校長室ブログ

忙中閑あり~校長室より

3/6 合格発表 & こんなものを読んできた41

 今日は埼玉県公立高校の入学者選抜の合格者発表でした。今はインターネットによる発表になったので、合格者発表と言っても、合格した人が書類を取りに来るだけの静かなものになりました。

 「こんなものを読んできた」41回は王城夕紀「マレ・サカチのたった一つの贈り物」を紹介しています。インターネットが現在以上に影響力を持ち、資本主義経済が破綻しかかっている近未来の世界を舞台にした抒情感あふれる作品です。

こんなものを読んできた41(マレ・サカチ)web.pdf

 インターネットの発達には目覚ましいものがありますが、近年はそれが誹謗中傷や事実無根のデマの流布に使われ、メリットを覆い隠すほどのデメリットが目立ってきている気がします。

 

2/25 光の春 &「こんなものを読んできた」40回

 入学者選抜前日なので手短に。

 今日は朝から雨ですが、この前の三連休は、「光の春」という言葉がぴったりの天気でした。あちらこちらで梅の花が咲きほころび、よい匂いを漂わせていました。

 

 本校も含め明日、明後日は埼玉県公立高校の入学者選抜です。受検生の皆さんは全力を出し切ることだけ考えて挑んでください。私はキリスト教徒ではありませんが、聖書の中の「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。」という言葉が好きです。まずは、その日、その時に全力を出し切ることが大切だと思います。

 もう春です。様々な別れや新しい出会いのある季節です。前向きな気持ちで行きましょう。

 「こんなものを読んできた」は、2月になると読み返してしまう、北村薫の「鷺と雪」です。北村薫の直木賞受賞作品ですが、代表作の「ベッキーさんシリーズ」の最後を飾るにふさわしい、余韻のある作品です。こんなものを読んできた40(鷺と雪)web.pdf

 

 

 

2/3 経験値 & こんなものを読んできた39・39.5

 朝の冷え込みはあい変わらずですが、日差しは力強くなってきました。

 さて、先日、「福祉」の実習授業に招待されました。教員がデイサービスなどの利用者の役をして、生徒の皆さんが介護職員の役を務めるという実戦形式の授業で手浴やマッサージをしてもらいました。

 その実習の内容として「利用者に話かけて打ち解ける」というのもあるようで、私についた生徒の皆さんが、いろいろと話しかけてくれます。「好きな食べ物は何ですか」とか「好きな色は何ですか」とか…。

 その中で「何か最近ハマっているものはありますか」というのがあって、そこで私は一瞬フリーズしてしまいました。毎週見ているドラマとか、休みの日にやっている趣味、というのはあるのですが、「ハマっている」というほど夢中になっているものがないことに気が付いたからです。

 若いころは毎週見ているドラマやアニメなどを見損なったりしたら、ものすごく悔しがりましたし、睡眠時間を削って模型を作ったりしたものです。しかし最近はそんなパワーがありません。テレビなどはネットの見逃し配信があるというのもありますが、作りかけの模型を半月くらいほったらかし、とか、ランニングでも目標タイムや目標距離を達成するためガンガン追い込むという気力がでなくて途中でやめるとか、とにかく熱量がたりません。

 これにはもしかするとこれまでに積み重ねてきた「経験値」が関係しているのかもしれません。ドラマとか小説とかでは「同じような話が前にもあったな」とか、模型作りでは「この場合、こんな塗装方法があったな」という感じで、よく言えば落ち着いて対処できるように、悪く言えば感動が減っているように思います。

 これは子猫にねこじゃらしを見せると夢中になって飛びついてくるのに、老猫になるとチロっと見るだけだったり、ほんのお愛想程度に前足を伸ばしておしまいだったり、全然乗ってきてくれないのと似ています。人生を楽しむには、もう少し心の若返りをしないとだめですね。

 次に「こんなものを読んできた」第39回・第39.5回は、日本最古の書物「古事記」です。(長くなったので2回分に分けました。)

  こんなものを読んできた39web.pdf

  こんなものを読んできた39.5web.pdf

 私が小学生のころ、近所に新しい本屋さんができて、開店セールで古本の安売りをやっていたことがありました。その時、まとめ買いしてきた中の一冊が、大学のテキストに使うような注釈付きの「古事記」でした。当時の私は活字の印刷されたものは何でも読むくらい読書好きだったので、古典文法など全く知らないのに闇雲に読んでしまいました。

   この本は建国の神話を扱っているため左右両翼(最近は何が左で何が右かよくわかりませんが。)から、政治的に批判されたり利用されたりしてきました。しかし、そんなこととは関係なくとても面白い本です。特に建国の英雄時代を描いた中つ巻は、すごく面白いので、読んだことのない方にはぜひ読んでみることをお勧めします。 

1/19 完全数の悪夢 & こんなものを読んできた38

  超私事で恐縮ですが、以前このブログで悪夢を見ることが多いと書いたように、今朝も妙な夢を見てしまい、朝起きた時からなんか疲れた感じでした。

 今日見た夢がどんなものだったか、というと「『奇数の完全数はない』ことを証明する方法を閃いてしまい、一生懸命計算しているのだが、できそうでできない。」というものです。

 まず、完全数というのは何かと言いますと、「自分自身を除く約数の合計が自分自身になる数」です。具体的には、

6=1+2+3

28=1+2+4+7+14

のような数です。 

 この定義は、そんなに難しいものには見えませんが、28の次は496、その次は8128、さらにその次は33,550,336と、「○○数」と呼ばれるものの中でも出現頻度が低いものです。

 この完全数については、まず、それが無限にあるかどうかも証明されていませんし、いままでに分かっている完全数は、全部偶数(2で割り切れる)で、奇数(2で割り切れない)の完全数が存在するのかしないのかも分かっていません。

 小学校で習うような足し算と掛け算だけで出来上がっている完全数ですが、上のようなこともいまだに謎なわけです。それをもし証明できたら、フィールズ賞やアーベル賞(数学の世界のノーベル賞みたいな賞)も取れるかもしれません。(フィールズ賞は若手だけ)

 その証明を閃めいてしまうというのは、それだけなら良い夢なのでしょうが、そのための計算を延々と続けているのは悪夢としか言いようがありません。そもそも高校の時に数学で赤点すれすれだった(その割には数学は好き)私が、完全数の証明などできるわけはなく、実際、目が覚めてから、夢の中の計算過程をなるべく思い出して、じっくり考えてみたら、すぐに間違いだとわかり全然ダメでした。いや、疲れました。

 「こんなものを読んできた」38回目は宮部みゆきの名作「蒲生邸事件」です。昭和初期の2.26事件を舞台にした時間旅行SFミステリーという盛沢山な趣向の作品ですが、2月が近づいてくると読み返したくなります。

こんなものを読んできた38(蒲生邸事件)WEB.pdf

※上記の文中で2.26事件の発生年を間違えていたので、差し替えました。

 

 

 

 

1/13 新しい四半世紀 & プチ史跡2(上尾駅近くの2つの神社)

  先週から今週にかけて、朝夕が氷点下の冷え込みが続いていますが、みなさんお元気でしょうか。

 前に、地球温暖化の影響で北極や南極の氷が溶けて冷たい水が流れ出ると海水温が下がり冬は寒くなる、という話を聞きましたが、本当かもしれません。

 先週は8日(木)に始業式があり、本校でも3学期が始まりましたが、始業式では前回このブログでも書いたように、21世紀の新たな四半世紀が始まるにあたり、「21世紀最初の四半世紀はあまり良い時代だったとは言えなかった。これからの21世紀を生徒の皆さんの世代でより良いものにしてほしい」という話をしました。

 令和8年3学期始業式.pdf

 今回のプチ史跡2では、前回の「初もうでシリーズ」の続きではありませんが、私の地元上尾駅周辺の2つの神社を紹介します。

 戸田翔陽高校のブログなのだから、戸田の史跡を紹介すればよいと思われる方もいるかもしれませんが、本校を含めた現在の戸田市の中心的な市街地のある場所は、江戸時代にはほぼ水田地帯でした。そのためか本校から気軽に行ける範囲には神社等はあまりありません。現在では戸田市の西の端になる美女木やその北側のさいたま市内谷周辺の方が古くから開けた土地だったらしく、寺や神社がたくさんあります。

 と言い訳をした後、本題に戻ります。一つ目は今年最初のブログでも出てきた氷川鍬神社です。上尾駅の南側、丸広SCのすぐ隣にあります。この神社については、前任校のブログでも書いた(氷川鍬神社について(与野高校ブログ).pdf)のですが、多少付け加えたいことがあるので、再論します。

 

 

 この神社はもともとは鍬神を祭る「鍬太神宮」でした。その由来としては、寛永8年の末に北の桶川の方から、鍬神の御神体の入った櫃を引いた童子が歌い踊りながらやってきた。童子たちは上尾宿の本陣前に台車を残して消えたので、上尾宿の人々は御神体を祭る神社を建てた、というものです。

 この話は中部東海地方に多い鍬神信仰と同じ話です。鍬神信仰は、伊勢神宮別宮の伊雑宮のお田植祭りで使われた鍬を神体にして、これを村から村へリレーのように歌い踊りながら送っていくというものです。宗教的な熱狂が突発的に発生して地域一体に拡散する現象なので、地域を統治する大名や幕府から治安を脅かすものとして危険視されることもあったようですが、今でも愛知県や岐阜県などには、これに由来する「鍬神社」がたくさんあります。

 「なるほど、これが上尾まで広がったのね」と納得できればそれで終わりなのですが、そうはいかないところがあります。中部・東海地方で先述の「鍬神信仰」が最も盛んだったとされるのは、明和年間(18世紀後半)で、各地の「御鍬神社」もこのころにできたようです。ところが上尾に鍬神の櫃がやってきたのは寛永年間(17世紀前半)とされていて、100年以上早いのです。このこと自体は、鍬神信仰が実は非常に息が長く、繰り返しブームになっていたのだと考えることもできますが、だとしても、本場の中部・東海地方よりも早く、鍬神をまつる神社が上尾にできたことになります。また、なぜ中部・東海からはるか離れた上尾に鍬神をまつる神社ができたのか、とか、鍬神信仰の広がりは中部東海を超えて、関東にまで及んでいたのだろうか、いろいろな謎があるわけです。

 もう一つは、上尾駅の北側、線路沿いの道を少し行ったところにある小さな社「胡桃下稲荷」です。飲食店の多い繁華街に商売繁盛の神として五穀豊穣の神である稲荷社があるのは珍しくありませんが、ここの稲荷はよく見かける伏見稲荷や豊川稲荷ではなく、笠間稲荷(茨城県笠間市)の末社です。

 この本社の笠間稲荷が実はなかなか不思議な神社なのです(上尾胡桃下稲荷について(与野高校ブログ).pdf)。上尾駅の近くにこういう二つの面白い神社があるというところが、私としてはなかなか気に入っています。

 

 

 

 

 

1/7 「こんなもの読んできた」36・37 & プチ史跡2(鳩ケ谷探訪

 生徒の皆さんは、明日から3学期ですよ。忘れずに学校に来てください。

 まず、「こんなものを読んできた」は年末・年始に生徒に配信した36回と37回をまとめて掲載します。

こんなものを読んできた36(誰が勇者を殺したか)web.pdf

こんなものを読んできた37(航宙軍士官)web.pdf

 さて次は「プチ史跡2」ですが、正月2日に親戚のいる鳩ケ谷方面に行ってきたので、その探訪記です。

 鳩ケ谷は今は川口市の一部ですが、昔は日光御成道の宿場として栄えた独自のアイデンティティーを持った街です。戦前に一度川口市と合併しましたが、戦後にまた分離して周囲を川口市に囲まれた状態で存続し、平成の大合併でまた川口市と合併したという沿革を持っています。

 まずは、鳩ケ谷の総鎮守氷川神社から。

 この神社は応永元(1394)年(室町時代)に創建されたそうですが、社殿も参道も立派で、当日は初もうで客が一ノ鳥居のところから行列をする賑わいでした。氷川神社は埼玉から東京にかけては、たくさんあるのにそれ以外の地区ではほとんど見られません。前にも書きましたが、氷川神社のこのローカル性は、本来、地域限定のローカルな神様を祭る神社だったからだと思います。現在の主神スサノオノミコトは、武蔵国造として出雲系の一族がやってきた後の後付けでしょう。

 次は、鳩ケ谷の本通り(御成道)にある十一屋北西酒店です。

 宿場町の商家の造りをそのまま残す店舗と蔵は国の登録有形文化財になっています。しかし、今回取り上げたのはそれだけが理由ではありません。

 私の地元上尾には、清酒「文楽」の蔵元がありますが、その文楽を作っているのが北西酒造、販売部門が十一屋です。上尾の北西酒造と鳩ケ谷の北西酒店はつまり親戚同士というわけです。鳩ケ谷の十一屋さんは、明治時代に店を構えて今のご主人は4代目とのことです。上尾の北西酒造とはずいぶん前に枝分かれしたことになりますが、いまだに縁がつながっていて、この店で売られている「純米吟醸 鳩ケ谷宿」や「純米吟醸 御成姫」は上尾の文楽の協力で出来上がったそうです。

 さらに元をただせば、北西酒造さんの一族は近江から来たようですが、埼玉県の各地の蔵元にはご先祖が近江商人だったというところがたくさんあります。秩父の「秩父錦」の矢尾酒造さんもそうですし、毛呂山の「琵琶のさゞ波」の麻原酒造さんも近江出身です。

 いまや、技術的・経済的にすっかり立ち遅れた感のある今の日本ですが、立ち直るきっかけは、こういう日本独自の家業や縁を大切にする風土にあるかもしれない、と思うのですが。

 最後は、鳩ケ谷の本町から南に下った八幡木地区の八幡神社です。八幡神社があるので八幡木、なのでしょうが、この辺りは昔は中居村と言っていた所です。こちらは、氷川神社とは違い初もうでの人もおらず静かでしたが、この神社の本殿は側面に施された浮彫が見事です。 三面、全部写真に撮ったので掲載します。

 八幡神社は、京都の岩清水八幡宮や鎌倉の鶴岡八幡宮のように、歴代の源氏が尊崇した神社なので、浮彫も源氏ゆかりの「鎌倉繁盛」といわれる組み物の図柄が多いようです。ここの浮彫も一番上が「鶴の放生」、中が「天狗と源義経」、下が「源為朝の土人退治(ポリコレ的にまずそうな表現ですが、ここはそのままで)」で「鎌倉繁盛」のようです。

 躍動感のある素晴らしい作品です。作られた当時は彩色されていたはずなので(日光東照宮や妻沼の聖天山のように)さらに見事だったろうと思います。

 これは全く何の根拠もありませんが、上尾の向山不動堂や二ツ宮氷川神社の浮彫と作風が似ている気がします。向山不動堂の方は明治に作られ、山田弥吉という職人さんの作品だということがわかっています。

 神社の本堂には、こういう浮彫が施されていることが多く(はがされてただの板壁になっているところもありますが)、それを見て歩くのもなかなか楽しいものです。

 

 

 

 

1/5 あけましておめでとうございます。&プチ史跡2

 みなさん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 正月なので、まず最初に地元上尾の知る人ぞ知る富士山スポットから元旦に撮影した1枚。

 

 朝方、少し雲が多かったのですが、富士山は今年もきれいに見えました。

 気が付けば今年は西暦2026年、21世紀の最初の4半世紀が終わりました。私が子供の頃、21世紀は科学技術が発達してどんな夢でもかなう豊かな時代として想像されていました。しかし現実のこの4半世紀では、人権、平等、自由、国際協調などの20世紀後半には誰も否定できなかった建前が、平気で踏みにじられるようになった気がします。

 次の4半世紀は、理性や公正といった価値観が蘇る時代になりますように。

 さて、今回のプチ史跡2は初もうでにいった上尾の氷川鍬神社からお届けです。コロナですっかり減った初もうで客も今年は完全復活でした。というより前より人出が多いかもしれません。

 

 この氷川鍬神社は上尾駅の近く、昔の上尾宿の中心部にあります。境内はあまり広くないのですが、富士塚や太子碑など史跡や遺物が所せましと並んでいます。今までも順次紹介してきましたが、今回はまだだったものを二つほどいってみましょう。

 一つ目はこれ。

 

 「奉納 敷石~」と書いてあるのか読めます。これは敷石供養碑ですね。「供養」というとご先祖様を祀るみたいなイメージがありますが、世のため人のために善行を施し、徳を積むことも供養といいます。このブログでも前に与野の石橋供養碑を紹介しましたが、敷石供養もその仲間です。

 次はこれ。「虫火橋建設記念」と書いてあります。横には「埼玉県知事 齋藤守圀 書」とあります。

 調べてみると「虫火橋」というのは、上尾(平方地区)ー川越(老袋地区)間の荒川にかかる開平橋の古い名前のようです。しかし、それなら、なぜ平方ではなくここに建っているのでしょう。昭和の初めころまで平方は上尾に負けない町だったので、建てるなら現地に近いそちらの方がよさそうなのに。また齋藤守圀という人が知事だったのは1924年の途中から27年の途中までです。ざっと調べた限りでは、開平橋に関してこんな立派な碑を建てて記念するほどの大きな工事の記録は、この時代には見当たりません。なにか知られざる改修や修繕が行われたのでしょうか。

 正月早々、またわからないことに出会ってしまいました。

 

12/16 プチ史跡(遺物)巡り2 & こんなものを読んできた35

 年も押し詰まり寒い日が続きますが、お元気でしょうか。12月は酉の市の季節です。県内だと熊谷から大宮や浦和、川口と北から南に祭の日程が並びます。屋台を出す香具師の皆さんも祭の日程を追うように旅をしているのでしょうか。

 さて、今回の「プチ史跡」は史跡というより遺物です。

 

 先日、事務室のリサイクル封筒の引き出しの中から、昔の給料袋を見つけました。旧戸田高校の時代ですから最低でも22年前ですが、戸田高校から戸田翔陽高校に変わるころには、現金支給を受けている人などほとんどいなかったので、もっと古いものかもしれません。

 教員の給与は昔は毎月現金で手渡されていました(今も要求すれば現金支給は受けられると思いますが)。これは労働基準法で給与は通貨で直接、労働者に支払うことと決められており、公務員にもそれが準用されるためです。

 しかし給料が20万円で50人分としても1000万円です。年齢が高い人の給料はもっと高かったでしょうし、当時はクラス数が多く、1校当たりの教員の数も今以上でした。何千万円もの現金を毎月、安全に運搬し間違いなく袋に詰めるのは事務室の人にとって大変なストレスだったと思います。

 私が教員になったころには、労基法施行規則が改正されて、銀行振り込みが認められるようになっていましたが、何かの信念なのでしょうか、頑として現金で支給を受けている人たちがいました。こういう人たちの目には、事務室の人たちも自分たちと同じ、苦労や痛みを感じる人間なのだということが見えていなかったのだろうと思います。

 もし今も給料の現金支給が行われていたらどうでしょうか。何しろネットで押し込み強盗の仲間を集められる時代です。毎月、決まった日にたくさんの現金輸送が行われることがわかっていたら、町中に強盗志願者があふれて大変なことになるかもしれません。

 「こんなものを読んできた」第35回配信は、前回に引き続き蓑輪諒の歴史小説で「殿さま狸」を紹介しました。最近の歴史小説も、よく史料を読み込んで、今まであまり取り上げられなかったような人物を取り上げたり、新しい観点から事件を見直すようなものが多くて面白いですね。こんなものを読んできた35(殿様狸)web.pdf

 

 

12/9 こんなものを読んできた34 & プチ史跡2 川口の氷川神社

 期末考査も修学旅行も終わったので「こんなものを読んできた」配信再開します。今回は蓑輪諒「うつろ屋軍師」です。歴史小説というジャンルもこれまでにものすごい数の作品が書かれてきたこともあり、最近ではメジャーな人物ではなく、こんな人もいたんだ! というような人物を掘り起こしてくる作品が多くなってきたような気がします。

こんなものを読んできた34(うつろ屋軍師)web.pdf

 「うつろ屋軍師」もそんな作品で、織田・豊臣・徳川と政権が変わっていく激動の時代に、主家である丹羽家を守るために苦闘した江口三右衛門正吉という人が主人公です。この時代には柴田勝家とか石田三成とかの堂々たる敗者もいましたが、そうではなく家や家臣、領民を守るために何としても生き抜こうとした人たちもいました。それも立派な生き方かなと思います。

 さてプチ史跡2は川口市下青木の「鎮守氷川神社」です。先週、川口市立高校に行った際、少し時間があったので西川口から同校まで徒歩で行くことにして、道すがらに寄ってきました。

 

 この氷川神社には初めて行ったのですが、予想以上に立派な(失礼)社殿で、神職の方も常駐しているので驚きました。境内にはたくさんの摂社などがありますが、特に目を引くのは「厄割石」と「神撰田」、「富士塚」でしょうか。

 

「厄割石」は、穴の開いた小さな陶器の玉に払いたい厄を吹き込んで岩にぶつけて割ると厄が払える、とするものです。全国のあちこちの神社にあるようですが、実物を見たのは初めてです。

「神撰田」(しまった!写真がない)ですが、境内に一坪くらいの田んぼが設けてあります。ここで神に供える稲を作るわけですが、神道の源流の一つが稲作にかかわる太陽神や穀物神への信仰があることをうかがわせます。

「富士塚」は、これまでも何回も書いていますが、富士山をかたどった小塚で、富士山を信仰する富士講の人たちが実際に富士山に行く代わりに、これに登ったりしたものです。この神社境内の富士塚は、鳥居から山頂までらせん状に登山道が作ってあり、たくさんの富士講の碑が建てられた立派なものです。

この富士塚の登山道には〇合目をあらわす標柱が立っているのですが、それを見ると寄進者として「新曽村」の○○(ここはよく読めない)と書いてあります。(下の写真の赤丸内)新曽と言ったら、本校の所在地なのですが、思わぬところで新曽の字に出くわしました。

 この神社のある場所は江戸時代には足立郡戸田領下青木村と言われていたところです。荒川に沿って下青木村の西隣は下戸田村、その西側が新曽村でしたから、今は川口と戸田に分かれていますが、昔は地域的なつながりが深かったのかもしれません。

 あとこの付近はびっくりするほど氷川神社が多い地域です。この氷川神社から半径2~3kmの範囲内に、地図上でざっと見ただけで、10(上青木、朝日、元郷、赤井、江戸袋、飯塚、鳩ケ谷、三ツ和、舎人、入谷)もの氷川神社があります。小さなお社なども含めればもっとあるかも知れません。この地域を流れる芝川(新芝川)は今もかなり川幅がありますが、昔は入間川の本流でしたから、いまよりもずっと大河だったはずです。先に挙げた神社はその川が形成した自然堤防上に散らばっています。氷川神社が元は水神信仰の神社であることを示しているように思われます。

