校長室ブログ

忙中閑あり~校長室より

3/6 合格発表 & こんなものを読んできた41

 今日は埼玉県公立高校の入学者選抜の合格者発表でした。今はインターネットによる発表になったので、合格者発表と言っても、合格した人が書類を取りに来るだけの静かなものになりました。

 「こんなものを読んできた」41回は王城夕紀「マレ・サカチのたった一つの贈り物」を紹介しています。インターネットが現在以上に影響力を持ち、資本主義経済が破綻しかかっている近未来の世界を舞台にした抒情感あふれる作品です。

こんなものを読んできた41(マレ・サカチ)web.pdf

 インターネットの発達には目覚ましいものがありますが、近年はそれが誹謗中傷や事実無根のデマの流布に使われ、メリットを覆い隠すほどのデメリットが目立ってきている気がします。

 

2/25 光の春 &「こんなものを読んできた」40回

 入学者選抜前日なので手短に。

 今日は朝から雨ですが、この前の三連休は、「光の春」という言葉がぴったりの天気でした。あちらこちらで梅の花が咲きほころび、よい匂いを漂わせていました。

 

 本校も含め明日、明後日は埼玉県公立高校の入学者選抜です。受検生の皆さんは全力を出し切ることだけ考えて挑んでください。私はキリスト教徒ではありませんが、聖書の中の「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。」という言葉が好きです。まずは、その日、その時に全力を出し切ることが大切だと思います。

 もう春です。様々な別れや新しい出会いのある季節です。前向きな気持ちで行きましょう。

 「こんなものを読んできた」は、2月になると読み返してしまう、北村薫の「鷺と雪」です。北村薫の直木賞受賞作品ですが、代表作の「ベッキーさんシリーズ」の最後を飾るにふさわしい、余韻のある作品です。こんなものを読んできた40(鷺と雪)web.pdf

 

 

 

2/3 経験値 & こんなものを読んできた39・39.5

 朝の冷え込みはあい変わらずですが、日差しは力強くなってきました。

 さて、先日、「福祉」の実習授業に招待されました。教員がデイサービスなどの利用者の役をして、生徒の皆さんが介護職員の役を務めるという実戦形式の授業で手浴やマッサージをしてもらいました。

 その実習の内容として「利用者に話かけて打ち解ける」というのもあるようで、私についた生徒の皆さんが、いろいろと話しかけてくれます。「好きな食べ物は何ですか」とか「好きな色は何ですか」とか…。

 その中で「何か最近ハマっているものはありますか」というのがあって、そこで私は一瞬フリーズしてしまいました。毎週見ているドラマとか、休みの日にやっている趣味、というのはあるのですが、「ハマっている」というほど夢中になっているものがないことに気が付いたからです。

 若いころは毎週見ているドラマやアニメなどを見損なったりしたら、ものすごく悔しがりましたし、睡眠時間を削って模型を作ったりしたものです。しかし最近はそんなパワーがありません。テレビなどはネットの見逃し配信があるというのもありますが、作りかけの模型を半月くらいほったらかし、とか、ランニングでも目標タイムや目標距離を達成するためガンガン追い込むという気力がでなくて途中でやめるとか、とにかく熱量がたりません。

 これにはもしかするとこれまでに積み重ねてきた「経験値」が関係しているのかもしれません。ドラマとか小説とかでは「同じような話が前にもあったな」とか、模型作りでは「この場合、こんな塗装方法があったな」という感じで、よく言えば落ち着いて対処できるように、悪く言えば感動が減っているように思います。

 これは子猫にねこじゃらしを見せると夢中になって飛びついてくるのに、老猫になるとチロっと見るだけだったり、ほんのお愛想程度に前足を伸ばしておしまいだったり、全然乗ってきてくれないのと似ています。人生を楽しむには、もう少し心の若返りをしないとだめですね。

 次に「こんなものを読んできた」第39回・第39.5回は、日本最古の書物「古事記」です。(長くなったので2回分に分けました。)

  こんなものを読んできた39web.pdf

  こんなものを読んできた39.5web.pdf

 私が小学生のころ、近所に新しい本屋さんができて、開店セールで古本の安売りをやっていたことがありました。その時、まとめ買いしてきた中の一冊が、大学のテキストに使うような注釈付きの「古事記」でした。当時の私は活字の印刷されたものは何でも読むくらい読書好きだったので、古典文法など全く知らないのに闇雲に読んでしまいました。

   この本は建国の神話を扱っているため左右両翼(最近は何が左で何が右かよくわかりませんが。)から、政治的に批判されたり利用されたりしてきました。しかし、そんなこととは関係なくとても面白い本です。特に建国の英雄時代を描いた中つ巻は、すごく面白いので、読んだことのない方にはぜひ読んでみることをお勧めします。 

1/19 完全数の悪夢 & こんなものを読んできた38

  超私事で恐縮ですが、以前このブログで悪夢を見ることが多いと書いたように、今朝も妙な夢を見てしまい、朝起きた時からなんか疲れた感じでした。

 今日見た夢がどんなものだったか、というと「『奇数の完全数はない』ことを証明する方法を閃いてしまい、一生懸命計算しているのだが、できそうでできない。」というものです。

 まず、完全数というのは何かと言いますと、「自分自身を除く約数の合計が自分自身になる数」です。具体的には、

6=1+2+3

28=1+2+4+7+14

のような数です。 

 この定義は、そんなに難しいものには見えませんが、28の次は496、その次は8128、さらにその次は33,550,336と、「○○数」と呼ばれるものの中でも出現頻度が低いものです。

 この完全数については、まず、それが無限にあるかどうかも証明されていませんし、いままでに分かっている完全数は、全部偶数(2で割り切れる)で、奇数(2で割り切れない)の完全数が存在するのかしないのかも分かっていません。

 小学校で習うような足し算と掛け算だけで出来上がっている完全数ですが、上のようなこともいまだに謎なわけです。それをもし証明できたら、フィールズ賞やアーベル賞(数学の世界のノーベル賞みたいな賞)も取れるかもしれません。(フィールズ賞は若手だけ)

 その証明を閃めいてしまうというのは、それだけなら良い夢なのでしょうが、そのための計算を延々と続けているのは悪夢としか言いようがありません。そもそも高校の時に数学で赤点すれすれだった(その割には数学は好き)私が、完全数の証明などできるわけはなく、実際、目が覚めてから、夢の中の計算過程をなるべく思い出して、じっくり考えてみたら、すぐに間違いだとわかり全然ダメでした。いや、疲れました。

 「こんなものを読んできた」38回目は宮部みゆきの名作「蒲生邸事件」です。昭和初期の2.26事件を舞台にした時間旅行SFミステリーという盛沢山な趣向の作品ですが、2月が近づいてくると読み返したくなります。

こんなものを読んできた38(蒲生邸事件)WEB.pdf

※上記の文中で2.26事件の発生年を間違えていたので、差し替えました。

 

 

 

 

1/13 新しい四半世紀 & プチ史跡2(上尾駅近くの2つの神社)

  先週から今週にかけて、朝夕が氷点下の冷え込みが続いていますが、みなさんお元気でしょうか。

 前に、地球温暖化の影響で北極や南極の氷が溶けて冷たい水が流れ出ると海水温が下がり冬は寒くなる、という話を聞きましたが、本当かもしれません。

 先週は8日(木)に始業式があり、本校でも3学期が始まりましたが、始業式では前回このブログでも書いたように、21世紀の新たな四半世紀が始まるにあたり、「21世紀最初の四半世紀はあまり良い時代だったとは言えなかった。これからの21世紀を生徒の皆さんの世代でより良いものにしてほしい」という話をしました。

 令和8年3学期始業式.pdf

 今回のプチ史跡2では、前回の「初もうでシリーズ」の続きではありませんが、私の地元上尾駅周辺の2つの神社を紹介します。

 戸田翔陽高校のブログなのだから、戸田の史跡を紹介すればよいと思われる方もいるかもしれませんが、本校を含めた現在の戸田市の中心的な市街地のある場所は、江戸時代にはほぼ水田地帯でした。そのためか本校から気軽に行ける範囲には神社等はあまりありません。現在では戸田市の西の端になる美女木やその北側のさいたま市内谷周辺の方が古くから開けた土地だったらしく、寺や神社がたくさんあります。

 と言い訳をした後、本題に戻ります。一つ目は今年最初のブログでも出てきた氷川鍬神社です。上尾駅の南側、丸広SCのすぐ隣にあります。この神社については、前任校のブログでも書いた(氷川鍬神社について(与野高校ブログ).pdf)のですが、多少付け加えたいことがあるので、再論します。

 

 

 この神社はもともとは鍬神を祭る「鍬太神宮」でした。その由来としては、寛永8年の末に北の桶川の方から、鍬神の御神体の入った櫃を引いた童子が歌い踊りながらやってきた。童子たちは上尾宿の本陣前に台車を残して消えたので、上尾宿の人々は御神体を祭る神社を建てた、というものです。

 この話は中部東海地方に多い鍬神信仰と同じ話です。鍬神信仰は、伊勢神宮別宮の伊雑宮のお田植祭りで使われた鍬を神体にして、これを村から村へリレーのように歌い踊りながら送っていくというものです。宗教的な熱狂が突発的に発生して地域一体に拡散する現象なので、地域を統治する大名や幕府から治安を脅かすものとして危険視されることもあったようですが、今でも愛知県や岐阜県などには、これに由来する「鍬神社」がたくさんあります。

 「なるほど、これが上尾まで広がったのね」と納得できればそれで終わりなのですが、そうはいかないところがあります。中部・東海地方で先述の「鍬神信仰」が最も盛んだったとされるのは、明和年間(18世紀後半)で、各地の「御鍬神社」もこのころにできたようです。ところが上尾に鍬神の櫃がやってきたのは寛永年間(17世紀前半)とされていて、100年以上早いのです。このこと自体は、鍬神信仰が実は非常に息が長く、繰り返しブームになっていたのだと考えることもできますが、だとしても、本場の中部・東海地方よりも早く、鍬神をまつる神社が上尾にできたことになります。また、なぜ中部・東海からはるか離れた上尾に鍬神をまつる神社ができたのか、とか、鍬神信仰の広がりは中部東海を超えて、関東にまで及んでいたのだろうか、いろいろな謎があるわけです。

 もう一つは、上尾駅の北側、線路沿いの道を少し行ったところにある小さな社「胡桃下稲荷」です。飲食店の多い繁華街に商売繁盛の神として五穀豊穣の神である稲荷社があるのは珍しくありませんが、ここの稲荷はよく見かける伏見稲荷や豊川稲荷ではなく、笠間稲荷(茨城県笠間市)の末社です。

 この本社の笠間稲荷が実はなかなか不思議な神社なのです(上尾胡桃下稲荷について(与野高校ブログ).pdf)。上尾駅の近くにこういう二つの面白い神社があるというところが、私としてはなかなか気に入っています。

 

 

 

 

 

1/7 「こんなもの読んできた」36・37 & プチ史跡2(鳩ケ谷探訪

 生徒の皆さんは、明日から3学期ですよ。忘れずに学校に来てください。

 まず、「こんなものを読んできた」は年末・年始に生徒に配信した36回と37回をまとめて掲載します。

こんなものを読んできた36(誰が勇者を殺したか)web.pdf

こんなものを読んできた37(航宙軍士官)web.pdf

 さて次は「プチ史跡2」ですが、正月2日に親戚のいる鳩ケ谷方面に行ってきたので、その探訪記です。

 鳩ケ谷は今は川口市の一部ですが、昔は日光御成道の宿場として栄えた独自のアイデンティティーを持った街です。戦前に一度川口市と合併しましたが、戦後にまた分離して周囲を川口市に囲まれた状態で存続し、平成の大合併でまた川口市と合併したという沿革を持っています。

 まずは、鳩ケ谷の総鎮守氷川神社から。

 この神社は応永元(1394)年(室町時代)に創建されたそうですが、社殿も参道も立派で、当日は初もうで客が一ノ鳥居のところから行列をする賑わいでした。氷川神社は埼玉から東京にかけては、たくさんあるのにそれ以外の地区ではほとんど見られません。前にも書きましたが、氷川神社のこのローカル性は、本来、地域限定のローカルな神様を祭る神社だったからだと思います。現在の主神スサノオノミコトは、武蔵国造として出雲系の一族がやってきた後の後付けでしょう。

 次は、鳩ケ谷の本通り(御成道)にある十一屋北西酒店です。

 宿場町の商家の造りをそのまま残す店舗と蔵は国の登録有形文化財になっています。しかし、今回取り上げたのはそれだけが理由ではありません。

 私の地元上尾には、清酒「文楽」の蔵元がありますが、その文楽を作っているのが北西酒造、販売部門が十一屋です。上尾の北西酒造と鳩ケ谷の北西酒店はつまり親戚同士というわけです。鳩ケ谷の十一屋さんは、明治時代に店を構えて今のご主人は4代目とのことです。上尾の北西酒造とはずいぶん前に枝分かれしたことになりますが、いまだに縁がつながっていて、この店で売られている「純米吟醸 鳩ケ谷宿」や「純米吟醸 御成姫」は上尾の文楽の協力で出来上がったそうです。

 さらに元をただせば、北西酒造さんの一族は近江から来たようですが、埼玉県の各地の蔵元にはご先祖が近江商人だったというところがたくさんあります。秩父の「秩父錦」の矢尾酒造さんもそうですし、毛呂山の「琵琶のさゞ波」の麻原酒造さんも近江出身です。

 いまや、技術的・経済的にすっかり立ち遅れた感のある今の日本ですが、立ち直るきっかけは、こういう日本独自の家業や縁を大切にする風土にあるかもしれない、と思うのですが。

 最後は、鳩ケ谷の本町から南に下った八幡木地区の八幡神社です。八幡神社があるので八幡木、なのでしょうが、この辺りは昔は中居村と言っていた所です。こちらは、氷川神社とは違い初もうでの人もおらず静かでしたが、この神社の本殿は側面に施された浮彫が見事です。 三面、全部写真に撮ったので掲載します。

 八幡神社は、京都の岩清水八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮のように、歴代の源氏が尊崇した神社なので、浮彫も源氏ゆかりの「鎌倉繁盛」といわれる組み物の図柄が多いようです。ここの浮彫も一番上が「鶴の放生」、中が「天狗と源義経」、下が「源為朝の土人退治(ポリコレ的にまずそうな表現ですが、ここはそのままで)」で「鎌倉繁盛」のようです。

 躍動感のある素晴らしい作品です。作られた当時は彩色されていたはずなので(日光東照宮や妻沼の聖天山のように)さらに見事だったろうと思います。

 これは全く何の根拠もありませんが、上尾の向山不動堂や二ツ宮氷川神社の浮彫と作風が似ている気がします。向山不動堂の方は明治に作られ、山田弥吉という職人さんの作品だということがわかっています。

 神社の本堂には、こういう浮彫が施されていることが多く(はがされてただの板壁になっているところもありますが)、それを見て歩くのもなかなか楽しいものです。

 

 

 

 

1/5 あけましておめでとうございます。&プチ史跡2

 みなさん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 正月なので、まず最初に地元上尾の知る人ぞ知る富士山スポットから元旦に撮影した1枚。

 

 朝方、少し雲が多かったのですが、富士山は今年もきれいに見えました。

 気が付けば今年は西暦2026年、21世紀の最初の4半世紀が終わりました。私が子供の頃、21世紀は科学技術が発達してどんな夢でもかなう豊かな時代として想像されていました。しかし現実のこの4半世紀では、人権、平等、自由、国際協調などの20世紀後半には誰も否定できなかった建前が、平気で踏みにじられるようになった気がします。

 次の4半世紀は、理性や公正といった価値観が蘇る時代になりますように。

 さて、今回のプチ史跡2は初もうでにいった上尾の氷川鍬神社からお届けです。コロナですっかり減った初もうで客も今年は完全復活でした。というより前より人出が多いかもしれません。

 

 この氷川鍬神社は上尾駅の近く、昔の上尾宿の中心部にあります。境内はあまり広くないのですが、富士塚や太子碑など史跡や遺物が所せましと並んでいます。今までも順次紹介してきましたが、今回はまだだったものを二つほどいってみましょう。

 一つ目はこれ。

 

 「奉納 敷石~」と書いてあるのか読めます。これは敷石供養碑ですね。「供養」というとご先祖様を祀るみたいなイメージがありますが、世のため人のために善行を施し、徳を積むことも供養といいます。このブログでも前に与野の石橋供養碑を紹介しましたが、敷石供養もその仲間です。

