣向の作品ですが、2月が近づいてくると読み返したくなります。
※上記の文中で2.26事件の発生年を間違えていたので、差し替えました。
1/13 新しい四半世紀 & プチ史跡2(上尾駅近くの2つの神社)
先週から今週にかけて、朝夕が氷点下の冷え込みが続いていますが、みなさんお元気でしょうか。
前に、地球温暖化の影響で北極や南極の氷が溶けて冷たい水が流れ出ると海水温が下がり冬は寒くなる、という話を聞きましたが、本当かもしれません。
先週は8日(木)に始業式があり、本校でも3学期が始まりましたが、始業式では前回このブログでも書いたように、21世紀の新たな四半世紀が始まるにあたり、「21世紀最初の四半世紀はあまり良い時代だったとは言えなかった。これからの21世紀を生徒の皆さんの世代でより良いものにしてほしい」という話をしました。
今回のプチ史跡2では、前回の「初もうでシリーズ」の続きではありませんが、私の地元上尾駅周辺の2つの神社を紹介します。
戸田翔陽高校のブログなのだから、戸田の史跡を紹介すればよいと思われる方もいるかもしれませんが、本校を含めた現在の戸田市の中心的な市街地のある場所は、江戸時代にはほぼ水田地帯でした。そのためか本校から気軽に行ける範囲には神社等はあまりありません。現在では戸田市の西の端になる美女木やその北側のさいたま市内谷周辺の方が古くから開けた土地だったらしく、寺や神社がたくさんあります。
と言い訳をした後、本題に戻ります。一つ目は今年最初のブログでも出てきた氷川鍬神社です。上尾駅の南側、丸広SCのすぐ隣にあります。この神社については、前任校のブログでも書いた(氷川鍬神社について(与野高校ブログ).pdf)のですが、多少付け加えたいことがあるので、再論します。
この神社はもともとは鍬神を祭る「鍬太神宮」でした。その由来としては、寛永8年の末に北の桶川の方から、鍬神の御神体の入った櫃を引いた童子が歌い踊りながらやってきた。童子たちは上尾宿の本陣前に台車を残して消えたので、上尾宿の人々は御神体を祭る神社を建てた、というものです。
この話は中部東海地方に多い鍬神信仰と同じ話です。鍬神信仰は、伊勢神宮別宮の伊雑宮のお田植祭りで使われた鍬を神体にして、これを村から村へリレーのように歌い踊りながら送っていくというものです。宗教的な熱狂が突発的に発生して地域一体に拡散する現象なので、地域を統治する大名や幕府から治安を脅かすものとして危険視されることもあったようですが、今でも愛知県や岐阜県などには、これに由来する「鍬神社」がたくさんあります。
「なるほど、これが上尾まで広がったのね」と納得できればそれで終わりなのですが、そうはいかないところがあります。中部・東海地方で先述の「鍬神信仰」が最も盛んだったとされるのは、明和年間(18世紀後半)で、各地の「御鍬神社」もこのころにできたようです。ところが上尾に鍬神の櫃がやってきたのは寛永年間(17世紀前半)とされていて、100年以上早いのです。このこと自体は、鍬神信仰が実は非常に息が長く、繰り返しブームになっていたのだと考えることもできますが、だとしても、本場の中部・東海地方よりも早く、鍬神をまつる神社が上尾にできたことになります。また、なぜ中部・東海からはるか離れた上尾に鍬神をまつる神社ができたのか、とか、鍬神信仰の広がりは中部東海を超えて、関東にまで及んでいたのだろうか、いろいろな謎があるわけです。
もう一つは、上尾駅の北側、線路沿いの道を少し行ったところにある小さな社「胡桃下稲荷」です。飲食店の多い繁華街に商売繁盛の神として五穀豊穣の神である稲荷社があるのは珍しくありませんが、ここの稲荷はよく見かける伏見稲荷や豊川稲荷ではなく、笠間稲荷(茨城県笠間市)の末社です。
この本社の笠間稲荷が実はなかなか不思議な神社なのです(上尾胡桃下稲荷について(与野高校ブログ).pdf)。上尾駅の近くにこういう二つの面白い神社があるというところが、私としてはなかなか気に入っています。
1/7 「こんなもの読んできた」36・37 & プチ史跡2(鳩ケ谷探訪
生徒の皆さんは、明日から3学期ですよ。忘れずに学校に来てください。
まず、「こんなものを読んできた」は年末・年始に生徒に配信した36回と37回をまとめて掲載します。
こんなものを読んできた36(誰が勇者を殺したか)web.pdf
さて次は「プチ史跡2」ですが、正月2日に親戚のいる鳩ケ谷方面に行ってきたので、その探訪記です。
鳩ケ谷は今は川口市の一部ですが、昔は日光御成道の宿場として栄えた独自のアイデンティティーを持った街です。戦前に一度川口市と合併しましたが、戦後にまた分離して周囲を川口市に囲まれた状態で存続し、平成の大合併でまた川口市と合併したという沿革を持っています。
まずは、鳩ケ谷の総鎮守氷川神社から。
この神社は応永元(1394)年(室町時代)に創建されたそうですが、社殿も参道も立派で、当日は初もうで客が一ノ鳥居のところから行列をする賑わいでした。氷川神社は埼玉から東京にかけては、たくさんあるのにそれ以外の地区ではほとんど見られません。前にも書きましたが、氷川神社のこのローカル性は、本来、地域限定のローカルな神様を祭る神社だったからだと思います。現在の主神スサノオノミコトは、武蔵国造として出雲系の一族がやってきた後の後付けでしょう。
次は、鳩ケ谷の本通り(御成道)にある十一屋北西酒店です。
宿場町の商家の造りをそのまま残す店舗と蔵は国の登録有形文化財になっています。しかし、今回取り上げたのはそれだけが理由ではありません。
私の地元上尾には、清酒「文楽」の蔵元がありますが、その文楽を作っているのが北西酒造、販売部門が十一屋です。上尾の北西酒造と鳩ケ谷の北西酒店はつまり親戚同士というわけです。鳩ケ谷の十一屋さんは、明治時代に店を構えて今のご主人は4代目とのことです。上尾の北西酒造とはずいぶん前に枝分かれしたことになりますが、いまだに縁がつながっていて、この店で売られている「純米吟醸 鳩ケ谷宿」や「純米吟醸 御成姫」は上尾の文楽の協力で出来上がったそうです。
さらに元をただせば、北西酒造さんの一族は近江から来たようですが、埼玉県の各地の蔵元にはご先祖が近江商人だったというところがたくさんあります。秩父の「秩父錦」の矢尾酒造さんもそうですし、毛呂山の「琵琶のさゞ波」の麻原酒造さんも近江出身です。
いまや、技術的・経済的にすっかり立ち遅れた感のある今の日本ですが、立ち直るきっかけは、こういう日本独自の家業や縁を大切にする風土にあるかもしれない、と思うのですが。
最後は、鳩ケ谷の本町から南に下った八幡木地区の八幡神社です。八幡神社があるので八幡木、なのでしょうが、この辺りは昔は中居村と言っていた所です。こちらは、氷川神社とは違い初もうでの人もおらず静かでしたが、この神社の本殿は側面に施された浮彫が見事です。 三面、全部写真に撮ったので掲載します。
八幡神社は、京都の岩清水八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮のように、歴代の源氏が尊崇した神社なので、浮彫も源氏ゆかりの「鎌倉繁盛」といわれる組み物の図柄が多いようです。ここの浮彫も一番上が「鶴の放生」、中が「天狗と源義経」、下が「源為朝の土人退治(ポリコレ的にまずそうな表現ですが、ここはそのままで)」で「鎌倉繁盛」のようです。
躍動感のある素晴らしい作品です。作られた当時は彩色されていたはずなので(日光東照宮や妻沼の聖天山のように)さらに見事だったろうと思います。