12/4 科学と非科学の間

 昨日から、2年次が修学旅行に行っているので、校内に人が少なく静かです。本校の修学旅行は、2泊3日関西方面なので、海外に行く私立や沖縄・北海道に比べると少し派手さには欠けますが、参加した生徒の皆さんにはいい思い出になるのではないでしょうか。

 さて、本日のお題「科学と非化学の間」ですが、最近セブンイレブンで「水素焙煎コーヒー」というのを売っています。店頭の説明書きでは、おいしくて環境にも良いと書いてあります。

 これは、私個人の感想ですが、たしかに水素焙煎コーヒーは香りに甘さがあって、おいしいと思います。もともとセブンイレブンのコーヒーはドリップ式なので、某有名コーヒーチェーンの蒸気式より繊細な味わいがありますが、水素焙煎はそれよりさらにおいしい感じです。

 で、ここで気になるのはなぜ、おいしくて環境に良いのか?という点です。これについてはセブンイレブンのWEBページに説明がありました。要点をまとめると、

①水素焙煎では、焙煎するときの燃料に普通のガスではなく水素ガスを使う。

②水素で焙煎すると普通のガスより、火力の調整幅が広く、特に弱火が使えるので、コーヒーの味が引き出せる。

③水素ガスは燃えても二酸化炭素が出ないので、環境にやさしい。

ということです。

 ①と②について、水素ガス(図左)は都市ガス=メタン(図中)やプロパンガス(図右)と違い、炭素(黒の玉)を含まず、全量がよく燃える水素(白の玉)なので、細火でも安定して燃え火力調整がうまくできるというのは、なんとなく納得です。また③についても、水素ガスには炭素原子が入っていないので、燃焼によって二酸化炭素が出るはずがありません。

 セブンイレブンによる説明は筋が通っていて、ここまでは良いのですが、ここから先がちょっと問題です。

 まず、③についてですが、確かに水素の燃焼では二酸化炭素は出ません。しかし、その水素はおそらく電気分解で製造されたものでしょう。電気分解を行うための電気がどのように作られたかが問題です。火力発電ならそこで二酸化炭素が排出されますし、原子力なら二酸化炭素は出ませんが、処理と保管が厄介な放射性廃棄物の問題があります。

 電気自動車や燃料電池車などと同様に、その場で二酸化炭素が出ないからエコ、というのはちょっと違うのではないかと思います。背景まですべてひっくるめたトータルで考えないと…。

 次にこれはセブンイレブンとは関係なく、同社に責任はない話ですが、「水素焙煎コーヒーは健康に良い」とか言い出す人が、ネット上に現れています。

 同じように「水素」とついたものとして、水に水素ガスを溶け込ませた「水素水」というものがあります。電子部品の洗浄に使うと、水に含まれる微小な泡で高い洗浄力が得られるというものです。これについても「抗酸化作用がある」とか「健康に良い」という人がいますが、医学的・科学的には証明されていません。

 また仮に水素水が健康によいということが、将来、科学的に立証されたとしても、「水素焙煎コーヒー」は豆を焙煎するのに水素を使っているだけで、水素水とは関係ないはずです。ネットの「健康に良い」とかいう説は、「水素」という言葉につられて、水素水と同様の効果(とされるもの)があるかのように言っているのでしょう。

 こういった言説は非科学的なだけでなく、それを流布されることは、販売者のセブンイレブンにとっても迷惑でしょう。私としても水素焙煎コーヒーはとてもおいしいので、外野のせいでそれが怪しい健康食品のように扱われて評判が悪くなっては困ります。

 今回、特定の会社の特定の商品について書きましたが、これはその商品を宣伝しようとする意図ではなく、それをきっかけに科学的に考える習慣を広げようと考えたからです。念のため申し添えておきます。

 

 

 

 

 

12/2 「こんなものを読んできた」第33回 & ちょっとだけ「プチ史跡」

 昨日に引き続き更新です。

 期末考査も終わったので、生徒向け読書案内「こんなものを読んできた」の配信を再開します。配信してもどれくらいの人が読んでくれているのか皆目わからないのですが、先日、「読みました」と声をかけてくれ、しばらくマニアなトークに付き合ってくれた人がいました。反響があるのはうれしいものですね。SNSで「いいね」やフォローが欲しくて、手段をえらばない行動に走る人がいるのもちょっとわかる気がします。

 こんなものを読んできた33(アルマーク)web.pdf

 今回紹介したのは、アマゾンのサブスクで読んだラノベ「アルマーク」です。よくある話といえばそうなのですが、読後感が良い作品なので紹介しました。

 さて今回もおまけにちょっとだけ、史跡を紹介します。

 

 この写真は何か? というと、旧中山道と県道51号(川越上尾線 ) の交差点の少し北側の愛宕神社境内にある水準点です。水準点とは地図などを作るときの高さ(標高)の基準となる点で、写真の物は16.4mの水準点です。かなり年季が入った感じですが、非常に大事なものです。もし他の場所で水準点を見つけても、傷つけたり壊したりしないよう気を付けてください。

12/1 プチ史跡巡り2 小鹿野編

 学校の方は今日が期末試験最終日です。2年次生はこの後、修学旅行へ、他の年次の人も冬休みに向けた各種行事に入っていきます。

 この数日、朝夕は冷え込みましたが、空が澄んで日差しの暖かい本当にいい天気が続いています。私が子供のころ”Beautiful Sunday ”という曲が大流行したことがありました。日本語だと「美しい日曜日」となり、私的には「日」という本来抽象的な時間の概念に「美しい」という物質の状態を表す形容詞をかぶせるのは、少し違和感がありますが、昨日などは「それもいいか」と思ってしまうような一日でした。

 さて、先週の金曜日もいい天気でしたが、総合学科校長会のために小鹿野高校へ行ってきました。少し早めについたので、経路上のいくつかの史跡を回りました。

 一つ目は、小鹿野化石館と「ようばけ」です。

 今ではすっかり山地となっている秩父地方ですが、太古には古秩父湾という海でした。秩父からは巨大なサメなど海洋生物の化石が多数出土していますが、最も有名なものがパレオパラドキシアです。パレオパラドキシアは秩父鉄道の蒸気機関車「パレオエクスプレス」の名の由来ともなっている巨大な海獣で、これの化石の復元模型が小鹿野化石館にあります。

 ウイキペディアさんに載っている復元図で見ると手足の長いセイウチのような微妙な格好ですね。まだ完全に海の生活に適応しきっていないような感じです。

 この化石館のすぐ近くにあるのが、「ようばけ」です。「はけ」というのは崖や急斜面のことで、「ようばけ」も赤平川の浸食により形成された断崖で、断面にきれいに地層の重なりが見えます。

 

 「ようばけ」は崩れやすいので近づくのは危険とのことですが、この辺りの河岸の斜面はいかにも化石が出そうなところです。この日も遠足の小学生の団体がネイチャーガイドの人に案内されて化石採掘に出かけていくところと会いました。大正時代には盛岡高等農林学校在学中の宮澤賢治も地質の巡検に来たことがあるようです。

 また私的には「赤平(あかひら)川」という地名が気になります。なんとなくアイヌ語地名ぽい(北海道の赤平市のように)気がして…。小鹿野の辺りは山に囲まれた程よい平地で、古くから人々が住んでいた場所ですから、アカヒラというのもすごく古い地名なのかもしれません。県内には坂戸に「越辺(おっぺ)川」という川もありますが、関東地方にはほかにもアイヌ語語源の可能性のある地名がたくさんあります。

 この日のもう一つの探訪地は知る人ぞ知る「お塚古墳」です。

 こんもりときれいに盛り上がった塚の上に小さな社がある変哲のない小古墳に見えますが、この古墳には「羊太夫の墓である」という伝承があるそうです。「羊太夫」とは何かという話は少し長くなります。

 群馬県吉井町(今は高崎市の一部)にある日本3古碑の一つ、多胡碑の碑文中に、上野国に多胡郡を作り「羊」という人物に与えたと読める部分(異説あり)があります。これが「羊太夫」で、中世の説話集などに、群馬と奈良の都を1日で往復したとか、朝廷に謀反を疑われて討伐されたとかの伝説がのっています。星野之宣のマンガ「宗像教授シリーズ」にも登場し、海外から渡来した胡人(ペルシア人など)の首長だったのではないかという説が展開されています。大変、夢のある話なのですが、私はこの伝説は、史実を反映したものではないと思います。(私がいつでもキワモノの説を支持すると思ったら大間違いですよ!)

 なぜなら、羊太夫の説話がのっているのは中世(南北朝期)から後の文献ばかりで、古代からの伝承かどうかはっきりしないからです。これらの説話は多胡碑の「三百戸郡成給羊成多胡郡」とある部分を「三百戸を郡と成し羊に給いて多胡郡と成せ」と読んだことによるものでしょう。しかし、この部分は「羊を給いて多胡郡と成す」と読む、要するに新設の多胡郡に設立の原資として家畜の羊を渡したという説の方が正しいのでは、という気がします。

 また、郡を任されるほどの人物が「羊」という名前だけで、姓もなく無位無官というのも疑問です。仮に「羊」が無位無官の地方豪族だったとしても、郡を任せる時点で何らかの官に任命するのではないかと思います。そうしたらその任命についても記録したはずです。この碑文の後半には、郡を作る命令をした人の名が出てきますが、こちらは「左中弁正五位下多治比真人」のように詳しく官職・位階・姓を書いていますから…。

 まあ、それはともかく、この小鹿野に「羊太夫」の墓と言い伝えられる古墳がある(群馬県にも「羊太夫の墓」がある)というのが面白いと思います。小鹿野から国道299号をたどればすぐに群馬県の上野村に出ますが、この辺りは古くから「羊太夫」伝説のある上野国との関係の深い地域だったのでしょう。

11/25 明日から期末テスト & 嫌いな言葉「タイパ」

 早いもので明日から期末考査です。翔陽生のみなさんは、勉強もさることながら、かぜやインフルエンザにかからないよう注意してください。試験で最も大事なことは休まないことですから。

 試験前なので「こんなものを読んできた」はお休みです。いろいろあって中間~期末にはあまり配信できませんでした。試験後は冬休みに向けて再開するべく、少し書き溜めておこうと思います。

 さて、本日のお題の2つ目は「嫌いな言葉」シリーズです。前から時々、嫌いな言葉については触れていましたが、ついに待望(誰が待望しているのでしょうか?)のシリーズ化です。その第1弾は「タイパ」です。

 タイパはタイムパフォーマンスの略で、Cost Performanceから派生した和製英語です。

 私はこの言葉を使う人を信用しません。仮に初対面の人がこの言葉を使ったとしたら、もう永久にその人を信用しないでしょう。

 この言葉のシンプルな意味としては「時間当たりの効率」ということでしょう。その意味で使われているのであれば、この言葉には特別な意味合いはありません。しかし、実際に使われる場面としては、手間がかかったり困難が予想される仕事から逃げる言い訳として「そんなタイパの悪い仕事はやっていられない」という感じに使われることが多いと思います。

 ちゃんとした仕事にはしかるべき手間と時間がかかるものです。たとえば伝統工芸の漆塗りのような仕事では、下地から仕上げまで何度も漆を塗り、磨き、また塗り重ねるという手間と時間が必要です。手間を惜しんで、1回で分厚く塗るというわけにはいきません。それと同様に、どんな仕事でもきちんと仕上げるにはそれなりの手間と時間が必要です。

 もちろん私も、手間がかかるだけの無駄な仕事(ブル・シット・ジョブ)がいいというつもりはありません。同じ仕事なら短時間で片付けたほうがいいでしょう。

 しかし、上記のような名人と言われる職人さんの仕事には、そもそも無駄な動作がありません。毎日何百回何千回と繰り返して最適化された動作で複雑な工程をよどみなくこなしていきます。そうなるためには何年にも及ぶ修練が必要です。職人の仕事に限らず、そういった地道な努力に耐えられる精神と覚悟のない者が、自分にはできない言い訳として「タイパが悪い」と言っている気がします。「タイパ」という言葉の実際の使われ方にはこういったニュアンスが漂うようで、その品性の低さはまさに唾棄に値します。

 勉強などでも、同じことが言えます。私の経験では「いい参考書」「いい問題集」、「能率の良い勉強法」を探し回っている人ほど、勉強はできないものです。まず手元にある教科書をよく読む。今持っている問題集を繰り返し解いてみるのが、最も早い成績アップの道だと思います。

 

11/18 祝! 戸邉さん厚生労働大臣賞受賞 プチ史跡巡り2 早川雪洲の机

 11月16日(日)に開かれた全国高等学校定時制通信制生活体験発表大会に、本校4年次の戸邉菜月さんが埼玉県代表として出場し、第2席の厚生労働大臣賞を受賞しました。詳しくは追ってほかの記事が出ると思いますが、まずは速報です。

 

 さて、次にプチ史跡巡り2です。

 上記の大会のために訪れた六本木のハリウッドビューティープラザのホール前の廊下に、早川雪洲愛用のライティングデスクが置いてありました。黒檀(?)で作られたキャビネットの全体に精緻な彫刻が施された見事な机です。

 早川雪洲ってだれ? と思った人も多い(というかほとんど?)と思います。

 早川雪洲(1886~1973)は、第二次世界大戦の前からアメリカ映画界で活躍していた日本人俳優です。雪洲は身長171cmと明治生まれとしてはかなりの長身でした。当時はアメリカの白人男性の平均身長も170をやや超える程度だったと思われますので、体格的にも引けを取らず、顔だちも端正で中々のイケメンでした(下の写真の机の上のパネル参照)。1910年代後半~30年代には、白人女性を誘惑する危険なアジア人男性の役どころで大人気だったようです。

  

 私は早川雪洲の出演した映画は、彼の晩年に近い「戦場にかける橋(1957)」しか見たことがありません。この時、雪洲はもう70歳くらいでしたが、厳格だが武士道精神をもった軍人の役を演じ、好評を博しました。

 その雪洲の机がなぜ、ここにあるのでしょうか。ハリウッド美容専門学校(メイ・ウシヤマ学園)は1925年創立という歴史ある専門学校ですが、その創始者、牛山清人(*)が、ハリウッドで早川雪洲の付き人をしていたという縁があるようです。牛山は当初、俳優を目指しスタントマンなどをしていましたが、手先が器用でメイクアップが上手だったので、そちらの専門家となり、帰国して学校を開いたとのことです。

 それにしても早川雪洲といい牛山清人といい、まだ映画産業が始まったばかりのアメリカに飛び込んで活躍するとはすごいですね。今のすっかり自信を失って内向きになってしまった日本人は明治生まれのバイタリティーを見習うべきではないでしょうか。

(*)本校卒業生もお世話になっているメイ・ウシヤマ学園の創業者を敬称抜きなのは、ちょっと引っかかる感じはあったのですが、100年も前の方なら、もう歴史上の人物(豊臣秀吉とか徳川家康というのと同じ)だろうと思ったのと、「早川雪洲」との記述のバランスをとりました。

 

 

 

11/12 プチ史跡巡り2 中浦和の板石塔婆

 昨日、別所沼公園から中浦和駅周辺を歩く機会がありました。中浦和駅近くの浦和でも有数のうなぎの老舗「萬店」さんの駐車場の一角に古い石碑(写真下)があります。以前から存在は知っていたのですが、近くに寄ってみたことがありませんでした。

 

 頭がとがった石板で、中世にたくさん建てられた板石塔婆であることは見当が付きました。板石塔婆は全国に分布していますが、この石碑のように秩父山の緑色の石(緑泥片岩)で作られたものは「武蔵型板碑」と呼ばれ、埼玉県近辺でたくさん見られます。説明看板によれば、この板碑は弘安4(1281)年に建てられたものだそうで、だとすると現存する板碑の中でもかなり古いものと言えます。

 私はこういう石碑が好きなので、見つける度に寄り道して見物していますが、私の見た中でこの板碑に匹敵するほど古いものは、建長8(1256)年に建てられたという、羽生の毘沙門山古墳のところの巨大板塔婆くらいです。あちこちで見かける庚申塔や馬頭観音などは、古くても江戸時代の元禄年間や宝永年間くらいでしょう。

 ただ、この板碑はナメクジでも這いまわったような茶色い傷あとが全面にあります。かろうじて梵字や蓮花が刻んであるのがわかり、その左側にも年紀などの刻字があったような感じですが、ほとんど碑面が読み取れません。説明看板には「浦和市観光協会」と書いてあるので、それ自体が20年以上前の物です。茶色の傷がどのようにしてついたのかわかりませんが、20年前にはもっと鮮明に碑面が読み取れたのかもしれません。

 弘安4年と言えば、元(モンゴル人が建てた中国の王朝)と高麗(昔朝鮮半島にあった国)の連合軍による2回目の日本侵攻(弘安の役)があった年です。この2回にわたる元・高麗連合軍の侵攻(いわゆる蒙古襲来)については、以前は奇跡的に暴風雨が吹いて助かったという「神風」説が主流でしたが、最近は鎌倉幕府が外交や諜報活動を通じて情勢を分析し、侵攻に備えて防衛設備や動員体制を整えていたから勝てた、とする説の方が有力です。

 きちんと情報を分析し勝つ(負けない)ための準備を十分にしておく、理性的な態度が必要であるというのは、現代にも通じる教訓ですね。

 

 

11/10 追悼 晋平太さん

 この週末、ネットのニュースを見ていたら、ラッパーの晋平太さんが亡くなったというニュースがありました。

 私は特にHIPHOPやラップが好きというわけではないのですが、数年前、晋平太さんとお会いし、ちょっとだけですがお話をしたことがあるので驚きました。

 なぜ晋平太さんと話をする機会があったのかというと、前任校で行われたPTA主催の生徒向け講演会の講師としてお招きしたからです。

 講演のタイトルはたしか、「言葉のパワー」でした。日本を代表するラッパーとして活動されてきた経験を元に、言葉を発することで人とつながり、自分の未来を切り開いていくことができる。それだけでなく、たとえ過去がつらいものだったしても、現在の自分が言葉を発することで未来の自分を作っていけば、それは自分にとって意味のあるものになる、というお話だったと思います。

 講演の開始前に少しお話をしたのですが、本質的に真面目な人柄なのに、ラッパーとしてはあまり生真面目な感じにはしたくないし…みたいな雰囲気で、自信と含羞が入り混じった微妙な感じがとても魅力的でした。

 私は、今は「言葉」が危機に瀕していると思います。ネットを中心に、揚げ足取りや「切り取り」が横行し、故意に人の言葉を曲解しての中傷(言いがかりともいう)や、明らかな虚偽の流布まで平然と行われています。

 そのような時代であればこそ、晋平太さんのお話されていた「言葉のパワー」、人と人をつなげる言葉の力を取り戻し、育てていかなければと思います。

 ご冥福をお祈りいたします。

 

11/6 祭のあと & こんなものを読んできた第32回

 昨日の体育祭、本日の総合閉祭式をもって今年の翔陽祭が終わりました。活気に満ちた祭のあとはどことなく寂しいものです。とは言え、生徒諸君は虚脱していないで、また来週から元気に学校に来て下さい。

 終わったといえば、翔陽祭と並んで全国の話題を集めた2025大阪万博も先月終わりました。主催者は2500万人以上の来場があった、と発表していますが、私を含め私の周囲で行ったという人はほとんど見当たらないのですが…。不思議ですね。

 同じ大阪万博でも1970年の大阪万博では、今回をはるかに超える国民的な熱狂がありました。海外からの観光客が今ほどいない時代に、6400万人の来場があったということです。私も学研の「科学と学習」別冊ガイドブックを暗記するほど読んでは、親に連れて行ってくれるようにせがんでいましたが、だめでした。(当時の私の家の経済状況を考えれば無理もないのですが、ずいぶんと親を困らせたと思います。)

 この1970大阪万博の最大の目玉は、その前年にアポロ11号が月から持ち帰った「月の石」の展示でした。それらの影響もあって、このころ子供だった私と同年代の人たちには「宇宙が好き」という人がたくさんいます。今回の「こんなものを読んできた」第32回は、その宇宙大好き世代の仲間、あさりよしとおさんの「アステロイドマイナーズ」を紹介します。かなりビターな内容ですが、それでもやっぱり人類は宇宙へ出ていくべきだ、というメッセージを感じます。こんなものを読んできた32(アステロイド・マイナーズ)web.pdf

11/1 翔陽祭第1の山場

 今日は翔陽祭第1の山場、文化祭2日目です。

 昼間は事前予約1900名を超えるお客様に来ていただき大盛況でした。

 今は(午後4時50分)はちょうど中夜祭が始まったところです。

 

 歌ったり踊ったりサイリウムを振ったり、盛り上がった去年よりもさらにパリピ感1.2倍くらいな感じですね(個人の感想です)。

 翔陽祭はさらに来週の体育祭へと続きます。

10/31 翔陽祭始まる。

 いよいよ翔陽祭がはじまりました。

 今日は文化祭の1日目、校内+お隣「かけはし特別支援学校」さんへの公開です。

 私も校内をざっと回ってきましたが、その結果、今日の私の昼食は、文化祭メニューになりました。

 

 明日は一般公開です。午前中雨が残らないか、ちょっと心配ですが、いい文化祭になるといいなと思います。

10/30 秋深し & 文化祭今昔

 秋が深まってきました。そろそろクローゼットからコートを引っ張り出そうかなという感じです。昨日の夕方も、空気が澄んで夕雲がとてもきれいでした。

 

 昨日から始まった文化祭の準備は、今日が2日目です。三部制の本校も文化祭の期間中は一斉登校になり、生徒会活動や部活動などでは、日頃顔を会す機会の少ないⅠ部~Ⅲ部の生徒たちが力を合わせて取り組みます。

 

 文化祭は高校生活を象徴するイベントとして、昔からマンガやアニメ、小説など様々な作品のモチーフになってきました。

 古い話で恐縮ですが、1984年公開の「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」(押井守監督)というアニメ映画では、文化祭準備の喧騒と狂騒が終わらない(終わりたくない)夢として描かれていましたし、先日このブログに登場した谷川流「涼宮ハルヒ」シリーズでも文化祭は一つの山場です。米澤穂信の「古典部シリーズ」でも、第1作の「氷菓」、第2作の「愚者のエンドロール」はともに文化祭にまつわるお話です。

 ただし、この辺りの作品のクリエイターは年齢的に私の前後の年代(一番年長の押井守さんが1951年、一番若い米澤穂信さんが1978年生まれ)の人たちなので、とても共感できるものがあるのですが、これが21世紀生まれの今の生徒たちに響くかどうかはわかりません。上記の作品群に描かれたような狂おしいまでの文化祭への情熱が今の生徒たちにあるでしょうか。

 せっかくの文化祭ですから、生徒たちにとって一生の思い出になってほしいと思います。

 

 

10/29 いつの間にかに…

 今日から本校は「翔陽祭」の準備です。10月31日(金)・11月1日(土)に文化祭、11月5日(水)に体育祭が開かれます。観覧には事前予約(締め切り済み)が必要なので、予約していない方にはもうしわけありません。