 次はこれ。「虫火橋建設記念」と書いてあります。横には「埼玉県知事 齋藤守圀 書」とあります。

 調べてみると「虫火橋」というのは、上尾(平方地区)ー川越(老袋地区)間の荒川にかかる開平橋の古い名前のようです。しかし、それなら、なぜ平方ではなくここに建っているのでしょう。昭和の初めころまで平方は上尾に負けない町だったので、建てるなら現地に近いそちらの方がよさそうなのに。また齋藤守圀という人が知事だったのは1924年の途中から27年の途中までです。ざっと調べた限りでは、開平橋に関してこんな立派な碑を建てて記念するほどの大きな工事の記録は、この時代には見当たりません。なにか知られざる改修や修繕が行われたのでしょうか。

 正月早々、またわからないことに出会ってしまいました。

 

12/16 プチ史跡(遺物)巡り2 & こんなものを読んできた35

 年も押し詰まり寒い日が続きますが、お元気でしょうか。12月は酉の市の季節です。県内だと熊谷から大宮や浦和、川口と北から南に祭の日程が並びます。屋台を出す香具師の皆さんも祭の日程を追うように旅をしているのでしょうか。

 さて、今回の「プチ史跡」は史跡というより遺物です。

 

 先日、事務室のリサイクル封筒の引き出しの中から、昔の給料袋を見つけました。旧戸田高校の時代ですから最低でも22年前ですが、戸田高校から戸田翔陽高校に変わるころには、現金支給を受けている人などほとんどいなかったので、もっと古いものかもしれません。

 教員の給与は昔は毎月現金で手渡されていました(今も要求すれば現金支給は受けられると思いますが)。これは労働基準法で給与は通貨で直接、労働者に支払うことと決められており、公務員にもそれが準用されるためです。

 しかし給料が20万円で50人分としても1000万円です。年齢が高い人の給料はもっと高かったでしょうし、当時はクラス数が多く、1校当たりの教員の数も今以上でした。何千万円もの現金を毎月、安全に運搬し間違いなく袋に詰めるのは事務室の人にとって大変なストレスだったと思います。

 私が教員になったころには、労基法施行規則が改正されて、銀行振り込みが認められるようになっていましたが、何かの信念なのでしょうか、頑として現金で支給を受けている人たちがいました。こういう人たちの目には、事務室の人たちも自分たちと同じ、苦労や痛みを感じる人間なのだということが見えていなかったのだろうと思います。

 もし今も給料の現金支給が行われていたらどうでしょうか。何しろネットで押し込み強盗の仲間を集められる時代です。毎月、決まった日にたくさんの現金輸送が行われることがわかっていたら、町中に強盗志願者があふれて大変なことになるかもしれません。

 「こんなものを読んできた」第35回配信は、前回に引き続き蓑輪諒の歴史小説で「殿さま狸」を紹介しました。最近の歴史小説も、よく史料を読み込んで、今まであまり取り上げられなかったような人物を取り上げたり、新しい観点から事件を見直すようなものが多くて面白いですね。こんなものを読んできた35(殿様狸)web.pdf

 

 

12/9 こんなものを読んできた34 & プチ史跡2 川口の氷川神社

 期末考査も修学旅行も終わったので「こんなものを読んできた」配信再開します。今回は蓑輪諒「うつろ屋軍師」です。歴史小説というジャンルもこれまでにものすごい数の作品が書かれてきたこともあり、最近ではメジャーな人物ではなく、こんな人もいたんだ! というような人物を掘り起こしてくる作品が多くなってきたような気がします。

こんなものを読んできた34(うつろ屋軍師)web.pdf

 「うつろ屋軍師」もそんな作品で、織田・豊臣・徳川と政権が変わっていく激動の時代に、主家である丹羽家を守るために苦闘した江口三右衛門正吉という人が主人公です。この時代には柴田勝家とか石田三成とかの堂々たる敗者もいましたが、そうではなく家や家臣、領民を守るために何としても生き抜こうとした人たちもいました。それも立派な生き方かなと思います。

 さてプチ史跡2は川口市下青木の「鎮守氷川神社」です。先週、川口市立高校に行った際、少し時間があったので西川口から同校まで徒歩で行くことにして、道すがらに寄ってきました。

 

 この氷川神社には初めて行ったのですが、予想以上に立派な(失礼)社殿で、神職の方も常駐しているので驚きました。境内にはたくさんの摂社などがありますが、特に目を引くのは「厄割石」と「神撰田」、「富士塚」でしょうか。

 

「厄割石」は、穴の開いた小さな陶器の玉に払いたい厄を吹き込んで岩にぶつけて割ると厄が払える、とするものです。全国のあちこちの神社にあるようですが、実物を見たのは初めてです。

「神撰田」(しまった!写真がない)ですが、境内に一坪くらいの田んぼが設けてあります。ここで神に供える稲を作るわけですが、神道の源流の一つが稲作にかかわる太陽神や穀物神への信仰があることをうかがわせます。

「富士塚」は、これまでも何回も書いていますが、富士山をかたどった小塚で、富士山を信仰する富士講の人たちが実際に富士山に行く代わりに、これに登ったりしたものです。この神社境内の富士塚は、鳥居から山頂までらせん状に登山道が作ってあり、たくさんの富士講の碑が建てられた立派なものです。

この富士塚の登山道には〇合目をあらわす標柱が立っているのですが、それを見ると寄進者として「新曽村」の○○(ここはよく読めない)と書いてあります。(下の写真の赤丸内)新曽と言ったら、本校の所在地なのですが、思わぬところで新曽の字に出くわしました。

 この神社のある場所は江戸時代には足立郡戸田領下青木村と言われていたところです。荒川に沿って下青木村の西隣は下戸田村、その西側が新曽村でしたから、今は川口と戸田に分かれていますが、昔は地域的なつながりが深かったのかもしれません。

 あとこの付近はびっくりするほど氷川神社が多い地域です。この氷川神社から半径2~3kmの範囲内に、地図上でざっと見ただけで、10(上青木、朝日、元郷、赤井、江戸袋、飯塚、鳩ケ谷、三ツ和、舎人、入谷)もの氷川神社があります。小さなお社なども含めればもっとあるかも知れません。この地域を流れる芝川(新芝川)は今もかなり川幅がありますが、昔は入間川の本流でしたから、いまよりもずっと大河だったはずです。先に挙げた神社はその川が形成した自然堤防上に散らばっています。氷川神社が元は水神信仰の神社であることを示しているように思われます。

12/4 科学と非科学の間

 昨日から、2年次が修学旅行に行っているので、校内に人が少なく静かです。本校の修学旅行は、2泊3日関西方面なので、海外に行く私立や沖縄・北海道に比べると少し派手さには欠けますが、参加した生徒の皆さんにはいい思い出になるのではないでしょうか。

 さて、本日のお題「科学と非化学の間」ですが、最近セブンイレブンで「水素焙煎コーヒー」というのを売っています。店頭の説明書きでは、おいしくて環境にも良いと書いてあります。

 これは、私個人の感想ですが、たしかに水素焙煎コーヒーは香りに甘さがあって、おいしいと思います。もともとセブンイレブンのコーヒーはドリップ式なので、某有名コーヒーチェーンの蒸気式より繊細な味わいがありますが、水素焙煎はそれよりさらにおいしい感じです。

 で、ここで気になるのはなぜ、おいしくて環境に良いのか?という点です。これについてはセブンイレブンのWEBページに説明がありました。要点をまとめると、

①水素焙煎では、焙煎するときの燃料に普通のガスではなく水素ガスを使う。

②水素で焙煎すると普通のガスより、火力の調整幅が広く、特に弱火が使えるので、コーヒーの味が引き出せる。

③水素ガスは燃えても二酸化炭素が出ないので、環境にやさしい。

ということです。

 ①と②について、水素ガス(図左)は都市ガス=メタン(図中)やプロパンガス(図右)と違い、炭素(黒の玉)を含まず、全量がよく燃える水素(白の玉)なので、細火でも安定して燃え火力調整がうまくできるというのは、なんとなく納得です。また③についても、水素ガスには炭素原子が入っていないので、燃焼によって二酸化炭素が出るはずがありません。

 セブンイレブンによる説明は筋が通っていて、ここまでは良いのですが、ここから先がちょっと問題です。

 まず、③についてですが、確かに水素の燃焼では二酸化炭素は出ません。しかし、その水素はおそらく電気分解で製造されたものでしょう。電気分解を行うための電気がどのように作られたかが問題です。火力発電ならそこで二酸化炭素が排出されますし、原子力なら二酸化炭素は出ませんが、処理と保管が厄介な放射性廃棄物の問題があります。

 電気自動車や燃料電池車などと同様に、その場で二酸化炭素が出ないからエコ、というのはちょっと違うのではないかと思います。背景まですべてひっくるめたトータルで考えないと…。

 次にこれはセブンイレブンとは関係なく、同社に責任はない話ですが、「水素焙煎コーヒーは健康に良い」とか言い出す人が、ネット上に現れています。

 同じように「水素」とついたものとして、水に水素ガスを溶け込ませた「水素水」というものがあります。電子部品の洗浄に使うと、水に含まれる微小な泡で高い洗浄力が得られるというものです。これについても「抗酸化作用がある」とか「健康に良い」という人がいますが、医学的・科学的には証明されていません。

 また仮に水素水が健康によいということが、将来、科学的に立証されたとしても、「水素焙煎コーヒー」は豆を焙煎するのに水素を使っているだけで、水素水とは関係ないはずです。ネットの「健康に良い」とかいう説は、「水素」という言葉につられて、水素水と同様の効果(とされるもの)があるかのように言っているのでしょう。

 こういった言説は非科学的なだけでなく、それを流布されることは、販売者のセブンイレブンにとっても迷惑でしょう。私としても水素焙煎コーヒーはとてもおいしいので、外野のせいでそれが怪しい健康食品のように扱われて評判が悪くなっては困ります。

 今回、特定の会社の特定の商品について書きましたが、これはその商品を宣伝しようとする意図ではなく、それをきっかけに科学的に考える習慣を広げようと考えたからです。念のため申し添えておきます。

 

 

 

 

 

12/2 「こんなものを読んできた」第33回 & ちょっとだけ「プチ史跡」

 昨日に引き続き更新です。

 期末考査も終わったので、生徒向け読書案内「こんなものを読んできた」の配信を再開します。配信してもどれくらいの人が読んでくれているのか皆目わからないのですが、先日、「読みました」と声をかけてくれ、しばらくマニアなトークに付き合ってくれた人がいました。反響があるのはうれしいものですね。SNSで「いいね」やフォローが欲しくて、手段をえらばない行動に走る人がいるのもちょっとわかる気がします。

 こんなものを読んできた33(アルマーク)web.pdf

 今回紹介したのは、アマゾンのサブスクで読んだラノベ「アルマーク」です。よくある話といえばそうなのですが、読後感が良い作品なので紹介しました。

 さて今回もおまけにちょっとだけ、史跡を紹介します。

 

 この写真は何か? というと、旧中山道と県道51号(川越上尾線 ) の交差点の少し北側の愛宕神社境内にある水準点です。水準点とは地図などを作るときの高さ(標高)の基準となる点で、写真の物は16.4mの水準点です。かなり年季が入った感じですが、非常に大事なものです。もし他の場所で水準点を見つけても、傷つけたり壊したりしないよう気を付けてください。

12/1 プチ史跡巡り2 小鹿野編

 学校の方は今日が期末試験最終日です。2年次生はこの後、修学旅行へ、他の年次の人も冬休みに向けた各種行事に入っていきます。

 この数日、朝夕は冷え込みましたが、空が澄んで日差しの暖かい本当にいい天気が続いています。私が子供のころ”Beautiful Sunday ”という曲が大流行したことがありました。日本語だと「美しい日曜日」となり、私的には「日」という本来抽象的な時間の概念に「美しい」という物質の状態を表す形容詞をかぶせるのは、少し違和感がありますが、昨日などは「それもいいか」と思ってしまうような一日でした。

 さて、先週の金曜日もいい天気でしたが、総合学科校長会のために小鹿野高校へ行ってきました。少し早めについたので、経路上のいくつかの史跡を回りました。

 一つ目は、小鹿野化石館と「ようばけ」です。

 今ではすっかり山地となっている秩父地方ですが、太古には古秩父湾という海でした。秩父からは巨大なサメなど海洋生物の化石が多数出土していますが、最も有名なものがパレオパラドキシアです。パレオパラドキシアは秩父鉄道の蒸気機関車「パレオエクスプレス」の名の由来ともなっている巨大な海獣で、これの化石の復元模型が小鹿野化石館にあります。

 ウイキペディアさんに載っている復元図で見ると手足の長いセイウチのような微妙な格好ですね。まだ完全に海の生活に適応しきっていないような感じです。

 この化石館のすぐ近くにあるのが、「ようばけ」です。「はけ」というのは崖や急斜面のことで、「ようばけ」も赤平川の浸食により形成された断崖で、断面にきれいに地層の重なりが見えます。

 

 「ようばけ」は崩れやすいので近づくのは危険とのことですが、この辺りの河岸の斜面はいかにも化石が出そうなところです。この日も遠足の小学生の団体がネイチャーガイドの人に案内されて化石採掘に出かけていくところと会いました。大正時代には盛岡高等農林学校在学中の宮澤賢治も地質の巡検に来たことがあるようです。

 また私的には「赤平(あかひら)川」という地名が気になります。なんとなくアイヌ語地名ぽい(北海道の赤平市のように)気がして…。小鹿野の辺りは山に囲まれた程よい平地で、古くから人々が住んでいた場所ですから、アカヒラというのもすごく古い地名なのかもしれません。県内には坂戸に「越辺(おっぺ)川」という川もありますが、関東地方にはほかにもアイヌ語語源の可能性のある地名がたくさんあります。

 この日のもう一つの探訪地は知る人ぞ知る「お塚古墳」です。

 こんもりときれいに盛り上がった塚の上に小さな社がある変哲のない小古墳に見えますが、この古墳には「羊太夫の墓である」という伝承があるそうです。「羊太夫」とは何かという話は少し長くなります。

 群馬県吉井町(今は高崎市の一部)にある日本3古碑の一つ、多胡碑の碑文中に、上野国に多胡郡を作り「羊」という人物に与えたと読める部分(異説あり)があります。これが「羊太夫」で、中世の説話集などに、群馬と奈良の都を1日で往復したとか、朝廷に謀反を疑われて討伐されたとかの伝説がのっています。星野之宣のマンガ「宗像教授シリーズ」にも登場し、海外から渡来した胡人(ペルシア人など)の首長だったのではないかという説が展開されています。大変、夢のある話なのですが、私はこの伝説は、史実を反映したものではないと思います。(私がいつでもキワモノの説を支持すると思ったら大間違いですよ!)