これは全く何の根拠もありませんが、上尾の向山不動堂や二ツ宮氷川神社の浮彫と作風が似ている気がします。向山不動堂の方は明治に作られ、山田弥吉という職人さんの作品だということがわかっています。
神社の本堂には、こういう浮彫が施されていることが多く(はがされてただの板壁になっているところもありますが)、それを見て歩くのもなかなか楽しいものです。
1/5 あけましておめでとうございます。&プチ史跡2
みなさん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
正月なので、まず最初に地元上尾の知る人ぞ知る富士山スポットから元旦に撮影した1枚。
朝方、少し雲が多かったのですが、富士山は今年もきれいに見えました。
気が付けば今年は西暦2026年、21世紀の最初の4半世紀が終わりました。私が子供の頃、21世紀は科学技術が発達してどんな夢でもかなう豊かな時代として想像されていました。しかし現実のこの4半世紀では、人権、平等、自由、国際協調などの20世紀後半には誰も否定できなかった建前が、平気で踏みにじられるようになった気がします。
次の4半世紀は、理性や公正といった価値観が蘇る時代になりますように。
さて、今回のプチ史跡2は初もうでにいった上尾の氷川鍬神社からお届けです。コロナですっかり減った初もうで客も今年は完全復活でした。というより前より人出が多いかもしれません。
この氷川鍬神社は上尾駅の近く、昔の上尾宿の中心部にあります。境内はあまり広くないのですが、富士塚や太子碑など史跡や遺物が所せましと並んでいます。今までも順次紹介してきましたが、今回はまだだったものを二つほどいってみましょう。
一つ目はこれ。
「奉納 敷石~」と書いてあるのか読めます。これは敷石供養碑ですね。「供養」というとご先祖様を祀るみたいなイメージがありますが、世のため人のために善行を施し、徳を積むことも供養といいます。このブログでも前に与野の石橋供養碑を紹介しましたが、敷石供養もその仲間です。
次はこれ。「虫火橋建設記念」と書いてあります。横には「埼玉県知事 齋藤守圀 書」とあります。
調べてみると「虫火橋」というのは、上尾(平方地区)ー川越(老袋地区)間の荒川にかかる開平橋の古い名前のようです。しかし、それなら、なぜ平方ではなくここに建っているのでしょう。昭和の初めころまで平方は上尾に負けない町だったので、建てるなら現地に近いそちらの方がよさそうなのに。また齋藤守圀という人が知事だったのは1924年の途中から27年の途中までです。ざっと調べた限りでは、開平橋に関してこんな立派な碑を建てて記念するほどの大きな工事の記録は、この時代には見当たりません。なにか知られざる改修や修繕が行われたのでしょうか。
正月早々、またわからないことに出会ってしまいました。
12/16 プチ史跡(遺物)巡り2 & こんなものを読んできた35
年も押し詰まり寒い日が続きますが、お元気でしょうか。12月は酉の市の季節です。県内だと熊谷から大宮や浦和、川口と北から南に祭の日程が並びます。屋台を出す香具師の皆さんも祭の日程を追うように旅をしているのでしょうか。
さて、今回の「プチ史跡」は史跡というより遺物です。
先日、事務室のリサイクル封筒の引き出しの中から、昔の給料袋を見つけました。旧戸田高校の時代ですから最低でも22年前ですが、戸田高校から戸田翔陽高校に変わるころには、現金支給を受けている人などほとんどいなかったので、もっと古いものかもしれません。
教員の給与は昔は毎月現金で手渡されていました(今も要求すれば現金支給は受けられると思いますが)。これは労働基準法で給与は通貨で直接、労働者に支払うことと決められており、公務員にもそれが準用されるためです。
しかし給料が20万円で50人分としても1000万円です。年齢が高い人の給料はもっと高かったでしょうし、当時はクラス数が多く、1校当たりの教員の数も今以上でした。何千万円もの現金を毎月、安全に運搬し間違いなく袋に詰めるのは事務室の人にとって大変なストレスだったと思います。
私が教員になったころには、労基法施行規則が改正されて、銀行振り込みが認められるようになっていましたが、何かの信念なのでしょうか、頑として現金で支給を受けている人たちがいました。こういう人たちの目には、事務室の人たちも自分たちと同じ、苦労や痛みを感じる人間なのだということが見えていなかったのだろうと思います。
もし今も給料の現金支給が行われていたらどうでしょうか。何しろネットで押し込み強盗の仲間を集められる時代です。毎月、決まった日にたくさんの現金輸送が行われることがわかっていたら、町中に強盗志願者があふれて大変なことになるかもしれません。
「こんなものを読んできた」第35回配信は、前回に引き続き蓑輪諒の歴史小説で「殿さま狸」を紹介しました。最近の歴史小説も、よく史料を読み込んで、今まであまり取り上げられなかったような人物を取り上げたり、新しい観点から事件を見直すようなものが多くて面白いですね。こんなものを読んできた35(殿様狸)web.pdf
12/9 こんなものを読んできた34 & プチ史跡2 川口の氷川神社
期末考査も修学旅行も終わったので「こんなものを読んできた」配信再開します。今回は蓑輪諒「うつろ屋軍師」です。歴史小説というジャンルもこれまでにものすごい数の作品が書かれてきたこともあり、最近ではメジャーな人物ではなく、こんな人もいたんだ! というような人物を掘り起こしてくる作品が多くなってきたような気がします。
「うつろ屋軍師」もそんな作品で、織田・豊臣・徳川と政権が変わっていく激動の時代に、主家である丹羽家を守るために苦闘した江口三右衛門正吉という人が主人公です。この時代には柴田勝家とか石田三成とかの堂々たる敗者もいましたが、そうではなく家や家臣、領民を守るために何としても生き抜こうとした人たちもいました。それも立派な生き方かなと思います。
さてプチ史跡2は川口市下青木の「鎮守氷川神社」です。先週、川口市立高校に行った際、少し時間があったので西川口から同校まで徒歩で行くことにして、道すがらに寄ってきました。
この氷川神社には初めて行ったのですが、予想以上に立派な(失礼)社殿で、神職の方も常駐しているので驚きました。境内にはたくさんの摂社などがありますが、特に目を引くのは「厄割石」と「神撰田」、「富士塚」でしょうか。
「厄割石」は、穴の開いた小さな陶器の玉に払いたい厄を吹き込んで岩にぶつけて割ると厄が払える、とするものです。全国のあちこちの神社にあるようですが、実物を見たのは初めてです。
「神撰田」(しまった!写真がない)ですが、境内に一坪くらいの田んぼが設けてあります。ここで神に供える稲を作るわけですが、神道の源流の一つが稲作にかかわる太陽神や穀物神への信仰であることをうかがわせます。
「富士塚」は、これまでも何回も書いていますが、富士山をかたどった小塚で、富士山を信仰する富士講の人たちが実際に富士山に行く代わりに、これに登ったりしたものです。この神社境内の富士塚は、鳥居から山頂までらせん状に登山道が作ってあり、たくさんの富士講の碑が建てられた立派なものです。
この富士塚の登山道には〇合目をあらわす標柱が立っているのですが、それを見ると寄進者として「新曽村」の○○(ここはよく読めない)と書いてあります。(下の写真の赤丸内)新曽と言ったら、本校の所在地なのですが、思わぬところで新曽の字に出くわしました。