 今日は朝から、教室の飾りつけをしていたり、楽器の練習の音が聞こえてきたり、だんだんお祭りムードが高まってきました。

 それにしても「季節的に遅くない?」と思った方もいるかもしれません。しかし去年も書いたと思うのですが、他校でよくある9月初めの文化祭は早すぎます。熱中症や食中毒の恐れがあったり、まだ日が長い時期なので後夜祭も真昼間だったり、デメリットが多すぎます。翔陽祭の中夜祭は、やっているうちにとっぷりと暮れてきていい感じです。

 さて、そんな文化祭準備のかたわら、今日は学校献血もありました。私も少しは世の中の役に立とうと会場へいったのですが、なんと今回が献血50回目とのことで記念品をいただきました。

 頻繁に献血ルームに行っていた時期もあれば、2・3年も間が空いてしまった時もありますが、ちりもつもれば何とやら、いつの間にかに50回になっていました。

 振り返れば、50回すべてが400mm献血で達成までに40年くらいかかっています。70回でまた記念品や有功章がもらえるらしいのですが、献血ができるのは69歳までなので、年3回しかできない400mm献血ではとどきません。200㎜や成分献血なら回数が稼げますが、記念品目あてというのもちょっとはばかられますね。

 

10/22 これは昭和じゃない

 昨日、ネットをふらふらと見ていたら、「日刊SPA!」の「土下座しろ!水をこぼした女性店員に激怒する高齢の男性…救いの手を差し伸べてくれた“意外な人物」という記事に見過ごせない部分がありました。

 

 それは記事冒頭の「昭和の時代ならいざ知らず現在では客だからといって横暴に振る舞う行為はタブーとする風潮が浸透した。一方で、そうした世間の動きから取り残されたままの人物も、まだまだ少なくはないのが現状だ。」という一文です。これは事実誤認、というか事実と正反対のことを言っているように思います。

 何事にも100%ということはありませんが、私の知る限り昭和の時代には、店員のささいな失敗に文句を言って大声を上げるような客はほとんどいませんでした。

 昭和の老人は明治末から大正生まれで、ジェンダーフリーだのポリティカルコレクトネスだのといった考え方はしなかった(というか、そんな考え方自体がまだない)ので、男性客が女性の店員に「おねえちゃん」や「おばさん」呼ばわりをするくらいのことはありました。しかしその反面、料理を運んでくれた店員さんにはちゃんと「ありがとう」と言う人が多かったように思います。店員と客という以上に、人と人としての礼儀がわきまえられていた時代です。

 自分たちはお金を払った客なのだからサービスされて当然、といった態度、「客だからといって横暴に振る舞う行為」は、平成から令和にかけて蔓延してきたものです。居丈高な客が店員さんに怒鳴っているのは、きわめて令和的な風景といえるでしょう。

 今回取り上げた記事の筆者は、いつ頃生まれた人なのかは知りませんが、おそらく本当の昭和を知らないのでしょう。この人に限らず、最近なんでも悪いことを「昭和」で片づけてしまおうとする紋切型な言説がよく見られますが、私は人間や社会の相対的な能力は昭和の方が上だったと考えています。

 つい先日も大手飲料会社の流通システムがクラッキングを受けて製品の供給ができなくなってしまいました。取引量や製品数は現代の方が多いのかもしれませんが、昭和の時代にはどの企業も紙の伝票と電話とファクス、電卓くらいの装備で流通管理をしていたはずです。今の人間にはその能力も覚悟もないようです。

 はるかに便利になったはずの現代の方が商品のサプライチェーンが脆弱になり、また交通機関などもすぐ止まってしまうのはおかしな話です。

 

 

 

10/21 こんなことを考えた &こんなものを読んできた31

 以前、悪夢ばかり見るという話を書きましたが、寝つきも悪く、私は全体的に睡眠の質が低い人のようです。寝られないときには、仕事のことなど考えているとますます寝られないので、なるべく仕事と関係のない取り留めのないことを考えるようにしています。

 で、最近考えていたのが「言語の起源」みたいなことです。

 世界にはたくさんの言語があります。インド・ヨーロッパ語族(英語やドイツ語、フランス語など)のように系統が辿れるものもありますが、系統のよくわからない言語(日本語もその一つ)もあります。しかし、全ての言語に共通の論理的枠組みがあり、相互に翻訳可能であることから、全ての言語の元となった始原の言語があったのではないかと考えてしまう人も多いでしょう。

 13世紀のシチリア王にして神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世もこのことを疑問に思い、「生まれたばかりの赤ん坊を閉じ込め既存の言語では一切話しかけないようにしたら、この始原の言語を話すのではないか。」という実験をしたと言われています。現代だったら到底許されない非人道的な実験ですが、「最初の近代人」といわれたフリードリヒ2世らしい合理的な手法ではあります。また20世紀にはチョムスキーという人が言語の共通の性質を研究し、生成文法や普遍文法という考え方を唱えました。

 さて、前置きというには長くなってしまいましたが、最近、私が寝ながら考えたのは「音義説」のようなことです。「音義説」とは「あ」とか「い」という音そのものに原始的な意味があり、それらが組み合わさって今の言葉が出来上がっているという説で、江戸時代に日本の国学者の間で流行しました。(国学者たちも中国語やオランダ語など他の言語は知っていましたが、彼らにとっては日本語こそが始原の言語だったのでしょう)。で、この音義説みたいなもので、私が考えたのは擬音語や擬態語などの問題です。

 擬音語については耳で聞こえた音を写したものなので、似ているのは当たり前です、ものが叩かれた音を日本語では「バン」、英語では「BANG」と表現するようなものです。しかし擬態語についてはどうでしょう。物が不愉快なほど強く光を放ったり反射したりしているとき、日本語で「ギラギラ」、英語で「glitter(グリッター)」と言います。また光の細かい点滅を日本語で「チカチカ」、英語で「twinkle(ティンクル)」といいます。光を放つ物体から「ギラギラ」とか「チカチカ」という音が出ているわけではなく抽象的なイメージの問題なのに、妙に似ていると思いませんか。もちろん明治時代に海外の文化や言語が流入した際に、英語の擬態語の影響を受けた可能性はあります。しかし、食べ物の味が良いことを日本語で「うまい」、英語で「yummy(ヤミー)と言ったりするのも妙に似ています。この辺りを考えると、昔の「音義説」的なものがあるのかも、という気がしてきます。

 ちなみに昔、私の実家で飼っていた猫は、普段、安物の乾いたキャットフードしか食べさせてもらえないので、たまにおいしい猫缶を上げると「うみゃ、うみゃ、うみゃ」と言いながら食べていました。ひょっとして言語の起源は人類共通どころではないのかもしれませんね。

 さて「こんなものを読んできた」31回は、超軽量級のラノベ「全力回避フラグちゃん」を紹介します。いかにもネットやユーチューブの普及した現代らしい作品です。こんなものを読んできた_31(全力回避フラグちゃん)web.pdf

 

 

10/15 プチ史跡巡り2 & こんなものを読んできた30

 先週、「令和7年度全国単位制高等学校長等連絡研究協議会第35回兵庫大会」(長い!)という会議のため、兵庫県西宮市に行ってきました。 単位制で進学実績を伸ばしている伊丹北高校や、アルバイトを実務代替として義務づけている私立の綾羽高校などの取り組みが聞けて、大いに勉強になりました。来年は埼玉大会ですから、皆さんよろしくお願いします。

 さて上述の通り西宮に行ってきたのですが、この辺りはラノベ、アニメの「涼宮ハルヒ」シリーズの舞台です。今回は業務出張だったので、アニメ聖地巡りみたいなことはできませんでしたが、阪神電車「香櫨園駅」を下りたところの夙川(しゅくがわ)公園(作品中に出てきた公園は、もっと上流の阪急の夙川駅に近い方のようですが…)などに、作品の雰囲気を感じさせるものがありました。

「涼宮ハルヒ」ももう20年も前の作品ですから、それにまつわるアニメ聖地も、もはや史跡といって過言ではないかもしれません。今回は会場がJR「さくら夙川」、阪急「夙川」の近辺だったので、作品中でハルヒが文化祭の映画撮影のためビデオカメラやエアガンを寄付させた「祝川商店街」があるか?と思ったのですが、夙川には商店街らしいものはほとんどありませんでした。「祝川商店街」は西宮の中心部をモデルにした架空の商店街のようです。

それと香櫨園駅の前で、こんな石塔を見つけました。

 上部に「三界」とあるのが読めます。これは何かというと「三界万霊塔」というもので、仏教の「三界」(欲界、色界、無色界)に存在するすべての霊を供養するという趣旨のものです。裏側も見ましたが特に年紀のようなものは見当たらなかったのでいつ頃の物かはわかりません。全国のあちこちにあるようですが、私の生活圏(埼玉県南部)ではこれまで見たことがありませんでした。地域的な分布の偏りがあるのかもしれませんね。ネットで調べようとしましたが、ブログの類や旅行・観光に関する記事は、県のネットワークでは禁止されて見えないので、よくわかりません。しかし面白いものを見ました。だから旅はいいですね。

 「こんなものを読んできた」第30回は、そんなわけで「涼宮ハルヒ」シリーズを紹介しました。20年前のまだ日本がこれほど衰退する前のゆとりのある雰囲気が伝わってくるような作品です。こんなものを読んできた30(涼宮ハルヒ)web.pdf

 

 

10/8 いよいよですね。

 学校の方は昨日から中間考査です。テスト期間中は休み時間も静かで学校中がしんとした感じです。電車の中でも高校生が英単語や古文単語の本を見ている姿もよく見かけます。みんな頑張ってください。

 さて、タイトルの「いよいよですね」って、一体何が? というとアレです。Windows10 のサポート終了です。

 最初に書いておくと、私のような木っ端者が世界のマイクロソフトに反抗しようなどどは思ってもいません。実際に私は1993年に初めて自分のPCを買ったときからずっとWindowsユーザーで、一度もリンゴのマークに走ったりしたことはありません。(ヘコヘコした小物感丸出しですね。)

 でも、ちょっとだけ「Wiondows11への乗り換えって必要なんですかぁ?」と思ってしまうわけですよ。

 先述のとおり1993年に私が始めて買ったPCはエプソンの486SXノートというやつで、CPUはIntel486SX25Mhz、RAM12MB、HDD500MBのハードウエアにOSとしてMS-DOS5.0+Windows3.1を乗せていました。(ちなみに当時はPC本体とメモリやHDDなどは別売でした。OSも購入後に自分でインストールしていました。)

 今の若い人はスペックの単位が「G(ギガ)」ではなくて「M(メガ)」であることに目を疑うかもしれませんが、これは間違いではありません。しかもこのスペックは当時としては結構ぜいたくな方でした。同僚からは「メモリ12MBも積んでどうするの」とか「HDD500MBなんて一生使いきれないじゃん」とか言われたものです。

 この初代マイPCの486SXと今このブログを書いている学校のCore i3-1315U(現代水準ではかなり低性能)では、AIのコ・パイロットさんによれば、1000倍以上の性能差があり、「まるで黒電話とスマートフォンを比べるようなもの」だそうです。(詳細は下記の通り)

 

指標 486SX Core i3-1315U
クロック  約25Mhz 最大4.5Ghz 
 コア数 6(8スレッド) 
 キャッシュ 数KB  10MB 
 PassMarkスコア 約5~10  約11,339 
 消費電力 数W  15W(TDP) 

  とはいうものの、この486SXの時代と現在で、学校でPCを使ってやっている作業は、ワープロでの文書作成、表計算やデータベースを使った会計や成績の処理などで、ほとんど変わりません。さすがに486SXで動かすWindows3.1は頻繁にフリーズしていましたし、画像の加工などさせると、1枚の写真の処理に20分くらいかかったりしていたので、もう少し機械もOSも進化させたいところですが、その数年後のMMXペンティアムで動かすWindows2000やWindows Xpで十分だった気がします。

 現在のWiindows10や11は、Xpなどに比べると起動が早くなっていますが、ハードウエアの性能が1000倍以上になっているのだから、それも当たり前の気がしますし、特にバージョンアップの必要を感じないのですが…。

 サポート終了後はセキュリティが担保されませんと言われてしまうと、学校では使い続けることができませんが、コンピュータをスタンドアローンで使っている工場や倉庫などでは、いまだにNECの98シリーズが現役のところもあると聞きます。 Wiindows10が出たときには、これが最後のOSだとか言っていた気もするのですが…。

 すみません。ただの愚痴でした。

 

9/29 こんなものを読んできた29 & どんな夢を見てますか?

 さて前回、強い調子で「どんな本を読むかは勝手だろう」という話を書きました。それは何故か?というと、今回、「こんな本を読んできた」第29回で、藤本タツキのマンガ、「チェンソーマン」を紹介する露払いの意味もあったのでした。こんなものを読んできた29(チェンソーマン)WEB.pdf

 今も昔も暴力シーンがあったり、露骨な性的な描写がある作品には、「児童生徒が読むのに適さない」と「有害」のレッテルが貼られがちです。ただ、そういった作品の中には表面的に好ましくない描写があっても、伝えたい真のテーマには見るべきものがある作品もたくさんあります。(確かに有害だな、と納得してしまう作品もありますが…。)

 藤本タツキの「チェンソーマン」も「好ましくない」マンガに分類されてしまいそうな作品ですが、私は、独特の美しさや味わいのあるいい作品だと思っています。(詳しくは上のリンクから本文を見てください。)

 この作品の特徴は、なかなか覚醒できない悪夢をみているような独特の雰囲気にある、と思いますが、ところで皆さん、日常的にどんな夢をみていますか?

 私はあまり楽しい夢を見ることがありません。ほとんどが悪夢の類です。

 教員稼業が長いせいか、舞台が学校のものが多いのですが、たとえば、授業に行こうとして職員室を出たのに教室にたどり着かない。よく知っているはずの校舎が迷宮と化して、このままでは授業に遅れてしまう…。とか、そんな感じです。最近も、生徒と一緒ににぎやかに文化祭の準備をしていた(この辺は割と楽しい)ところに、「車の移動をお願いします」と放送が入ったので、愛車を移動させようとすると、なぜが自分の車が見つからず、校内をぐるぐるさまよう…。という夢を見ました。次の朝、寝起きからひどい疲れを感じて、脈拍や睡眠状態の記録できる腕時計で見たら、睡眠中なのにものすごくストレスの高い状態になっていました。

 夏目漱石に「夢十夜」という作品があって、漱石の見た不条理で不可解な夢を描いています。漱石も精神的に不安定な人だったといいますが、私の悪夢癖も何か精神的なものなのでしょうか。

 

9/19 どんな本を読むべきか?

 今日の朝は久しぶりに半そでだとちょっと肌寒いほど涼しくてホッとしました。でもまだ暑さのぶり返しはあるようです。このブログを読んでくださっている皆様、お体ご自愛下さい。

 さて、前々回(9/8付け)のこのブログで、小学校の先生に対する批判めいた感じのことを書いたので、皆さんの中には「この人は小学校の先生が嫌いだったんじゃないか?」と思った人もいたのではないでしょうか? 実はその通りです。理由はいくつかありますが、強いて言うなら当時の先生には「のぞましい子供像」を押し付けてくる人が多かったからです(もちろん尊敬できる先生も何人かいましたが)。

 で、今回のお題につながるのですが、当時の小学校の先生には、読書の面でも「情操を豊かにする」本ばかり読ませようとする人が多かったように思います。小学生の頃の私はそれが性に合いませんでした。ついでに言うなら私の母親も「情操」とやらが好きでいい迷惑でした(親不孝な言いぐさですが、本当にそうでした)。

 たとえば当時の先生がよく勧めてきたのは、リンドグレーンの「長靴下のピッピ」とか、ウィーダの「フランダースの犬」とか、ドーデの「最後の授業」などの「良書」でした。まあ一応私も読んでみました。リンドグレーンなどには、今読めば子供の時には感じなかった何かがあるのかもしれません。しかし「フランダースの犬」のラストには、「おとなしく凍死するくらいなら、どんな生き方でも生き延びた方がいい」と感じました。「最後の授業」では「アルザス・ロレーヌがドイツ領に編入され、明日から学校でフランス語が使えなくなる」のが悲劇とされているのですが、妙に歴史マニアだった私は「ドイツ系住民もたくさんいるのだから、その人たちは喜んだんじゃないか?」とか考えてしまったわけです。で、先生にその辺の疑問をぶつけると、ひねくれた読み方をする困った児童という扱いになってしまい…。

 同じように、夏休みの宿題でよくあった「読書感想文」も先生たちの想定する「のぞましい感想」でないと評価されなかったように思います。たとえば太宰治の「走れメロス」という作品があります。一般的には「メロスとセリヌンティウスの篤い友情と信頼で、人間不信の王様も改心した」お話とされ、読書感想文にも期待されているのは、その線でしょう。

 しかし、私はこの作品には全体になんとなく皮肉っぽいトーンが流れているようで、作品そのものが太宰治の壮大な冗談ではないかと考えてしまいます。「走れメロス」については、米澤穂信の「氷菓」シリーズの中にも、主人公の折木奉太郎が、さまざまな突っ込みを入れてミステリー作品として読んでしまう、というお話がありますが、とにかくそんなに素直に読んでいい(もちろんそう読んでもいいですが)作品ではないと思います。

 話が長くなりましたが、何が言いたいのか、というと「何を読んで、どう感じるか」などは自由でいい、ということです。私も「こんなものを読んできた」でおすすめの本を紹介していますが、それは自分が読んで面白かった本を紹介しているだけで、それ読むかどうかはみなさんの勝手です。

 世の中には、明らかに科学的におかしなことが書いてあったり、極端な思想で事実を捻じ曲げたりのいわゆる「トンデモ本」があります。子供たちがこの手の本を読んで、それに染まったら大変だという考えもあるでしょうが、これらも含めて「何を正しいと思い、何を信じるか」は、多くの本を読み様々な知識を得たうえで自分で考えればいいことだと思います。

9/12 プチ史跡巡り2「飯田橋周辺」 & こんなものを読んできた28

 今日の午前中、ちょっと出張で飯田橋まで行ってきました。少し早めについたので江戸城の牛込門跡の石垣を見てきました。

 

 飯田橋駅の西口を出ると、駅前の道を挟んで両側に牛込門の跡の石垣が残っています。門そのものは明治に入って間もなく撤去されたのですが、土台の石垣は残されました。これだけ堅固なものを撤去すると工事の手間と費用も馬鹿にならないからでしょうか。

 

 また駅前には牛込門の石垣に使われていた石も野外展示されています。側面にこの門の工事を担当した蜂須賀阿波の守の名が刻印されています。東京の皇居周りにはこういった遺跡・遺構が点在していて楽しいですね。

 次は飯田橋の駅の中です。これは帰りに撮りました。

 飯田橋の駅は現在は西口側に中心が移っていて、東口から入ると電車に乗るまでに使われていないホーム東側の部分を100m以上歩くことになります。この古いホームの部分の屋根は柱が曲線でそのまま梁に変わるとても美しい構造をしています。そして、この柱の鉄骨はよく見るとレールを曲げたもののようです。

 

 柱のクローズアップです。車輪がのる上面が内側、枕木に接する下面を外側にして2本束ねて柱にしていることがわかります。

 昔はあちこちの駅でこういったレールを構造材に使ったホームの屋根がみられましたが、最近は建て替えられて少なくなってきました。飯田橋の駅のここの屋根はそれらのうちでも美しいものの一つだと思います。

 さて、もう一つのお題、「こんなものを読んできた」。今回はハインラインの「大宇宙の少年」です。私は子供のころに夢中になって読んだ記憶があるのですが、他にもこの作品を読んでSF好きになったという人がたくさんいるようです。こんなものを読んできた28(大宇宙の少年)web.pdf

 

9/8 プチ史跡巡り2 やはり遺跡でしたか!

 9月に入り、日差しはやや弱まりましたが、暑いですね。「暑さ寒さも彼岸まで」のことわざ通りになればよいのですが。

 さて、今日はちょっとだけです。

 このブログでも、たびたび「土の盛り上がりをみると古墳に見える病気」を発症している私ですが、その原点は、子供のころ住んでいた見沼区大和田にあった謎の土の山でした。

 東武野田線(最近はアーバンパークラインと言うそうですが)の大和田駅の南方数百メートル、子供のころ私がよく虫取りでうろついていた雑木林の中に、長径20m、短径15mくらい、高さ2~3mほどの土の小山がありました。

 小学館の「マンガ日本の歴史」や学研の学習百科事典を読破して、妙に歴史や考古学が好きだった私は、「これは古墳かも?」と考えました。そして、この小山の近くの農家(このお宅では金魚を養殖していたので、たまに買いに行ってました)の人に聞いてみたのですが「わからない」とのことでした。そこで小学校の先生にも聞いてみましたが、「こんなところに古墳があるわけない。」と言われました。当時の私はまだ素直で、先生は何でも知っていると思っていたので、「じゃあ、違うのかなぁ」と思ったものです。

 さて、この間、このことを思い出して、前にも利用させていただいた国土地理院の陰影図で見てみました。昔、私が不思議に思った場所には、ちゃんと小山が二つ表示されています(13の数字左上)。

 その同じ場所を、さらにさいたま市遺跡地図(この地図も便利で素晴らしいです。)で見ると、二つの山のうち、北側の方が赤くなっていて遺跡番号「12-209」となっています。

 詳細な情報を見ると、ここは「埋蔵文化財包蔵地」「塚・散布地」「中世」とのことで、古代の古墳とはされていませんが、人為的な塚として認定されています。また古代には13の数字左の黒点の交差点の少し南まで見沼の入り江が細長く入り込んでいたようです。ここの十字路の東西の道は大宮と岩槻を結ぶ古い街道で、辻には今も六地蔵が残っています。この周辺は昔は何らかの重要ポイントだったのかもしれません。

 50年以上、ずっとこの問題が頭に引っかかっていたのですが、古墳かどうかはさておき「遺跡ではないか」と思った私の直感は間違っていなかったのですね。思わず大威張りしてしまいました。

 それにしても小学校の先生は何を根拠に「古墳のはずがない」と断言したのでしょう。歴史を商売とする人の端くれになった今の私の目から見れば、大和田の周辺は低地と台地の境目で中世の城塞や館の跡なども点在し、中世の塚や古代の古墳があってもそんなにおかしくない場所なのですが…。なんか微妙に子供の夢をつぶされたような気がします。私だったら、「そうかもしれないね。調べてごらん」と言ったと思うのですが。

 上記の地図の引用については一応学術・教育目的の利用条件には合っていると考えていますが、もし不都合があればお知らせ下さい。

9/2 こんなもの読んできた27 & 初めて見ました!