 なぜなら、羊太夫の説話がのっているのは中世(南北朝期)から後の文献ばかりで、古代からの伝承かどうかはっきりしないからです。これらの説話は多胡碑の「三百戸郡成給羊成多胡郡」とある部分を「三百戸を郡と成し羊に給いて多胡郡と成せ」と読んだことによるものでしょう。しかし、この部分は「羊を給いて多胡郡と成す」と読む、要するに新設の多胡郡に設立の原資として家畜の羊を渡したという説の方が正しいのでは、という気がします。

 また、郡を任されるほどの人物が「羊」という名前だけで、姓もなく無位無官というのも疑問です。仮に「羊」が無位無官の地方豪族だったとしても、郡を任せる時点で何らかの官に任命するのではないかと思います。そうしたらその任命についても記録したはずです。この碑文の後半には、郡を作る命令をした人の名が出てきますが、こちらは「左中弁正五位下多治比真人」のように詳しく官職・位階・姓を書いていますから…。

 まあ、それはともかく、この小鹿野に「羊太夫」の墓と言い伝えられる古墳がある(群馬県にも「羊太夫の墓」がある)というのが面白いと思います。小鹿野から国道299号をたどればすぐに群馬県の上野村に出ますが、この辺りは古くから「羊太夫」伝説のある上野国との関係の深い地域だったのでしょう。

11/25 明日から期末テスト & 嫌いな言葉「タイパ」

 早いもので明日から期末考査です。翔陽生のみなさんは、勉強もさることながら、かぜやインフルエンザにかからないよう注意してください。試験で最も大事なことは休まないことですから。

 試験前なので「こんなものを読んできた」はお休みです。いろいろあって中間~期末にはあまり配信できませんでした。試験後は冬休みに向けて再開するべく、少し書き溜めておこうと思います。

 さて、本日のお題の2つ目は「嫌いな言葉」シリーズです。前から時々、嫌いな言葉については触れていましたが、ついに待望(誰が待望しているのでしょうか?)のシリーズ化です。その第1弾は「タイパ」です。

 タイパはタイムパフォーマンスの略で、Cost Performanceから派生した和製英語です。

 私はこの言葉を使う人を信用しません。仮に初対面の人がこの言葉を使ったとしたら、もう永久にその人を信用しないでしょう。

 この言葉のシンプルな意味としては「時間当たりの効率」ということでしょう。その意味で使われているのであれば、この言葉には特別な意味合いはありません。しかし、実際に使われる場面としては、手間がかかったり困難が予想される仕事から逃げる言い訳として「そんなタイパの悪い仕事はやっていられない」という感じに使われることが多いと思います。

 ちゃんとした仕事にはしかるべき手間と時間がかかるものです。たとえば伝統工芸の漆塗りのような仕事では、下地から仕上げまで何度も漆を塗り、磨き、また塗り重ねるという手間と時間が必要です。手間を惜しんで、1回で分厚く塗るというわけにはいきません。それと同様に、どんな仕事でもきちんと仕上げるにはそれなりの手間と時間が必要です。

 もちろん私も、手間がかかるだけの無駄な仕事(ブル・シット・ジョブ)がいいというつもりはありません。同じ仕事なら短時間で片付けたほうがいいでしょう。

 しかし、上記のような名人と言われる職人さんの仕事には、そもそも無駄な動作がありません。毎日何百回何千回と繰り返して最適化された動作で複雑な工程をよどみなくこなしていきます。そうなるためには何年にも及ぶ修練が必要です。職人の仕事に限らず、そういった地道な努力に耐えられる精神と覚悟のない者が、自分にはできない言い訳として「タイパが悪い」と言っている気がします。「タイパ」という言葉の実際の使われ方にはこういったニュアンスが漂うようで、その品性の低さはまさに唾棄に値します。

 勉強などでも、同じことが言えます。私の経験では「いい参考書」「いい問題集」、「能率の良い勉強法」を探し回っている人ほど、勉強はできないものです。まず手元にある教科書をよく読む。今持っている問題集を繰り返し解いてみるのが、最も早い成績アップの道だと思います。

 

11/18 祝! 戸邉さん厚生労働大臣賞受賞 プチ史跡巡り2 早川雪洲の机

 11月16日(日)に開かれた全国高等学校定時制通信制生活体験発表大会に、本校4年次の戸邉菜月さんが埼玉県代表として出場し、第2席の厚生労働大臣賞を受賞しました。詳しくは追ってほかの記事が出ると思いますが、まずは速報です。

 

 さて、次にプチ史跡巡り2です。

 上記の大会のために訪れた六本木のハリウッドビューティープラザのホール前の廊下に、早川雪洲愛用のライティングデスクが置いてありました。黒檀(?)で作られたキャビネットの全体に精緻な彫刻が施された見事な机です。

 早川雪洲ってだれ? と思った人も多い(というかほとんど?)と思います。

 早川雪洲(1886~1973)は、第二次世界大戦の前からアメリカ映画界で活躍していた日本人俳優です。雪洲は身長171cmと明治生まれとしてはかなりの長身でした。当時はアメリカの白人男性の平均身長も170をやや超える程度だったと思われますので、体格的にも引けを取らず、顔だちも端正で中々のイケメンでした(下の写真の机の上のパネル参照)。1910年代後半~30年代には、白人女性を誘惑する危険なアジア人男性の役どころで大人気だったようです。

  

 私は早川雪洲の出演した映画は、彼の晩年に近い「戦場にかける橋(1957)」しか見たことがありません。この時、雪洲はもう70歳くらいでしたが、厳格だが武士道精神をもった軍人の役を演じ、好評を博しました。

 その雪洲の机がなぜ、ここにあるのでしょうか。ハリウッド美容専門学校(メイ・ウシヤマ学園)は1925年創立という歴史ある専門学校ですが、その創始者、牛山清人(*)が、ハリウッドで早川雪洲の付き人をしていたという縁があるようです。牛山は当初、俳優を目指しスタントマンなどをしていましたが、手先が器用でメイクアップが上手だったので、そちらの専門家となり、帰国して学校を開いたとのことです。

 それにしても早川雪洲といい牛山清人といい、まだ映画産業が始まったばかりのアメリカに飛び込んで活躍するとはすごいですね。今のすっかり自信を失って内向きになってしまった日本人は明治生まれのバイタリティーを見習うべきではないでしょうか。

(*)本校卒業生もお世話になっているメイ・ウシヤマ学園の創業者を敬称抜きなのは、ちょっと引っかかる感じはあったのですが、100年も前の方なら、もう歴史上の人物(豊臣秀吉とか徳川家康というのと同じ)だろうと思ったのと、「早川雪洲」との記述のバランスをとりました。

 

 

 

11/12 プチ史跡巡り2 中浦和の板石塔婆

 昨日、別所沼公園から中浦和駅周辺を歩く機会がありました。中浦和駅近くの浦和でも有数のうなぎの老舗「萬店」さんの駐車場の一角に古い石碑(写真下)があります。以前から存在は知っていたのですが、近くに寄ってみたことがありませんでした。

 

 頭がとがった石板で、中世にたくさん建てられた板石塔婆であることは見当が付きました。板石塔婆は全国に分布していますが、この石碑のように秩父山の緑色の石(緑泥片岩)で作られたものは「武蔵型板碑」と呼ばれ、埼玉県近辺でたくさん見られます。説明看板によれば、この板碑は弘安4(1281)年に建てられたものだそうで、だとすると現存する板碑の中でもかなり古いものと言えます。

 私はこういう石碑が好きなので、見つける度に寄り道して見物していますが、私の見た中でこの板碑に匹敵するほど古いものは、建長8(1256)年に建てられたという、羽生の毘沙門山古墳のところの巨大板塔婆くらいです。あちこちで見かける庚申塔や馬頭観音などは、古くても江戸時代の元禄年間や宝永年間くらいでしょう。

 ただ、この板碑はナメクジでも這いまわったような茶色い傷あとが全面にあります。かろうじて梵字や蓮花が刻んであるのがわかり、その左側にも年紀などの刻字があったような感じですが、ほとんど碑面が読み取れません。説明看板には「浦和市観光協会」と書いてあるので、それ自体が20年以上前の物です。茶色の傷がどのようにしてついたのかわかりませんが、20年前にはもっと鮮明に碑面が読み取れたのかもしれません。

 弘安4年と言えば、元(モンゴル人が建てた中国の王朝)と高麗(昔朝鮮半島にあった国)の連合軍による2回目の日本侵攻(弘安の役)があった年です。この2回にわたる元・高麗連合軍の侵攻(いわゆる蒙古襲来)については、以前は奇跡的に暴風雨が吹いて助かったという「神風」説が主流でしたが、最近は鎌倉幕府が外交や諜報活動を通じて情勢を分析し、侵攻に備えて防衛設備や動員体制を整えていたから勝てた、とする説の方が有力です。

 きちんと情報を分析し勝つ(負けない)ための準備を十分にしておく、理性的な態度が必要であるというのは、現代にも通じる教訓ですね。

 

 

11/10 追悼 晋平太さん

 この週末、ネットのニュースを見ていたら、ラッパーの晋平太さんが亡くなったというニュースがありました。

 私は特にHIPHOPやラップが好きというわけではないのですが、数年前、晋平太さんとお会いし、ちょっとだけですがお話をしたことがあるので驚きました。

 なぜ晋平太さんと話をする機会があったのかというと、前任校で行われたPTA主催の生徒向け講演会の講師としてお招きしたからです。

 講演のタイトルはたしか、「言葉のパワー」でした。日本を代表するラッパーとして活動されてきた経験を元に、言葉を発することで人とつながり、自分の未来を切り開いていくことができる。それだけでなく、たとえ過去がつらいものだったしても、現在の自分が言葉を発することで未来の自分を作っていけば、それは自分にとって意味のあるものになる、というお話だったと思います。

 講演の開始前に少しお話をしたのですが、本質的に真面目な人柄なのに、ラッパーとしてはあまり生真面目な感じにはしたくないし…みたいな雰囲気で、自信と含羞が入り混じった微妙な感じがとても魅力的でした。

 私は、今は「言葉」が危機に瀕していると思います。ネットを中心に、揚げ足取りや「切り取り」が横行し、故意に人の言葉を曲解しての中傷(言いがかりともいう)や、明らかな虚偽の流布まで平然と行われています。

 そのような時代であればこそ、晋平太さんのお話されていた「言葉のパワー」、人と人をつなげる言葉の力を取り戻し、育てていかなければと思います。

 ご冥福をお祈りいたします。

 

11/6 祭のあと & こんなものを読んできた第32回

 昨日の体育祭、本日の総合閉祭式をもって今年の翔陽祭が終わりました。活気に満ちた祭のあとはどことなく寂しいものです。とは言え、生徒諸君は虚脱していないで、また来週から元気に学校に来て下さい。

 終わったといえば、翔陽祭と並んで全国の話題を集めた2025大阪万博も先月終わりました。主催者は2500万人以上の来場があった、と発表していますが、私を含め私の周囲で行ったという人はほとんど見当たらないのですが…。不思議ですね。

 同じ大阪万博でも1970年の大阪万博では、今回をはるかに超える国民的な熱狂がありました。海外からの観光客が今ほどいない時代に、6400万人の来場があったということです。私も学研の「科学と学習」別冊ガイドブックを暗記するほど読んでは、親に連れて行ってくれるようにせがんでいましたが、だめでした。(当時の私の家の経済状況を考えれば無理もないのですが、ずいぶんと親を困らせたと思います。)

 この1970大阪万博の最大の目玉は、その前年にアポロ11号が月から持ち帰った「月の石」の展示でした。それらの影響もあって、このころ子供だった私と同年代の人たちには「宇宙が好き」という人がたくさんいます。今回の「こんなものを読んできた」第32回は、その宇宙大好き世代の仲間、あさりよしとおさんの「アステロイドマイナーズ」を紹介します。かなりビターな内容ですが、それでもやっぱり人類は宇宙へ出ていくべきだ、というメッセージを感じます。こんなものを読んできた32(アステロイド・マイナーズ)web.pdf

11/1 翔陽祭第1の山場

 今日は翔陽祭第1の山場、文化祭2日目です。

 昼間は事前予約1900名を超えるお客様に来ていただき大盛況でした。

 今は(午後4時50分)はちょうど中夜祭が始まったところです。

 

 歌ったり踊ったりサイリウムを振ったり、盛り上がった去年よりもさらにパリピ感1.2倍くらいな感じですね(個人の感想です)。

 翔陽祭はさらに来週の体育祭へと続きます。

10/31 翔陽祭始まる。

 いよいよ翔陽祭がはじまりました。

 今日は文化祭の1日目、校内+お隣「かけはし特別支援学校」さんへの公開です。

 私も校内をざっと回ってきましたが、その結果、今日の私の昼食は、文化祭メニューになりました。

 

 明日は一般公開です。午前中雨が残らないか、ちょっと心配ですが、いい文化祭になるといいなと思います。

10/30 秋深し & 文化祭今昔

 秋が深まってきました。そろそろクローゼットからコートを引っ張り出そうかなという感じです。昨日の夕方も、空気が澄んで夕雲がとてもきれいでした。

 

 昨日から始まった文化祭の準備は、今日が2日目です。三部制の本校も文化祭の期間中は一斉登校になり、生徒会活動や部活動などでは、日頃顔を会す機会の少ないⅠ部~Ⅲ部の生徒たちが力を合わせて取り組みます。

 

 文化祭は高校生活を象徴するイベントとして、昔からマンガやアニメ、小説など様々な作品のモチーフになってきました。

 古い話で恐縮ですが、1984年公開の「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」(押井守監督)というアニメ映画では、文化祭準備の喧騒と狂騒が終わらない(終わりたくない)夢として描かれていましたし、先日このブログに登場した谷川流「涼宮ハルヒ」シリーズでも文化祭は一つの山場です。米澤穂信の「古典部シリーズ」でも、第1作の「氷菓」、第2作の「愚者のエンドロール」はともに文化祭にまつわるお話です。

 ただし、この辺りの作品のクリエイターは年齢的に私の前後の年代(一番年長の押井守さんが1951年、一番若い米澤穂信さんが1978年生まれ)の人たちなので、とても共感できるものがあるのですが、これが21世紀生まれの今の生徒たちに響くかどうかはわかりません。上記の作品群に描かれたような狂おしいまでの文化祭への情熱が今の生徒たちにあるでしょうか。

 せっかくの文化祭ですから、生徒たちにとって一生の思い出になってほしいと思います。

 

 

10/29 いつの間にかに…

 今日から本校は「翔陽祭」の準備です。10月31日(金)・11月1日(土)に文化祭、11月5日(水)に体育祭が開かれます。観覧には事前予約(締め切り済み)が必要なので、予約していない方にはもうしわけありません。

 今日は朝から、教室の飾りつけをしていたり、楽器の練習の音が聞こえてきたり、だんだんお祭りムードが高まってきました。

 それにしても「季節的に遅くない?」と思った方もいるかもしれません。しかし去年も書いたと思うのですが、他校でよくある9月初めの文化祭は早すぎます。熱中症や食中毒の恐れがあったり、まだ日が長い時期なので後夜祭も真昼間だったり、デメリットが多すぎます。翔陽祭の中夜祭は、やっているうちにとっぷりと暮れてきていい感じです。

 さて、そんな文化祭準備のかたわら、今日は学校献血もありました。私も少しは世の中の役に立とうと会場へいったのですが、なんと今回が献血50回目とのことで記念品をいただきました。

 頻繁に献血ルームに行っていた時期もあれば、2・3年も間が空いてしまった時もありますが、ちりもつもれば何とやら、いつの間にかに50回になっていました。

 振り返れば、50回すべてが400mm献血で達成までに40年くらいかかっています。70回でまた記念品や有功章がもらえるらしいのですが、献血ができるのは69歳までなので、年3回しかできない400mm献血ではとどきません。200㎜や成分献血なら回数が稼げますが、記念品目あてというのもちょっとはばかられますね。

 

10/22 これは昭和じゃない

 昨日、ネットをふらふらと見ていたら、「日刊SPA!」の「土下座しろ!水をこぼした女性店員に激怒する高齢の男性…救いの手を差し伸べてくれた“意外な人物」という記事に見過ごせない部分がありました。

 

 それは記事冒頭の「昭和の時代ならいざ知らず現在では客だからといって横暴に振る舞う行為はタブーとする風潮が浸透した。一方で、そうした世間の動きから取り残されたままの人物も、まだまだ少なくはないのが現状だ。」という一文です。これは事実誤認、というか事実と正反対のことを言っているように思います。

 何事にも100%ということはありませんが、私の知る限り昭和の時代には、店員のささいな失敗に文句を言って大声を上げるような客はほとんどいませんでした。

 昭和の老人は明治末から大正生まれで、ジェンダーフリーだのポリティカルコレクトネスだのといった考え方はしなかった(というか、そんな考え方自体がまだない)ので、男性客が女性の店員に「おねえちゃん」や「おばさん」呼ばわりをするくらいのことはありました。しかしその反面、料理を運んでくれた店員さんにはちゃんと「ありがとう」と言う人が多かったように思います。店員と客という以上に、人と人としての礼儀がわきまえられていた時代です。

 自分たちはお金を払った客なのだからサービスされて当然、といった態度、「客だからといって横暴に振る舞う行為」は、平成から令和にかけて蔓延してきたものです。居丈高な客が店員さんに怒鳴っているのは、きわめて令和的な風景といえるでしょう。

 今回取り上げた記事の筆者は、いつ頃生まれた人なのかは知りませんが、おそらく本当の昭和を知らないのでしょう。この人に限らず、最近なんでも悪いことを「昭和」で片づけてしまおうとする紋切型な言説がよく見られますが、私は人間や社会の相対的な能力は昭和の方が上だったと考えています。

 つい先日も大手飲料会社の流通システムがクラッキングを受けて製品の供給ができなくなってしまいました。取引量や製品数は現代の方が多いのかもしれませんが、昭和の時代にはどの企業も紙の伝票と電話とファクス、電卓くらいの装備で流通管理をしていたはずです。今の人間にはその能力も覚悟もないようです。

 はるかに便利になったはずの現代の方が商品のサプライチェーンが脆弱になり、また交通機関などもすぐ止まってしまうのはおかしな話です。

 

 

 

10/21 こんなことを考えた &こんなものを読んできた31

 以前、悪夢ばかり見るという話を書きましたが、寝つきも悪く、私は全体的に睡眠の質が低い人のようです。寝られないときには、仕事のことなど考えているとますます寝られないので、なるべく仕事と関係のない取り留めのないことを考えるようにしています。

 で、最近考えていたのが「言語の起源」みたいなことです。

 世界にはたくさんの言語があります。インド・ヨーロッパ語族(英語やドイツ語、フランス語など)のように系統が辿れるものもありますが、系統のよくわからない言語(日本語もその一つ)もあります。しかし、全ての言語に共通の論理的枠組みがあり、相互に翻訳可能であることから、全ての言語の元となった始原の言語があったのではないかと考えてしまう人も多いでしょう。