この神社のある場所は江戸時代には足立郡戸田領下青木村と言われていたところです。荒川に沿って下青木村の西隣は下戸田村、その西側が新曽村でしたから、今は川口と戸田に分かれていますが、昔は地域的なつながりが深かったのかもしれません。
あとこの付近はびっくりするほど氷川神社が多い地域です。この氷川神社から半径2~3kmの範囲内に、地図上でざっと見ただけで、10(上青木、朝日、元郷、赤井、江戸袋、飯塚、鳩ケ谷、三ツ和、舎人、入谷)もの氷川神社があります。小さなお社なども含めればもっとあるかも知れません。この地域を流れる芝川(新芝川)は今もかなり川幅がありますが、昔は入間川の本流でしたから、いまよりもずっと大河だったはずです。先に挙げた神社はその川が形成した自然堤防上に散らばっています。氷川神社が元は水神信仰の神社であることを示しているように思われます。
12/4 科学と非科学の間
昨日から、2年次が修学旅行に行っているので、校内に人が少なく静かです。本校の修学旅行は、2泊3日関西方面なので、海外に行く私立や沖縄・北海道に比べると少し派手さには欠けますが、参加した生徒の皆さんにはいい思い出になるのではないでしょうか。
さて、本日のお題「科学と非化学の間」ですが、最近セブンイレブンで「水素焙煎コーヒー」というのを売っています。店頭の説明書きでは、おいしくて環境にも良いと書いてあります。
これは、私個人の感想ですが、たしかに水素焙煎コーヒーは香りに甘さがあって、おいしいと思います。もともとセブンイレブンのコーヒーはドリップ式なので、某有名コーヒーチェーンの蒸気式より繊細な味わいがありますが、水素焙煎はそれよりさらにおいしい感じです。
で、ここで気になるのはなぜ、おいしくて環境に良いのか?という点です。これについてはセブンイレブンのWEBページに説明がありました。要点をまとめると、
①水素焙煎では、焙煎するときの燃料に普通のガスではなく水素ガスを使う。
②水素で焙煎すると普通のガスより、火力の調整幅が広く、特に弱火が使えるので、コーヒーの味が引き出せる。
③水素ガスは燃えても二酸化炭素が出ないので、環境にやさしい。
ということです。
①と②について、水素ガス(図左)は都市ガス=メタン(図中)やプロパンガス(図右)と違い、炭素(黒の玉)を含まず、全量がよく燃える水素(白の玉)なので、細火でも安定して燃え火力調整がうまくできるというのは、なんとなく納得です。また③についても、水素ガスには炭素原子が入っていないので、燃焼によって二酸化炭素が出るはずがありません。
セブンイレブンによる説明は筋が通っていて、ここまでは良いのですが、ここから先がちょっと問題です。
まず、③についてですが、確かに水素の燃焼では二酸化炭素は出ません。しかし、その水素はおそらく電気分解で製造されたものでしょう。電気分解を行うための電気がどのように作られたかが問題です。火力発電ならそこで二酸化炭素が排出されますし、原子力なら二酸化炭素は出ませんが、処理と保管が厄介な放射性廃棄物の問題があります。
電気自動車や燃料電池車などと同様に、その場で二酸化炭素が出ないからエコ、というのはちょっと違うのではないかと思います。背景まですべてひっくるめたトータルで考えないと…。
次にこれはセブンイレブンとは関係なく、同社に責任はない話ですが、「水素焙煎コーヒーは健康に良い」とか言い出す人が、ネット上に現れています。
同じように「水素」とついたものとして、水に水素ガスを溶け込ませた「水素水」というものがあります。電子部品の洗浄に使うと、水に含まれる微小な泡で高い洗浄力が得られるというものです。これについても「抗酸化作用がある」とか「健康に良い」という人がいますが、医学的・科学的には証明されていません。
また仮に水素水が健康によいということが、将来、科学的に立証されたとしても、「水素焙煎コーヒー」は豆を焙煎するのに水素を使っているだけで、水素水とは関係ないはずです。ネットの「健康に良い」とかいう説は、「水素」という言葉につられて、水素水と同様の効果(とされるもの)があるかのように言っているのでしょう。
こういった言説は非科学的なだけでなく、それを流布されることは、販売者のセブンイレブンにとっても迷惑でしょう。私としても水素焙煎コーヒーはとてもおいしいので、外野のせいでそれが怪しい健康食品のように扱われて評判が悪くなっては困ります。
今回、特定の会社の特定の商品について書きましたが、これはその商品を宣伝しようとする意図ではなく、それをきっかけに科学的に考える習慣を広げようと考えたからです。念のため申し添えておきます。
12/2 「こんなものを読んできた」第33回 & ちょっとだけ「プチ史跡」
昨日に引き続き更新です。
期末考査も終わったので、生徒向け読書案内「こんなものを読んできた」の配信を再開します。配信してもどれくらいの人が読んでくれているのか皆目わからないのですが、先日、「読みました」と声をかけてくれ、しばらくマニアなトークに付き合ってくれた人がいました。反響があるのはうれしいものですね。SNSで「いいね」やフォローが欲しくて、手段をえらばない行動に走る人がいるのもちょっとわかる気がします。
今回紹介したのは、アマゾンのサブスクで読んだラノベ「アルマーク」です。よくある話といえばそうなのですが、読後感が良い作品なので紹介しました。
さて今回もおまけにちょっとだけ、史跡を紹介します。
この写真は何か? というと、旧中山道と県道51号(川越上尾線 ) の交差点の少し北側の愛宕神社境内にある水準点です。水準点とは地図などを作るときの高さ(標高)の基準となる点で、写真の物は16.4mの水準点です。かなり年季が入った感じですが、非常に大事なものです。もし他の場所で水準点を見つけても、傷つけたり壊したりしないよう気を付けてください。
12/1 プチ史跡巡り2 小鹿野編
学校の方は今日が期末試験最終日です。2年次生はこの後、修学旅行へ、他の年次の人も冬休みに向けた各種行事に入っていきます。
この数日、朝夕は冷え込みましたが、空が澄んで日差しの暖かい本当にいい天気が続いています。私が子供のころ”Beautiful Sunday ”という曲が大流行したことがありました。日本語だと「美しい日曜日」となり、私的には「日」という本来抽象的な時間の概念に「美しい」という物質の状態を表す形容詞をかぶせるのは、少し違和感がありますが、昨日などは「それもいいか」と思ってしまうような一日でした。
さて、先週の金曜日もいい天気でしたが、総合学科校長会のために小鹿野高校へ行ってきました。少し早めについたので、経路上のいくつかの史跡を回りました。
一つ目は、小鹿野化石館と「ようばけ」です。
今ではすっかり山地となっている秩父地方ですが、太古には古秩父湾という海でした。秩父からは巨大なサメなど海洋生物の化石が多数出土していますが、最も有名なものがパレオパラドキシアです。パレオパラドキシアは秩父鉄道の蒸気機関車「パレオエクスプレス」の名の由来ともなっている巨大な海獣で、これの化石の復元模型が小鹿野化石館にあります。
ウイキペディアさんに載っている復元図で見ると手足の長いセイウチのような微妙な格好ですね。まだ完全に海の生活に適応しきっていないような感じです。