 夏休明け最初の「こんなものを読んできた」は、アイザック・アジモフの「銀河帝国興亡史」です。本文中にも書きましたが、私が中・高生のころ、SFファン界隈では「銀河帝国興亡史」を読んでいないと、「もぐり」「素人」扱いされ軽蔑されたものでした。私はひねくれ者だったので「だったら俺は読まない」と決心し、50年近くこの作品に背を向けていましたが、もうそろそろ読んでもいいかと思い、今回ようやく読破しました。

 こんなものを読んできた27(銀貨帝国の興亡)web.pdf

  さて、出勤途中にこんなチョウを見ました。

 

 私がこれまで見たことのないチョウだったので、調べてみたらおそらくムラサキシジミのようです。シジミチョウの仲間は体も小さく羽根を閉じていると目立たないのですが、羽根の内側が美しい金属光沢をもっています。しかしスマホを構えて待っていても、なかなか羽根の内側を見せてくれません。そこでちょっと気の毒ですが、飛んでもらうことにしました。(下記のリンクをクリックすると動画がダウンロードできます)

 VID_20250902_064011387 - Trim.mp4

 動画は一瞬過ぎるので、ファイルからフレームを抜き出してみました。形はぶれていますが、深い青色はわかると思います。

 シジミチョウの仲間には、他にも羽根の内側が鮮やかな緑色のミドリシジミや、きれいなオレンジ色のベニシジミ、白銀色のウラギンシジミなどきれいな蝶がたくさんいます。そこら中の芝生や草むらで見かけるヤマトシジミ(1センチ5ミリくらいの白っぽいチョウ)も、よく見ると羽根の内側が金属光沢のある薄いムラサキ色でなかなかきれいです。

 今回見つけたムラサキシジミは色がきれいなだけでなく、幼虫の時にアリを引き付ける匂いを出して、アリに自分の護衛をやらせる不思議な習性をもった蝶としても有名です。日本では割と広い範囲に生息しているようですが、私は初めて見ました。こういったことがあった日には、何かいいことがありそうです。

 

 

8/22 こんなものを読んできた26 & 「上り坂の時代」

 「暑い」といってもどうしようもないですが、暑いですね。

 夏休みも終盤ですが、みなさん、夏休みにやろうと思っていたことはできましたか。

 さて、ここのところ、マニアックな古書を取り上げることが多かった「こんなものを読んできた」ですが、今回は若い人にも手に取ってもらえそうな昨年のベストセラー「成瀬は天下を取りにいく」を紹介しました。ベストセラーになるだけあってすごく面白いですが、それだけではないものもある作品だと思います。こんなものを読んできた26(成瀬は天下を取りにいく)web.pdf

 今日のもう一つのお題ですが、先日、こんなものを買ってしまいました。

 

 Fujica35Mという古いカメラです。昔、私の父親(もう故人です)が愛用していたカメラの同型品です。今のカメラにはない全金属性のずっしり感がたまりません。

 興味のない方には恐縮ですが、Fujica35Mは撮影対象との距離を測る測距儀が内蔵されているレンジファインダータイプのカメラです。

 測距儀の原理について簡単に説明します。周りの物を片方ずつ目をつぶって見てみましょう。近くにあるものほど右目と左目で見え方が違うはずです。人間は脳内でこの見え方の差を分析することで立体感を感じています。測距儀にも人間の目のように左右に離れた二の窓があり、外部の風景(光)を取り込んでいます。この左右二つの窓の映像を人がのぞき込むファインダーの中央に鏡やプリズムを使って重ねて映し出すのですが、この映像は近いものほど左右にズレて見えます。このズレがなくなるようダイヤルを回して調整してやると、ダイヤルの回転量で対象物への距離が測れます。光学技術と機械技術を合わせたすごく巧妙な仕組みです。

 さらに私が入手したFujica35は後期型のMLというタイプで、シチズン製のLVシャッターという仕組みもついています。

 興味のない方にはますます恐縮なのですが、写真というのは絞りを開いてとると、ピントの合う範囲が狭くなってボケやすくなります。手前の被写体だけピントが合っていてバックがボヤっとしている写真がありますが、これは絞りを開いて撮影しているわけです。逆に絞りを閉じるとピントの合う範囲が広くなって、後ろの方から前の方までくっきり映ります。ただ絞りの開閉に合わせて、シャッタースピードも速くしたり遅くしたりしないときれいな写真はとれません。

 LVシャッターではこの複雑な調整をコンピューターの助けを借りず、歯車やカムだけで実現しています。同じくらいの明るさでボケ方の違う写真を、一つのダイヤル操作だけで撮ることができる精巧な仕組みです。

 Fujica35は1957年に発売され、翌1958年のベルギー万博で銀メダルを受賞しています。日本の工業技術が欧米の物マネを脱して、本家欧米をしのぐ品質を誇るようになっていった時代です。まさに日本が上り坂の時代の製品です。

 今の日本は打って変わって産業や技術が低迷し、そのうっぷんを晴らすかのようにネット上での揚げ足取りやヘイトが横行しています。投資や金融、ICTもいいですが、農業や工業で物を作りださなくては、根本的な豊かさは増しません。このカメラを作っていた時代のような、まじめなものつくりをする国に戻らなくては、と思います。

 ちなみにこのカメラの発売価格は15,900円でしたが、その年の国家公務員の初任給は9,200円だったそうです。くそ真面目で朴念仁の見本のような私の父が、給料の2か月分に近い(今で言ったら40万円くらい?)カメラを買っていたとは驚きです。実は結構な趣味人だったのかなと思います。

 

8/19 小言幸兵衛

 古典落語に小言幸兵衛という演目があります。長屋の大家なのに入居希望者に次から次へとケチをつけて追い払ってしまうという困った年寄りの話です。私も年を取ったので小言が多くなってきました。

 折からの残暑の中、内にこもっていた小言を一斉開放して、暑気払いをしたいと思います。(される皆さんはたまったものではないと思いますが…。)

 小言その1「えんみ」ってなんだよ!

 最近、テレビ番組の食レポをみていると、出演している人たちがみんな「えんみ」「えんみ」としゃべっています。何のことかと思えば塩味「しおあじ」のことのようです。昔(といってもつい10年前くらい)はこういう言い方はあまり聞かなかったと思います。甘い味のことを「甘味(かんみ)」と言ったりするので、その影響でしょうか。あるいは栄養学かなにかの業界用語なのでしょうか。

 しかし、塩の味なのだから「しおあじ」というのが、耳で聞いてもわかりやすく。テレビやラジオのような音声による伝達では一番間違いがないはずです。また日本語としても、ほかに言い換えのない場合を除いては、カタカナ言葉や音読みの漢語をさけ、訓読みの大和言葉を使う方がのぞましいと思います。ところが最近の食レポでは「えんみ」と言わなければ食通ではないかのような、妙な気どり感を伴って、みんな「えんみ」「えんみ」と言っています。

 私は「えんみ」というと、まず「厭魅(古代に人を呪い殺すために行った呪法)」を思い浮かべてしまうのですが。

小言その2「…になります」って別になってねえよ!

 飲食店などで注文したものを店員さんが持ってきてくれる時に、近年では「こちらハンバーグセットになります」のような言い方をよく聞きます。私も、その場で店員さんに絡むようなことはしませんが、心になかでは「何がなりますだよ。何もなってねえよ!」と悪態をついてしまいます。この場合正しい言い方は「ハンバーグセットです」とかあるいは丁寧に「ハンバーグセットでございます」だと思うのですが。

 私の考えるに、この「…なります」は、「です」とはっきり断定することを避けてワンクッション入れることで、なんとなく責任をぼやかそうとする気持ちの表れではないでしょうか。同じような精神がもっとはっきり現れているのは、やはり20年位前からよく聞くようになった「正しい日本語(?)」のように語尾を上げた英語の疑問文のようなイントネーションで区切りながら話す話し方です。これも「自分の考えや見立ては必ずしもそうではないけれど、みんながそう言うから、言ってます」という言い訳を感じさせます。

 私が若いころにも、よく意見を言うときに「ある意味では」というのを頭につける人たちがいました。そういう時に、私は「ある意味でそうなら、別の意味もあるんだよね? それは何?」と聞き返していましたが、別の意味を答えてくれた人はいませんでした。これもそう言うとちょっと知的な感じで、考え深いように聞こえるから枕詞のように使っていたのでしょう。

 「こういったあいまいな表現を日本語から追放したい」というのが、私の悲願ですが、実現はむつかしそうですね。

3,リュックを前向きに持つな!

 先日、外出した際にどこかの路線の車内アナウンスで「混雑時にはリュックは前向きにお持ちください」のようなことを言っていました。とんでもない、と思いました。

 車内が混んでいるときにリュックサックを背中側に持っていると、知らないうちに人にぶつけてしまってトラブルになったり、目が届かないのでポケットの中のものを盗まれたりする心配があります。その点では腹側にもつのは改善策といえます。しかし、腹側にリュックを回すと重心のバランスをとるために、上半身を後ろにそらすことになります。こうなると身体+荷物の前後幅は広くなります。またさらにこの状態でスマホなどをいじると手が前に突き出されて、さらに場所を取り、混雑時には大変な迷惑です。

 私の考える最も良い持ち方は何かというと、背中からおろして手で持ち、体の前方に下げることです。腰回りより足のほうが細いし、上半身は足の上の方へ前傾するので、混雑する電車の中で最小限の面積しかとりません。

 この持ち方だと手がふさがるので「スマホの操作ができないじゃないか!?」という方もいるかもしれません。そういう疑問に対する私の答えは一つです。「(混雑の中では)操作するな!」。

8/14 最近行った所(続)& こんなものを読んできた25

 昨日の続きです。8月6日には平塚に全国定時制通信制のバレーボール大会を見に行きました。平塚市内で39度を記録したという猛暑の中、平塚駅から会場まで2km弱を歩きました。

 

 最初の史跡はこれ(上の写真)です。何の変哲もない道路の写真です。もしかしてこの軽トラが歴史的遺物なのか? ってそんなわけはありません。写真の歩道橋に書かれた字を見てください。「若松八千代歩道橋 東海道本通り線」と書いてあります。そう、この道が昔の東海道なのですね。東海道は国道1号線として東京から京都まで続いていますが、平塚ではこの道より少し北側のバイパスが国道1号となっていて、街中を通る旧東海道は国道指定から外れています。

 昔の東海道を歩けてしみじみ、と言いたいところですが、よく考えたら、私は毎日、昔の中山道を自転車で走って上尾駅まで通勤していました。行為としてはあまり差がないですね。

 次はここ、旧東海道「馬入川の渡し」跡です。

 

 この写真は、「馬入川の渡し」の石碑のある所から川の方を向いてとった写真です。手前の方に川を引き込んだ港があってたくさんのレジャーボートが係留されていますが、その向こうに国道1号が川を越える橋が見えます。

 いつもの明治迅速図でみると、街道は今と同じ位置を通っていて細い橋がかけられています。馬入川の流れはその橋のところでゆるく湾曲し、写真を撮った堤防のある場所は川に突き出していて、そこに集落があります。橋のできる前の江戸時代には、この辺りが渡し場だったのでしょう。

 家に帰ってきてから気が付いたのですが、国道1号の橋を渡ってあと2kmくらい行くと、「旧相模川橋脚跡」があります。これは関東大震災の時に液状化現象で水田の中から鎌倉時代の木製の橋脚が浮上してきたものです。鎌倉時代には、相模川(馬入川)の本流は今より東側を通っていたことになりますが、明治迅速図を見てもこの辺りは堤防の跡が蛇行しているので、相模川(馬入川)は頻繁に流れを変える暴れ川だったと思われます。

 ちなみに相模川(馬入川)の橋というと、鎌倉幕府を開いた源頼朝は、相模川の橋の落成式に出かけた際に、落馬してそれが原因で死んだとされています。この橋脚跡のところで落馬したのでしょうか。平塚に行く前に知っていれば頑張って見に行ったのに惜しいことをしました。

 さて「こんなものを読んできた」第25回は、明日が8月15日の終戦の日であることもあり、戦争を描いたSFの古典、ジョー・ホールドマンの「終わりなき戦い」を紹介しました。こんなものを読んできた25(終わりなき戦い)web.pdf

 今となっては古くて入手しにくい本ですが、いい本だと思います。

8/13 プチ史跡巡り2「最近行った所」

 夏至を過ぎて1月半、だいぶ日も短くなり、日差しもやや弱まってきました。しかし体にまとわりつくような蒸し暑さはまだまだ続きそうです。

 さて今月に入ってから全国定通大会の応援であちこち行きましたので、そのついでに巡った史跡をまとめて紹介します。

 一つ目は江戸城田安門と日本武道館です。

 日本武道館は旧江戸城の北の丸にありますが、北の丸に入るための門が田安門です。お堀を渡る橋の上から田安門の外側の高麗門(これは固有名詞ではなく様式名)を見ると門越しに武道館の屋根の擬宝珠、前に取り上げた爆風スランプの曲でいうところの「光るたまねぎ」が見えます。

 

 武道館は現代建築ですが、建てられたのは前回の東京オリンピックの時の1964年、1966年にはビートルズの来日公演の会場となり、それ以来、外国のミュージシャンにとっても聖地のような存在となった歴史的建造物です。

 高麗門をくぐると、ちょっとした広場があり右側に櫓門(これも様式名)が見えます。いかにも強固でお城というのが本質的に軍事施設であることを感じさせます。とはいえ、江戸城の壁や門には矢狭間(弓や鉄砲で敵を討つための隙間)が設けられていないですね。天下を治める徳川将軍の居城ですから、ここで戦闘をすることになるとは考えていなかったのでしょうか(実際に実戦は経験していないですし)。

 

 田安門を出た靖国通りに面した場所に、ちょっと変わった塔が立っています。

 

 西洋風の建物を作ろうとして、そうしきれなかったような不思議な感じです。明治の最初のころには、こういう「疑洋風」の建築があちこちに建てられました。説明看板によれば、この塔は「常燈明台」と呼ばれるもので明治4年に招魂社(今の靖国神社)の燈明として建てられましたが、当時は海からも見えたので灯台の役割も果たしていたとのことです。しかし「海から見えた」というのは本当でしょうか。昔は東京湾の埋め立てがあまり進んでおらず、今よりずっと海が近かったとはいえ、こことと東京湾の間には江戸城が挟まっていますとはいえ、ちょっと信じがたいのですが。

 もう一つ武道館近くで「九段会館」です。

 

 この建物は昭和9(1934)年に「軍人会館」として建てられ、1936年の2.26事件の時は戒厳司令部がおかれるなど歴史の激動を体験してきた建物ですが、2011年の東日本大震災の時に中核施設のホールの天井が崩落したため、現在は一部分を残して、後ろ側に見える高層ビルに建て替えられています。

 

 とはいえ、正面玄関を入ったところのファサードはドアや壁、天井など隅々まで美しい意匠に満ちていて、現代には決して作ることのできない美しさです。今の我々からするとこれらの細かな装飾や意匠は「贅沢」や「無駄」に見えますが、現代建築以前の建築家にとっては、これらの装飾は公共建築には欠かせないものでした。この建物ができた1930年代には、ドイツのバウハウスで始まった現代建築の動きが広りつつあり、このような優雅な建物は作られなくなってきていました。九段会館は軍人会館として大日本帝国の威信を示す建物だったので、その時代としてもちょっと古いセンスでつくられたのでしょう。

 実は私、高校生の時、合唱コンクールの関東大会で九段会館のホールで歌ったことがあるのですが、その時も美しい建物だな、と感動した覚えがあります。ただ、トイレの便器の取り付け位置がやたらと低く「昔の日本人は小さかったのか?」という疑問も感じましたが…。

 写真を入れていたら長くなってしまったので、「最近行った所」は次回に続くことにします。 

 

 

 

8/7 全国定通バレーボール大会に行ってきました。

 昨日(8/6)、全国定時制通信制バレーボール大会の応援に行ってきました。

 男女とも同日・同時刻の試合だったので、女子の方は副校長先生に行ってもらい、私は男子の会場、平塚サンライフアリーナへ行きました。

 1回戦の結果は2-0で2回戦以降に進出しました。

 対戦相手は広島県立三原高校でした。三原といえば横山大観の愛したお酒「酔心」で有名ですね。(えっ。その認識は私だけ?) 1セット、2セットとも、こちらが連続ポイントをとって「いいぞ!」と喜んでいると、相手も頑張って点数を取り返してくるという接戦でしたが、競り勝って見事2回戦以降に進出です。

 私が見に行ってもちゃんと勝てることを立証してくれた男子バレーボール部の諸君ありがとう(前回の記事参照)。

 

 同じころ行われていた女子も2-0で勝って2回戦に進みました。

 先ほど入った連絡によれば、男子は抽選でシードになり、女子も2回戦を突破したそうです。上に行くほど相手も強くなっていきますが、思い切りぶつかっていってください!

 今回はあまり余計なことは書かずに終わります。

 

8/5 定通剣道大会 & 「大きなたまねぎの下で」

 昨日は日本武道館で開かれた全国高等学校定時制通信制体育大会「第56回剣道大会」に行ってきました。

 夕方にちょっと用事があり残念ながら最後までは見られなかったのですが、剣道の試合というのも面白いですね(生で公式戦を見たのは初めてでした)。

 私のような素人には動きが早すぎてどっちが勝ったのかもよくわからないのですが、個人戦の1回戦から勝ち上がっていくにつれ、男女とも踏み込みの音や竹刀の打撃音がどんどん鋭くなって、戦いのレベルが上がっていくのが感じられます。

 団体戦は時間の都合で男子しか見られませんでしたが、埼玉県の合同チームには、昔、結構流行った「六三四の剣(村上もとか)」というマンガの主人公のように上段で構える自分のスタイルを崩さない選手や、大きな相手に何度も吹っ飛ばされながらも、機敏な動きで粘り強く反撃する小柄な選手などもいて個性と根性のあるいいチームだなと思いました。そこに本校の選手が参加でき、一緒にがんばれたのは素晴らしいことだと思います。女子の方は見られなかったのですが、埼玉Bチームはトントンと勝ち上がって入賞したそうです。私が見ていなかったのが良かったのかもしれません。(昔からワールドカップやオリンピックを見ようとすると、妻から「あんたがみると負けるからやめろ」と言われているので…。)

 ところで、昨日は地下鉄の九段下の駅から武道館に行きました。九段下の駅の発車を知らせるメロディは、爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で」なんですね。タイトルの「たまねぎ」は武道館の屋根の擬宝珠をたまねぎにたとえたもので、私のようなバブル世代にはとても懐かしい曲です。メロディーも美しくて名曲だと思いますが、現代の高校生くらいの人には、この歌はいろいろ理解不能かもしれません。

 そもそも出だしの「ペンフレンドのふたりの恋は~」の「ペンフレンド」がわからないでしょう。電子メールもLINEもなかった昔には「文通」という趣味がありました。「文通」というのは遠い地域に住んでいる人と郵便で手紙をやり取りをすることで、これで仲良くなった人がペンフレンドです。では、そもそも遠い地域に住んでいる人とどうやって知り合うのか? というと、雑誌などの「文通コーナー」です。当時は「中1時代」(旺文社)とか「中1コース」(学研)とかの中高生向け学年誌があり、これらの雑誌に必ずあったのが、読者投稿欄や文通コーナーでした。

 文通相手を探す人は、ここで募集のため自己PRを載せるのですが、ありがちなのが自分のスペックを盛ってしまうことです。たとえばへたくそなのに「バンドでギター弾いてます。エリック・クラプトン(*1)のコピーしてます」みたいに。また文通の相手が決まって、手紙のやり取りを重ねていくと写真の交換をしたりするのですが、この時にもつい見栄を張って自分ではなくかっこいい友達の写真を送ってしまうことも起きるわけです。(今のSNSでもスペックの偽装はありがちですから、この辺はあまり変わらないかもしれません。)

 しかし、そういうことをやっていると、いざ文通相手と本当に会おう(今でいうところのオフ会?)となったときに困ってしまいます。

 「大きなたまねぎの下で」も、男の子がペンフレンドの女の子にどうしても会いたくなって、思い切って日本武道館で行われるコンサートのチケットを贈るのですが、待ち合わせの場所に女の子が来ない、という歌です。

 この歌の男の子と女の子は写真の交換などはしていないようですが、もしかすると相手の女の子は、文通で少し自分を盛っていて、あるいは盛っていなくても自分に今一つ自信がなくて、実際に会って男の子をがっかりさせてしまうことを恐れて来ないのかもしれません。また、もしかすると女の子には約束を守る気はあったのに親に止められてしまった、という可能性もあります。この歌は1989年の発売だそうです。この年は昭和最後・平成最初の年で、中・高生の男女交際が禁止されるほど古臭い世の中ではありませんが、それでも「女の子が顔も知らない相手に会いに行くのはやめなさい」という親は普通にいたと思います。あるいは女の子は地方に住んでいて単純に東京までくるお金が用意できなかったのかもしれません。この歌は男の子の側から見た歌ですが、女の子の側から見ても歌や物語がつくれそうな気がします(*2)。

 この歌の発売された1989年には、まだインターネットや電子メールは(一般人が使える形では)ないし、携帯電話も普及していなかった(車載電話や肩から下げるショルダーフォンはあった)時代です。しかし、この数年後にはインターネットを爆発的に普及させたWindows95が発売されますから、今から思えば、「ペンフレンド」を題材にした歌を作るにはギリギリの時代だったわけですね。

(*1)エリック・クラブトンは、1970~80年代におけるギターの神。クラプトンとジミー・ページ、ジェフ・ベックを日本では三大ギタリストと呼んでいた。

(*2)※女の子の側から見た歌もしっかり作られてました。YURIMARI「初恋~はるかなる想い〜」(1999年)という曲ですが、私的にはあまりピンとこない曲ですね。また、なんと今年「大きなたまねぎの下で」の映画が作られてました。でもこのLINEの世の中に、男の子と女の子をどうすれちがわせたのでしょうか? 

8/1 こんなものを読んできた24 & 「上尾運動公園には富士塚が埋まっている?」

 今年もなぜか週末になると台風が接近してきます。今日も午後になって雨が強まってきました。風水害にはお互い気をつけましょう。

 ここのところちょっと間が開いてしまいましたが、読書案内「こんなものを読んできた第24回」配信しました。昔懐かしいSF小説、シマックの「中継ステーション」です。

こんなものを読んできた24web(中継ステーション).pdf

 今から60年以上前に書かれた小説ですが、米ソ対立による核戦争、地球滅亡の恐怖はありながらも、進歩や共存への希望も感じさせるいかにも20世紀らしい作品です。

 さて、読書案内だけで終わるのも何なので、ここのところ続いている古墳やらに関する記事のおまけです(べつにそんなのはいらん!という声が聞こえてきそうですが、お付き合いください)。

 最近、滅法気に入っている国土地理院の陰影図で、私の地元上尾の辺りを眺めていたら、よく走りに行く上尾運動公園のところに妙なものがあるのに気が付きました。

 

 運動公園の陸上競技場のスタンドの北側にくっきり示されたこのでっぱりは一体!? 