 13世紀のシチリア王にして神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世もこのことを疑問に思い、「生まれたばかりの赤ん坊を閉じ込め既存の言語では一切話しかけないようにしたら、この始原の言語を話すのではないか。」という実験をしたと言われています。現代だったら到底許されない非人道的な実験ですが、「最初の近代人」といわれたフリードリヒ2世らしい合理的な手法ではあります。また20世紀にはチョムスキーという人が言語の共通の性質を研究し、生成文法や普遍文法という考え方を唱えました。

 さて、前置きというには長くなってしまいましたが、最近、私が寝ながら考えたのは「音義説」のようなことです。「音義説」とは「あ」とか「い」という音そのものに原始的な意味があり、それらが組み合わさって今の言葉が出来上がっているという説で、江戸時代に日本の国学者の間で流行しました。(国学者たちも中国語やオランダ語など他の言語は知っていましたが、彼らにとっては日本語こそが始原の言語だったのでしょう)。で、この音義説みたいなもので、私が考えたのは擬音語や擬態語などの問題です。

 擬音語については耳で聞こえた音を写したものなので、似ているのは当たり前です、ものが叩かれた音を日本語では「バン」、英語では「BANG」と表現するようなものです。しかし擬態語についてはどうでしょう。物が不愉快なほど強く光を放ったり反射したりしているとき、日本語で「ギラギラ」、英語で「glitter(グリッター)」と言います。また光の細かい点滅を日本語で「チカチカ」、英語で「twinkle(ティンクル)」といいます。光を放つ物体から「ギラギラ」とか「チカチカ」という音が出ているわけではなく抽象的なイメージの問題なのに、妙に似ていると思いませんか。もちろん明治時代に海外の文化や言語が流入した際に、英語の擬態語の影響を受けた可能性はあります。しかし、食べ物の味が良いことを日本語で「うまい」、英語で「yummy(ヤミー)と言ったりするのも妙に似ています。この辺りを考えると、昔の「音義説」的なものがあるのかも、という気がしてきます。

 ちなみに昔、私の実家で飼っていた猫は、普段、安物の乾いたキャットフードしか食べさせてもらえないので、たまにおいしい猫缶を上げると「うみゃ、うみゃ、うみゃ」と言いながら食べていました。ひょっとして言語の起源は人類共通どころではないのかもしれませんね。

 さて「こんなものを読んできた」31回は、超軽量級のラノベ「全力回避フラグちゃん」を紹介します。いかにもネットやユーチューブの普及した現代らしい作品です。こんなものを読んできた_31(全力回避フラグちゃん)web.pdf

 

 

10/15 プチ史跡巡り2 & こんなものを読んできた30

 先週、「令和7年度全国単位制高等学校長等連絡研究協議会第35回兵庫大会」(長い!)という会議のため、兵庫県西宮市に行ってきました。 単位制で進学実績を伸ばしている伊丹北高校や、アルバイトを実務代替として義務づけている私立の綾羽高校などの取り組みが聞けて、大いに勉強になりました。来年は埼玉大会ですから、皆さんよろしくお願いします。

 さて上述の通り西宮に行ってきたのですが、この辺りはラノベ、アニメの「涼宮ハルヒ」シリーズの舞台です。今回は業務出張だったので、アニメ聖地巡りみたいなことはできませんでしたが、阪神電車「香櫨園駅」を下りたところの夙川(しゅくがわ)公園(作品中に出てきた公園は、もっと上流の阪急の夙川駅に近い方のようですが…)などに、作品の雰囲気を感じさせるものがありました。

「涼宮ハルヒ」ももう20年も前の作品ですから、それにまつわるアニメ聖地も、もはや史跡といって過言ではないかもしれません。今回は会場がJR「さくら夙川」、阪急「夙川」の近辺だったので、作品中でハルヒが文化祭の映画撮影のためビデオカメラやエアガンを寄付させた「祝川商店街」があるか?と思ったのですが、夙川には商店街らしいものはほとんどありませんでした。「祝川商店街」は西宮の中心部をモデルにした架空の商店街のようです。

それと香櫨園駅の前で、こんな石塔を見つけました。

 上部に「三界」とあるのが読めます。これは何かというと「三界万霊塔」というもので、仏教の「三界」(欲界、色界、無色界)に存在するすべての霊を供養するという趣旨のものです。裏側も見ましたが特に年紀のようなものは見当たらなかったのでいつ頃の物かはわかりません。全国のあちこちにあるようですが、私の生活圏(埼玉県南部)ではこれまで見たことがありませんでした。地域的な分布の偏りがあるのかもしれませんね。ネットで調べようとしましたが、ブログの類や旅行・観光に関する記事は、県のネットワークでは禁止されて見えないので、よくわかりません。しかし面白いものを見ました。だから旅はいいですね。

 「こんなものを読んできた」第30回は、そんなわけで「涼宮ハルヒ」シリーズを紹介しました。20年前のまだ日本がこれほど衰退する前のゆとりのある雰囲気が伝わってくるような作品です。こんなものを読んできた30(涼宮ハルヒ)web.pdf

 

 

10/8 いよいよですね。

 学校の方は昨日から中間考査です。テスト期間中は休み時間も静かで学校中がしんとした感じです。電車の中でも高校生が英単語や古文単語の本を見ている姿もよく見かけます。みんな頑張ってください。

 さて、タイトルの「いよいよですね」って、一体何が? というとアレです。Windows10 のサポート終了です。

 最初に書いておくと、私のような木っ端者が世界のマイクロソフトに反抗しようなどどは思ってもいません。実際に私は1993年に初めて自分のPCを買ったときからずっとWindowsユーザーで、一度もリンゴのマークに走ったりしたことはありません。(ヘコヘコした小物感丸出しですね。)

 でも、ちょっとだけ「Wiondows11への乗り換えって必要なんですかぁ?」と思ってしまうわけですよ。

 先述のとおり1993年に私が始めて買ったPCはエプソンの486SXノートというやつで、CPUはIntel486SX25Mhz、RAM12MB、HDD500MBのハードウエアにOSとしてMS-DOS5.0+Windows3.1を乗せていました。(ちなみに当時はPC本体とメモリやHDDなどは別売でした。OSも購入後に自分でインストールしていました。)

 今の若い人はスペックの単位が「G(ギガ)」ではなくて「M(メガ)」であることに目を疑うかもしれませんが、これは間違いではありません。しかもこのスペックは当時としては結構ぜいたくな方でした。同僚からは「メモリ12MBも積んでどうするの」とか「HDD500MBなんて一生使いきれないじゃん」とか言われたものです。

 この初代マイPCの486SXと今このブログを書いている学校のCore i3-1315U(現代水準ではかなり低性能)では、AIのコ・パイロットさんによれば、1000倍以上の性能差があり、「まるで黒電話とスマートフォンを比べるようなもの」だそうです。(詳細は下記の通り)

 

指標 486SX Core i3-1315U
クロック  約25Mhz 最大4.5Ghz 
 コア数 6(8スレッド) 
 キャッシュ 数KB  10MB 
 PassMarkスコア 約5~10  約11,339 
 消費電力 数W  15W(TDP) 

  とはいうものの、この486SXの時代と現在で、学校でPCを使ってやっている作業は、ワープロでの文書作成、表計算やデータベースを使った会計や成績の処理などで、ほとんど変わりません。さすがに486SXで動かすWindows3.1は頻繁にフリーズしていましたし、画像の加工などさせると、1枚の写真の処理に20分くらいかかったりしていたので、もう少し機械もOSも進化させたいところですが、その数年後のMMXペンティアムで動かすWindows2000やWindows Xpで十分だった気がします。

 現在のWiindows10や11は、Xpなどに比べると起動が早くなっていますが、ハードウエアの性能が1000倍以上になっているのだから、それも当たり前の気がしますし、特にバージョンアップの必要を感じないのですが…。

 サポート終了後はセキュリティが担保されませんと言われてしまうと、学校では使い続けることができませんが、コンピュータをスタンドアローンで使っている工場や倉庫などでは、いまだにNECの98シリーズが現役のところもあると聞きます。 Wiindows10が出たときには、これが最後のOSだとか言っていた気もするのですが…。

 すみません。ただの愚痴でした。

 

9/29 こんなものを読んできた29 & どんな夢を見てますか?

 さて前回、強い調子で「どんな本を読むかは勝手だろう」という話を書きました。それは何故か?というと、今回、「こんな本を読んできた」第29回で、藤本タツキのマンガ、「チェンソーマン」を紹介する露払いの意味もあったのでした。こんなものを読んできた29(チェンソーマン)WEB.pdf

 今も昔も暴力シーンがあったり、露骨な性的な描写がある作品には、「児童生徒が読むのに適さない」と「有害」のレッテルが貼られがちです。ただ、そういった作品の中には表面的に好ましくない描写があっても、伝えたい真のテーマには見るべきものがある作品もたくさんあります。(確かに有害だな、と納得してしまう作品もありますが…。)

 藤本タツキの「チェンソーマン」も「好ましくない」マンガに分類されてしまいそうな作品ですが、私は、独特の美しさや味わいのあるいい作品だと思っています。(詳しくは上のリンクから本文を見てください。)

 この作品の特徴は、なかなか覚醒できない悪夢をみているような独特の雰囲気にある、と思いますが、ところで皆さん、日常的にどんな夢をみていますか?

 私はあまり楽しい夢を見ることがありません。ほとんどが悪夢の類です。

 教員稼業が長いせいか、舞台が学校のものが多いのですが、たとえば、授業に行こうとして職員室を出たのに教室にたどり着かない。よく知っているはずの校舎が迷宮と化して、このままでは授業に遅れてしまう…。とか、そんな感じです。最近も、生徒と一緒ににぎやかに文化祭の準備をしていた(この辺は割と楽しい)ところに、「車の移動をお願いします」と放送が入ったので、愛車を移動させようとすると、なぜが自分の車が見つからず、校内をぐるぐるさまよう…。という夢を見ました。次の朝、寝起きからひどい疲れを感じて、脈拍や睡眠状態の記録できる腕時計で見たら、睡眠中なのにものすごくストレスの高い状態になっていました。

 夏目漱石に「夢十夜」という作品があって、漱石の見た不条理で不可解な夢を描いています。漱石も精神的に不安定な人だったといいますが、私の悪夢癖も何か精神的なものなのでしょうか。

 

9/19 どんな本を読むべきか?

 今日の朝は久しぶりに半そでだとちょっと肌寒いほど涼しくてホッとしました。でもまだ暑さのぶり返しはあるようです。このブログを読んでくださっている皆様、お体ご自愛下さい。

 さて、前々回(9/8付け)のこのブログで、小学校の先生に対する批判めいた感じのことを書いたので、皆さんの中には「この人は小学校の先生が嫌いだったんじゃないか?」と思った人もいたのではないでしょうか? 実はその通りです。理由はいくつかありますが、強いて言うなら当時の先生には「のぞましい子供像」を押し付けてくる人が多かったからです(もちろん尊敬できる先生も何人かいましたが)。

 で、今回のお題につながるのですが、当時の小学校の先生には、読書の面でも「情操を豊かにする」本ばかり読ませようとする人が多かったように思います。小学生の頃の私はそれが性に合いませんでした。ついでに言うなら私の母親も「情操」とやらが好きでいい迷惑でした(親不孝な言いぐさですが、本当にそうでした)。

 たとえば当時の先生がよく勧めてきたのは、リンドグレーンの「長靴下のピッピ」とか、ウィーダの「フランダースの犬」とか、ドーデの「最後の授業」などの「良書」でした。まあ一応私も読んでみました。リンドグレーンなどには、今読めば子供の時には感じなかった何かがあるのかもしれません。しかし「フランダースの犬」のラストには、「おとなしく凍死するくらいなら、どんな生き方でも生き延びた方がいい」と感じました。「最後の授業」では「アルザス・ロレーヌがドイツ領に編入され、明日から学校でフランス語が使えなくなる」のが悲劇とされているのですが、妙に歴史マニアだった私は「ドイツ系住民もたくさんいるのだから、その人たちは喜んだんじゃないか?」とか考えてしまったわけです。で、先生にその辺の疑問をぶつけると、ひねくれた読み方をする困った児童という扱いになってしまい…。

 同じように、夏休みの宿題でよくあった「読書感想文」も先生たちの想定する「のぞましい感想」でないと評価されなかったように思います。たとえば太宰治の「走れメロス」という作品があります。一般的には「メロスとセリヌンティウスの篤い友情と信頼で、人間不信の王様も改心した」お話とされ、読書感想文にも期待されているのは、その線でしょう。

 しかし、私はこの作品には全体になんとなく皮肉っぽいトーンが流れているようで、作品そのものが太宰治の壮大な冗談ではないかと考えてしまいます。「走れメロス」については、米澤穂信の「氷菓」シリーズの中にも、主人公の折木奉太郎が、さまざまな突っ込みを入れてミステリー作品として読んでしまう、というお話がありますが、とにかくそんなに素直に読んでいい(もちろんそう読んでもいいですが)作品ではないと思います。

 話が長くなりましたが、何が言いたいのか、というと「何を読んで、どう感じるか」などは自由でいい、ということです。私も「こんなものを読んできた」でおすすめの本を紹介していますが、それは自分が読んで面白かった本を紹介しているだけで、それ読むかどうかはみなさんの勝手です。

 世の中には、明らかに科学的におかしなことが書いてあったり、極端な思想で事実を捻じ曲げたりのいわゆる「トンデモ本」があります。子供たちがこの手の本を読んで、それに染まったら大変だという考えもあるでしょうが、これらも含めて「何を正しいと思い、何を信じるか」は、多くの本を読み様々な知識を得たうえで自分で考えればいいことだと思います。

9/12 プチ史跡巡り2「飯田橋周辺」 & こんなものを読んできた28

 今日の午前中、ちょっと出張で飯田橋まで行ってきました。少し早めについたので江戸城の牛込門跡の石垣を見てきました。

 

 飯田橋駅の西口を出ると、駅前の道を挟んで両側に牛込門の跡の石垣が残っています。門そのものは明治に入って間もなく撤去されたのですが、土台の石垣は残されました。これだけ堅固なものを撤去すると工事の手間と費用も馬鹿にならないからでしょうか。

 

 また駅前には牛込門の石垣に使われていた石も野外展示されています。側面にこの門の工事を担当した蜂須賀阿波の守の名が刻印されています。東京の皇居周りにはこういった遺跡・遺構が点在していて楽しいですね。

 次は飯田橋の駅の中です。これは帰りに撮りました。

 飯田橋の駅は現在は西口側に中心が移っていて、東口から入ると電車に乗るまでに使われていないホーム東側の部分を100m以上歩くことになります。この古いホームの部分の屋根は柱が曲線でそのまま梁に変わるとても美しい構造をしています。そして、この柱の鉄骨はよく見るとレールを曲げたもののようです。

 

 柱のクローズアップです。車輪がのる上面が内側、枕木に接する下面を外側にして2本束ねて柱にしていることがわかります。

 昔はあちこちの駅でこういったレールを構造材に使ったホームの屋根がみられましたが、最近は建て替えられて少なくなってきました。飯田橋の駅のここの屋根はそれらのうちでも美しいものの一つだと思います。

 さて、もう一つのお題、「こんなものを読んできた」。今回はハインラインの「大宇宙の少年」です。私は子供のころに夢中になって読んだ記憶があるのですが、他にもこの作品を読んでSF好きになったという人がたくさんいるようです。こんなものを読んできた28(大宇宙の少年)web.pdf

 

9/8 プチ史跡巡り2 やはり遺跡でしたか!