この化石館のすぐ近くにあるのが、「ようばけ」です。「はけ」というのは崖や急斜面のことで、「ようばけ」も赤平川の浸食により形成された断崖で、断面にきれいに地層の重なりが見えます。
「ようばけ」は崩れやすいので近づくのは危険とのことですが、この辺りの河岸の斜面はいかにも化石が出そうなところです。この日も遠足の小学生の団体がネイチャーガイドの人に案内されて化石採掘に出かけていくところと会いました。大正時代には盛岡高等農林学校在学中の宮澤賢治も地質の巡検に来たことがあるようです。
また私的には「赤平(あかひら)川」という地名が気になります。なんとなくアイヌ語地名ぽい(北海道の赤平市のように)気がして…。小鹿野の辺りは山に囲まれた程よい平地で、古くから人々が住んでいた場所ですから、アカヒラというのもすごく古い地名なのかもしれません。県内には坂戸に「越辺(おっぺ)川」という川もありますが、関東地方にはほかにもアイヌ語語源の可能性のある地名がたくさんあります。
この日のもう一つの探訪地は知る人ぞ知る「お塚古墳」です。
こんもりときれいに盛り上がった塚の上に小さな社がある変哲のない小古墳に見えますが、この古墳には「羊太夫の墓である」という伝承があるそうです。「羊太夫」とは何かという話は少し長くなります。
群馬県吉井町(今は高崎市の一部)にある日本3古碑の一つ、多胡碑の碑文中に、上野国に多胡郡を作り「羊」という人物に与えたと読める部分(異説あり)があります。これが「羊太夫」で、中世の説話集などに、群馬と奈良の都を1日で往復したとか、朝廷に謀反を疑われて討伐されたとかの伝説がのっています。星野之宣のマンガ「宗像教授シリーズ」にも登場し、海外から渡来した胡人(ペルシア人など)の首長だったのではないかという説が展開されています。大変、夢のある話なのですが、私はこの伝説は、史実を反映したものではないと思います。(私がいつでもキワモノの説を支持すると思ったら大間違いですよ!)
なぜなら、羊太夫の説話がのっているのは中世(南北朝期)から後の文献ばかりで、古代からの伝承かどうかはっきりしないからです。これらの説話は多胡碑の「三百戸郡成給羊成多胡郡」とある部分を「三百戸を郡と成し羊に給いて多胡郡と成せ」と読んだことによるものでしょう。しかし、この部分は「羊を給いて多胡郡と成す」と読む、要するに新設の多胡郡に設立の原資として家畜の羊を渡したという説の方が正しいのでは、という気がします。
また、郡を任されるほどの人物が「羊」という名前だけで、姓もなく無位無官というのも疑問です。仮に「羊」が無位無官の地方豪族だったとしても、郡を任せる時点で何らかの官に任命するのではないかと思います。そうしたらその任命についても記録したはずです。この碑文の後半には、郡を作る命令をした人の名が出てきますが、こちらは「左中弁正五位下多治比真人」のように詳しく官職・位階・姓を書いていますから…。
まあ、それはともかく、この小鹿野に「羊太夫」の墓と言い伝えられる古墳がある(群馬県にも「羊太夫の墓」がある)というのが面白いと思います。小鹿野から国道299号をたどればすぐに群馬県の上野村に出ますが、この辺りは古くから「羊太夫」伝説のある上野国との関係の深い地域だったのでしょう。
11/25 明日から期末テスト & 嫌いな言葉「タイパ」
早いもので明日から期末考査です。翔陽生のみなさんは、勉強もさることながら、かぜやインフルエンザにかからないよう注意してください。試験で最も大事なことは休まないことですから。
試験前なので「こんなものを読んできた」はお休みです。いろいろあって中間~期末にはあまり配信できませんでした。試験後は冬休みに向けて再開するべく、少し書き溜めておこうと思います。
さて、本日のお題の2つ目は「嫌いな言葉」シリーズです。前から時々、嫌いな言葉については触れていましたが、ついに待望(誰が待望しているのでしょうか?)のシリーズ化です。その第1弾は「タイパ」です。
タイパはタイムパフォーマンスの略で、Cost Performanceから派生した和製英語です。
私はこの言葉を使う人を信用しません。仮に初対面の人がこの言葉を使ったとしたら、もう永久にその人を信用しないでしょう。
この言葉のシンプルな意味としては「時間当たりの効率」ということでしょう。その意味で使われているのであれば、この言葉には特別な意味合いはありません。しかし、実際に使われる場面としては、手間がかかったり困難が予想される仕事から逃げる言い訳として「そんなタイパの悪い仕事はやっていられない」という感じに使われることが多いと思います。
ちゃんとした仕事にはしかるべき手間と時間がかかるものです。たとえば伝統工芸の漆塗りのような仕事では、下地から仕上げまで何度も漆を塗り、磨き、また塗り重ねるという手間と時間が必要です。手間を惜しんで、1回で分厚く塗るというわけにはいきません。それと同様に、どんな仕事でもきちんと仕上げるにはそれなりの手間と時間が必要です。
もちろん私も、手間がかかるだけの無駄な仕事(ブル・シット・ジョブ)がいいというつもりはありません。同じ仕事なら短時間で片付けたほうがいいでしょう。
しかし、上記のような名人と言われる職人さんの仕事には、そもそも無駄な動作がありません。毎日何百回何千回と繰り返して最適化された動作で複雑な工程をよどみなくこなしていきます。そうなるためには何年にも及ぶ修練が必要です。職人の仕事に限らず、そういった地道な努力に耐えられる精神と覚悟のない者が、自分にはできない言い訳として「タイパが悪い」と言っている気がします。「タイパ」という言葉の実際の使われ方にはこういったニュアンスが漂うようで、その品性の低さはまさに唾棄に値します。
勉強などでも、同じことが言えます。私の経験では「いい参考書」「いい問題集」、「能率の良い勉強法」を探し回っている人ほど、勉強はできないものです。まず手元にある教科書をよく読む。今持っている問題集を繰り返し解いてみるのが、最も早い成績アップの道だと思います。
11/18 祝! 戸邉さん厚生労働大臣賞受賞 プチ史跡巡り2 早川雪洲の机
11月16日(日)に開かれた全国高等学校定時制通信制生活体験発表大会に、本校4年次の戸邉菜月さんが埼玉県代表として出場し、第2席の厚生労働大臣賞を受賞しました。詳しくは追ってほかの記事が出ると思いますが、まずは速報です。
さて、次にプチ史跡巡り2です。
上記の大会のために訪れた六本木のハリウッドビューティープラザのホール前の廊下に、早川雪洲愛用のライティングデスクが置いてありました。黒檀(?)で作られたキャビネットの全体に精緻な彫刻が施された見事な机です。
早川雪洲ってだれ? と思った人も多い(というかほとんど?)と思います。
早川雪洲(1886~1973)は、第二次世界大戦の前からアメリカ映画界で活躍していた日本人俳優です。雪洲は身長171cmと明治生まれとしてはかなりの長身でした。当時はアメリカの白人男性の平均身長も170をやや超える程度だったと思われますので、体格的にも引けを取らず、顔だちも端正で中々のイケメンでした(下の写真の机の上のパネル参照)。1910年代後半~30年代には、白人女性を誘惑する危険なアジア人男性の役どころで大人気だったようです。
私は早川雪洲の出演した映画は、彼の晩年に近い「戦場にかける橋(1957)」しか見たことがありません。この時、雪洲はもう70歳くらいでしたが、厳格だが武士道精神をもった軍人の役を演じ、好評を博しました。