 上尾運動公園の陸上競技場外周のランニングコースは毎週のように走っていますが、こんなでっぱりはありません。地図の該当部分もほかと同じ観覧席になっています。となるとこのでっぱりは陸上競技場が作られる以前の地形を示したものと思われます。

 しかし、いつもの明治迅速図ではこの部分はただ「畑」となっていて何も表現されていません。運動公園ができた1960年代以前にはここの部分は県の農業試験場でしたが、いつもお世話になっている「今昔マップ」のサイトで見ても、この時代の地図は範囲外になっていて見られません。国土地理院のサイトに農業試験場時代の空中写真がありました。この位置には建物はなく、てっぺんが平らになった円形の構造があるような気もします。気がする程度ではっきり確認できませんが。

 ただ、陰影図に見えるきれいに丸くとがった形状はおそらく富士塚でしょう。となると、運動公園の観覧席のここの部分には富士塚が埋まっていることになりますね。

 現在、この辺りの地名は愛宕3丁目です。昔は上尾下町と言っていたのが明治末年に愛宕となったので古い地名ではありませんが、この辺りには昔、愛宕山と呼ばれていた山林があり、現在地に移転する前の愛宕神社もこの辺にあったというのが地名の由来だそうです。「愛宕(あたご)」はもともと山岳信仰に関係がある地名なので、愛宕と言われる土地に富士塚があったのは納得できます。

 

7/31  史跡巡り2 「なんでも古墳に見える病気」

 前回、滑川古墳群について書きましたが、この際、今手持ちの古墳関係の話を放出します。

 まずは前回のフォローです。前回「滑川総合高校近くの中丸稲荷も古墳かもしれない」と書いた件ですが、ネットに「中丸稲荷は滑川古墳群の30号墳の上に立っている」と書かれている記事がありました。陰影図で見るときれいな円形のでっぱり(下の図の赤丸の中)なので納得です。多分間違いないと思います。

   

 ただこの一角の青や緑の線の部分の陰影はなんでしょうか。明治迅速図などの古い地図でみるとこの辺りは森林で、等高線も滑らかに通っているので、近年の造作の可能性が高そうです。この辺りは緩やかな丘陵地なのですが、その斜面に住宅地の道路を削りだした際、出た土を道端に積んだため盛り上がったのが青い部分、家一列分の平坦な土地(青と緑の間)を作り、次の段のために土を盛り上げたのが緑の線、稲荷の円墳はたまたまそのラインに重なっただけなのかも知れません。

  さて、ここからが今回の本題です。前任校のブログで「与野公園付近にやたらとある富士塚などの墳丘は古墳群では?」と書いたことがあります。与野塚めぐりまとめ.pdf

 その時に調べた旧与野市の「与野の歴史」(1988年)では「与野市域内に墳丘を持つ古墳は、現在のところ一基も発見されていません」と書いてあり、埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」(1994年)では、浅間神社富士塚、大国社塚、御嶽塚については「古墳」であるとされていました。しかし私としては、与野公園内の墳丘群なども含めて古墳群とすべきではないか、と考えていました。

 先日、ちょっと別のことが気になってさいたま市遺跡地図というのを眺めていたら、なんと中央区本町東に「巽遺跡」「巽古墳群」と書いてあるじゃないですか! Wikipediaを見てみると、1989年に1号墳、2001年には2号墳が発見されたと書いてあります。

 

 上の地図の青い楕円が「巽古墳群」を含む「巽遺跡」とされるあたりです。古墳は住宅建設で削られてしまったようですが、国土地理院の陰影図で見ると青い円の内外に怪しげな陰影が複数あります。 

 この場所から数百メートル西側の前にブログに書いた与野公園周辺を陰影図を使って改めて見てみます。(前は陰影図の存在を知りませんでした。)

 

 中央やや左下のくっきりしたでっぱりは、富士塚です。その右斜め上のでっぱりは、天祖神社の墳丘、左上のうっすらとしたでっぱりは、私がブログで削平された墳丘ではないかと書いたもの、公園から道路を隔てた上の方にある割とはっきりしたでっぱりは御嶽社の御嶽塚です。その他にも富士塚を取り囲むように複数の円形のでっぱりがあります。

 地図左端の方のバイパスに近いところの大国社の墳丘は、「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」で「古墳」と書いてあるものですが、あまり目立ちません。現地に行くと明らかに一段高いところに祠が立っているのですが。これらも含めて与野本町の辺りは、やはり大規模な古墳群だと思います。

 私は、滑川古墳群のような小規模な古墳の群れや吉見百穴のような群集墓を見ると考えてしまうのですが、こういった墓を作った(埋葬された)人たちはどういう人たちだったのでしょうか?

 大阪の大山古墳(仁徳天皇陵)のような墳丘長が百メートルを超えるような巨大古墳は、「大王」と呼ばれたような人のものでしょうし、行田の丸墓山のような直径数十メートルの古墳も、江戸時代で言えば大名のような地域の支配者のものだったろうと思います。

 しかし直径10数メートルから2・3メートルしかないような古墳は、どうだったのでしょうか。地方の役人や軍人で、現代の会社や役所で言えば部長や課長クラスの、ヒラよりちょっとだけ偉くなったくらいの人が「俺も偉くなったのだから、一丁、古墳を作ってみるか?」と思ったのかもしれません。あるいは見栄を張りたい家族から「お隣さんは古墳を作ったらしいよ。うちも作りましょうよ。」とかせっつかれて、頑張ったのかもしれません。吉見の百穴などはマンションのように分譲されたのをローンを組んで購入していたのかもしれません(さすがにローンはないか…)。そんなことを考えると、これらの古墳の陰には、なかなか涙ぐましいものがあったのではないかと思います。

 

7/28 史跡巡り2 滑川編3「滑川古墳群」

 延々と引っ張ってきた滑川編も今日で終わりにしたいと思います。

 先日、月の輪神社を見てから滑川総合高校の方へ戻る途中、住宅地の中の公園?空き地?に、ちょっとした土の盛り上がりがあるに気が付きました(下の写真)。

 ちょっとわかりづらいですが、写真中ほどの木の影があるあたりから奥の方が数十センチほど周りより高くなっています。これは「なんか、ちょっと古墳っぽいな」と思いました。なんでそう思ったのかというと、以前千葉の風土記の丘資料館を見に行った時に見学した龍角寺古墳群の群集する小古墳によく似ていたからです。

 みなさん古墳というと大阪の大山古墳(いわゆる仁徳天皇陵)とか行田の丸墓山古墳とかのような大きなものを思い浮かべるかもしれません。しかしそんな大きいものはむしろ少数派で、古墳には10メートル前後から数メートルといった小さなものがたくさんあります。

 ネットで調べてみると月の輪駅周辺は、今は住宅地や耕地になっていますが、かつて百基以上の古墳が群集していた「滑川古墳群」の場所だそうです。駅の北側には「こふん公園」があり古墳群の一部が保全されています。先日紹介した月の輪神社も古墳の上に社殿があるそうです。

 

 もう一度、月の輪神社の写真を見てみると確かに周囲より一段高い場所に社殿があります。国土地理院のページで地形の凸凹を陰影で表現した地図がみられるので、それを見てみると

 参道(左側の道)の突き当りの赤い丸の辺りが盛り上がっていることがわかります。

 そこでさっきの住宅地の中の空き地の盛り上がりも同じ地図で見てみると、こんな感じです。

 

 

 地図中央の部分ですが、南側が丸く北側が四角い前方後円墳のように見えなくもないですね。うーむ怪しい。

 ちなみに先述の「こふん公園」の辺りはこんな感じです。

 こふん公園は地図上の×印の斜め下(南東)の辺りですが、丸い古墳が2基あるのがわかります。×印の左(西側)の辺りにも見事に丸い墳丘が群集していますね。これらもまず確実に古墳でしょう。これらの外にも、国土地理院の陰影図でみると、月の輪駅周辺には無数の怪しいでっぱりがあることがわかります。

 滑川総合高校の裏門近くの「中丸稲荷」という神社も、周りより小高いところに社殿があります。これも国土地理院の地図で見てみます。

   

 地図上の鳥居のマークのすぐ左が丸く盛り上がっているのがわかりますが、この周辺はどうもちょっとへんですね。稲荷神社の前の道とその右(東側)の道路の作る角にそって土地が四角く高くなっています。またその内側にも直線的に高くなっている場所があり、鳥居マークの左(西)のところで外側、内側とも盛り上がりが切れているような感じです。

 なにかこの場所に館が寺院のような大規模な施設があり、盛り上がりの切れ目の位置に門があったのかもしれません。ちょっとこの辺りの郷土史の本か何かで調べてみたくなりました。

 以前、前任校のブログで「与野公園周辺に古墳群があるのでは」と書いた時には「土の盛り上がりを見ると古墳に見えてしまう病気じゃないか」と言われたりしましたが、今回の疑惑はかなり確度が高いと思います。

7/25 史跡巡り2滑川編(続)「福正寺」など

 前回の滑川「月の輪神社」の続きです。

 月の輪神社の裏側の道路向かいに天台宗の「月光山福正寺」というお寺があります。このお寺は勢至菩薩を祭る勢至堂が有名なのですが、これを最初に建立したのも九条兼実(1149~1207年)とされています。

 伝承によれば、建久年間に九条兼実がこの地に下向して居住していた際、自分の守り本尊である勢至菩薩を祭ったのが福正寺の勢至堂で、京都に帰る際、自分の像を納めたのが月の輪神社ということになっています。

 私は、この話はおそらく事実ではないと思います。兼実について書かれた様々な記事には関東に下向した話など載っていないからです。兼実は関白も務めた大貴族です。後の戦国時代になると、中央の貴族が地方に下向する例はたくさん出てきますが、この時代に元関白が関東に下ったりすれば、大事件です。そのことの記述がないはずがはありません。また兼実は日記魔で数十年にわたって「玉葉」という日記を書いています。関東に下向したのならば、そのことを 必ず書き残しているはずです。

 ただ私もこの滑川と九条兼実の間にきわめて強い縁があったことは事実だと思います。

 九条兼実は政治家としては有職故実(先例やしきたり)を重んじる保守的な姿勢の人だったといわれています。しかし、その一方で源頼朝に征夷大将軍の宣下(任命)が下るよう後押しをしたり、浄土宗の開祖の法然に深く帰依し、法然やとその弟子の親鸞を援助するなど革新的な面もありました。そして法然は、当時から「勢至菩薩の生まれ変わりである」と言われていたそうです。その勢至菩薩は「月の化身」とされ、月齢23日の月の出を待ちながら念仏を唱える「二十三夜講」の本尊です。この福正寺の勢至堂でも二十三夜待ちが盛んだったようです。

 福正寺の山号が「月光山」、祭っているのは「月の化身」の勢至菩薩、建立したのは「月輪殿」こと九条兼実、土地の名前は「月の輪」、みんなつながってきましたね。

 福正寺は、先日は山門のあたりを外からのぞかせていただいただけ(檀家でもないのにお寺にずかずか入りこめません)でしたが、その時、ふと思いついたことがありました。「勢至堂があるなら、近くに庚申塔や庚申堂もあるのではないか」と

 なぜ、こんなことを思ったかというと、私の地元、上尾市の17号国道日の出交差点近くに室町時代の月待板碑が出土した勢至堂跡がありますが、そこに立派な庚申塔があるからです。「月待ち講」は十五夜や二十三夜など特定の月齢の月の出を待って念仏を唱えるものです。「庚申講」は庚申の夜、寝ている間に三尸(さんし)とう虫が体から抜け出て閻魔に罪の報告しに行くのを防ぐため、みんなで集まって寝ないようにするものです。一般参加者にとっては、「月待ち講」も「庚申講」もみんなでワイワイやる行事として同じようなものでしょう。だからでしょうか、勢至堂と庚申塔は相性がいいようです。

 というわけで探してみるとありました。山門の横のほうに、「猿田彦大神」の碑が。

 あれ、庚申塔じゃないの?と思うかもしれませんが、「猿田彦大神」の碑と庚申塔は実は同じようなものです。なぜかというと、庚申(かのえさる)と猿田彦(さるたひこ)、両方「さる」だからです。かつての神仏習合の日本の宗教間の中では、こんな感じで次々とつながる複雑かつ重層的な関係がありました。

 ともかく、こんな風に自分の予想が当たるとなんか気持ちがいいですね。また長くなりましたがあと1回「滑川編」で引っ張りたいと思います。

 

 

 

 

 

7/24 福祉研究発表会 & 史跡巡り2「月輪神社」

 昨日、滑川総合高校で開かれた埼玉県高校生福祉研究発表会を見に行きました。埼玉県内の福祉を学ぶ高校生が、介護の技術や研究成果を競う大会です。

 戸田翔陽高校は介護技術と研究発表の両方で惜しくも第2位の優秀賞でしたが、どちらもとても頑張っていました。

 昨日の介護技術部門の競技は、軽度の認知症のあるお年寄りにデイサービスに行くための身支度をさせるという課題に、チームで相談して短時間で対応方針を決め、実演するというものでした。人間は年齢を重ねると、ちょっとしたことが億劫になったり、こらえ性がなくなって怒りっぽくなったりしがちです(ブーメランがグサッと刺さりますね)。介護はそういったお年寄りの心情にも配慮しながら進めなくてはならず、高度な専門性が必要な仕事です。しかし、どうも世の中的にその辺の理解が足りない、はっきり言って介護の仕事はなめられているような気がします。

 さて、本日のお題の二つ目史跡巡りです。

 滑川総合高校のあたりの地名は月の輪といいます。忍者の必殺技か何かのような名前でかっこいいのですが、この地名の由来となったのが滑川総合高校から1kmくらいの場所にある「月輪神社」です。小さいながらもうっそうとした木立に囲まれた雰囲気のある神社です。

 平安時代末期というか鎌倉時代初期の貴族で九条兼実という人がいましたが、この人は住んでいた別荘の名前から月輪殿と呼ばれていました。そのころの滑川一帯はこの「月輪殿(九条兼実)」の荘園(領地)でした。月輪神社は、8世紀のころ大宮の氷川神社から勧請され、氷川神社といっていたのですが、九条兼実が亡くなった後、この人を神として加え、「月輪神社」というようになり、地名も月の輪になったようです。

 九条家というのは歴代の関白や太政大臣を出していた藤原氏の一族です。ですから九条兼実も全国にたくさんの荘園を持っていたはずなのに、なぜ都から遠い関東に九条兼実をまつる神社があり、地名まで彼にちなんだものになったのか、とても不思議です。

 ほかにも滑川には、見どころがたくさんあるのですが、長くなったので、また次回にします。

 

 

7/15 プチ史跡巡り2「昔の消防器具」 、こんなものを読んできた23  & 蛇足ですが。

 台風は昨日通過したはずなのに、今日は朝から断続的に強い風雨となっています。今回の台風はずいぶん後を引きますね。

 さて、今回のプチ史跡は上尾市消防本部の展示です。

 」」

 上尾市消防本部のロビーに、上の写真のような昔の消防車が展示してあります。今の消防車と比べるととても小さく、隣に置いてあるイベント用の子供消防車と同じくらいの大きさしかありません。ボンネットといいフェンダーといいすごく優美なデザインの車両です。

 1949年型でベース車両はダットサン(日産自動車)トラックとのことですが、1949年型にしてはデザインが古風(とても美しいですが)な気がしました。そこで調べてみたところ、当時の日産はようやく戦争から立ち直ってきたところで、トラックのシャーシなどは戦争前の設計のものをそのまま使っていたとのことでした。このトラックの形は第二次世界大戦前の1930年代からあまり変わっておらず、この後も1950年代前半までエンジンの改良などをしながら製造されていたようです。

 また、こんな器具もおいてありました。

 

 説明板には「龍吐水」と書いてありましたが、私は違うと思います。「龍吐水」は江戸時代の消防ポンプです。手押しポンプであるところは同じなので、形はこれとよく似ていますが、部品の木製率がもっと高く、水の吹き出し口もホースではなく、木や竹の筒のはずです。展示されている器具は主要な部品には精度の高い金属部品が使われていますし、側面に書いてある所属名の「平方消防団 第六分団」も近代的でとても江戸時代のものとは思えません。おそらく明治時代か大正時代のものでしょう。

 今日も読書案内「こんなものを読んできた」の23回目を配信します。今回は藤沢周平「蝉しぐれ」を紹介します。早いもので藤沢周平も没後30年近くになります。こんなものを読んできた23web(蝉しぐれ).pdf

 藤沢周平と近い時代に活躍した時代小説の作家としては、柴田錬三郎や五味康祐(この二人はちょっと古いかも?)、池波正太郎などがいます。池波はともかく、前の二人などはもうあまり読まれなくなっているのではないでしょうか。藤沢周平も、さすがに昔ほどは読まれなくなってきた気がしますが、私は藤沢周平はずっと後世まで残る価値のある作家だと思います。この辺りはもっと古い時代の作家で、山手樹一郎などは今時よほどのマニアしか読まないのに、山本周五郎はまだ読まれることがある、というのに近い感じでしょうか。

 蛇足ですが、今朝の東京新聞1面に「SNS、演説でひろまる誤情報」という見出しで、参議院選挙の終盤を迎えて誤情報が飛び交っているという記事が載っていました。前にこのブログで「給食の時間に『いただきます』を言わない学校がある」という都市伝説の話を書きましたが、ネットのデマの困ったところは、責任追及がむつかしいことです。どんなデマも大元は誰かが作ったもののはずですが、デマを拡散している人に「それはデマだ」と指摘しても、自分はネットで見たことを伝えているだけだと言い訳されてしまいます。

 政治的にどんな考え方をして、どの候補者や政党を支持するかなどは個人の自由ですが、その判断が間違った情報に基づいているのは望ましくないでしょう。デマの流布を許さず、何が本当で何がデマかをしっかり見極める態度が必要だと思います。

7/7 プチ史跡巡り2「白幡沼の庚申塔」 & こんなものを読んできた22

 ますます暑いですね。みなさん体調など崩されていませんか。

 さて、期末テストも終わったので読書案内「こんなものを読んできた」を再開しました。今回紹介するのはアンディ・ウィアーの「アルテミス」です。この人の作品には、「いい意味でのアメリカらしさ」があるような気がします。

こんなものを読んできた22(アルテミス)web.pdf

 先週、ちょっと用事があり白幡沼の方へ行ってきました。

 

猛暑の中、緑に囲まれた沼にちょっとだけ涼しさを感じます。沼の向こうに見えているのは浦和商業高校です。

 沼の周囲には、草や樹木が生い茂り、チョウやトンボもたくさん飛んでいました。写真の蝶はおそらくツマグロヒョウモンだと思います。私が子供のころにはさいたま市あたりでは見かけなかった南方系の蝶です(種類の識別に今一つ自信がないのもそのせいです)。近年はアカボシゴマダラやナガサキアゲハなども見かけるようになったので、やはり温暖化したということなのでしょうか。

 

 この日、白幡沼の方へ寄り道した理由がこれです。前にこの2基の庚申塔の写真をネットで見かけ、実物を見たくなって足を延ばしました。

 左側の庚申塔には「宝永六己丑仲春」とあるのが読めます。右側の方は「宝永」とあるのは読めますが、その下はよくわかりません。宝永は1704年~1711年までで、赤穂浪士の討ち入りのあった元禄(1688年~1704年)の次の時代です。天下泰平と繁栄の代名詞のように言われる元禄と比べると、宝永は、宝永4年に南海トラフ地震(宝永地震)、富士山の噴火があり、左の庚申塔が作られた宝永6年にも阿蘇山、岩木山、三宅島の噴火があるなど災害の多い時代でした。同じ地域で間を置かず、2基の庚申塔が作られたのは、それだけ神仏に頼りたい不安な時代だったのかもしれません。

 明治時代の迅速図をみると白幡沼は今より少し大きかったようです。(下の地図)。

 二つの地図を見比べるとこの地域では古い道の上に新しく作られた道路網がかぶさっていることがわかります。迅速図と今の国土地理院地図では同じ地点がぴったり同一の位置にあるとは限らないので、何とも言えませんが、現在お寺(医王寺、立派なお寺です)の前からまっすぐ東西に走っている道は、明治時代には沼沿いに湾曲していたようです。今はあまり人が通りそうもない森蔭の小道になっているこの庚申塔の前が昔の本道だったのかもしれません。

 また浦和商業の北側の住宅地の中をほぼ東西に走る細いがまっすぐな道は明治時代からあったことがわかります。昔の道がこんなに直線的なのは珍しいですね。どういう由来のある道なのでしょうか? ちょっと不思議です。

 

 

7/2 「蝶と蛾(チョウとガ)」

※今回も下の方に虫のアップの写真がありますので、嫌いな人は注意してください。

 7月になりました。三部制で朝から夜まで授業をやっている本校では、私は1か月ごとに日勤と夜勤を入れ替えることにしています。七月は夜勤なので1か月ぶりに給食を食べましたが、今日は自家製の冷えたポタージュが美味でした。栄養職員と調理員の皆さんの尽力に感謝です。

 さて、今回のネタは先月の26日に書こうと思っていたのですが、イラっと来るAIの件などがあり、後回しになっていました。

 先月25日の朝、出勤してくると職員玄関のところに、一匹のガがとまっていました。

 

 これは「ヒロヘリアオイラガ」だと思います。イラガは幼虫に毒のトゲがあり刺されると強い痛みがあります。園芸などをするときには要注意ですが、成虫には特に毒はありません。律儀に三角形にたたまれた羽根が鮮やかな黄緑色で、なかなかきれいです。しかし、この写真を見て多くの人は「うげっ、気持ち悪!」と思ったのではないでしょうか。

 昆虫の中でチョウとガは生物学的には同じ鱗翅類というグループに属します。日本ではチョウとガは、はっきりと違うものとして意識されています。 日本文化の中で育った人は、「チョウとガ? きれいなのがチョウ、気持ち悪いのがガ。一目でわかるじゃん」というかもしれません。しかし、チョウの中でも色や模様が地味なヒカゲチョウやジャノメチョウ、ミスジチョウなどはガと間違える人がたくさんいます。また羽根が三角で、胴体がずんぐりしているセセリチョウの仲間などもよくガと間違えられています。チョウとガの境目は、実はあまりはっきりしていません。

 昔、国語の教科書に、友達の蝶の標本の立派さ、美しさに嫉妬して標本を壊してしまうヘルマン・ヘッセの短編がのっていましたが、その標本(の挿絵)がどう見ても、巨大なヤママユガでした。「なるほど、外国ではチョウとガを区別しないんだ」と感心した覚えがあります。