 9月に入り、日差しはやや弱まりましたが、暑いですね。「暑さ寒さも彼岸まで」のことわざ通りになればよいのですが。

 さて、今日はちょっとだけです。

 このブログでも、たびたび「土の盛り上がりをみると古墳に見える病気」を発症している私ですが、その原点は、子供のころ住んでいた見沼区大和田にあった謎の土の山でした。

 東武野田線(最近はアーバンパークラインと言うそうですが)の大和田駅の南方数百メートル、子供のころ私がよく虫取りでうろついていた雑木林の中に、長径20m、短径15mくらい、高さ2~3mほどの土の小山がありました。

 小学館の「マンガ日本の歴史」や学研の学習百科事典を読破して、妙に歴史や考古学が好きだった私は、「これは古墳かも?」と考えました。そして、この小山の近くの農家(このお宅では金魚を養殖していたので、たまに買いに行ってました)の人に聞いてみたのですが「わからない」とのことでした。そこで小学校の先生にも聞いてみましたが、「こんなところに古墳があるわけない。」と言われました。当時の私はまだ素直で、先生は何でも知っていると思っていたので、「じゃあ、違うのかなぁ」と思ったものです。

 さて、この間、このことを思い出して、前にも利用させていただいた国土地理院の陰影図で見てみました。昔、私が不思議に思った場所には、ちゃんと小山が二つ表示されています(13の数字左上)。

 その同じ場所を、さらにさいたま市遺跡地図(この地図も便利で素晴らしいです。)で見ると、二つの山のうち、北側の方が赤くなっていて遺跡番号「12-209」となっています。

 詳細な情報を見ると、ここは「埋蔵文化財包蔵地」「塚・散布地」「中世」とのことで、古代の古墳とはされていませんが、人為的な塚として認定されています。また古代には13の数字左の黒点の交差点の少し南まで見沼の入り江が細長く入り込んでいたようです。ここの十字路の東西の道は大宮と岩槻を結ぶ古い街道で、辻には今も六地蔵が残っています。この周辺は昔は何らかの重要ポイントだったのかもしれません。

 50年以上、ずっとこの問題が頭に引っかかっていたのですが、古墳かどうかはさておき「遺跡ではないか」と思った私の直感は間違っていなかったのですね。思わず大威張りしてしまいました。

 それにしても小学校の先生は何を根拠に「古墳のはずがない」と断言したのでしょう。歴史を商売とする人の端くれになった今の私の目から見れば、大和田の周辺は低地と台地の境目で中世の城塞や館の跡なども点在し、中世の塚や古代の古墳があってもそんなにおかしくない場所なのですが…。なんか微妙に子供の夢をつぶされたような気がします。私だったら、「そうかもしれないね。調べてごらん」と言ったと思うのですが。

 上記の地図の引用については一応学術・教育目的の利用条件には合っていると考えていますが、もし不都合があればお知らせ下さい。

9/2 こんなもの読んできた27 & 初めて見ました!

 夏休明け最初の「こんなものを読んできた」は、アイザック・アジモフの「銀河帝国興亡史」です。本文中にも書きましたが、私が中・高生のころ、SFファン界隈では「銀河帝国興亡史」を読んでいないと、「もぐり」「素人」扱いされ軽蔑されたものでした。私はひねくれ者だったので「だったら俺は読まない」と決心し、50年近くこの作品に背を向けていましたが、もうそろそろ読んでもいいかと思い、今回ようやく読破しました。

 こんなものを読んできた27(銀貨帝国の興亡)web.pdf

  さて、出勤途中にこんなチョウを見ました。

 

 私がこれまで見たことのないチョウだったので、調べてみたらおそらくムラサキシジミのようです。シジミチョウの仲間は体も小さく羽根を閉じていると目立たないのですが、羽根の内側が美しい金属光沢をもっています。しかしスマホを構えて待っていても、なかなか羽根の内側を見せてくれません。そこでちょっと気の毒ですが、飛んでもらうことにしました。(下記のリンクをクリックすると動画がダウンロードできます)

 VID_20250902_064011387 - Trim.mp4

 動画は一瞬過ぎるので、ファイルからフレームを抜き出してみました。形はぶれていますが、深い青色はわかると思います。

 シジミチョウの仲間には、他にも羽根の内側が鮮やかな緑色のミドリシジミや、きれいなオレンジ色のベニシジミ、白銀色のウラギンシジミなどきれいな蝶がたくさんいます。そこら中の芝生や草むらで見かけるヤマトシジミ(1センチ5ミリくらいの白っぽいチョウ)も、よく見ると羽根の内側が金属光沢のある薄いムラサキ色でなかなかきれいです。

 今回見つけたムラサキシジミは色がきれいなだけでなく、幼虫の時にアリを引き付ける匂いを出して、アリに自分の護衛をやらせる不思議な習性をもった蝶としても有名です。日本では割と広い範囲に生息しているようですが、私は初めて見ました。こういったことがあった日には、何かいいことがありそうです。

 

 

8/22 こんなものを読んできた26 & 「上り坂の時代」

 「暑い」といってもどうしようもないですが、暑いですね。

 夏休みも終盤ですが、みなさん、夏休みにやろうと思っていたことはできましたか。

 さて、ここのところ、マニアックな古書を取り上げることが多かった「こんなものを読んできた」ですが、今回は若い人にも手に取ってもらえそうな昨年のベストセラー「成瀬は天下を取りにいく」を紹介しました。ベストセラーになるだけあってすごく面白いですが、それだけではないものもある作品だと思います。こんなものを読んできた26(成瀬は天下を取りにいく)web.pdf

 今日のもう一つのお題ですが、先日、こんなものを買ってしまいました。

 

 Fujica35Mという古いカメラです。昔、私の父親(もう故人です)が愛用していたカメラの同型品です。今のカメラにはない全金属性のずっしり感がたまりません。

 興味のない方には恐縮ですが、Fujica35Mは撮影対象との距離を測る測距儀が内蔵されているレンジファインダータイプのカメラです。

 測距儀の原理について簡単に説明します。周りの物を片方ずつ目をつぶって見てみましょう。近くにあるものほど右目と左目で見え方が違うはずです。人間は脳内でこの見え方の差を分析することで立体感を感じています。測距儀にも人間の目のように左右に離れた二の窓があり、外部の風景(光)を取り込んでいます。この左右二つの窓の映像を人がのぞき込むファインダーの中央に鏡やプリズムを使って重ねて映し出すのですが、この映像は近いものほど左右にズレて見えます。このズレがなくなるようダイヤルを回して調整してやると、ダイヤルの回転量で対象物への距離が測れます。光学技術と機械技術を合わせたすごく巧妙な仕組みです。

 さらに私が入手したFujica35は後期型のMLというタイプで、シチズン製のLVシャッターという仕組みもついています。

 興味のない方にはますます恐縮なのですが、写真というのは絞りを開いてとると、ピントの合う範囲が狭くなってボケやすくなります。手前の被写体だけピントが合っていてバックがボヤっとしている写真がありますが、これは絞りを開いて撮影しているわけです。逆に絞りを閉じるとピントの合う範囲が広くなって、後ろの方から前の方までくっきり映ります。ただ絞りの開閉に合わせて、シャッタースピードも速くしたり遅くしたりしないときれいな写真はとれません。

 LVシャッターではこの複雑な調整をコンピューターの助けを借りず、歯車やカムだけで実現しています。同じくらいの明るさでボケ方の違う写真を、一つのダイヤル操作だけで撮ることができる精巧な仕組みです。

 Fujica35は1957年に発売され、翌1958年のベルギー万博で銀メダルを受賞しています。日本の工業技術が欧米の物マネを脱して、本家欧米をしのぐ品質を誇るようになっていった時代です。まさに日本が上り坂の時代の製品です。

 今の日本は打って変わって産業や技術が低迷し、そのうっぷんを晴らすかのようにネット上での揚げ足取りやヘイトが横行しています。投資や金融、ICTもいいですが、農業や工業で物を作りださなくては、根本的な豊かさは増しません。このカメラを作っていた時代のような、まじめなものつくりをする国に戻らなくては、と思います。

 ちなみにこのカメラの発売価格は15,900円でしたが、その年の国家公務員の初任給は9,200円だったそうです。くそ真面目で朴念仁の見本のような私の父が、給料の2か月分に近い(今で言ったら40万円くらい?)カメラを買っていたとは驚きです。実は結構な趣味人だったのかなと思います。

 

8/19 小言幸兵衛

 古典落語に小言幸兵衛という演目があります。長屋の大家なのに入居希望者に次から次へとケチをつけて追い払ってしまうという困った年寄りの話です。私も年を取ったので小言が多くなってきました。

 折からの残暑の中、内にこもっていた小言を一斉開放して、暑気払いをしたいと思います。(される皆さんはたまったものではないと思いますが…。)

 小言その1「えんみ」ってなんだよ!

 最近、テレビ番組の食レポをみていると、出演している人たちがみんな「えんみ」「えんみ」としゃべっています。何のことかと思えば塩味「しおあじ」のことのようです。昔(といってもつい10年前くらい)はこういう言い方はあまり聞かなかったと思います。甘い味のことを「甘味(かんみ)」と言ったりするので、その影響でしょうか。あるいは栄養学かなにかの業界用語なのでしょうか。

 しかし、塩の味なのだから「しおあじ」というのが、耳で聞いてもわかりやすく。テレビやラジオのような音声による伝達では一番間違いがないはずです。また日本語としても、ほかに言い換えのない場合を除いては、カタカナ言葉や音読みの漢語をさけ、訓読みの大和言葉を使う方がのぞましいと思います。ところが最近の食レポでは「えんみ」と言わなければ食通ではないかのような、妙な気どり感を伴って、みんな「えんみ」「えんみ」と言っています。

 私は「えんみ」というと、まず「厭魅(古代に人を呪い殺すために行った呪法)」を思い浮かべてしまうのですが。

小言その2「…になります」って別になってねえよ!

 飲食店などで注文したものを店員さんが持ってきてくれる時に、近年では「こちらハンバーグセットになります」のような言い方をよく聞きます。私も、その場で店員さんに絡むようなことはしませんが、心になかでは「何がなりますだよ。何もなってねえよ!」と悪態をついてしまいます。この場合正しい言い方は「ハンバーグセットです」とかあるいは丁寧に「ハンバーグセットでございます」だと思うのですが。

 私の考えるに、この「…なります」は、「です」とはっきり断定することを避けてワンクッション入れることで、なんとなく責任をぼやかそうとする気持ちの表れではないでしょうか。同じような精神がもっとはっきり現れているのは、やはり20年位前からよく聞くようになった「正しい日本語(?)」のように語尾を上げた英語の疑問文のようなイントネーションで区切りながら話す話し方です。これも「自分の考えや見立ては必ずしもそうではないけれど、みんながそう言うから、言ってます」という言い訳を感じさせます。

 私が若いころにも、よく意見を言うときに「ある意味では」というのを頭につける人たちがいました。そういう時に、私は「ある意味でそうなら、別の意味もあるんだよね? それは何?」と聞き返していましたが、別の意味を答えてくれた人はいませんでした。これもそう言うとちょっと知的な感じで、考え深いように聞こえるから枕詞のように使っていたのでしょう。

 「こういったあいまいな表現を日本語から追放したい」というのが、私の悲願ですが、実現はむつかしそうですね。

3,リュックを前向きに持つな!

 先日、外出した際にどこかの路線の車内アナウンスで「混雑時にはリュックは前向きにお持ちください」のようなことを言っていました。とんでもない、と思いました。

 車内が混んでいるときにリュックサックを背中側に持っていると、知らないうちに人にぶつけてしまってトラブルになったり、目が届かないのでポケットの中のものを盗まれたりする心配があります。その点では腹側にもつのは改善策といえます。しかし、腹側にリュックを回すと重心のバランスをとるために、上半身を後ろにそらすことになります。こうなると身体+荷物の前後幅は広くなります。またさらにこの状態でスマホなどをいじると手が前に突き出されて、さらに場所を取り、混雑時には大変な迷惑です。

 私の考える最も良い持ち方は何かというと、背中からおろして手で持ち、体の前方に下げることです。腰回りより足のほうが細いし、上半身は足の上の方へ前傾するので、混雑する電車の中で最小限の面積しかとりません。

 この持ち方だと手がふさがるので「スマホの操作ができないじゃないか!?」という方もいるかもしれません。そういう疑問に対する私の答えは一つです。「(混雑の中では)操作するな!」。

8/14 最近行った所(続)& こんなものを読んできた25

 昨日の続きです。8月6日には平塚に全国定時制通信制のバレーボール大会を見に行きました。平塚市内で39度を記録したという猛暑の中、平塚駅から会場まで2km弱を歩きました。

 

 最初の史跡はこれ(上の写真)です。何の変哲もない道路の写真です。もしかしてこの軽トラが歴史的遺物なのか? ってそんなわけはありません。写真の歩道橋に書かれた字を見てください。「若松八千代歩道橋 東海道本通り線」と書いてあります。そう、この道が昔の東海道なのですね。東海道は国道1号線として東京から京都まで続いていますが、平塚ではこの道より少し北側のバイパスが国道1号となっていて、街中を通る旧東海道は国道指定から外れています。

 昔の東海道を歩けてしみじみ、と言いたいところですが、よく考えたら、私は毎日、昔の中山道を自転車で走って上尾駅まで通勤していました。行為としてはあまり差がないですね。

 次はここ、旧東海道「馬入川の渡し」跡です。

 

 この写真は、「馬入川の渡し」の石碑のある所から川の方を向いてとった写真です。手前の方に川を引き込んだ港があってたくさんのレジャーボートが係留されていますが、その向こうに国道1号が川を越える橋が見えます。

 いつもの明治迅速図でみると、街道は今と同じ位置を通っていて細い橋がかけられています。馬入川の流れはその橋のところでゆるく湾曲し、写真を撮った堤防のある場所は川に突き出していて、そこに集落があります。橋のできる前の江戸時代には、この辺りが渡し場だったのでしょう。

 家に帰ってきてから気が付いたのですが、国道1号の橋を渡ってあと2kmくらい行くと、「旧相模川橋脚跡」があります。これは関東大震災の時に液状化現象で水田の中から鎌倉時代の木製の橋脚が浮上してきたものです。鎌倉時代には、相模川(馬入川)の本流は今より東側を通っていたことになりますが、明治迅速図を見てもこの辺りは堤防の跡が蛇行しているので、相模川(馬入川)は頻繁に流れを変える暴れ川だったと思われます。

 ちなみに相模川(馬入川)の橋というと、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、相模川の橋の落成式に出かけた際に、落馬してそれが原因で死んだとされています。この橋脚跡のところで落馬したのでしょうか。平塚に行く前に知っていれば頑張って見に行ったのに惜しいことをしました。

 さて「こんなものを読んできた」第25回は、明日が8月15日の終戦の日であることもあり、戦争を描いたSFの古典、ジョー・ホールドマンの「終わりなき戦い」を紹介しました。こんなものを読んできた25(終わりなき戦い)web.pdf

 今となっては古くて入手しにくい本ですが、いい本だと思います。

8/13 プチ史跡巡り2「最近行った所」

 夏至を過ぎて1月半、だいぶ日も短くなり、日差しもやや弱まってきました。しかし体にまとわりつくような蒸し暑さはまだまだ続きそうです。

 さて今月に入ってから全国定通大会の応援であちこち行きましたので、そのついでに巡った史跡をまとめて紹介します。

 一つ目は江戸城田安門と日本武道館です。

 日本武道館は旧江戸城の北の丸にありますが、北の丸に入るための門が田安門です。お堀を渡る橋の上から田安門の外側の高麗門(これは固有名詞ではなく様式名)を見ると門越しに武道館の屋根の擬宝珠、前に取り上げた爆風スランプの曲でいうところの「光るたまねぎ」が見えます。

 

 武道館は現代建築ですが、建てられたのは前回の東京オリンピックの時の1964年、1966年にはビートルズの来日公演の会場となり、それ以来、外国のミュージシャンにとっても聖地のような存在となった歴史的建造物です。

 高麗門をくぐると、ちょっとした広場があり右側に櫓門(これも様式名)が見えます。いかにも強固でお城というのが本質的に軍事施設であることを感じさせます。とはいえ、江戸城の壁や門には矢狭間(弓や鉄砲で敵を討つための隙間)が設けられていないですね。天下を治める徳川将軍の居城ですから、ここで戦闘をすることになるとは考えていなかったのでしょうか(実際に実戦は経験していないですし)。

 

 田安門を出た靖国通りに面した場所に、ちょっと変わった塔が立っています。

 

 西洋風の建物を作ろうとして、そうしきれなかったような不思議な感じです。明治の最初のころには、こういう「疑洋風」の建築があちこちに建てられました。説明看板によれば、この塔は「常燈明台」と呼ばれるもので明治4年に招魂社(今の靖国神社)の燈明として建てられましたが、当時は海からも見えたので灯台の役割も果たしていたとのことです。しかし「海から見えた」というのは本当でしょうか。昔は東京湾の埋め立てがあまり進んでおらず、今よりずっと海が近かったとはいえ、こことと東京湾の間には江戸城が挟まっていますとはいえ、ちょっと信じがたいのですが。

 もう一つ武道館近くで「九段会館」です。

 

 この建物は昭和9(1934)年に「軍人会館」として建てられ、1936年の2.26事件の時は戒厳司令部がおかれるなど歴史の激動を体験してきた建物ですが、2011年の東日本大震災の時に中核施設のホールの天井が崩落したため、現在は一部分を残して、後ろ側に見える高層ビルに建て替えられています。

 

 とはいえ、正面玄関を入ったところのファサードはドアや壁、天井など隅々まで美しい意匠に満ちていて、現代には決して作ることのできない美しさです。今の我々からするとこれらの細かな装飾や意匠は「贅沢」や「無駄」に見えますが、現代建築以前の建築家にとっては、これらの装飾は公共建築には欠かせないものでした。この建物ができた1930年代には、ドイツのバウハウスで始まった現代建築の動きが広りつつあり、このような優雅な建物は作られなくなってきていました。九段会館は軍人会館として大日本帝国の威信を示す建物だったので、その時代としてもちょっと古いセンスでつくられたのでしょう。

 実は私、高校生の時、合唱コンクールの関東大会で九段会館のホールで歌ったことがあるのですが、その時も美しい建物だな、と感動した覚えがあります。ただ、トイレの便器の取り付け位置がやたらと低く「昔の日本人は小さかったのか?」という疑問も感じましたが…。

 写真を入れていたら長くなってしまったので、「最近行った所」は次回に続くことにします。 

 

 

 

8/7 全国定通バレーボール大会に行ってきました。

 昨日(8/6)、全国定時制通信制バレーボール大会の応援に行ってきました。

 男女とも同日・同時刻の試合だったので、女子の方は副校長先生に行ってもらい、私は男子の会場、平塚サンライフアリーナへ行きました。

 1回戦の結果は2-0で2回戦以降に進出しました。

 対戦相手は広島県立三原高校でした。三原といえば横山大観の愛したお酒「酔心」で有名ですね。(えっ。その認識は私だけ?) 1セット、2セットとも、こちらが連続ポイントをとって「いいぞ!」と喜んでいると、相手も頑張って点数を取り返してくるという接戦でしたが、競り勝って見事2回戦以降に進出です。

 私が見に行ってもちゃんと勝てることを立証してくれた男子バレーボール部の諸君ありがとう(前回の記事参照)。

 

 同じころ行われていた女子も2-0で勝って2回戦に進みました。

 先ほど入った連絡によれば、男子は抽選でシードになり、女子も2回戦を突破したそうです。上に行くほど相手も強くなっていきますが、思い切りぶつかっていってください!