その雪洲の机がなぜ、ここにあるのでしょうか。ハリウッド美容専門学校(メイ・ウシヤマ学園)は1925年創立という歴史ある専門学校ですが、その創始者、牛山清人(*)が、ハリウッドで早川雪洲の付き人をしていたという縁があるようです。牛山は当初、俳優を目指しスタントマンなどをしていましたが、手先が器用でメイクアップが上手だったので、そちらの専門家となり、帰国して学校を開いたとのことです。
それにしても早川雪洲といい牛山清人といい、まだ映画産業が始まったばかりのアメリカに飛び込んで活躍するとはすごいですね。今のすっかり自信を失って内向きになってしまった日本人は明治生まれのバイタリティーを見習うべきではないでしょうか。
(*)本校卒業生もお世話になっているメイ・ウシヤマ学園の創業者を敬称抜きなのは、ちょっと引っかかる感じはあったのですが、100年も前の方なら、もう歴史上の人物(豊臣秀吉とか徳川家康というのと同じ)だろうと思ったのと、「早川雪洲」との記述のバランスをとりました。
11/12 プチ史跡巡り2 中浦和の板石塔婆
昨日、別所沼公園から中浦和駅周辺を歩く機会がありました。中浦和駅近くの浦和でも有数のうなぎの老舗「萬店」さんの駐車場の一角に古い石碑(写真下)があります。以前から存在は知っていたのですが、近くに寄ってみたことがありませんでした。
頭がとがった石板で、中世にたくさん建てられた板石塔婆であることは見当が付きました。板石塔婆は全国に分布していますが、この石碑のように秩父山の緑色の石(緑泥片岩)で作られたものは「武蔵型板碑」と呼ばれ、埼玉県近辺でたくさん見られます。説明看板によれば、この板碑は弘安4(1281)年に建てられたものだそうで、だとすると現存する板碑の中でもかなり古いものと言えます。
私はこういう石碑が好きなので、見つける度に寄り道して見物していますが、私の見た中でこの板碑に匹敵するほど古いものは、建長8(1256)年に建てられたという、羽生の毘沙門山古墳のところの巨大板塔婆くらいです。あちこちで見かける庚申塔や馬頭観音などは、古くても江戸時代の元禄年間や宝永年間くらいでしょう。
ただ、この板碑はナメクジでも這いまわったような茶色い傷あとが全面にあります。かろうじて梵字や蓮花が刻んであるのがわかり、その左側にも年紀などの刻字があったような感じですが、ほとんど碑面が読み取れません。説明看板には「浦和市観光協会」と書いてあるので、それ自体が20年以上前の物です。茶色の傷がどのようにしてついたのかわかりませんが、20年前にはもっと鮮明に碑面が読み取れたのかもしれません。
弘安4年と言えば、元(モンゴル人が建てた中国の王朝)と高麗(昔朝鮮半島にあった国)の連合軍による2回目の日本侵攻(弘安の役)があった年です。この2回にわたる元・高麗連合軍の侵攻(いわゆる蒙古襲来)については、以前は奇跡的に暴風雨が吹いて助かったという「神風」説が主流でしたが、最近は鎌倉幕府が外交や諜報活動を通じて情勢を分析し、侵攻に備えて防衛設備や動員体制を整えていたから勝てた、とする説の方が有力です。
きちんと情報を分析し勝つ(負けない)ための準備を十分にしておく、理性的な態度が必要であるというのは、現代にも通じる教訓ですね。
11/10 追悼 晋平太さん
この週末、ネットのニュースを見ていたら、ラッパーの晋平太さんが亡くなったというニュースがありました。
私は特にHIPHOPやラップが好きというわけではないのですが、数年前、晋平太さんとお会いし、ちょっとだけですがお話をしたことがあるので驚きました。
なぜ晋平太さんと話をする機会があったのかというと、前任校で行われたPTA主催の生徒向け講演会の講師としてお招きしたからです。
講演のタイトルはたしか、「言葉のパワー」でした。日本を代表するラッパーとして活動されてきた経験を元に、言葉を発することで人とつながり、自分の未来を切り開いていくことができる。それだけでなく、たとえ過去がつらいものだったしても、現在の自分が言葉を発することで未来の自分を作っていけば、それは自分にとって意味のあるものになる、というお話だったと思います。
講演の開始前に少しお話をしたのですが、本質的に真面目な人柄なのに、ラッパーとしてはあまり生真面目な感じにはしたくないし…みたいな雰囲気で、自信と含羞が入り混じった微妙な感じがとても魅力的でした。
私は、今は「言葉」が危機に瀕していると思います。ネットを中心に、揚げ足取りや「切り取り」が横行し、故意に人の言葉を曲解しての中傷(言いがかりともいう)や、明らかな虚偽の流布まで平然と行われています。
そのような時代であればこそ、晋平太さんのお話されていた「言葉のパワー」、人と人をつなげる言葉の力を取り戻し、育てていかなければと思います。
ご冥福をお祈りいたします。
11/6 祭のあと & こんなものを読んできた第32回
昨日の体育祭、本日の総合閉祭式をもって今年の翔陽祭が終わりました。活気に満ちた祭のあとはどことなく寂しいものです。とは言え、生徒諸君は虚脱していないで、また来週から元気に学校に来て下さい。
終わったといえば、翔陽祭と並んで全国の話題を集めた2025大阪万博も先月終わりました。主催者は2500万人以上の来場があった、と発表していますが、私を含め私の周囲で行ったという人はほとんど見当たらないのですが…。不思議ですね。
同じ大阪万博でも1970年の大阪万博では、今回をはるかに超える国民的な熱狂がありました。海外からの観光客が今ほどいない時代に、6400万人の来場があったということです。私も学研の「科学と学習」別冊ガイドブックを暗記するほど読んでは、親に連れて行ってくれるようにせがんでいましたが、だめでした。(当時の私の家の経済状況を考えれば無理もないのですが、ずいぶんと親を困らせたと思います。)
この1970大阪万博の最大の目玉は、その前年にアポロ11号が月から持ち帰った「月の石」の展示でした。それらの影響もあって、このころ子供だった私と同年代の人たちには「宇宙が好き」という人がたくさんいます。今回の「こんなものを読んできた」第32回は、その宇宙大好き世代の仲間、あさりよしとおさんの「アステロイドマイナーズ」を紹介します。かなりビターな内容ですが、それでもやっぱり人類は宇宙へ出ていくべきだ、というメッセージを感じます。こんなものを読んできた32(アステロイド・マイナーズ)web.pdf
11/1 翔陽祭第1の山場
今日は翔陽祭第1の山場、文化祭2日目です。
昼間は事前予約1900名を超えるお客様に来ていただき大盛況でした。
今は(午後4時50分)はちょうど中夜祭が始まったところです。
歌ったり踊ったりサイリウムを振ったり、盛り上がった去年よりもさらにパリピ感1.2倍くらいな感じですね(個人の感想です)。
翔陽祭はさらに来週の体育祭へと続きます。
10/31 翔陽祭始まる。
いよいよ翔陽祭がはじまりました。
今日は文化祭の1日目、校内+お隣「かけはし特別支援学校」さんへの公開です。
私も校内をざっと回ってきましたが、その結果、今日の私の昼食は、文化祭メニューになりました。
明日は一般公開です。午前中雨が残らないか、ちょっと心配ですが、いい文化祭になるといいなと思います。
10/30 秋深し & 文化祭今昔
秋が深まってきました。そろそろクローゼットからコートを引っ張り出そうかなという感じです。昨日の夕方も、空気が澄んで夕雲がとてもきれいでした。