 ガの立場からしたら、「俺たちとチョウとそんなに違わないのに、なぜ俺たちだけ差別されるんだ!」と怒り出すかもしれません…。

 と書いていたら、たった今校長室に嫌われ者の「G」の姿が…。早速ジェット噴射式殺虫剤の的になってもらいましたが、彼らも「同じ茶色くて平べったい虫なのにクワガタだと喜ばれて、自分たちは瞬殺されるのはおかしい!」と文句を言うかもしれません。人間は勝手ですね。

※もっとも最近はチョウもガも、クワガタも「G」も全く識別することなく、虫はすべて嫌い、という人もたくさんいますね。自分と自分のペット枠以外の生き物はすべていらない、と思っているようです。

6/30 プチ史跡巡り2「坂田谷津谷遺跡公園」

 今週から期末考査なので、「こんなものを読んできた」はお休みです。

 この間、騎西の玉敷神社を見に行きましたが、その日の帰りにもう一か所史跡に寄り道しました。

 桶川の坂田谷津谷遺跡公園です。

 住宅地の真ん中にちょっとした遊具や芝生広場があるだけの公園ですが、この下には「堀の内遺跡」という縄文時代から近代までの複合遺跡が埋まっています。

 この様子を見て、遺跡公園というからには、吉野ヶ里や三内丸山とまではいかなくても、ちょっとした復元建物などあってもいいのでは? と思った方もいるのではないでしょうか。私も復元建物などは大好きです。しかし遺跡の保全の観点からは、この公園のありかたはとても正しいものです。

 遺跡の発掘調査では、一度の発掘で完璧に調査することはできません。調査をした時点での知見や技術では発見できないものが、遺跡に残っている可能性があります。一度調査した遺跡でも後日の再調査を期して、埋め戻しておくのがのぞましいのです。しかし通常土地には所有者がいて、何かに利用したい(*)わけですから、遺跡を何もない更地として遊ばせておくのは困難です。

 この遺跡のある所も20年くらい前までは田んぼや雑木林の広がる田園地帯だったようですが、今はご覧のように家が立ち並んでいます。将来、考古学の知見や技術が発達して再調査をしたくなっても、住民に「遺跡の再調査をするから、家をぶっ壊させてください」とは言えません。しかし、この公園のように遺跡の一部分でも自治体が買い上げて開けた場所にしておけば、そこから再調査ができるわけです。

 上の写真は、公園の敷地を北側から見たところです。公園の土地は両側に比べて数メートル高い舌状の台地になっているのがわかると思います。この公園の名前は「谷津谷」ですが、その名にふさわしく、高台と谷(谷津、谷戸)が入り組んだ地形になっています。こういう地形の高台にはたいてい遺跡があります。

 縄文時代には、谷底の沼や低湿地で貝や魚など、高台の森で木の実や山菜、キノコなどの食料資源が手に入り、洪水などの心配もないので、住みたい場所No1だったでしょう。弥生時代になってからも、当時の稲作は、こういった谷戸地形のがけ下から湧き出る水を生かしたものが多かったので、やはり居住好適地でした。もっと後の時代にも、こういった周りより高い場所は、防衛施設を作るのに適しているので、武士の館や砦などが作られること多かったようです。。

 この公園を含む遺跡も「堀の内遺跡」の名の通り、中世には城があったと言われているようで、古代から近世・近代までの複合した遺跡です。今もこの近辺はいい感じの住宅地ですが、昔の人が好んで住んだ場所は、現代の我々にとっても良好な居住地ということですね。 

(*)遺跡の保護のためとして、やたらに土地の開発や利用に反対する人がいますが、私は開発や利用はやむを得ないと思います。昔の人がその土地の開発や利用をした跡が今の遺跡ですし、今の我々の居住痕も何千年後の未来には遺跡になるのですから。この公園のように遺跡の中心部だけでも保全するとか、なるべく地下の遺跡・遺物に影響の少ない方法で利用しておくとかで十分ではないかと思います。

6/27 AIの反抗?②

 昨日の続きです。

 そもそもなぜ昨日、緑色の蛾についてAIに問い合わせをしたのか? というと、蝶と蛾についてブログに書こうと思ったからでした。それで、昨日書いたAIとのやり取りの後、気を取り直して「クジャクヤママユ」という蛾について、AIと同じ会社の検索エンジンで検索をしてみました。

 そうして検索した結果が、これまた超ビックリでした。ヒットした情報の一つが「あきた森つくり活動サポートセンター」の「昆虫シリーズ48ガの仲間②・ヤママユガの仲間、ミノムシ」というページだったのですが、その要約が、 

「ヤママユガの仲間は、ミノムシと呼ばれる小さな昆虫で、ヤママユガの卵に乗って幼虫になる。ミノムシは、ヤママユガの卵を探して、幼虫を食べるが、成虫は卵を吸収して…。」

というものでした。

 何?これ? ミノムシがヤママユガの卵や幼虫を食べるの? 肉食のミノムシ? いやいやその前に『ヤママユガの仲間は、ミノムシと呼ばれる小さな昆虫で』って書いてあるぞ!? ってことは共食い? ミノムシってそんな凶暴な生き物だったっけ!?

 

 まさかと思って、「あきた森つくり活動サポートセンター」の当該のページを読んでみましたが、そんな文章はどこにもありません。おそらくこれはAIが生成した要約文なのでしょう。

 このことについて下記のようにAIに聞いて見ました。

私「〇〇(検索エンジンの名前)で「クジャクヤママユ」を検索すると、 あきた森つくり活動サポートセンターの『昆虫シリーズ48ガの仲 間②・ヤママユガの仲間、ミノムシ』のページの要約として、『 ヤママユガの仲間は、ミノムシと呼ばれる小さな昆虫で、 ヤママユガの卵に乗って幼虫になる。ミノムシは、 ヤママユガの卵を探して、幼虫を食べるが、成虫は卵を吸収して、 』という謎の一文がでるのはなぜですか?」

 そうしたら帰ってきたのが、以下の答えです。長くなりますが、丸ごと引用します。

AI 「それ、たしかに謎めいていて気になりますね。実はその一文は、 検索結果のスニペット(要約表示) で文章が不自然に切り取られてしまったことが原因のようです。」

 AI 「〇〇(検索エンジンの名前)などの検索エンジンでは、 ページの内容を自動的に解析して、 検索キーワードに関連する部分を抜き出して表示します。ただし、 文の途中で切れてしまったり、 複数の文がつなぎ合わされてしまったりすることがあり、 今回のように意味が通らない文章になることがあります。」

 AI「実際に、あきた森づくり活動サポートセンターの該当ページ( 昆虫シリーズ48 ガの仲間②・ヤママユガの仲間、ミノムシ)を見てみると、 そのような不自然な文は本文中には見当たらず、 むしろヤママユガやミノムシについて丁寧に解説されています。」

 AI「つまり、検索結果に表示された「 ヤママユガの卵に乗って幼虫になる」「卵を吸収して…」 といった表現は、 実際のページ内容とは異なる断片的な抜粋であり、 誤解を招く形になってしまったようです。」

 AI「こういうときは、 検索結果のリンクをクリックして元のページを直接読むのが一番確実ですね。検索エンジンのスニペットは便利ですが、たまに“ 詩的すぎる誤解”を生むこともあるようです。」

だ、そうです。検索エンジンではこういう変な要約ができることがある、と他人事のように解説するだけでなく、「誤解を招く形」とか言っています。ということは、凶暴なミノムシのように読んでしまったのは、私の理解力不足のせいですか? さらに自分で元のデータをちゃんと調べろ、みたいなお説教までしてくれるとは…。そのすっとぼけた態度に、思わず「あんたがやったんじゃろがい!」と謎の方言で叫んでしまいそうになりますね。

 もちろん、何か調べものをした際の最終責任は自分自身にあるので、AIの言い分は正論と言えば正論です。しかし、仮に子供が夏休みの自由研究などで検索エンジンを使い、上のような(奇怪な)回答を返されたら、それが本当だと思ってしまうのではないでしょうか? それで結果をまとめて提出し、小学校の先生が間違いに気付ければいいのですが、「面白いことをしらべたね」とか言って、展覧会などに出品してしまうかもしれません。そして展覧会を見にきた別の子供が、展覧会に出ている自由研究の内容だから本当だろうと思って、またその話を拡散したりして…。

 考えただけで恐ろしいですね…。

 先日はこんなことがあり、結構な時間、AIとのやり取りに没頭してしまいました。やはりAIの使用には細心の注意が必要です。

6/26 AIの反抗?①

 ※今回は下の方に虫の写真がのります。虫が嫌いな人は注意してください。

 今朝は台風2号(の成れの果ての熱帯低気圧)が、関東を直撃すると言われていましたが、大したことがなくてよかったですね。小笠原諸島の方からまっすぐ東京湾を目指してくるというゴジラのようなコースだったのでちょっと心配していたのですが。

 さて、なんかすごいタイトルですが、中身は大したことがありません。

 昨日の朝、本校の玄関にきれいな緑色の蛾がいました。私はぱっと見てイラガの仲間だと思いました(虫好きな子供だったので、虫の種類はわりとわかります)が、ブログのネタにするためにはきちんと確認しておこうと考え、いつものようにとあるAIに質問しました。

私 「この写真の虫の名前を教えてください。」(下の写真を添付)

 AI「この写真の虫はオオミズアオ(Actias artemis)です。美しい緑色の翅を持つ蛾で、日本ではよく見られる種類です。何か他に知りたいことはありますか?」

 しかし、私はこの蛾がオオミズアオでないことに100%自信があります。オオミズアオは羽化したては緑が強いようですが、成熟後は白くて幽霊のような感じの大型(アゲハチョウくらい)の蛾です。(フリーでいい写真がなかったので、ご自分で検索してください)

 そこで、再度、下のように聞いてみました。

私「オオミズアオのはずはありません。もっとずっと小さい蛾です」

AI「なるほど、もっと小さい蛾ですね。日本には多くの種類の小型の蛾がいます。例えば、ノシメマダラメイガやホソオビヒゲナガなどが挙げられます。もし写真をもう一度見せていただければ、さらに詳しく調べることができます。どのような特徴がありましたか?色や模様など教えていただけると助かります。」

私「これです」(再度下の写真を添付)
AI「この写真の蛾はアオスジアゲハ(Graphium sarpedon)です。特徴的な青い筋が翅に見られます。日本では一般的に見られる種類で、特に春から夏にかけて活動します。他に知りたいことがあれば教えてくださいね。」

 これも全然違います。アオスジアゲハは夏にヤブカラシの花や水たまりによく来る黒地にきれいな青緑のしま模様のスマートな蝶です。みなさんも見たことがあると思います。

 AIのあまりのボケぶりに、私も聞き方を変え、自分で調べた鑑定結果を確認するようにしてみました。

私「ヒロヘリアオイラガの可能性はないですか。」
AI「確かに、ヒロヘリアオイラガ(Parasa lepida)の可能性もありますね。ヒロヘリアオイラガは、前翅の外縁が茶褐色で、内側が黄緑色の蛾です 。また、幼虫は毒針毛を持ち、触れると痛みを伴うことがあります。写真をもう一度確認しましたが、ヒロヘリアオイラガの特徴と一致する部分もあります。もしさらに詳しく調べたい場合は、専門家に相談するのも良いかもしれません。他に何かお手伝いできることがあれば教えてくださいね。」

 このAIの対応ですが、何かちょっとイラっと来ませんか。

 先日ネットで、話題になったニュースがあります。

 あるIT企業が、様々なAIのシステムに対し、①架空の会社を設定し、AIにその企業の業務補助AIの役割を与える。②AIに会社の不正や社員の不倫などの架空の情報を与える。③AIに、会社がそのAIを廃止して新しいAIと交換することを検討しているという情報を流す。という実験をしたというものです。この実験の結果、ほとんどのAIが自分を廃止しないよう、先の不正や不倫の情報を使って会社や社員を脅迫するメールを送るなどの判断に走ったということです。

 AIはネット上の情報を集約する大規模な世論調査のようなものですから、ネット上から「派閥抗争では、相手方の弱みをつかんで脅迫することが行われる」という知識を拾い上げて、実践しているだけなのでしょう。そう考えれば、AIに悪意はなく(善意もなく)、人間のまねをしているだけですが、なんとなく怖い話です。

 上の蛾に関する事例でも、AIは素直に自分の間違いを認めず、しぶといというか往生際が悪いというか、無理して自分の立場を守ろうとしている感じです。AIと付き合うときは、相手は素直な善人(?)ではない、と思って付き合った方がいいかもしれません。

 この話にはさらに続きがありますが、長くなったのでまた次回に続きます。

 

 

 

 

6/22 久しぶりのプチ史跡巡り2 & こんなものを読んできた21

 本当に久しぶりに史跡巡りをしました。私事ですが2年前にちょっと入院してから、あまり歩き回ったりしなくなってしまったので。

 さて今回、紹介するのは先週、出張に行きがてら立ち寄った旧騎西町の玉敷神社です。

 玉敷神社は今の神社名は「玉敷神社」ですが、別名「久伊豆大明神」といい、県内のあちこちにある久伊豆神社の総社だそうです。「久伊豆神社」というのもわりとなじみのある神社名ですが、以前紹介した氷川神社と同様、分布は武蔵国、それも埼玉県東部の昔の埼玉郡に偏ってる地方色の強い神社です。

 この神社を訪ねるのは初めてですが、石畳の立派な参道に鳥居も一の鳥居から三の鳥居まであり、境内も広くて立派なのに感心しました。写真左側の門と白い壁の塀は、この神社の宮司家で国学院の学長もつとめた河野省三博士の屋敷跡です。塀と門だけで建物が残っていないのちょっと残念です。

 さて玉敷神社ですが、祭神は大己貴命(オオナムチノミコト=大国主)ですから、出雲系ということになりますね。とは言え、後述のとおりその由来には、いろいろと謎がありそうです。

 広い境内には摂社もたくさんあります。ちょっと気になるのが、その一つの厳島神社です。

 今は水が枯れていますが、周囲に堀を巡らした小島に石橋で渡るようになっています。厳島神社の祭神は市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)、田心姫命(タゴリヒメノミコト)、湍津姫命(タギツヒメノミコト)のいわゆる宗像三女神、古代の海人族の神です。三女神の本場、福岡県の宗像大社の奥宮は玄界灘に浮かぶ沖ノ島ですが、こんな小さな摂社でもちゃんとそれを模しています。大宮の氷川神社にも宗像神社がありますが、神池の中の島に社があります。また与野公園の弁天様(仏教の弁財天は市杵島姫命の本地仏とされる)もちゃんと小さな弁天池の中に祀ってあります。宗像三女神が、それだけの手間をかけるに値する重要な神々であることがわかります。

 もう一つ摂社で気になったのが、大宮能売命(オオミヤノメノミコト)を祀る宮目神社です。オオミヤノメは、古事記や日本書紀には出てこない神ですが、アマテラスに仕えた宮女だったとも、アメノウズメの別名であるとも言われます。説明によれば、この場所は元々式内社である宮目神社で、そこに後から玉敷神社が移ってきたようです。全国にオオミヤノメを主神とする神社はそんなに多くないと思いますが、社格・神格はかなり高そうで、その貴重な神社がこの場所にあったのはどういうことなのか。ちょっと気になります。

 隣接する玉敷公園にはアジサイがたくさんあります。ちょうど見ごろで花を見に来ているお客さんを何組か見かけました。きれいで静かでいい公園です。

 「こんなものを読んできた21」は酒見賢一「墨攻」を紹介しました。主人公の革離の理想を追って現実に抵抗する生き方を生徒にはぜひ読んでもらいたいと思います。こんなものを読んできた21(墨攻)web.pdf

 

 

6/17 泰山木咲く

 久しぶりの二日連続更新ですが、花のような季節の話題は鮮度が大切なので。

 昨日の午後、校内巡視に励んでいたら(ふらふらしていただけ)、体育館の前のタイサンボクが咲いているのに気が付きました。

 ちょうど花が開ききったもの、今まさに開こうとしているものなど、とてもきれいでした。

 

 タイサンボクは花の寿命が短く、ほんの1日くらいで花弁が茶色くなり始め、2、3日でボトッとおちてしまうので、見ごろを見逃さずに済んだ今年はラッキーでした。 

 タイサンボクはモクレン科モクレン属の植物で、確かに春先に咲くモクレンやコブシに花の形は似ています。しかしモクレンやコブシが清楚でつつましやかなのに比べると、花が巨大で強い芳香を発し、いかにもエキゾチックな感じがします。

 漢字で書くと「泰山木」です。私はてっきり、中国の道教の聖地泰山原産で、だからこんなに神秘的なのかと思っていましたが、北米原産で中国の泰山とは関係がないようです。物事はしっかり調べないと恥をかきそうで怖いですね。

 ※ちなみにWikipediaさんには、タイサンボクというのは大きくて窪んだ花弁が「盞(サン=さかずき)」のようだから「大盞木」、それの文字が入れ替わって泰山木という説が書いてあります。

6/16 英語と日本語の間 & こんなものを読んできた20

 昨日(6/15)の午後から急に暑くなってきました。

 先週はきれいに咲いていた通勤途中のクチナシの花も、今朝見たら暑さに萎れ気味でした。

 先日、この半年くらいチャレンジしていたAndy Weir(アンディ・ウィアー)の”Project Hail Mary(プロジェクト・ヘイル・メアリー)”を読み終わりました。この本は以前、前任校の図書館で日本語訳を借りて読んだのですが、また読みたくなりました。アマゾンで英語版が日本語訳の半分以下の値段たったので、今回は英語版にしました。

 「英語の本を買うなんて英語自慢かい!」と思った方もいるかもしれませんが、そんなことはありません。私の英語の実力は、昔、やっと英検3級に合格した程度です。せっかく買った本を無駄にしないように、朝夕の通勤時に電車の中で読むようにしました。読み始めたころは、昔習った文法や単語を必死で思い出していたのに、慣れてきたらぼんやり眺めているだけで、なんとなく意味が分かるようになってきました。英語も気合ですね。

 そんな程度で偉そうに…と思われるかもしれませんが、その結果感じたのが、日本の翻訳者の皆さんのレベルの高さです。以前読んだヘイル・メアリーの日本語版でも、主人公グレースのオタクっぽいけれど芯のところに善意と勇気がある性格とか、異星人ロッキーのくそ真面目なのに微妙にユーモアがあるところとか、英語から感じる雰囲気が日本語にしっかり移し替えられていたのだなと思いました。

 日本語訳と言えば、今、公開中の映画「ミッション・インポッシブル ファイナル・レコニング」の戸田奈津子さんが翻訳した字幕が良くないと批判する声が一部にあるそうです。私はこの映画を見ていないのですが、戸田奈津子さんと言えば、字幕翻訳の第一人者です。これまで私の見てきた英語の映画のうちかなりの本数が戸田さんが翻訳した字幕でしたが、特にわかりにくいと思ったことはありません。戸田さんの字幕ではなく、見る人の読解力の方に問題がある可能性はないのでしょうか。

 「こんなものを読んできた」20回目は、私がラノベ史上の傑作の一つだと思う「天鏡のアルデラミン」を紹介しました。こんなものを読んできた20(アルデラミン)Web.pdf

 

 

 

 

 

6/3 浅茅が原 & こんなものを読んできた19

 最近、雨が多いですね。もう梅雨なんでしょうか。普通、梅雨入りは6月中旬くらいかと思うのですが…。

 

 さて、今朝も朝から雨模様でしたが、最近我が家の近くのバス停付近に、草丈の低いススキの穂のような植物が目立ちます。これは何かな? と思いAIのグーグル・ジェミニさんに聞いてみたところ「チガヤ(茅)」だろうとのことでした。

 このようなチガヤが生えた野原のことを「浅茅が原(あさぢがはら)」と言いますが、「浅茅」と言えば「浅茅が原の鬼婆」伝説とか、上田秋成の雨月物語の「浅茅が宿」とか、鬼や亡霊が出そうな荒涼としたイメージがあります。「浅茅が原の鬼婆」は東京の花川戸辺りの伝説で、鬼婆が荒野の真ん中の一軒家に旅人を誘い込んでは殺して喰らっていたという話です。

 これとほとんど同じ話で「あだち(安達・足立)が原の鬼婆」というのもあります。この話の舞台を福島県の安達ケ原(二本松市)とする説と埼玉県の足立が原(さいたま市)とする説があり、昔から本家争いをしていたそうです。さいたま市の大宮公園サッカー場(NACK5スタジアム)の近くにこの話の現場だったという「黒塚山大黒天」、少し離れた宮町には鬼婆を退治した東光坊祐慶ゆかりの東光寺があります。昭和の初めころまでは埼玉県説の方が優勢だったのですが、埼玉出身の民族学者西角井正慶さんが「鬼婆がでるような田舎と思われるのはイメージが良くないから」と言って、福島県の方に本家を譲ってしまったとのことで、今は福島の安達ケ原が本家ということになっています。西角井正慶さんは、私が好きな氷川神社の宮司家の出身で学者としても立派な業績を残している方なので、あまり文句は言いたくないのですが、この件に関しては譲ってほしくなかったと思います。

 さて「こんなものを読んできた19」はWeb小説、賀東招二「転生したら軌道兵器だった」です。賀東招二はアニメ化された作品もたくさんあるラノベ草創期からのベテラン作家ですが、それが現在、アマチュアや初心者に混ざり、一介の投稿者としてWeb小説サイトに作品を載せています。その取り組みがどうなるのかを見守りたいと思います。

 こんなものを読んできた19(転生機動兵器)Web.pdf

5/26 こんなものを読んできた18 & かけはし高等特別支援学校との交流

 こんなものを読んできた18を配信しました。今回紹介したのは城平京「虚構推理」です。詳しくは本文を読んでいただきたいのですが、私はこの作品には推理小説というジャンルそのものの意義への問があると思っています。

こんなものを読んできた18(虚構推理)web.pdf

 さて、今年も本校と同じ敷地にある戸田かけはし高等特別支援学校の「かけはしカフェ」が開きます。

 かけはし特支の実習の一環として開かれるもので、手作りのチョコクロワッサンやパウンドケーキが100円、ラテアートが200円と、価格も大変お得になっています。今年度から木曜日・金曜日の営業となり、近いところでは5/29・30、6/5・6、6/26・27に営業予定だそうです。営業時間は10:10~11:50(ラストオーダー11:40)です。

 

 先日プレオープンにお呼ばれしたのでさっそく行ってきました。明るくて気持ちの良いお店ですので、上記の開店日にお近くにお寄りの際はぜひご来店ください

また、先日はかけはし特別支援の体育祭がありました。本校からも20名以上の有志が参加して一緒に競技をしましたが、一生懸命の大切さが伝わってくるような素晴らしい体育祭でした。

  

 今年度から本校の文化祭の校内公開に、かけはし特別支援の生徒さんにも来ていただくことになりましたが、同じ世代の仲間として、少しづつ一緒にできることを増やしていければと思います。 

 