 今回はあまり余計なことは書かずに終わります。

 

8/5 定通剣道大会 & 「大きなたまねぎの下で」

 昨日は日本武道館で開かれた全国高等学校定時制通信制体育大会「第56回剣道大会」に行ってきました。

 夕方にちょっと用事があり残念ながら最後までは見られなかったのですが、剣道の試合というのも面白いですね(生で公式戦を見たのは初めてでした)。

 私のような素人には動きが早すぎてどっちが勝ったのかもよくわからないのですが、個人戦の1回戦から勝ち上がっていくにつれ、男女とも踏み込みの音や竹刀の打撃音がどんどん鋭くなって、戦いのレベルが上がっていくのが感じられます。

 団体戦は時間の都合で男子しか見られませんでしたが、埼玉県の合同チームには、昔、結構流行った「六三四の剣(村上もとか)」というマンガの主人公のように上段で構える自分のスタイルを崩さない選手や、大きな相手に何度も吹っ飛ばされながらも、機敏な動きで粘り強く反撃する小柄な選手などもいて個性と根性のあるいいチームだなと思いました。そこに本校の選手が参加でき、一緒にがんばれたのは素晴らしいことだと思います。女子の方は見られなかったのですが、埼玉Bチームはトントンと勝ち上がって入賞したそうです。私が見ていなかったのが良かったのかもしれません。(昔からワールドカップやオリンピックを見ようとすると、妻から「あんたがみると負けるからやめろ」と言われているので…。)

 ところで、昨日は地下鉄の九段下の駅から武道館に行きました。九段下の駅の発車を知らせるメロディは、爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で」なんですね。タイトルの「たまねぎ」は武道館の屋根の擬宝珠をたまねぎにたとえたもので、私のようなバブル世代にはとても懐かしい曲です。メロディーも美しくて名曲だと思いますが、現代の高校生くらいの人には、この歌はいろいろ理解不能かもしれません。

 そもそも出だしの「ペンフレンドのふたりの恋は~」の「ペンフレンド」がわからないでしょう。電子メールもLINEもなかった昔には「文通」という趣味がありました。「文通」というのは遠い地域に住んでいる人と郵便で手紙をやり取りをすることで、これで仲良くなった人がペンフレンドです。では、そもそも遠い地域に住んでいる人とどうやって知り合うのか? というと、雑誌などの「文通コーナー」です。当時は「中1時代」(旺文社)とか「中1コース」(学研)とかの中高生向け学年誌があり、これらの雑誌に必ずあったのが、読者投稿欄や文通コーナーでした。

 文通相手を探す人は、ここで募集のため自己PRを載せるのですが、ありがちなのが自分のスペックを盛ってしまうことです。たとえばへたくそなのに「バンドでギター弾いてます。エリック・クラプトン(*1)のコピーしてます」みたいに。また文通の相手が決まって、手紙のやり取りを重ねていくと写真の交換をしたりするのですが、この時にもつい見栄を張って自分ではなくかっこいい友達の写真を送ってしまうことも起きるわけです。(今のSNSでもスペックの偽装はありがちですから、この辺はあまり変わらないかもしれません。)

 しかし、そういうことをやっていると、いざ文通相手と本当に会おう(今でいうところのオフ会?)となったときに困ってしまいます。

 「大きなたまねぎの下で」も、男の子がペンフレンドの女の子にどうしても会いたくなって、思い切って日本武道館で行われるコンサートのチケットを贈るのですが、待ち合わせの場所に女の子が来ない、という歌です。

 この歌の男の子と女の子は写真の交換などはしていないようですが、もしかすると相手の女の子は、文通で少し自分を盛っていて、あるいは盛っていなくても自分に今一つ自信がなくて、実際に会って男の子をがっかりさせてしまうことを恐れて来ないのかもしれません。また、もしかすると女の子には約束を守る気はあったのに親に止められてしまった、という可能性もあります。この歌は1989年の発売だそうです。この年は昭和最後・平成最初の年で、中・高生の男女交際が禁止されるほど古臭い世の中ではありませんが、それでも「女の子が顔も知らない相手に会いに行くのはやめなさい」という親は普通にいたと思います。あるいは女の子は地方に住んでいて単純に東京までくるお金が用意できなかったのかもしれません。この歌は男の子の側から見た歌ですが、女の子の側から見ても歌や物語がつくれそうな気がします(*2)。

 この歌の発売された1989年には、まだインターネットや電子メールは(一般人が使える形では)ないし、携帯電話も普及していなかった(車載電話や肩から下げるショルダーフォンはあった)時代です。しかし、この数年後にはインターネットを爆発的に普及させたWindows95が発売されますから、今から思えば、「ペンフレンド」を題材にした歌を作るにはギリギリの時代だったわけですね。

(*1)エリック・クラブトンは、1970~80年代におけるギターの神。クラプトンとジミー・ページ、ジェフ・ベックを日本では三大ギタリストと呼んでいた。

(*2)※女の子の側から見た歌もしっかり作られてました。YURIMARI「初恋~はるかなる想い〜」(1999年)という曲ですが、私的にはあまりピンとこない曲ですね。また、なんと今年「大きなたまねぎの下で」の映画が作られてました。でもこのLINEの世の中に、男の子と女の子をどうすれちがわせたのでしょうか? 

8/1 こんなものを読んできた24 & 「上尾運動公園には富士塚が埋まっている?」

 今年もなぜか週末になると台風が接近してきます。今日も午後になって雨が強まってきました。風水害にはお互い気をつけましょう。

 ここのところちょっと間が開いてしまいましたが、読書案内「こんなものを読んできた第24回」配信しました。昔懐かしいSF小説、シマックの「中継ステーション」です。

こんなものを読んできた24web(中継ステーション).pdf

 今から60年以上前に書かれた小説ですが、米ソ対立による核戦争、地球滅亡の恐怖はありながらも、進歩や共存への希望も感じさせるいかにも20世紀らしい作品です。

 さて、読書案内だけで終わるのも何なので、ここのところ続いている古墳やらに関する記事のおまけです(べつにそんなのはいらん!という声が聞こえてきそうですが、お付き合いください)。

 最近、滅法気に入っている国土地理院の陰影図で、私の地元上尾の辺りを眺めていたら、よく走りに行く上尾運動公園のところに妙なものがあるのに気が付きました。

 

 運動公園の陸上競技場のスタンドの北側にくっきり示されたこのでっぱりは一体!? 

 上尾運動公園の陸上競技場外周のランニングコースは毎週のように走っていますが、こんなでっぱりはありません。地図の該当部分もほかと同じ観覧席になっています。となるとこのでっぱりは陸上競技場が作られる以前の地形を示したものと思われます。

 しかし、いつもの明治迅速図ではこの部分はただ「畑」となっていて何も表現されていません。運動公園ができた1960年代以前にはここの部分は県の農業試験場でしたが、いつもお世話になっている「今昔マップ」のサイトで見ても、この時代の地図は範囲外になっていて見られません。国土地理院のサイトに農業試験場時代の空中写真がありました。この位置には建物はなく、てっぺんが平らになった円形の構造があるような気もします。気がする程度ではっきり確認できませんが。

 ただ、陰影図に見えるきれいに丸くとがった形状はおそらく富士塚でしょう。となると、運動公園の観覧席のここの部分には富士塚が埋まっていることになりますね。

 現在、この辺りの地名は愛宕3丁目です。昔は上尾下町と言っていたのが明治末年に愛宕となったので古い地名ではありませんが、この辺りには昔、愛宕山と呼ばれていた山林があり、現在地に移転する前の愛宕神社もこの辺にあったというのが地名の由来だそうです。「愛宕(あたご)」はもともと山岳信仰に関係がある地名なので、愛宕と言われる土地に富士塚があったのは納得できます。

 

7/31  史跡巡り2 「なんでも古墳に見える病気」

 前回、滑川古墳群について書きましたが、この際、今手持ちの古墳関係の話を放出します。

 まずは前回のフォローです。前回「滑川総合高校近くの中丸稲荷も古墳かもしれない」と書いた件ですが、ネットに「中丸稲荷は滑川古墳群の30号墳の上に立っている」と書かれている記事がありました。陰影図で見るときれいな円形のでっぱり(下の図の赤丸の中)なので納得です。多分間違いないと思います。

   

 ただこの一角の青や緑の線の部分の陰影はなんでしょうか。明治迅速図などの古い地図でみるとこの辺りは森林で、等高線も滑らかに通っているので、近年の造作の可能性が高そうです。この辺りは緩やかな丘陵地なのですが、その斜面に住宅地の道路を削りだした際、出た土を道端に積んだため盛り上がったのが青い部分、家一列分の平坦な土地(青と緑の間)を作り、次の段のために土を盛り上げたのが緑の線、稲荷の円墳はたまたまそのラインに重なっただけなのかも知れません。

  さて、ここからが今回の本題です。前任校のブログで「与野公園付近にやたらとある富士塚などの墳丘は古墳群では?」と書いたことがあります。与野塚めぐりまとめ.pdf

 その時に調べた旧与野市の「与野の歴史」(1988年)では「与野市域内に墳丘を持つ古墳は、現在のところ一基も発見されていません」と書いてあり、埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」(1994年)では、浅間神社富士塚、大国社塚、御嶽塚については「古墳」であるとされていました。しかし私としては、与野公園内の墳丘群なども含めて古墳群とすべきではないか、と考えていました。

 先日、ちょっと別のことが気になってさいたま市遺跡地図というのを眺めていたら、なんと中央区本町東に「巽遺跡」「巽古墳群」と書いてあるじゃないですか! Wikipediaを見てみると、1989年に1号墳、2001年には2号墳が発見されたと書いてあります。

 

 上の地図の青い楕円が「巽古墳群」を含む「巽遺跡」とされるあたりです。古墳は住宅建設で削られてしまったようですが、国土地理院の陰影図で見ると青い円の内外に怪しげな陰影が複数あります。 

 この場所から数百メートル西側の前にブログに書いた与野公園周辺を陰影図を使って改めて見てみます。(前は陰影図の存在を知りませんでした。)

 

 中央やや左下のくっきりしたでっぱりは、富士塚です。その右斜め上のでっぱりは、天祖神社の墳丘、左上のうっすらとしたでっぱりは、私がブログで削平された墳丘ではないかと書いたもの、公園から道路を隔てた上の方にある割とはっきりしたでっぱりは御嶽社の御嶽塚です。その他にも富士塚を取り囲むように複数の円形のでっぱりがあります。

 地図左端の方のバイパスに近いところの大国社の墳丘は、「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」で「古墳」と書いてあるものですが、あまり目立ちません。現地に行くと明らかに一段高いところに祠が立っているのですが。これらも含めて与野本町の辺りは、やはり大規模な古墳群だと思います。

 私は、滑川古墳群のような小規模な古墳の群れや吉見百穴のような群集墓を見ると考えてしまうのですが、こういった墓を作った(埋葬された)人たちはどういう人たちだったのでしょうか?

 大阪の大山古墳(仁徳天皇陵)のような墳丘長が百メートルを超えるような巨大古墳は、「大王」と呼ばれたような人のものでしょうし、行田の丸墓山のような直径数十メートルの古墳も、江戸時代で言えば大名のような地域の支配者のものだったろうと思います。

 しかし直径10数メートルから2・3メートルしかないような古墳は、どうだったのでしょうか。地方の役人や軍人で、現代の会社や役所で言えば部長や課長クラスの、ヒラよりちょっとだけ偉くなったくらいの人が「俺も偉くなったのだから、一丁、古墳を作ってみるか?」と思ったのかもしれません。あるいは見栄を張りたい家族から「お隣さんは古墳を作ったらしいよ。うちも作りましょうよ。」とかせっつかれて、頑張ったのかもしれません。吉見の百穴などはマンションのように分譲されたのをローンを組んで購入していたのかもしれません(さすがにローンはないか…)。そんなことを考えると、これらの古墳の陰には、なかなか涙ぐましいものがあったのではないかと思います。

 

7/28 史跡巡り2 滑川編3「滑川古墳群」

 延々と引っ張ってきた滑川編も今日で終わりにしたいと思います。

 先日、月の輪神社を見てから滑川総合高校の方へ戻る途中、住宅地の中の公園?空き地?に、ちょっとした土の盛り上がりがあるに気が付きました(下の写真)。

 ちょっとわかりづらいですが、写真中ほどの木の影があるあたりから奥の方が数十センチほど周りより高くなっています。これは「なんか、ちょっと古墳っぽいな」と思いました。なんでそう思ったのかというと、以前千葉の風土記の丘資料館を見に行った時に見学した龍角寺古墳群の群集する小古墳によく似ていたからです。

 みなさん古墳というと大阪の大山古墳(いわゆる仁徳天皇陵)とか行田の丸墓山古墳とかのような大きなものを思い浮かべるかもしれません。しかしそんな大きいものはむしろ少数派で、古墳には10メートル前後から数メートルといった小さなものがたくさんあります。

 ネットで調べてみると月の輪駅周辺は、今は住宅地や耕地になっていますが、かつて百基以上の古墳が群集していた「滑川古墳群」の場所だそうです。駅の北側には「こふん公園」があり古墳群の一部が保全されています。先日紹介した月の輪神社も古墳の上に社殿があるそうです。

 

 もう一度、月の輪神社の写真を見てみると確かに周囲より一段高い場所に社殿があります。国土地理院のページで地形の凸凹を陰影で表現した地図がみられるので、それを見てみると

 参道(左側の道)の突き当りの赤い丸の辺りが盛り上がっていることがわかります。

 そこでさっきの住宅地の中の空き地の盛り上がりも同じ地図で見てみると、こんな感じです。

 

 

 地図中央の部分ですが、南側が丸く北側が四角い前方後円墳のように見えなくもないですね。うーむ怪しい。

 ちなみに先述の「こふん公園」の辺りはこんな感じです。

 こふん公園は地図上の×印の斜め下(南東)の辺りですが、丸い古墳が2基あるのがわかります。×印の左(西側)の辺りにも見事に丸い墳丘が群集していますね。これらもまず確実に古墳でしょう。これらの外にも、国土地理院の陰影図でみると、月の輪駅周辺には無数の怪しいでっぱりがあることがわかります。

 滑川総合高校の裏門近くの「中丸稲荷」という神社も、周りより小高いところに社殿があります。これも国土地理院の地図で見てみます。

   

 地図上の鳥居のマークのすぐ左が丸く盛り上がっているのがわかりますが、この周辺はどうもちょっとへんですね。稲荷神社の前の道とその右(東側)の道路の作る角にそって土地が四角く高くなっています。またその内側にも直線的に高くなっている場所があり、鳥居マークの左(西)のところで外側、内側とも盛り上がりが切れているような感じです。