昨日から始まった文化祭の準備は、今日が2日目です。三部制の本校も文化祭の期間中は一斉登校になり、生徒会活動や部活動などでは、日頃顔を会す機会の少ないⅠ部~Ⅲ部の生徒たちが力を合わせて取り組みます。
文化祭は高校生活を象徴するイベントとして、昔からマンガやアニメ、小説など様々な作品のモチーフになってきました。
古い話で恐縮ですが、1984年公開の「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」(押井守監督)というアニメ映画では、文化祭準備の喧騒と狂騒が終わらない(終わりたくない)夢として描かれていましたし、先日このブログに登場した谷川流「涼宮ハルヒ」シリーズでも文化祭は一つの山場です。米澤穂信の「古典部シリーズ」でも、第1作の「氷菓」、第2作の「愚者のエンドロール」はともに文化祭にまつわるお話です。
ただし、この辺りの作品のクリエイターは年齢的に私の前後の年代(一番年長の押井守さんが1951年、一番若い米澤穂信さんが1978年生まれ)の人たちなので、とても共感できるものがあるのですが、これが21世紀生まれの今の生徒たちに響くかどうかはわかりません。上記の作品群に描かれたような狂おしいまでの文化祭への情熱が今の生徒たちにあるでしょうか。
せっかくの文化祭ですから、生徒たちにとって一生の思い出になってほしいと思います。
10/29 いつの間にかに…
今日から本校は「翔陽祭」の準備です。10月31日(金)・11月1日(土)に文化祭、11月5日(水)に体育祭が開かれます。観覧には事前予約(締め切り済み)が必要なので、予約していない方にはもうしわけありません。
今日は朝から、教室の飾りつけをしていたり、楽器の練習の音が聞こえてきたり、だんだんお祭りムードが高まってきました。
それにしても「季節的に遅くない?」と思った方もいるかもしれません。しかし去年も書いたと思うのですが、他校でよくある9月初めの文化祭は早すぎます。熱中症や食中毒の恐れがあったり、まだ日が長い時期なので後夜祭も真昼間だったり、デメリットが多すぎます。翔陽祭の中夜祭は、やっているうちにとっぷりと暮れてきていい感じです。
さて、そんな文化祭準備のかたわら、今日は学校献血もありました。私も少しは世の中の役に立とうと会場へいったのですが、なんと今回が献血50回目とのことで記念品をいただきました。
頻繁に献血ルームに行っていた時期もあれば、2・3年も間が空いてしまった時もありますが、ちりもつもれば何とやら、いつの間にかに50回になっていました。
振り返れば、50回すべてが400mm献血で達成までに40年くらいかかっています。70回でまた記念品や有功章がもらえるらしいのですが、献血ができるのは69歳までなので、年3回しかできない400mm献血ではとどきません。200㎜や成分献血なら回数が稼げますが、記念品目あてというのもちょっとはばかられますね。
10/22 これは昭和じゃない
昨日、ネットをふらふらと見ていたら、「日刊SPA!」の「土下座しろ!水をこぼした女性店員に激怒する高齢の男性…救いの手を差し伸べてくれた“意外な人物」という記事に見過ごせない部分がありました。
それは記事冒頭の「昭和の時代ならいざ知らず、現在では客だからといって横暴に振る舞う行為はタブーとする風潮が浸透した。一方で、そうした世間の動きから取り残されたままの人物も、まだまだ少なくはないのが現状だ。」という一文です。これは事実誤認、というか事実と正反対のことを言っているように思います。
何事にも100%ということはありませんが、私の知る限り昭和の時代には、店員のささいな失敗に文句を言って大声を上げるような客はほとんどいませんでした。
昭和の老人は明治末から大正生まれで、ジェンダーフリーだのポリティカルコレクトネスだのといった考え方はしなかった(というか、そんな考え方自体がまだない)ので、男性客が女性の店員に「おねえちゃん」や「おばさん」呼ばわりをするくらいのことはありました。しかしその反面、料理を運んでくれた店員さんにはちゃんと「ありがとう」と言う人が多かったように思います。店員と客という以上に、人と人としての礼儀がわきまえられていた時代です。
自分たちはお金を払った客なのだからサービスされて当然、といった態度、「客だからといって横暴に振る舞う行為」は、平成から令和にかけて蔓延してきたものです。居丈高な客が店員さんに怒鳴っているのは、きわめて令和的な風景といえるでしょう。
今回取り上げた記事の筆者は、いつ頃生まれた人なのかは知りませんが、おそらく本当の昭和を知らないのでしょう。この人に限らず、最近なんでも悪いことを「昭和」で片づけてしまおうとする紋切型な言説がよく見られますが、私は人間や社会の相対的な能力は昭和の方が上だったと考えています。
つい先日も大手飲料会社の流通システムがクラッキングを受けて製品の供給ができなくなってしまいました。取引量や製品数は現代の方が多いのかもしれませんが、昭和の時代にはどの企業も紙の伝票と電話とファクス、電卓くらいの装備で流通管理をしていたはずです。今の人間にはその能力も覚悟もないようです。
はるかに便利になったはずの現代の方が商品のサプライチェーンが脆弱になり、また交通機関などもすぐ止まってしまうのはおかしな話です。
10/21 こんなことを考えた &こんなものを読んできた31
以前、悪夢ばかり見るという話を書きましたが、寝つきも悪く、私は全体的に睡眠の質が低い人のようです。寝られないときには、仕事のことなど考えているとますます寝られないので、なるべく仕事と関係のない取り留めのないことを考えるようにしています。
で、最近考えていたのが「言語の起源」みたいなことです。
世界にはたくさんの言語があります。インド・ヨーロッパ語族(英語やドイツ語、フランス語など)のように系統が辿れるものもありますが、系統のよくわからない言語(日本語もその一つ)もあります。しかし、全ての言語に共通の論理的枠組みがあり、相互に翻訳可能であることから、全ての言語の元となった始原の言語があったのではないかと考えてしまう人も多いでしょう。
13世紀のシチリア王にして神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世もこのことを疑問に思い、「生まれたばかりの赤ん坊を閉じ込め既存の言語では一切話しかけないようにしたら、この始原の言語を話すのではないか。」という実験をしたと言われています。現代だったら到底許されない非人道的な実験ですが、「最初の近代人」といわれたフリードリヒ2世らしい合理的な手法ではあります。また20世紀にはチョムスキーという人が言語の共通の性質を研究し、生成文法や普遍文法という考え方を唱えました。
さて、前置きというには長くなってしまいましたが、最近、私が寝ながら考えたのは「音義説」のようなことです。「音義説」とは「あ」とか「い」という音そのものに原始的な意味があり、それらが組み合わさって今の言葉が出来上がっているという説で、江戸時代に日本の国学者の間で流行しました。(国学者たちも中国語やオランダ語など他の言語は知っていましたが、彼らにとっては日本語こそが始原の言語だったのでしょう)。で、この音義説みたいなもので、私が考えたのは擬音語や擬態語などの問題です。