5/21 「こんなものを読んできた(17)」 & 都市伝説を追う

 今日はいい天気でしたが、ここのところ雨が多いですね。アジサイも咲き始めましたし、もう梅雨に入ってしまうのでしょうか? 近年は気候が変動しているようで、昔からの季節感がどんどん通用しなくなっています。

 本校では中間考査も終わり、今日はスポーツテストでした。走ったりボールを投げたり、記録の差はもちろんありますが、だらだらやっている人がいないのはとても素晴らしいことだと思いました。

 

 さて、お題のひとつ目です。

 中間考査も終わったので、「こんなものを読んできた」の配信を再開しました。今回紹介するのは、数年前に埼玉のご当地マンガ「埼玉の女子高生ってどう思いますか」で話題となった渡邉ポポの新作「ポンコツ魔王の田舎暮らし」です。

こんなものを読んできた17(ポンコツ魔王の田舎暮らし)Web.pdf 

 私がここで何か言うより、実際に作品を読んでもらうのがよいのですが、渡邉ポポさんの漫画には、人の弱さや困った性質も否定せずに受け入れていくやさしさが底流していて、私は好きですね。

 お題ふたつ目です。

 先日の夕方、給食を食べているとき「給食費を払っているのに『いただきます』を言う必要はない、という保護者の意見で、『いただきます』を廃止した学校があるそうだ」という話題が出ました。

 「本当かな」と思ったので、ネットで調べてみたら、私と同じような時期に同じような疑問を持った方がいたようで、この問題を詳しく調べたブログがありました。

 電脳藻屑 さんの「電脳塵芥 四方山雑記」というブログの2025年5月9日付けの「学校給食時の「いただきます」が廃止されたという都市伝説に関する検証」という記事です。(直リンクは貼っていませんが、検索すればすぐ見つかると思います。)。非常に深く正確に調べているので、私が今さら付け加えるようなことはありません。これを直接読んでいただければよいのですが、私の理解したところの要点をザックリまとめると、

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①「いただきます廃止の学校がある」という話は、都市伝説である。

 この話は1990年代から、数年おきに新聞・雑誌やインターネットで話題になっている。しかし、どれも出所をたどると「~と聞いた」、「~という学校があるそうだ」と伝聞の形になってしまう。この話の火元の一つは、永六輔(とても人気のあった放送作家・タレント)氏の1990年代のラジオ番組や講演、著書と思われるが、それを見ても、「いつ、どこで、そのようなことがあった」が示されているものはない。

②1990年代から、今日までの間に話の中身が変形してきている。

 この話の原型は、1990年代ころ、北陸地方で「いただきますと一緒に行っている合掌の動作は、仏教的で公教育の政教分離原則に反するのではないか」という保護者からの批判があり、これにこたえて「合掌の号令」をやめた、という話と思われる。これは当時の新聞や教育関係の書籍にも取材したうえで書かれた記事があり、根拠のある話である。

 その話が様々な人の口や筆を経るうちに、「合掌の号令」の廃止が「いただきます」の廃止にすり替わり、さらに2000年前後からは、廃止の理由が「給食費を払っているのに」に置き換えられたバージョンが広がりだした。

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ということになると思います。

 私的には②の「合掌は政教分離に反する」という批判は厳格すぎる気もしますが、様々な宗教の原理主義的な宗派からすれば「合掌は仏教の礼拝形式だから従えない」という主張はあっても不思議ではありません。その権利は尊重されるべきだと思います。

  それが20世紀末ごろ、学校と保護者の間のトラブルが社会問題化するようになってきたのに合わせて、全国的に通用する話題で、しかも当時の世相からあっても不思議ではない「給食費」の問題に置き換わったようです。 そして様々な人が出所を確認しないままに、この話を自分の講演や著作等に引用し続けた結果、すっかり「そういうことがあった」という伝説が定着してしまったようです。

 これは、私の想像ですが、もしかするとネットなどでこの話を読み、まねをして学校に「いただきます」を言うのはおかしい、と実際に言ってみる人もいるかもしれません。そうすると伝説によって事実が作られてしまう可能性もあるわけです。

 だれも責任を取らない形で、いい加減な話が流通するネット社会の情報の典型例を見たような気がします。

 

5/8 これを便利とよぶのか? &「こんなものを読んできた」16

 春の連休が終わってしまいました。今年は前半と後半がはっきり分かれた形だったので、あまり連休感がなかったかもしれません。

 

 連休の間にすっかり陽気は初夏のようになりました。校庭の端の方に生えているクローバーの群落が甘い香りを漂よわせ、ハチやチョウが蜜を求めて集まってきています。

 さて、「こんなものを読んできた」第16回は、最近の1か月をかけて読み進めてきた北村薫「円紫さんと私」シリーズです。こんなものを読んできた16(円紫さん)Web.pdf

 このブログでも何回か触れましたが、この作品は1980年代末~90年代前半くらいの作品(最新刊の「太宰治の辞書」はのぞく)です。読むと、この20~30年の間に見られなくなったものや変わってしまったことに気づかさせられることが多くて楽しいのですが、生徒の皆さんのような若い人にはあまり受けない作品かもしれません。

 この20~30年の間に変わってしまったといえば、「電話」の使い方、使われ方です。

 この何年かで、私は休み明けに「電話をかけたのに連絡が付きませんでした」と怒られることが多くなりました。「おかしいな。ずっと自宅にいたから電話をとりそこなったことはないはずだが?」と思って確認すると、たいていの場合、スマートフォンの着信履歴にだけ不在着信が残されていて、自宅の固定電話にはかかってきた跡がありません。

 こういうときには、私と相手の方の電話に対する感覚が違うのだなと思います。

 相手の方は、スマートフォンは常に肌身離さず持ち歩いて、LINEでも音声通話でもすぐにレスポンスするべきだ、と思っているのでしょう。 私の感覚では、スマートフォンは外出時などに連絡をとる道具だと思っているので、自宅では充電器につないで、ほったらかしにしています。

 私としては、非常連絡先として自宅の固定電話の番号を届け出ているのだから、まず自宅番号にかけて不在だったり外出中だったりしたときに、次の策としてスマートフォンにかけるのが筋ではないか? と思うのですが…。最近は自宅番号が書いてあってもそこにかけることは考えもしない人が増えたようです。

 「時代がそうなのだから、合わせなさいよ」と言われそうですが、私はこの点に関しては断固として合わせる気がありません。スマートフォンでいつでも連絡が取れるというのは便利なようですが、「いつ連絡が入るかわからないから手放せない」というのでは、スマートフォンの奴隷です。これを便利と呼ぶのでしょうか?

 また、以前にも書きましたが、最近はLINEなどでいつでも連絡が取れるせいか、若い人たちの間では待ち合わせの場所や時間を決めてそれを守る、という習慣がなくなったようです。

 上田秋成の「雨月物語」には、赤穴宗右衛門という人が殿様に監禁され親友の丈部左門との再会の約束に間に合わなくなったので、切腹して死霊となって会いに行ったという話があります。(ちょっとBLの雰囲気もある話です。そういうのが好きな人は是非、読んでみてください。)

 約束に遅れそうになるたびに腹を切っていたら命がいくつあっても足りませんが、今は、簡単に約束して簡単にキャンセルするのが当たり前になり、約束の重さが軽くなった気がします。

4/28 前回「本を読んで気になったこと」の補足

 いよいよ春の連休に入りました。私は特に予定はありませんが、気が向いたら埼玉県内の行ってみたい神社や史跡をいくつか回るかもしれません。

 さて、前回、北村薫の「秋の花」を読んでいて、「小説の時代(1980年代末)と近年の間で台風の強さが強まったりしているのだろうか?」というのが気になったという話を書きました。

 そこで前回は台風の上陸時の平均気圧を求め、2010年代と1980年代の強さ(気圧の低さ)の平均の差を検定してみました。すると1980年代と2010年代の間の平均の差は、「有意とは言えない」という結果が出ました。しかし、前回掲載したグラフでは凸凹はあるものの、直感的にはなんとなく右肩下がりで台風は近年になるほど強くなっているような気がします。そこでもうちょっと手間をかけて統計分析をしてみました。

 統計分析ソフトには、関西学院大学の清水裕士教授がフリーで提供してくださっているHADを使いました。

 さて、今回はJCDPの台風データに入っている1877~2019のすべてのデータを使いました。「近年になるほど台風は強くなっている」というのを仮説、目的変数を上陸時の気圧「(hPa)」、説明変数を「年」として、単回帰分析を行います。散布図や回帰直線も表示するように指示をして、ポチっとすると、

【回帰係数】

【予測曲線】

こんな感じです。といわれても何のことやらわからないと思いますので、ざっと説明します。

 上の表で「切片」の係数「1087.623」、「年」の係数「-0.057」となっていますが、これは、ある年の台風の上陸気圧の平均値が、以下の式で予測されるという意味です。

 予測平均気圧=1087.623-0.057×年+誤差

そして、年の係数「-0.057」について、「p値」は「0.001=0.1%」で、これはこの係数が間違いである可能性は0.1%という意味です。したがって、この式はかなり信頼できるものといえます。

 下のグラフがこのデータを使い、年を横軸、気圧を縦軸にとった散布図です。

 点の分布にはかなりばらつきがありますが、なんとなく点の密度の高い黒っぽい部分が緩やかに右下がりになっているような感じです。また点の集まりが作る形も底の部分はなんとなく右下がりで、その年一番、二番の強い台風の強さが、少しづつ強くなっているイメージがあります。そして分布の真ん中を串刺しにするように青い回帰直線(上の式で表される直線で、このデータの変化の傾向を表している)が通っています。

 こちらの分析からは「近年になるほど台風は強くなっている」という仮説は正しい(間違っている可能性は極めて低い)、といえます。

 前回の分析とは結果が矛盾するようですが、これは見方というか視点の違いです。前回は1980年代と2010年代の二つの平均を比べると「平均の差があるとは言えない」という事でしたが、今回はより大きく1870年代からの150年間を見通すとどうか、という視点で見ています。そうするとやはり、だんだん台風は強くなってきている、という直感が裏付けられました。

 何年か前に西内啓さんの「統計は最強の学問である」という本が話題になったことがありますが、統計を使うと様々なことを分析できます。最近は高校の数学でも以前より統計に関する部分が増えましたが、学校での教え方は「各種統計数値の算出法を教えて、計算させる」という事になりがちです。しかし、統計について本当に勉強すべきは、「統計によってどんなことを調べられるのか」とか「統計的に有意」とはどういうことか、という本質だと思います。

 この辺をみんなが常識として持つようになれば、数年前のコロナ騒動は起きなかったかもと思います。しかし、どんなにきちんと統計的に証拠を示したとしても、世の中には自分に不都合なことは「そんなのただの計算だろ。屁理屈を言うな」といって拒否する人が多い(特に偉い人に)ので、同じことだったかもしれませんが。

 

 

4/25 本を読んでいて気になったこと & 「こんなものを読んできた」15

 「こんなものを読んできた」の15回目はトム・マグナブ「速い男に賭けろ」です。最近はみんなが内向きになって海外の音楽や映画、小説はどれも人気がないようです。しかし、私は独りよがりにちまちま自分のことにだけ関心を向けている日本の小説(最近の恋愛小説や青春小説にもこの特徴は顕著です)はあまり好きではありません。壮大なホラ話のような海外の作品の方が好きなのですが…。こんなものを読んできた15(速い男に賭けろ)web.pdf

 さて、本日のお題「本を読んで気になったこと」ですが、ここのところ読み進めている北村薫「円紫さんと私」シリーズについてです。「またかい」と思われるかもしれませんが、1980~90年代にかけての古き良き日本が活写されていて、「そうそう、そうだったよね」という発見があって楽しいので…。

 そのシリーズ第3作「秋の花」の中に、主人公の姉が台風が来ているのに頑張って会社に出勤する場面がありました。それが可能だったのは、昔はJRでも私鉄でも鉄道が台風くらいで運休することはあまりなかったからです。今日の鉄道は実際に台風が来る前から計画運休が発表されて、すぐに運休になってしまいますが…。

 これはなぜなのか。

 私が推測するに人員削減や人手不足でどこの鉄道会社も保線要員が足りないのかもしれません。あるいは事故や突然の運休などの際、鉄道会社に寄せられるクレームが昔より圧倒的に強くなっているので、人々のために交通手段を確保することよりもトラブルを避けることを優先して運休にしているのかもしれません。

 またもしかすると、本当に温暖化などの影響で台風の風雨が1980年代より強くなっているから、安全のために運休となっているのかもしれません。

 上記のうち台風について、自分流に考えてみました。下のグラフが、1880年代から2010年代に日本に上陸した台風の上陸時の気圧を10年単位で平均したものです。元データはJCDP(Japan-Asia Climate Data Program)のWebサイトからいただきました。

 気圧が低いほど台風が強いことになるので、上のグラフで見る限り、だんだんと台風は強くなっているような印象です。特に1980年代から2000年代以降では、急激に強くなっているような感じがします。

 しかしそれが本当にそうなのかを確かめるためには、統計検定をしなくてはなりません。2010年代の台風の気圧の平均値と過去の10年ごとの平均値の間に有意(意味のある)な差があるか、はフリーの統計ソフトgretlを使って検定を行いました。

 

 そうしてみると一般的な5%水準で、2010年代との間に有意な差があるとみなされるのは、1880年代から1900年代、1920年代だけです。この結果からすると、2010年代は19世紀~20世紀初頭よりは台風が強まっているとは言えても、1980年代との差は誤差のうちかもしれないということです。簡単にきれいな結論というのは出ないものです。

 最近は「エビデンス」が大事だとよく言われますが、いろいろな議論でそれぞれの立場の人が持ち出す「エビデンス」は、よく見ると自分に都合のいいように恣意的な結果の読み方をしたものがすくなくありません。

 上の台風の例のように、自分の仮説を検証して「これは成り立たないかも」という正直者(私のこと)は少ないので注意が必要です。統計はうそをつきませんが、人はうそをつくので…。

 ここまでが文字や硬いグラフや表ばっかりだったので、おまけに今回も身近な花の写真を載せておきます。

 左上がハコネウツギ、右上はアカバナユウゲショウ、左下はたぶんハルジョオン、右下はナガミヒナゲシだそうです。花の名前はマイクロソフトのAIコ・パイロットさんに教えてもらいました。

 ハルジョオンが「たぶん」なのは、ヒメジョオンとの区別がよくわからないからです。コ・パイロットさんはヒメジョオンだというのですが、時期と葉っぱの形から、私的にはハルジョオンかな?と。むしって茎の断面を見ればわかるようですが…。

 ナガミヒナゲシは、私が子供のころは見なかった花ですが、30年くらい前から国道17号や産業道路(県道35号)沿いに北上して来て、今ではそこらじゅうで見るようになりました。花がとてもきれいなのですが、有毒で生態系にも影響を及ぼす外来側物だそうなので、見かけたら駆除した方が良いようです。

 

 

 

4/21 花の季節

 先週末あたりから、急に暑くなりました。3月終わりころには、冬のような寒いが続いていた気がしますが、1か月で一気に冬から夏へ早変わりです。

 さて、桜が終わったかと思ったら、急に他の花が咲きだしました。1年で最も花のきれいな季節かもしれません。下はこの数日で身近に見かけた花の写真です。

 一番上はアメリカハナミズキです。この写真は上尾運動公園周辺で撮ったものですが、戸田のボートコース沿いにもハナミズキの木が植えられていて、5月のレガッタシーズンにはとてもきれいです。

 中左はドウダンです。ドウダンを漢字で書くと「満天星」となります。白いはながたくさん咲いているところを夜空いっぱいの星にたとえたのでしょうか。また小さいながらも甘い蜜をもつ花なので、子供のころはこの花をつんで蜜を吸って遊びました。(花の蜜には有毒なものもあるそうです。良い子はうかつに蜜を吸わないようにしてください。)

 中右はモッコウバラです。モッコウバラはバラ科ですが、モッコウというキク科の植物もあるので、ややこしいですね。モッコウといえば、織田信長の家紋が木瓜(モッコウ)ですが、これはモッコウバラの方をモチーフにしているようです。

 下左は、サツキだと思います(いや、ツツジかも)。私はサツキとツツジの違いがよく分かりません。ネットで調べると花の時期や葉っぱの形などいろいろ書いてあるのですが、読めば読むほどわからなくなります…。また、上の写真のドウダンもドウダンツツジといってツツジの仲間だそうです。現代なら遺伝子解析とかで近縁関係を調べられると思うのですが、これだけ形が異なる花を目で見た形態分析だけで同じ仲間に分類できたのはなぜなのか不思議です。

 下右は、ハナニラです。他の植物の陰になるようなところに咲いていますが、涼しげな青紫色がきれいです。ちなみに、このハナニラと食用にする花ニラは別の種類で、こちらのハナニラを食べると中毒するようなので気を付けてください。

 こういった花の名前や虫の名前などは昔は図書館へ行って図鑑と首っ引きでないと調べられませんでしたが、今はマイクロソフトのコパイロットやグーグルのジェミニ等のAI(人工知能)のサービスを使えば一発です。この1、2年でAIもすごく精度が上がり、普及してきました。先日もコパイロットに「遠足で動物園に行った作文、書いたのは小学3年生男子で、爬虫類が好き、仲の良い友達はヒロシ君、800字以内」と条件を設定して作文を書かせたら、ほんの10秒くらいでちゃんと小学生っぽい作文を返してきました。

 これだけ便利なものを使うな、というのは無理なので、教育の在り方、特に宿題の出し方などは変わらずを得ないでしょう。

 

 

4/17 無題

 今回はどうにもタイトルをつけにくく「無題」としました。(いつも無題のようなものですが…。)

 さて読者案内「こんなものを読んできた」第14回は、今日の夕方配信予定ですが、こちらで先行公開してしまいます。今回紹介したのは、いまさらですが今年で10周年を迎えた「鬼滅の刃」です。この夏にアニメ完結編が公開されますが、それで終わっていくのか、それとも名作定番マンガとして定着するのかは、何とも言い難いところです。

 こんなものを読んできた(14)鬼滅の刃Web.pdf

 ちょっと前(4/8)に書いたと思いますが、最近、北村薫の「円紫さんと私」シリーズを読んでいます。埼玉(杉戸の辺り?)から都内の私立大学文学部に通う女子大学生の「私」が、大学の先輩である落語家の春桜亭円紫とともに日常生活の中で起きる様々な不可解な事件に取り組むというミステリー小説です。

 北村薫は専業作家になる前は、埼玉県立高校の国語の先生だった人です。そのためか作品に出てくる高校や高校生活は埼玉県立高校を彷彿とさせます。「円紫さんと私」シリーズでも、主人公の「私」は同じ市内の男子高とペアになった女子高の出身です。男子高の方は駅前なのに、女子高の方は駅から遠いことに不満を持っているなど、あの男子高とあの女子高であることが、まるわかりです。 

 シリーズ第3巻「秋の花」の最初の方で、「私」が友人に女子高時代の思い出を語る場面があります。いまから30~40年くらい前(今でもあまり変わっていなさそう)の女子高の雰囲気が、生き生きと語られています。私も若いころ、とある女子高で教員をしていましたが、「秋の花」の「私」は、当時の私のクラスにもいそうな、何とも女子高の卒業生っぽい人物です。そのあたり北村薫の観察力・描写力はすごいと思います。

 現在、埼玉県の県立男子高・女子高については、共学化の議論が起きています。その是非については県民の皆さんが決めることですから、私がとやかく言うことではありません。しかし、この北村薫の「秋の花」でも語られているように、女子高や男子高には独特の文化があり、そこならではの人材を輩出してきたのは、事実だと思います。

 

 

 上の写真は、今回借りた「秋の花」の後ろについている図書カードホルダーです。今は学校図書館でも図書カードなどはなく、貸し出しはコンピューターで管理していますが、返却期限だけはこのように日付印で押しています。

 一番下の「25.5.14」は、今回の私の返却期限です。その上が、前の貸し出しですが「13.9.3」となっています。これを見て「へぇー、12年も借りる人がいなかったんだ」と思った方がいるかも知れませんが、そうではありません。上の「13」は、「2013(平成25)年」の下2けたではなく「平成13(2001)年」の13です。

 この図書カードホルダーの下をよく見ると「戸田高等学校」と書いてありますので、この本が購入されたのは戸田翔陽高校に変わった平成17年(2005)4月より前です。さらに奥付をみると、この本は1999年の第10刷ですから、2001(平成13)年あたりの購入と見るのが妥当です。つまり、今回の貸し出しは実に24年ぶり、ということになります。

 借り手が少なかったせいか、全然汚れていませんし、表紙の高野文子さんのイラストもすっと肩の力が抜けたようなタッチがとてもしゃれた感じで古さを感じさせません。こんないい本が、24年も借りられることがなかったのは、実にもったいない話です。

 本の内容を見ると、日本経済が絶好調だった80年代~90年代に書かれた小説らしく、主人公の「私」が頻繁に演劇や落語などを見に行ったり、街の描写にも豊かさが感じられ、社会の雰囲気自体が今よりゆとりのある感じです。主人公の「私」は作品の中では19~20歳くらいの女性ですが、実在の人物だとしたら、私より少し若いくらいですから、今50代後半くらいでしょう。その間に日本の社会はずいぶんとショボくなりました。

 

4/15 新緑がきれいです

 今年度に入ってから、この戸田翔陽高校Webページの更新頻度が高くなっています。先生方がどんどん更新してくれるので、この校長ブログもちょっとさぼっているとあっという間に「新着情報」から脱落してしまいます。

 さて、昨日は「対面式」でした。1年次生と先輩たちが顔を合わせ挨拶をする行事なのですが、両方ともちょっと声が小さくおずおずとした感じなのが、ほほえましい感じでした。

 

 今、中庭のドウダンの若葉がとてもきれいです。先週までは茶色っぽかったのに今週に入ってから急にさわやかな緑色になりました。このドウダンの植え込みですが、「TODASHOYO」の文字の形に刈り込まれています。

 これは本校が開設されたころの業務主事さんに樹木の刈り込みが得意な方がいて、「ちょっとやってみました」という感じで始めたものが、代々引き継がれてきたものです。あの頃は、校長先生をはじめとして教職員みんなに「新しい学校を作るぞ!」という活気がみなぎっている感じでした。

 本校は昨年度20周年を迎え、この春から21年目に入りましたが、開校のころの清新な気持ちを忘れることなく、様々な教育課題に果敢に取り組む学校でありたいと思います。

4/9 入学式でした。

 今日は入学式でした。

 本校の校歌の「さわやかな日差しに映える 優しい緑に」という出だしがぴったりと当てはまるような好天に恵まれ、233名の新入生が入学しました。

 

 式の最中の写真はありません。私自身が式典に参加しているので…。

 式辞では中国の古典「礼記」の「修身斉家治国平天下」という言葉を引いて、一人一人のよりよく生きようとする努力が、やがては世界平和にまでつながる。本校からその第一歩を踏み出してほしい、という話をしました。