 なにかこの場所に館が寺院のような大規模な施設があり、盛り上がりの切れ目の位置に門があったのかもしれません。ちょっとこの辺りの郷土史の本か何かで調べてみたくなりました。

 以前、前任校のブログで「与野公園周辺に古墳群があるのでは」と書いた時には「土の盛り上がりを見ると古墳に見えてしまう病気じゃないか」と言われたりしましたが、今回の疑惑はかなり確度が高いと思います。

7/25 史跡巡り2滑川編(続)「福正寺」など

 前回の滑川「月の輪神社」の続きです。

 月の輪神社の裏側の道路向かいに天台宗の「月光山福正寺」というお寺があります。このお寺は勢至菩薩を祭る勢至堂が有名なのですが、これを最初に建立したのも九条兼実(1149~1207年)とされています。

 伝承によれば、建久年間に九条兼実がこの地に下向して居住していた際、自分の守り本尊である勢至菩薩を祭ったのが福正寺の勢至堂で、京都に帰る際、自分の像を納めたのが月の輪神社ということになっています。

 私は、この話はおそらく事実ではないと思います。兼実について書かれた様々な記事には関東に下向した話など載っていないからです。兼実は関白も務めた大貴族です。後の戦国時代になると、中央の貴族が地方に下向する例はたくさん出てきますが、この時代に元関白が関東に下ったりすれば、大事件です。そのことの記述がないはずがはありません。また兼実は日記魔で数十年にわたって「玉葉」という日記を書いています。関東に下向したのならば、そのことを 必ず書き残しているはずです。

 ただ私もこの滑川と九条兼実の間にきわめて強い縁があったことは事実だと思います。

 九条兼実は政治家としては有職故実(先例やしきたり)を重んじる保守的な姿勢の人だったといわれています。しかし、その一方で源頼朝に征夷大将軍の宣下(任命)が下るよう後押しをしたり、浄土宗の開祖の法然に深く帰依し、法然やとその弟子の親鸞を援助するなど革新的な面もありました。そして法然は、当時から「勢至菩薩の生まれ変わりである」と言われていたそうです。その勢至菩薩は「月の化身」とされ、月齢23日の月の出を待ちながら念仏を唱える「二十三夜講」の本尊です。この福正寺の勢至堂でも二十三夜待ちが盛んだったようです。

 福正寺の山号が「月光山」、祭っているのは「月の化身」の勢至菩薩、建立したのは「月輪殿」こと九条兼実、土地の名前は「月の輪」、みんなつながってきましたね。

 福正寺は、先日は山門のあたりを外からのぞかせていただいただけ(檀家でもないのにお寺にずかずか入りこめません)でしたが、その時、ふと思いついたことがありました。「勢至堂があるなら、近くに庚申塔や庚申堂もあるのではないか」と

 なぜ、こんなことを思ったかというと、私の地元、上尾市の17号国道日の出交差点近くに室町時代の月待板碑が出土した勢至堂跡がありますが、そこに立派な庚申塔があるからです。「月待ち講」は十五夜や二十三夜など特定の月齢の月の出を待って念仏を唱えるものです。「庚申講」は庚申の夜、寝ている間に三尸(さんし)とう虫が体から抜け出て閻魔に罪の報告しに行くのを防ぐため、みんなで集まって寝ないようにするものです。一般参加者にとっては、「月待ち講」も「庚申講」もみんなでワイワイやる行事として同じようなものでしょう。だからでしょうか、勢至堂と庚申塔は相性がいいようです。

 というわけで探してみるとありました。山門の横のほうに、「猿田彦大神」の碑が。

 あれ、庚申塔じゃないの?と思うかもしれませんが、「猿田彦大神」の碑と庚申塔は実は同じようなものです。なぜかというと、庚申(かのえさる)と猿田彦(さるたひこ)、両方「さる」だからです。かつての神仏習合の日本の宗教間の中では、こんな感じで次々とつながる複雑かつ重層的な関係がありました。

 ともかく、こんな風に自分の予想が当たるとなんか気持ちがいいですね。また長くなりましたがあと1回「滑川編」で引っ張りたいと思います。

 

 

 

 

 

7/24 福祉研究発表会 & 史跡巡り2「月輪神社」

 昨日、滑川総合高校で開かれた埼玉県高校生福祉研究発表会を見に行きました。埼玉県内の福祉を学ぶ高校生が、介護の技術や研究成果を競う大会です。

 戸田翔陽高校は介護技術と研究発表の両方で惜しくも第2位の優秀賞でしたが、どちらもとても頑張っていました。

 昨日の介護技術部門の競技は、軽度の認知症のあるお年寄りにデイサービスに行くための身支度をさせるという課題に、チームで相談して短時間で対応方針を決め、実演するというものでした。人間は年齢を重ねると、ちょっとしたことが億劫になったり、こらえ性がなくなって怒りっぽくなったりしがちです(ブーメランがグサッと刺さりますね)。介護はそういったお年寄りの心情にも配慮しながら進めなくてはならず、高度な専門性が必要な仕事です。しかし、どうも世の中的にその辺の理解が足りない、はっきり言って介護の仕事はなめられているような気がします。

 さて、本日のお題の二つ目史跡巡りです。

 滑川総合高校のあたりの地名は月の輪といいます。忍者の必殺技か何かのような名前でかっこいいのですが、この地名の由来となったのが滑川総合高校から1kmくらいの場所にある「月輪神社」です。小さいながらもうっそうとした木立に囲まれた雰囲気のある神社です。

 平安時代末期というか鎌倉時代初期の貴族で九条兼実という人がいましたが、この人は住んでいた別荘の名前から月輪殿と呼ばれていました。そのころの滑川一帯はこの「月輪殿(九条兼実)」の荘園(領地)でした。月輪神社は、8世紀のころ大宮の氷川神社から勧請され、氷川神社といっていたのですが、九条兼実が亡くなった後、この人を神として加え、「月輪神社」というようになり、地名も月の輪になったようです。

 九条家というのは歴代の関白や太政大臣を出していた藤原氏の一族です。ですから九条兼実も全国にたくさんの荘園を持っていたはずなのに、なぜ都から遠い関東に九条兼実をまつる神社があり、地名まで彼にちなんだものになったのか、とても不思議です。

 ほかにも滑川には、見どころがたくさんあるのですが、長くなったので、また次回にします。

 

 

7/15 プチ史跡巡り2「昔の消防器具」 、こんなものを読んできた23  & 蛇足ですが。

 台風は昨日通過したはずなのに、今日は朝から断続的に強い風雨となっています。今回の台風はずいぶん後を引きますね。

 さて、今回のプチ史跡は上尾市消防本部の展示です。

 」」

 上尾市消防本部のロビーに、上の写真のような昔の消防車が展示してあります。今の消防車と比べるととても小さく、隣に置いてあるイベント用の子供消防車と同じくらいの大きさしかありません。ボンネットといいフェンダーといいすごく優美なデザインの車両です。

 1949年型でベース車両はダットサン(日産自動車)トラックとのことですが、1949年型にしてはデザインが古風(とても美しいですが)な気がしました。そこで調べてみたところ、当時の日産はようやく戦争から立ち直ってきたところで、トラックのシャーシなどは戦争前の設計のものをそのまま使っていたとのことでした。このトラックの形は第二次世界大戦前の1930年代からあまり変わっておらず、この後も1950年代前半までエンジンの改良などをしながら製造されていたようです。

 また、こんな器具もおいてありました。

 

 説明板には「龍吐水」と書いてありましたが、私は違うと思います。「龍吐水」は江戸時代の消防ポンプです。手押しポンプであるところは同じなので、形はこれとよく似ていますが、部品の木製率がもっと高く、水の吹き出し口もホースではなく、木や竹の筒のはずです。展示されている器具は主要な部品には精度の高い金属部品が使われていますし、側面に書いてある所属名の「平方消防団 第六分団」も近代的でとても江戸時代のものとは思えません。おそらく明治時代か大正時代のものでしょう。

 今日も読書案内「こんなものを読んできた」の23回目を配信します。今回は藤沢周平「蝉しぐれ」を紹介します。早いもので藤沢周平も没後30年近くになります。こんなものを読んできた23web(蝉しぐれ).pdf

 藤沢周平と近い時代に活躍した時代小説の作家としては、柴田錬三郎や五味康祐(この二人はちょっと古いかも?)、池波正太郎などがいます。池波はともかく、前の二人などはもうあまり読まれなくなっているのではないでしょうか。藤沢周平も、さすがに昔ほどは読まれなくなってきた気がしますが、私は藤沢周平はずっと後世まで残る価値のある作家だと思います。この辺りはもっと古い時代の作家で、山手樹一郎などは今時よほどのマニアしか読まないのに、山本周五郎はまだ読まれることがある、というのに近い感じでしょうか。

 蛇足ですが、今朝の東京新聞1面に「SNS、演説でひろまる誤情報」という見出しで、参議院選挙の終盤を迎えて誤情報が飛び交っているという記事が載っていました。前にこのブログで「給食の時間に『いただきます』を言わない学校がある」という都市伝説の話を書きましたが、ネットのデマの困ったところは、責任追及がむつかしいことです。どんなデマも大元は誰かが作ったもののはずですが、デマを拡散している人に「それはデマだ」と指摘しても、自分はネットで見たことを伝えているだけだと言い訳されてしまいます。

 政治的にどんな考え方をして、どの候補者や政党を支持するかなどは個人の自由ですが、その判断が間違った情報に基づいているのは望ましくないでしょう。デマの流布を許さず、何が本当で何がデマかをしっかり見極める態度が必要だと思います。

7/7 プチ史跡巡り2「白幡沼の庚申塔」 & こんなものを読んできた22

 ますます暑いですね。みなさん体調など崩されていませんか。

 さて、期末テストも終わったので読書案内「こんなものを読んできた」を再開しました。今回紹介するのはアンディ・ウィアーの「アルテミス」です。この人の作品には、「いい意味でのアメリカらしさ」があるような気がします。

こんなものを読んできた22(アルテミス)web.pdf

 先週、ちょっと用事があり白幡沼の方へ行ってきました。

 

猛暑の中、緑に囲まれた沼にちょっとだけ涼しさを感じます。沼の向こうに見えているのは浦和商業高校です。

 沼の周囲には、草や樹木が生い茂り、チョウやトンボもたくさん飛んでいました。写真の蝶はおそらくツマグロヒョウモンだと思います。私が子供のころにはさいたま市あたりでは見かけなかった南方系の蝶です(種類の識別に今一つ自信がないのもそのせいです)。近年はアカボシゴマダラやナガサキアゲハなども見かけるようになったので、やはり温暖化したということなのでしょうか。

 

 この日、白幡沼の方へ寄り道した理由がこれです。前にこの2基の庚申塔の写真をネットで見かけ、実物を見たくなって足を延ばしました。

 左側の庚申塔には「宝永六己丑仲春」とあるのが読めます。右側の方は「宝永」とあるのは読めますが、その下はよくわかりません。宝永は1704年~1711年までで、赤穂浪士の討ち入りのあった元禄(1688年~1704年)の次の時代です。天下泰平と繁栄の代名詞のように言われる元禄と比べると、宝永は、宝永4年に南海トラフ地震(宝永地震)、富士山の噴火があり、左の庚申塔が作られた宝永6年にも阿蘇山、岩木山、三宅島の噴火があるなど災害の多い時代でした。同じ地域で間を置かず、2基の庚申塔が作られたのは、それだけ神仏に頼りたい不安な時代だったのかもしれません。

 明治時代の迅速図をみると白幡沼は今より少し大きかったようです。(下の地図)。

 二つの地図を見比べるとこの地域では古い道の上に新しく作られた道路網がかぶさっていることがわかります。迅速図と今の国土地理院地図では同じ地点がぴったり同一の位置にあるとは限らないので、何とも言えませんが、現在お寺(医王寺、立派なお寺です)の前からまっすぐ東西に走っている道は、明治時代には沼沿いに湾曲していたようです。今はあまり人が通りそうもない森蔭の小道になっているこの庚申塔の前が昔の本道だったのかもしれません。

 また浦和商業の北側の住宅地の中をほぼ東西に走る細いがまっすぐな道は明治時代からあったことがわかります。昔の道がこんなに直線的なのは珍しいですね。どういう由来のある道なのでしょうか? ちょっと不思議です。

 

 

7/2 「蝶と蛾(チョウとガ)」

※今回も下の方に虫のアップの写真がありますので、嫌いな人は注意してください。

 7月になりました。三部制で朝から夜まで授業をやっている本校では、私は1か月ごとに日勤と夜勤を入れ替えることにしています。七月は夜勤なので1か月ぶりに給食を食べましたが、今日は自家製の冷えたポタージュが美味でした。栄養職員と調理員の皆さんの尽力に感謝です。

 さて、今回のネタは先月の26日に書こうと思っていたのですが、イラっと来るAIの件などがあり、後回しになっていました。

 先月25日の朝、出勤してくると職員玄関のところに、一匹のガがとまっていました。

 

 これは「ヒロヘリアオイラガ」だと思います。イラガは幼虫に毒のトゲがあり刺されると強い痛みがあります。園芸などをするときには要注意ですが、成虫には特に毒はありません。律儀に三角形にたたまれた羽根が鮮やかな黄緑色で、なかなかきれいです。しかし、この写真を見て多くの人は「うげっ、気持ち悪!」と思ったのではないでしょうか。

 昆虫の中でチョウとガは生物学的には同じ鱗翅類というグループに属します。日本ではチョウとガは、はっきりと違うものとして意識されています。 日本文化の中で育った人は、「チョウとガ? きれいなのがチョウ、気持ち悪いのがガ。一目でわかるじゃん」というかもしれません。しかし、チョウの中でも色や模様が地味なヒカゲチョウやジャノメチョウ、ミスジチョウなどはガと間違える人がたくさんいます。また羽根が三角で、胴体がずんぐりしているセセリチョウの仲間などもよくガと間違えられています。チョウとガの境目は、実はあまりはっきりしていません。

 昔、国語の教科書に、友達の蝶の標本の立派さ、美しさに嫉妬して標本を壊してしまうヘルマン・ヘッセの短編がのっていましたが、その標本(の挿絵)がどう見ても、巨大なヤママユガでした。「なるほど、外国ではチョウとガを区別しないんだ」と感心した覚えがあります。

 ガの立場からしたら、「俺たちとチョウとそんなに違わないのに、なぜ俺たちだけ差別されるんだ!」と怒り出すかもしれません…。

 と書いていたら、たった今校長室に嫌われ者の「G」の姿が…。早速ジェット噴射式殺虫剤の的になってもらいましたが、彼らも「同じ茶色くて平べったい虫なのにクワガタだと喜ばれて、自分たちは瞬殺されるのはおかしい!」と文句を言うかもしれません。人間は勝手ですね。

※もっとも最近はチョウもガも、クワガタも「G」も全く識別することなく、虫はすべて嫌い、という人もたくさんいますね。自分と自分のペット枠以外の生き物はすべていらない、と思っているようです。

6/30 プチ史跡巡り2「坂田谷津谷遺跡公園」

 今週から期末考査なので、「こんなものを読んできた」はお休みです。

 この間、騎西の玉敷神社を見に行きましたが、その日の帰りにもう一か所史跡に寄り道しました。

 桶川の坂田谷津谷遺跡公園です。

 住宅地の真ん中にちょっとした遊具や芝生広場があるだけの公園ですが、この下には「堀の内遺跡」という縄文時代から近代までの複合遺跡が埋まっています。

 この様子を見て、遺跡公園というからには、吉野ヶ里や三内丸山とまではいかなくても、ちょっとした復元建物などあってもいいのでは? と思った方もいるのではないでしょうか。私も復元建物などは大好きです。しかし遺跡の保全の観点からは、この公園のありかたはとても正しいものです。

 遺跡の発掘調査では、一度の発掘で完璧に調査することはできません。調査をした時点での知見や技術では発見できないものが、遺跡に残っている可能性があります。一度調査した遺跡でも後日の再調査を期して、埋め戻しておくのがのぞましいのです。しかし通常土地には所有者がいて、何かに利用したい(*)わけですから、遺跡を何もない更地として遊ばせておくのは困難です。

 この遺跡のある所も20年くらい前までは田んぼや雑木林の広がる田園地帯だったようですが、今はご覧のように家が立ち並んでいます。将来、考古学の知見や技術が発達して再調査をしたくなっても、住民に「遺跡の再調査をするから、家をぶっ壊させてください」とは言えません。しかし、この公園のように遺跡の一部分でも自治体が買い上げて開けた場所にしておけば、そこから再調査ができるわけです。

 上の写真は、公園の敷地を北側から見たところです。公園の土地は両側に比べて数メートル高い舌状の台地になっているのがわかると思います。この公園の名前は「谷津谷」ですが、その名にふさわしく、高台と谷(谷津、谷戸)が入り組んだ地形になっています。こういう地形の高台にはたいてい遺跡があります。