擬音語については耳で聞こえた音を写したものなので、似ているのは当たり前です、ものが叩かれた音を日本語では「バン」、英語では「BANG」と表現するようなものです。しかし擬態語についてはどうでしょう。物が不愉快なほど強く光を放ったり反射したりしているとき、日本語で「ギラギラ」、英語で「glitter(グリッター)」と言います。また光の細かい点滅を日本語で「チカチカ」、英語で「twinkle(ティンクル)」といいます。光を放つ物体から「ギラギラ」とか「チカチカ」という音が出ているわけではなく抽象的なイメージの問題なのに、妙に似ていると思いませんか。もちろん明治時代に海外の文化や言語が流入した際に、英語の擬態語の影響を受けた可能性はあります。しかし、食べ物の味が良いことを日本語で「うまい」、英語で「yummy(ヤミー)と言ったりするのも妙に似ています。この辺りを考えると、昔の「音義説」的なものがあるのかも、という気がしてきます。
ちなみに昔、私の実家で飼っていた猫は、普段、安物の乾いたキャットフードしか食べさせてもらえないので、たまにおいしい猫缶を上げると「うみゃ、うみゃ、うみゃ」と言いながら食べていました。ひょっとして言語の起源は人類共通どころではないのかもしれませんね。
さて「こんなものを読んできた」31回は、超軽量級のラノベ「全力回避フラグちゃん」を紹介します。いかにもネットやユーチューブの普及した現代らしい作品です。こんなものを読んできた_31(全力回避フラグちゃん)web.pdf
10/15 プチ史跡巡り2 & こんなものを読んできた30
先週、「令和7年度全国単位制高等学校長等連絡研究協議会第35回兵庫大会」(長い!)という会議のため、兵庫県西宮市に行ってきました。 単位制で進学実績を伸ばしている伊丹北高校や、アルバイトを実務代替として義務づけている私立の綾羽高校などの取り組みが聞けて、大いに勉強になりました。来年は埼玉大会ですから、皆さんよろしくお願いします。
さて上述の通り西宮に行ってきたのですが、この辺りはラノベ、アニメの「涼宮ハルヒ」シリーズの舞台です。今回は業務出張だったので、アニメ聖地巡りみたいなことはできませんでしたが、阪神電車「香櫨園駅」を下りたところの夙川(しゅくがわ)公園(作品中に出てきた公園は、もっと上流の阪急の夙川駅に近い方のようですが…)などに、作品の雰囲気を感じさせるものがありました。
「涼宮ハルヒ」ももう20年も前の作品ですから、それにまつわるアニメ聖地も、もはや史跡といって過言ではないかもしれません。今回は会場がJR「さくら夙川」、阪急「夙川」の近辺だったので、作品中でハルヒが文化祭の映画撮影のためビデオカメラやエアガンを寄付させた「祝川商店街」があるか?と思ったのですが、夙川には商店街らしいものはほとんどありませんでした。「祝川商店街」は西宮の中心部をモデルにした架空の商店街のようです。
それと香櫨園駅の前で、こんな石塔を見つけました。
上部に「三界」とあるのが読めます。これは何かというと「三界万霊塔」というもので、仏教の「三界」(欲界、色界、無色界)に存在するすべての霊を供養するという趣旨のものです。裏側も見ましたが特に年紀のようなものは見当たらなかったのでいつ頃の物かはわかりません。全国のあちこちにあるようですが、私の生活圏(埼玉県南部)ではこれまで見たことがありませんでした。地域的な分布の偏りがあるのかもしれませんね。ネットで調べようとしましたが、ブログの類や旅行・観光に関する記事は、県のネットワークでは禁止されて見えないので、よくわかりません。しかし面白いものを見ました。だから旅はいいですね。
「こんなものを読んできた」第30回は、そんなわけで「涼宮ハルヒ」シリーズを紹介しました。20年前のまだ日本がこれほど衰退する前のゆとりのある雰囲気が伝わってくるような作品です。こんなものを読んできた30(涼宮ハルヒ)web.pdf
10/8 いよいよですね。
学校の方は昨日から中間考査です。テスト期間中は休み時間も静かで学校中がしんとした感じです。電車の中でも高校生が英単語や古文単語の本を見ている姿もよく見かけます。みんな頑張ってください。
さて、タイトルの「いよいよですね」って、一体何が? というとアレです。Windows10 のサポート終了です。
最初に書いておくと、私のような木っ端者が世界のマイクロソフトに反抗しようなどどは思ってもいません。実際に私は1993年に初めて自分のPCを買ったときからずっとWindowsユーザーで、一度もリンゴのマークに走ったりしたことはありません。(ヘコヘコした小物感丸出しですね。)
でも、ちょっとだけ「Wiondows11への乗り換えって必要なんですかぁ?」と思ってしまうわけですよ。
先述のとおり1993年に私が始めて買ったPCはエプソンの486SXノートというやつで、CPUはIntel486SX25Mhz、RAM12MB、HDD500MBのハードウエアにOSとしてMS-DOS5.0+Windows3.1を乗せていました。(ちなみに当時はPC本体とメモリやHDDなどは別売でした。OSも購入後に自分でインストールしていました。)
今の若い人はスペックの単位が「G(ギガ)」ではなくて「M(メガ)」であることに目を疑うかもしれませんが、これは間違いではありません。しかもこのスペックは当時としては結構ぜいたくな方でした。同僚からは「メモリ12MBも積んでどうするの」とか「HDD500MBなんて一生使いきれないじゃん」とか言われたものです。
この初代マイPCの486SXと今このブログを書いている学校のCore i3-1315U(現代水準ではかなり低性能)では、AIのコ・パイロットさんによれば、1000倍以上の性能差があり、「まるで黒電話とスマートフォンを比べるようなもの」だそうです。(詳細は下記の通り)
| 指標 | 486SX | Core i3-1315U |
| クロック | 約25Mhz | 最大4.5Ghz |
| コア数 | 1 | 6(8スレッド) |
| キャッシュ | 数KB | 10MB |
| PassMarkスコア | 約5~10 | 約11,339 |
| 消費電力 | 数W | 15W(TDP) |
とはいうものの、この486SXの時代と現在で、学校でPCを使ってやっている作業は、ワープロでの文書作成、表計算やデータベースを使った会計や成績の処理などで、ほとんど変わりません。さすがに486SXで動かすWindows3.1は頻繁にフリーズしていましたし、画像の加工などさせると、1枚の写真の処理に20分くらいかかったりしていたので、もう少し機械もOSも進化させたいところですが、その数年後のMMXペンティアムで動かすWindows2000やWindows Xpで十分だった気がします。
現在のWiindows10や11は、Xpなどに比べると起動が早くなっていますが、ハードウエアの性能が1000倍以上になっているのだから、それも当たり前の気がしますし、特にバージョンアップの必要を感じないのですが…。
サポート終了後はセキュリティが担保されませんと言われてしまうと、学校では使い続けることができませんが、コンピュータをスタンドアローンで使っている工場や倉庫などでは、いまだにNECの98シリーズが現役のところもあると聞きます。 Wiindows10が出たときには、これが最後のOSだとか言っていた気もするのですが…。
すみません。ただの愚痴でした。
9/29 こんなものを読んできた29 & どんな夢を見てますか?
さて前回、強い調子で「どんな本を読むかは勝手だろう」という話を書きました。それは何故か?というと、今回、「こんな本を読んできた」第29回で、藤本タツキのマンガ、「チェンソーマン」を紹介する露払いの意味もあったのでした。こんなものを読んできた29(チェンソーマン)WEB.pdf
今も昔も暴力シーンがあったり、露骨な性的な描写がある作品には、「児童生徒が読むのに適さない」と「有害」のレッテルが貼られがちです。ただ、そういった作品の中には表面的に好ましくない描写があっても、伝えたい真のテーマには見るべきものがある作品もたくさんあります。(確かに有害だな、と納得してしまう作品もありますが…。)
藤本タツキの「チェンソーマン」も「好ましくない」マンガに分類されてしまいそうな作品ですが、私は、独特の美しさや味わいのあるいい作品だと思っています。(詳しくは上のリンクから本文を見てください。)
この作品の特徴は、なかなか覚醒できない悪夢をみているような独特の雰囲気にある、と思いますが、ところで皆さん、日常的にどんな夢をみていますか?
私はあまり楽しい夢を見ることがありません。ほとんどが悪夢の類です。
教員稼業が長いせいか、舞台が学校のものが多いのですが、たとえば、授業に行こうとして職員室を出たのに教室にたどり着かない。よく知っているはずの校舎が迷宮と化して、このままでは授業に遅れてしまう…。とか、そんな感じです。最近も、生徒と一緒ににぎやかに文化祭の準備をしていた(この辺は割と楽しい)ところに、「車の移動をお願いします」と放送が入ったので、愛車を移動させようとすると、なぜが自分の車が見つからず、校内をぐるぐるさまよう…。という夢を見ました。次の朝、寝起きからひどい疲れを感じて、脈拍や睡眠状態の記録できる腕時計で見たら、睡眠中なのにものすごくストレスの高い状態になっていました。
夏目漱石に「夢十夜」という作品があって、漱石の見た不条理で不可解な夢を描いています。漱石も精神的に不安定な人だったといいますが、私の悪夢癖も何か精神的なものなのでしょうか。
9/19 どんな本を読むべきか?
今日の朝は久しぶりに半そでだとちょっと肌寒いほど涼しくてホッとしました。でもまだ暑さのぶり返しはあるようです。このブログを読んでくださっている皆様、お体ご自愛下さい。
さて、前々回(9/8付け)のこのブログで、小学校の先生に対する批判めいた感じのことを書いたので、皆さんの中には「この人は小学校の先生が嫌いだったんじゃないか?」と思った人もいたのではないでしょうか? 実はその通りです。理由はいくつかありますが、強いて言うなら当時の先生には「のぞましい子供像」を押し付けてくる人が多かったからです(もちろん尊敬できる先生も何人かいましたが)。
で、今回のお題につながるのですが、当時の小学校の先生には、読書の面でも「情操を豊かにする」本ばかり読ませようとする人が多かったように思います。小学生の頃の私はそれが性に合いませんでした。ついでに言うなら私の母親も「情操」とやらが好きでいい迷惑でした(親不孝な言いぐさですが、本当にそうでした)。
たとえば当時の先生がよく勧めてきたのは、リンドグレーンの「長靴下のピッピ」とか、ウィーダの「フランダースの犬」とか、ドーデの「最後の授業」などの「良書」でした。まあ一応私も読んでみました。リンドグレーンなどには、今読めば子供の時には感じなかった何かがあるのかもしれません。しかし「フランダースの犬」のラストには、「おとなしく凍死するくらいなら、どんな生き方でも生き延びた方がいい」と感じました。「最後の授業」では「アルザス・ロレーヌがドイツ領に編入され、明日から学校でフランス語が使えなくなる」のが悲劇とされているのですが、妙に歴史マニアだった私は「ドイツ系住民もたくさんいるのだから、その人たちは喜んだんじゃないか?」とか考えてしまったわけです。で、先生にその辺の疑問をぶつけると、ひねくれた読み方をする困った児童という扱いになってしまい…。
同じように、夏休みの宿題でよくあった「読書感想文」も先生たちの想定する「のぞましい感想」でないと評価されなかったように思います。たとえば太宰治の「走れメロス」という作品があります。一般的には「メロスとセリヌンティウスの篤い友情と信頼で、人間不信の王様も改心した」お話とされ、読書感想文にも期待されているのは、その線でしょう。
しかし、私はこの作品には全体になんとなく皮肉っぽいトーンが流れているようで、作品そのものが太宰治の壮大な冗談ではないかと考えてしまいます。「走れメロス」については、米澤穂信の「氷菓」シリーズの中にも、主人公の折木奉太郎が、さまざまな突っ込みを入れてミステリー作品として読んでしまう、というお話がありますが、とにかくそんなに素直に読んでいい(もちろんそう読んでもいいですが)作品ではないと思います。
話が長くなりましたが、何が言いたいのか、というと「何を読んで、どう感じるか」などは自由でいい、ということです。私も「こんなものを読んできた」でおすすめの本を紹介していますが、それは自分が読んで面白かった本を紹介しているだけで、それ読むかどうかはみなさんの勝手です。
世の中には、明らかに科学的におかしなことが書いてあったり、極端な思想で事実を捻じ曲げたりのいわゆる「トンデモ本」があります。子供たちがこの手の本を読んで、それに染まったら大変だという考えもあるでしょうが、これらも含めて「何を正しいと思い、何を信じるか」は、多くの本を読み様々な知識を得たうえで自分で考えればいいことだと思います。