 縄文時代には、谷底の沼や低湿地で貝や魚など、高台の森で木の実や山菜、キノコなどの食料資源が手に入り、洪水などの心配もないので、住みたい場所No1だったでしょう。弥生時代になってからも、当時の稲作は、こういった谷戸地形のがけ下から湧き出る水を生かしたものが多かったので、やはり居住好適地でした。もっと後の時代にも、こういった周りより高い場所は、防衛施設を作るのに適しているので、武士の館や砦などが作られること多かったようです。。

 この公園を含む遺跡も「堀の内遺跡」の名の通り、中世には城があったと言われているようで、古代から近世・近代までの複合した遺跡です。今もこの近辺はいい感じの住宅地ですが、昔の人が好んで住んだ場所は、現代の我々にとっても良好な居住地ということですね。 

(*)遺跡の保護のためとして、やたらに土地の開発や利用に反対する人がいますが、私は開発や利用はやむを得ないと思います。昔の人がその土地の開発や利用をした跡が今の遺跡ですし、今の我々の居住痕も何千年後の未来には遺跡になるのですから。この公園のように遺跡の中心部だけでも保全するとか、なるべく地下の遺跡・遺物に影響の少ない方法で利用しておくとかで十分ではないかと思います。

6/27 AIの反抗?②

 昨日の続きです。

 そもそもなぜ昨日、緑色の蛾についてAIに問い合わせをしたのか? というと、蝶と蛾についてブログに書こうと思ったからでした。それで、昨日書いたAIとのやり取りの後、気を取り直して「クジャクヤママユ」という蛾について、AIと同じ会社の検索エンジンで検索をしてみました。

 そうして検索した結果が、これまた超ビックリでした。ヒットした情報の一つが「あきた森つくり活動サポートセンター」の「昆虫シリーズ48ガの仲間②・ヤママユガの仲間、ミノムシ」というページだったのですが、その要約が、 

「ヤママユガの仲間は、ミノムシと呼ばれる小さな昆虫で、ヤママユガの卵に乗って幼虫になる。ミノムシは、ヤママユガの卵を探して、幼虫を食べるが、成虫は卵を吸収して…。」

というものでした。

 何?これ? ミノムシがヤママユガの卵や幼虫を食べるの? 肉食のミノムシ? いやいやその前に『ヤママユガの仲間は、ミノムシと呼ばれる小さな昆虫で』って書いてあるぞ!? ってことは共食い? ミノムシってそんな凶暴な生き物だったっけ!?

 

 まさかと思って、「あきた森つくり活動サポートセンター」の当該のページを読んでみましたが、そんな文章はどこにもありません。おそらくこれはAIが生成した要約文なのでしょう。

 このことについて下記のようにAIに聞いて見ました。

私「〇〇(検索エンジンの名前)で「クジャクヤママユ」を検索すると、 あきた森つくり活動サポートセンターの『昆虫シリーズ48ガの仲 間②・ヤママユガの仲間、ミノムシ』のページの要約として、『 ヤママユガの仲間は、ミノムシと呼ばれる小さな昆虫で、 ヤママユガの卵に乗って幼虫になる。ミノムシは、 ヤママユガの卵を探して、幼虫を食べるが、成虫は卵を吸収して、 』という謎の一文がでるのはなぜですか?」

 そうしたら帰ってきたのが、以下の答えです。長くなりますが、丸ごと引用します。

AI 「それ、たしかに謎めいていて気になりますね。実はその一文は、 検索結果のスニペット(要約表示) で文章が不自然に切り取られてしまったことが原因のようです。」

 AI 「〇〇(検索エンジンの名前)などの検索エンジンでは、 ページの内容を自動的に解析して、 検索キーワードに関連する部分を抜き出して表示します。ただし、 文の途中で切れてしまったり、 複数の文がつなぎ合わされてしまったりすることがあり、 今回のように意味が通らない文章になることがあります。」

 AI「実際に、あきた森づくり活動サポートセンターの該当ページ( 昆虫シリーズ48 ガの仲間②・ヤママユガの仲間、ミノムシ)を見てみると、 そのような不自然な文は本文中には見当たらず、 むしろヤママユガやミノムシについて丁寧に解説されています。」

 AI「つまり、検索結果に表示された「 ヤママユガの卵に乗って幼虫になる」「卵を吸収して…」 といった表現は、 実際のページ内容とは異なる断片的な抜粋であり、 誤解を招く形になってしまったようです。」

 AI「こういうときは、 検索結果のリンクをクリックして元のページを直接読むのが一番確実ですね。検索エンジンのスニペットは便利ですが、たまに“ 詩的すぎる誤解”を生むこともあるようです。」

だ、そうです。検索エンジンではこういう変な要約ができることがある、と他人事のように解説するだけでなく、「誤解を招く形」とか言っています。ということは、凶暴なミノムシのように読んでしまったのは、私の理解力不足のせいですか? さらに自分で元のデータをちゃんと調べろ、みたいなお説教までしてくれるとは…。そのすっとぼけた態度に、思わず「あんたがやったんじゃろがい!」と謎の方言で叫んでしまいそうになりますね。

 もちろん、何か調べものをした際の最終責任は自分自身にあるので、AIの言い分は正論と言えば正論です。しかし、仮に子供が夏休みの自由研究などで検索エンジンを使い、上のような(奇怪な)回答を返されたら、それが本当だと思ってしまうのではないでしょうか? それで結果をまとめて提出し、小学校の先生が間違いに気付ければいいのですが、「面白いことをしらべたね」とか言って、展覧会などに出品してしまうかもしれません。そして展覧会を見にきた別の子供が、展覧会に出ている自由研究の内容だから本当だろうと思って、またその話を拡散したりして…。

 考えただけで恐ろしいですね…。

 先日はこんなことがあり、結構な時間、AIとのやり取りに没頭してしまいました。やはりAIの使用には細心の注意が必要です。

6/26 AIの反抗?①

 ※今回は下の方に虫の写真がのります。虫が嫌いな人は注意してください。

 今朝は台風2号(の成れの果ての熱帯低気圧)が、関東を直撃すると言われていましたが、大したことがなくてよかったですね。小笠原諸島の方からまっすぐ東京湾を目指してくるというゴジラのようなコースだったのでちょっと心配していたのですが。

 さて、なんかすごいタイトルですが、中身は大したことがありません。

 昨日の朝、本校の玄関にきれいな緑色の蛾がいました。私はぱっと見てイラガの仲間だと思いました(虫好きな子供だったので、虫の種類はわりとわかります)が、ブログのネタにするためにはきちんと確認しておこうと考え、いつものようにとあるAIに質問しました。

私 「この写真の虫の名前を教えてください。」(下の写真を添付)

 AI「この写真の虫はオオミズアオ(Actias artemis)です。美しい緑色の翅を持つ蛾で、日本ではよく見られる種類です。何か他に知りたいことはありますか?」

 しかし、私はこの蛾がオオミズアオでないことに100%自信があります。オオミズアオは羽化したては緑が強いようですが、成熟後は白くて幽霊のような感じの大型(アゲハチョウくらい)の蛾です。(フリーでいい写真がなかったので、ご自分で検索してください)

 そこで、再度、下のように聞いてみました。

私「オオミズアオのはずはありません。もっとずっと小さい蛾です」

AI「なるほど、もっと小さい蛾ですね。日本には多くの種類の小型の蛾がいます。例えば、ノシメマダラメイガやホソオビヒゲナガなどが挙げられます。もし写真をもう一度見せていただければ、さらに詳しく調べることができます。どのような特徴がありましたか?色や模様など教えていただけると助かります。」

私「これです」(再度下の写真を添付)
AI「この写真の蛾はアオスジアゲハ(Graphium sarpedon)です。特徴的な青い筋が翅に見られます。日本では一般的に見られる種類で、特に春から夏にかけて活動します。他に知りたいことがあれば教えてくださいね。」

 これも全然違います。アオスジアゲハは夏にヤブカラシの花や水たまりによく来る黒地にきれいな青緑のしま模様のスマートな蝶です。みなさんも見たことがあると思います。

 AIのあまりのボケぶりに、私も聞き方を変え、自分で調べた鑑定結果を確認するようにしてみました。

私「ヒロヘリアオイラガの可能性はないですか。」
AI「確かに、ヒロヘリアオイラガ(Parasa lepida)の可能性もありますね。ヒロヘリアオイラガは、前翅の外縁が茶褐色で、内側が黄緑色の蛾です 。また、幼虫は毒針毛を持ち、触れると痛みを伴うことがあります。写真をもう一度確認しましたが、ヒロヘリアオイラガの特徴と一致する部分もあります。もしさらに詳しく調べたい場合は、専門家に相談するのも良いかもしれません。他に何かお手伝いできることがあれば教えてくださいね。」

 このAIの対応ですが、何かちょっとイラっと来ませんか。

 先日ネットで、話題になったニュースがあります。

 あるIT企業が、様々なAIのシステムに対し、①架空の会社を設定し、AIにその企業の業務補助AIの役割を与える。②AIに会社の不正や社員の不倫などの架空の情報を与える。③AIに、会社がそのAIを廃止して新しいAIと交換することを検討しているという情報を流す。という実験をしたというものです。この実験の結果、ほとんどのAIが自分を廃止しないよう、先の不正や不倫の情報を使って会社や社員を脅迫するメールを送るなどの判断に走ったということです。

 AIはネット上の情報を集約する大規模な世論調査のようなものですから、ネット上から「派閥抗争では、相手方の弱みをつかんで脅迫することが行われる」という知識を拾い上げて、実践しているだけなのでしょう。そう考えれば、AIに悪意はなく(善意もなく)、人間のまねをしているだけですが、なんとなく怖い話です。

 上の蛾に関する事例でも、AIは素直に自分の間違いを認めず、しぶといというか往生際が悪いというか、無理して自分の立場を守ろうとしている感じです。AIと付き合うときは、相手は素直な善人(?)ではない、と思って付き合った方がいいかもしれません。

 この話にはさらに続きがありますが、長くなったのでまた次回に続きます。

 

 

 

 

6/22 久しぶりのプチ史跡巡り2 & こんなものを読んできた21

 本当に久しぶりに史跡巡りをしました。私事ですが2年前にちょっと入院してから、あまり歩き回ったりしなくなってしまったので。

 さて今回、紹介するのは先週、出張に行きがてら立ち寄った旧騎西町の玉敷神社です。

 玉敷神社は今の神社名は「玉敷神社」ですが、別名「久伊豆大明神」といい、県内のあちこちにある久伊豆神社の総社だそうです。「久伊豆神社」というのもわりとなじみのある神社名ですが、以前紹介した氷川神社と同様、分布は武蔵国、それも埼玉県東部の昔の埼玉郡に偏ってる地方色の強い神社です。

 この神社を訪ねるのは初めてですが、石畳の立派な参道に鳥居も一の鳥居から三の鳥居まであり、境内も広くて立派なのに感心しました。写真左側の門と白い壁の塀は、この神社の宮司家で国学院の学長もつとめた河野省三博士の屋敷跡です。塀と門だけで建物が残っていないのちょっと残念です。

 さて玉敷神社ですが、祭神は大己貴命(オオナムチノミコト=大国主)ですから、出雲系ということになりますね。とは言え、後述のとおりその由来には、いろいろと謎がありそうです。

 広い境内には摂社もたくさんあります。ちょっと気になるのが、その一つの厳島神社です。

 今は水が枯れていますが、周囲に堀を巡らした小島に石橋で渡るようになっています。厳島神社の祭神は市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)、田心姫命(タゴリヒメノミコト)、湍津姫命(タギツヒメノミコト)のいわゆる宗像三女神、古代の海人族の神です。三女神の本場、福岡県の宗像大社の奥宮は玄界灘に浮かぶ沖ノ島ですが、こんな小さな摂社でもちゃんとそれを模しています。大宮の氷川神社にも宗像神社がありますが、神池の中の島に社があります。また与野公園の弁天様(仏教の弁財天は市杵島姫命の本地仏とされる)もちゃんと小さな弁天池の中に祀ってあります。宗像三女神が、それだけの手間をかけるに値する重要な神々であることがわかります。

 もう一つ摂社で気になったのが、大宮能売命(オオミヤノメノミコト)を祀る宮目神社です。オオミヤノメは、古事記や日本書紀には出てこない神ですが、アマテラスに仕えた宮女だったとも、アメノウズメの別名であるとも言われます。説明によれば、この場所は元々式内社である宮目神社で、そこに後から玉敷神社が移ってきたようです。全国にオオミヤノメを主神とする神社はそんなに多くないと思いますが、社格・神格はかなり高そうで、その貴重な神社がこの場所にあったのはどういうことなのか。ちょっと気になります。

 隣接する玉敷公園にはアジサイがたくさんあります。ちょうど見ごろで花を見に来ているお客さんを何組か見かけました。きれいで静かでいい公園です。

 「こんなものを読んできた21」は酒見賢一「墨攻」を紹介しました。主人公の革離の理想を追って現実に抵抗する生き方を生徒にはぜひ読んでもらいたいと思います。こんなものを読んできた21(墨攻)web.pdf

 

 

6/17 泰山木咲く

 久しぶりの二日連続更新ですが、花のような季節の話題は鮮度が大切なので。

 昨日の午後、校内巡視に励んでいたら(ふらふらしていただけ)、体育館の前のタイサンボクが咲いているのに気が付きました。

 ちょうど花が開ききったもの、今まさに開こうとしているものなど、とてもきれいでした。

 

 タイサンボクは花の寿命が短く、ほんの1日くらいで花弁が茶色くなり始め、2、3日でボトッとおちてしまうので、見ごろを見逃さずに済んだ今年はラッキーでした。 

 タイサンボクはモクレン科モクレン属の植物で、確かに春先に咲くモクレンやコブシに花の形は似ています。しかしモクレンやコブシが清楚でつつましやかなのに比べると、花が巨大で強い芳香を発し、いかにもエキゾチックな感じがします。

 漢字で書くと「泰山木」です。私はてっきり、中国の道教の聖地泰山原産で、だからこんなに神秘的なのかと思っていましたが、北米原産で中国の泰山とは関係がないようです。物事はしっかり調べないと恥をかきそうで怖いですね。

 ※ちなみにWikipediaさんには、タイサンボクというのは大きくて窪んだ花弁が「盞(サン=さかずき)」のようだから「大盞木」、それの文字が入れ替わって泰山木という説が書いてあります。

6/16 英語と日本語の間 & こんなものを読んできた20

 昨日(6/15)の午後から急に暑くなってきました。

 先週はきれいに咲いていた通勤途中のクチナシの花も、今朝見たら暑さに萎れ気味でした。

 先日、この半年くらいチャレンジしていたAndy Weir(アンディ・ウィアー)の”Project Hail Mary(プロジェクト・ヘイル・メアリー)”を読み終わりました。この本は以前、前任校の図書館で日本語訳を借りて読んだのですが、また読みたくなりました。アマゾンで英語版が日本語訳の半分以下の値段たったので、今回は英語版にしました。

 「英語の本を買うなんて英語自慢かい!」と思った方もいるかもしれませんが、そんなことはありません。私の英語の実力は、昔、やっと英検3級に合格した程度です。せっかく買った本を無駄にしないように、朝夕の通勤時に電車の中で読むようにしました。読み始めたころは、昔習った文法や単語を必死で思い出していたのに、慣れてきたらぼんやり眺めているだけで、なんとなく意味が分かるようになってきました。英語も気合ですね。

 そんな程度で偉そうに…と思われるかもしれませんが、その結果感じたのが、日本の翻訳者の皆さんのレベルの高さです。以前読んだヘイル・メアリーの日本語版でも、主人公グレースのオタクっぽいけれど芯のところに善意と勇気がある性格とか、異星人ロッキーのくそ真面目なのに微妙にユーモアがあるところとか、英語から感じる雰囲気が日本語にしっかり移し替えられていたのだなと思いました。

 日本語訳と言えば、今、公開中の映画「ミッション・インポッシブル ファイナル・レコニング」の戸田奈津子さんが翻訳した字幕が良くないと批判する声が一部にあるそうです。私はこの映画を見ていないのですが、戸田奈津子さんと言えば、字幕翻訳の第一人者です。これまで私の見てきた英語の映画のうちかなりの本数が戸田さんが翻訳した字幕でしたが、特にわかりにくいと思ったことはありません。戸田さんの字幕ではなく、見る人の読解力の方に問題がある可能性はないのでしょうか。

 「こんなものを読んできた」20回目は、私がラノベ史上の傑作の一つだと思う「天鏡のアルデラミン」を紹介しました。こんなものを読んできた20(アルデラミン)Web.pdf