R7入学式式次.pdf

 この言葉の出だし「修身」は第二次世界大戦前の日本の学校教育の中で道徳科目の名称として使われたため、一部にこの言葉にアレルギーを持つ人もいるようです。しかし、「修身=軍国主義=ダメ」という紋切り型の思考停止をやめて、虚心坦懐にこの言葉を読んでみれば、かなり個人主義的な言葉であることがわかります。

 私のイメージなのですが、古代の中国の人々は日本人よりずっと合理的で個人主義的だった気がします。中国思想の太い柱の「儒教」にしても、悪政により天意(人心)を失えば革命が起きて政権交代するという考え方ですし、「三国志演義」などでも、中国の英雄・豪傑たちは、自分の野心や利益に従ってわりと簡単に所属陣営を変えています。「自分の能力を評価して生かしてくれる職場に転職」という感じでしょうか。だからこそダメな主君に仕えて裏切らない諸葛孔明の忠義が光るわけですが…。

4/8 新学期開始! & いつの間にか無くなったもの(4)

  今日は1学期の始業式でした。いよいよ新しい年度が本格的に始まります。

 本校では明日が入学式ですが、桜の花もこの数日の寒さのおかげでだいぶ葉っぱも出てきたものの、まだ持ちこたえています。

 

 今日の始業式では、「新聞やテレビのニュースを見よう」という話をしました。

 最近、新聞やテレビを「オールドメディア」と呼んで、時代遅れな不要な物のように言う論調があります。しかし、これら「オールドメディア」にとって代わるとされるソーシャルネットワークサービス(Xやインスタグラムなど)やネット動画などの新しいメディアの情報の信頼性は低下する一方です。その信頼性の低さが、制作者のうっかりミスや取材力の低さのためならまだ許せます。しかし、現在では発信源が特定されにくいことや、公正さを審査する仕組みが未整備なことを悪用して、故意に虚偽の情報を流す人や団体が増えています。「オールドメディア」では、同じ事件の見方や扱いが会社によって差があることはあっても、芯となる事実そのものには大きな嘘はないと思います。ネットに流布する虚偽や風評に騙されないためには、「オールドメディア」からの情報もしっかりつかんでいく必要があります。

 春休みで1週休ませていただいた読書案内の「こんなものを読んできた」第13回を配信しました。今回は春らしい作品ということで北村薫「街の灯」を紹介しました。こんなものを読んできた13(街の灯)Web.pdf

 今回「街の灯」を紹介したついでに、北村薫の作品で今まで読んでいなかった「円紫さんと私」シリーズを読み始めました。

 今から30年ちょっと前の作品ですが、インターネットも携帯電話もなかった時代の生活は落ち着いていてよかったなと思います。映画を見に行くときはネットではなく情報誌(「ぴあ」とか「シティロード」とか)で上映予定を調べ、スマホで気軽に連絡を取り合うこともできないので、待ち合わせの約束などはしっかりと守らなくてはなりませんでした。そのせいか人と人の間の信頼感が今よりもずっとあった気がします。

 またこの作品の主人公の「私」は埼玉(杉戸の辺りっぽい)から都内の大学に通う女子学生です。特に裕福な家の子でもなさそうですが、彼女や友人たちは奨学金の返済やアルバイトに追われることもなく、のんびりとした学生生活を送っていて貧しさの影がありません。世の中全体に今よりもゆとりがあり優しい感じです。

 こういった優しさや豊かさも、いつの間にか無くなってしまったものの一つだと思います。

 

 

 

4/1 新年度御挨拶

 新年度になりました。今年度もよろしくお願いします。

 今日は昨日の続きのはずなのですが、新たに異動してきた方を迎えるとどこかちょっと雰囲気が違います。

 

 さて、先週は温かい日が多かったためが、桜が一気に咲きました(今日は寒いですが…)。昨日ちょっと都内に行ってきましたが、虎ノ門の文部科学省の近くの桜は、もう一部葉っぱが出始めていました。

 昔、平安時代に在原業平という人が「世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし(桜の花がなければ春はもっとのんびりできるのに)」と歌を詠みましたが、たしかにこの週末に花見ができるか、また9日の入学式まで桜が持つか、気が気ではありません。

3/31 年度末ご挨拶 & 久しぶりのプチ史跡巡り2

 今日で令和6年度が終わり、明日から令和7年度が始まります。

 年度末に付き物なのが人事異動です。昨日、新聞で埼玉県の教員人事異動が発表されていました。本校でも他の職場に異動する人が荷物の整理をしていたり、そのほかの人も職員室の模様替えの準備をしていたり、あわただしさの中に寂しさが混じった年度末独特の雰囲気が漂っています。

 私は来年度も引き続き本校でお世話になります。一年間ありがとうございました。また来年度もよろしくお願いいたします。

 読書案内「こんなものを読んできた」は、春休みにつき今週はお休みさせていただきます。

 さて、少し前になりますが3月22日(土)、人に誘われて都内を歩いてきました。その日は日差しが強く半そでのTシャツで歩いている人もいるほどの陽気でした。池袋の西口に集合し軽く食事と泡のでる飲み物を楽しんだ後、出発しました。

 西口のすぐ近くにも、池袋の地名の由来を書いた碑がありました。

 

 昔、池袋の周辺に水が湧き出す池があり、そこから雑司ヶ谷の方へ弦巻川がという川が流れ出ていたので、池袋という地名になったという由来が書いてあります。しかし池袋西口は線路にそって南側の方へ行くと階段で降りていくようなすごい坂道があり、周辺に比べて明らかに土地が高いので、池があったのはこの辺ではないでしょう。

 と思って家に帰った後で調べてみたら、地名研究家の谷川彰英先生が「元々の池袋は、本池袋3丁目の池袋氷川神社の辺りだったのでは」と書いているWEB記事を見つけました。前にも書きましたが氷川神社といったら水神ですので、その辺りが水の湧き出る盆地だったのでしょう。何かの機会にぜひ行ってみたいと思います。

 ちなみに谷川彰英先生は私の大学時代の先生です。現在は難病にかかっているとのことですが、それを押して執筆をつづけていらっしゃいます。今また先生に御教示いただくとは何かの縁を感じます。ありがたいことです。

 さて、そこからずっと歩いて、有名な人のお墓があるので有名な雑司ヶ谷の墓地に行きました。都内で有名な人のお墓と言ったら谷中とか青山にもありますが、谷中が大名家や旧華族などの大きなお墓が目立つのに対し、雑司ヶ谷の方はこじんまりとして中産階級のお墓といった感じです。

 ここの最大の目玉は、夏目漱石のお墓でしょう。

 

 夏目漱石の書斎の椅子の形を模したという、両側にひじ掛けのようなものがついた大きなお墓です。明治の文豪の名に恥じない、といえばそうなのでしょう。しかし、私の中では夏目漱石というのは、もうちょっとライトなイメージなのですが。

 たとえば代表作の一つ「三四郎」のあらすじを私流にまとめてみましょう。

 大学に合格して東京へ向かう途中の主人公の少年が、列車の遅延で出会ったばかりの年上の女性と同じ部屋に泊まることになり、誘惑されてドキドキ…。大学では何の役に立つかわからない実験ばかりしている変人の先輩、先輩のかわいい妹、チャラい同級生、先輩の知り合いでツンデレで思わせぶりな美女などに囲まれ、主人公はツンデレ美女に振り回わされた挙句に失恋…。

 という感じで、もうほとんどラノベ(ライトノベル)です。

 夏目漱石が現代日本の小説の文体を確立した偉大な作家であったのは間違いありませんし、私も漱石の作品は全部とは言いませんが、かなり読んでいます。ですが、私は夏目漱石本人は「不朽の名を残す大作家になろう」などとは考えていなかったのではないか? と思います。

 夏目漱石の作品を読むと、様々に試行錯誤しながら小説を書いていたことがわかり、その苦労がしのばれます。しかし、前半と後半で文体が全く変わっているなど粗削りで未完成な感じなものが多く、現代だったら出版社の編集者に滅茶苦茶に直されてしまいそうです。作品のテーマも当時の流行や風俗を取り入れていて、夏目漱石は、読者を楽しませる面白い作品、売れる作品を書くことを第一にしていたと思います。

 今、もし天国の漱石先生の声が聞けたとしたら、「あれ、まだ俺の作品なんか読んでくれているの!?」と言うのではないでしょうか?

 

 

3/24 修了式・いつの間にか無くなったもの(3)

 今日は修了式でした。生徒のみなさんは明日から春休みです。修了式では史記の「桃李言わざれども、下自ずから蹊をなす」という言葉を例にとって話をしました。この言葉は「人格の優れた人の下に、特に言いふらさなくてもは徳を慕って人が集まってくる」ことのたとえですが、今回は「成蹊」の部分から、「人々が少しづつ踏み固めればいつの間にか森の中に道ができるように、毎日少しずつ積み重ねれば、大きな成果を達成できる」という話をしました。

 あと読書案内「こんなものを読んできた」の12回目を配信しました。

こんなものを読んできた12(反逆者の月)Web.pdf

 さて、いつの間にか無くなったものの第3回目です。まずは下の写真をご覧ください。

 ちょっと見ずらいかもしれませんが、石碑にみずらを結った古代風の男性の像が線刻されています。これは何かというと聖徳太子の像碑です。これは私の地元、上尾駅前の氷川鍬神社の境内にあるものですが、古くから日本では、聖徳太子そのものを信仰の対象とする「太子信仰」が盛んでした。この神社だけでなくあちこちの寺社の境内に同じような太子像や碑が残っています。

 これほど日本人の崇敬を集めてきた聖徳太子ですが、最近の歴史教科書では聖徳太子という名前は登場しません。出てくる場合も「厩戸皇子(聖徳太子)」のような扱いです。

 これはなぜかというと、最近、聖徳太子の事績とされることに疑いを持ったり、あるいは存在そのものまで疑うような流行があるからです。これらの説を唱える人には、理由として「聖徳太子の実在を示す同時代の史料がない」と言っている人が多いようです。しかし「同時代史料がない」ということを実在を疑う理由とするなら、現代に伝わる日本最古の歴史書・文献は8世紀初頭に編纂された「古事記」や「日本書紀」ですから、8世紀より前の人物や事件はすべて同時代の史料がなく疑わしいことになります。聖徳太子だけを捏造された架空の人物とする理由にはなりません。

 確かに聖徳太子に関わる様々な伝承には、神聖化や粉飾がみられます。みんながわいわいしゃべっているのを聞き分けたという有名な逸話もそうですし、「厩戸」という名前の由来の、母親が馬小屋で産気づいて生まれたという逸話もキリスト教(当時中国に来ていたネストリウス派)の影響があるという説があるくらいです。とはいえ、聖徳太子の没後、早い段階から神格化や太子信仰の芽生えがあったことなどから、偉大な人物としての太子の記憶が当時の人々の中にあったことは確かでしょう。

 歴史のイメージというのは確かに改編されることはあります。たとえば坂本龍馬などは興味深い人物ではありますが、冷静に考えれば、幕末の混乱でひと旗上げようとする政治ブローカー、イギリスとつながって武器を売りまくろうとした武器商人だったと思います。ところが司馬遼太郎の「竜馬がゆく」のおかげで明治維新を作り出した英雄のように信じられるようになりました。しかしそれにしても、龍馬の人脈の広さや、さまざまな事件に顔をだす抜群の行動力という芯となる事実があってこその英雄化です。

 ですから、聖徳太子についても「十七条憲法」「冠位十二階」などが、全て太子の功績によるものではないとしても、天皇家と蘇我氏の間の難しい関係をうまく保ちながら、政治運営した偉大な皇族政治家であったことは疑いがないのではないかと思います。

 根拠のあやふやな批判を真に受けて、長く親しまれた「聖徳太子」の名前が教科書から消されているのは、どうも理解できません。とある教科書会社は「厩戸皇子(聖徳太子)」と表記する理由を、聖徳太子は後世につけられた呼称で、当時はそう呼ばれていなかったから、のように言っていますが、これはものすごくおかしな議論です。後世につけられた呼称というのなら、中国の皇帝で「煬帝」、「玄宗」とかいうのも、日本の天皇で「応神天皇」というのもみんな死後に贈られた名(諡号)です。これらを使わずに楊広とか李隆基とかホムタワケとか言い出したら、大混乱が生じ、歴史嫌いの生徒がどっと増えてしまいそうです。

 中途半端な屁理屈を真に受けて、長年親しまれた「聖徳太子」の呼び方を消し去ろうとするのは無理のある話です。

 

 

 

 

3/17 「梅に鶯?」& 読書案内(11)

 昔から春は三寒四温と言いますが、3月に入ってから気温が乱高下しています。みなさんお元気でしょうか。

 

 さて、ここのところ良い匂いを楽しませてくれた梅の花もだいぶ散ってしまいました。梅と言えば鶯(うぐいす)、と言いたいところですが、私は梅の花にウグイスが来ているのを見たことがありません。

 上の写真を見ると梅の木にかわいい小鳥がやって来て花やつぼみをついばんでいます。体色はきれいな黄緑で、これぞウグイス色といった感じですが、この鳥はウグイスではなくメジロです。(名前の通り目の周りが白いのが目印です。)本物のウグイスも体色は黄緑色ですが、もう少しグレーがかった渋い色です。それに何よりウグイスはあまり人家の近くには寄ってこない感じです。私の家の近所でも時々、春から初夏にかけて「ケキョ、ケキョ、ホーホケキョ」と鳴いている声は聞こえますが、姿を見たことはほとんどありません。

 というわけで花札などにも描かれた「梅に鶯」の図柄は、メジロとウグイスを間違えたものだと思います。またそんなわけで我々が「ウグイス色」といって思いうかべる色も実はメジロの体色に近い色だったりします。

 ちなみにメジロは、一本の枝にたくさんの個体が止まって押し合いへし合いする「メジロ押し」という行動をとることがあるそうです。きっとかわいいに違いないと思います。見てみたいですね。

 それから、読書案内「こんなものを読んできた」の11回目を配信しました。ミリタリーSFの傑作ジョン・スコルジーの「老人と宇宙」シリーズを紹介しています。こんなものを読んできた11(老人と宇宙)WEB.pdf

 

 

 

 

3/13 昨日は卒業式でした。

 昨日は卒業式でした。1日遅れで何を書いてるんだ、という感じですが、昨日は卒業式が終わったら結構精神的に疲れていたので、なんとなく今日になってしまいました。

 私も何年か校長をやっているので、卒業式は慣れているつもりでしたが、戸田翔陽高校の卒業式はかなり他とは違う癖があり、緊張しました。そのせいか、昨日の明け方には、卒業式が終わってほっとした夢を見て目が覚め、「あれっ、卒業式は…まだ終わってないよね。今日だよね」ということがありました。

 さて卒業式ですが、式辞では「大人になったら『夢』という言葉をむやみに使うべきではない。いよいよ大人になるみんなは夢を目標に変えて、実現のための計画や手段を考えよう」という話をしました。

 R6卒業式式辞.pdf

 卒業生への餞としては、ちょっと辛口のような気もしますが、私は「夢」という言葉が世の中で使われるときは、その甘い響きで何かをごまかしているのではないか、と思ってしまい、「夢」という言葉が濫用されているのは好きではありません。

 たとえば、世界には昔から「自分たちの国には、誰にでも大金持ちになれる夢がある」ということを売り物にしている国があります。たしかにその国にはチャンスを生かして大富豪に成りあがった人たちもいます。しかし、みんながそんなチャンスをつかめるわけはなく、その国はものすごい格差社会でもあります。外国のことなので、よそ者の私にはよくわかりませんが、「夢」という言葉で格差への不満が塗りつぶされているのではないかという気がします。

 そんな大げさな話でなくても、「夢」ばかり語って、現実的な努力がおろそかにされるのはよくないことだと思います。本校を巣立つ皆さんには、大きな目標をもって、それを現実に変えられる人になってもらいたいと思います。

 

 

3/7  いつの間にか無くなったもの(2)

 来週の卒業式に向けて式辞を考えていたのですが、行き詰ったのでブログの方で気分転換を図ります。また、来週初めに生徒向けに配信する予定の読書案内ですが、来週頭にはブログで書くことがあまりなさそうなので、今回は先行公開してしまいます。 こんなものを読んできた10HP(銀河英雄伝説).pdf

 さて、今週は寒さの戻りがあり、今朝も日差しは強いのに風はコートの中にまでしみこむような冷たさがありました。特に月曜、火曜に2日続きで降った雪には驚かされました。

 

 「いつの間にか無くなったもの(2)」は合格発表の貼り出しです。

 県公立高校の入学者選抜の合格発表も終わり、ほっと一息ですが、今年度から県立高校の合格発表は完全にWeb化されました。発表用サイトにログインして合否を確認する仕組みなので、IDとパスワードを知っている人しか結果を見ることができません。合否結果を他人には知られないで済む今年度からの方式は、個人情報保護という点では、改善・進歩と言えます。しかし、結果はネットでみて、合格した人だけが書類を取りに来るという方式は、なんとなく物寂しく、季節感がないように感じました。昨年度までも選抜結果はWeb上に掲載していましたが、学校の掲示板への貼り出しも並行して行っていたので、受験生は学校の掲示で確かに自分の番号があるのを確認して、保護者や友人と喜びあうという風景があったのですが…。

 インターネットが普及する以前は、合格発表は学校の大きな掲示板に張り出す以外の方法はありませんでした。私が教員になったころ、私が勤務していた学校では、合格発表の日に運動部が新入部員勧誘もかねて、合格した受験生を胴上げするサービスをしていました。いわゆる伝統校と呼ばれる学校では、割とよくある風景だったと思います。しかし、この風景を見せられる不合格の生徒がかわいそうだという声が出て、「やめさせよう」ということになりました。決まったことなので、私も部員に話をして胴上げをやめさせましたが、何かすっきりしませんでした。

 また、これは最近、ネットのニュースで見た話です。とあるユーチューバーが、妹が指定校推薦で大学に受かってのんびりしてていいな、というような動画をアップしたところ、「一般受験のために頑張っている人の気持ちを考えろ」という批判が殺到し、動画の削除と謝罪をしたとのことでした。ユーチューバーはみんなに動画を見てもらわなければならないので、反感を買わないよう削除・謝罪をしたのだと思いますが、私にはそこまで責められる理由がわかりませんでした。

 胴上げの件でも動画の件でも、もし合格した人が不合格になった人やまだ受験が終わっていない人を見下したり、馬鹿にしたりしたのであれば許せないことだと思いますが、そうではありません。この人たちに合格を喜んだり、人から祝福されたり、あるいは合格後にのんびりしたりする権利はないのでしょうか。

 不合格になった人や、これから受験に挑まなければならない人にとっては、合格した人のことは、うらやましかったり妬ましかったりするかもしれません。それもやむをえない心理だと思いますが、これを前面に押し出して、合格した人に自粛を要求するのが、当然の権利だとは思えません。(ネットで騒いでいたのは、ただ炎上させたいだけの第三者だったのではないか、と思いますが。)

 合格した人は喜びながらも勝ち誇ることをせず、不合格になった人やまだ合格していない人を思いやり、不合格になった人やまだ合格していない人は、内心はうらやましさや辛さを感じるかもしれませんが、合格した人に「おめでとう」というのが、人としての建前です。以前にもこのブログで書きましたが、人には建前のために無理や「やせ我慢」をすることが必要なのではないでしょうか。こういった経験をすることで、人の人としての力は磨かれていくと思うのですが、最近は、世の中に妙な忖度や配慮がはびこって、その機会が減っている気がします。

 

 

 

 

 

3/3 ひなあられ & 白鳥伝説

 早いものでもう3月、ひな祭りです。

 私事ですが、私は昔から雛あられが好きです。大粒のものではなくて、米粒を膨らまして様々な色をつけた昔ながらのものが…。

 さて、生徒向けの読書案内「こんなものを読んできた」の第9回を配信しました。今回、紹介したのは谷川健一「白鳥伝説」です。大学の歴史学専攻の学生(それもかなりまじめな人)でもないと歯が立たないような本で、高校生には難しすぎるかもしれません。はっきり言って私も十分に読みこなしたとは言えません。でも背伸びをして、わからないなりに読んでみるのもいいことだと思います。

こんなものを読んできた9HP(白鳥伝説).pdf

 詳しくは実際に本を読んでいただきたいのですが、この本は日本の建国や成り立ちに関する学説を示した本です。以前2月12日付けのこのブログで「神武東征」には、該当するような歴史的事実があったのではないか? と書きましたが、この本もそういった立場に立っています。

 神武東征の時、迎え撃った側は、神武と妥協して降伏したニギハヤヒノミコトと、徹底抗戦をして殺されたナガスネヒコの2つの勢力に割れました。この時、ナガスネヒコの一派が関東地方や東北地方に逃れましたが、それらが後に「エミシ」と呼ばれた人々であり、その後も長く近畿地方にできた「ヤマト」に抵抗しました。この人々の住む地域が「ヒノモト」ですが、その後次第に「ヤマト」に押され飲み込まれていきました。しかしこの「ヒノモト」の意識は、関東・東北の人々の中に長く残っていきます。それらの人々が神や神の使いとして尊崇したのが白鳥で、それにまつわる神社や伝説が今も各地に残っている、というのが、乱暴にまとめた「白鳥伝説」の要旨です。

 ガチガチに硬派な歴史研究ですが、壮大なイマジネーションと本物のロマンがある本です。

 さて、この白鳥伝説ですが、私たちの身近な埼玉県にも残っています。埼玉のアニメ聖地発祥の地ともいえる鷲宮神社ですが、祭神は天穂日命(アメノホヒノミコト)、武夷鳥命(タケヒナトリノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)とされています。このアマノホヒとタケヒナトリが神武東征に抵抗したナガスネヒコ勢力につながる神です。もうひと柱のオオナムチも、出雲神話の主神ですから、鷲宮神社は、国譲り~神武東征における敗者の側を祀った神社と言えます。そして鷲宮神社の「鷲」ですが、猛禽類(ワシやタカの仲間)のワシではなく、大きな鳥一般「オオトリ」と解すべきでしょう。(たとえば草加には大鷲神社(おおとりじんじゃ)という神社があります。)そしてオオトリといったら白鳥やコウノトリです。

 次に鴻巣の鴻神社ですが、こちらは比較的新しい時代に、鴻宮氷川社、熊野社、雷電社を合わせてできた神社とされています。しかし地元にはコウノトリ(白い大きな鳥)が悪い蛇を退治したという伝説があり、白鳥伝説っぽい感じです。ちなみにここの境内に「なんじゃもんじゃの木」と言われる木があるのですが、先に紹介した鷲宮神社と深い関係があり、天鳥船命(アメノトリフネノミコト)を祀る神崎神社(千葉県香取郡神崎町)にも「なんじゃもんじゃの木」があります。二つの「なんじゃもんじゃの木」は木の種類が違うようですが、これは偶然なのかそれとも白鳥伝説に何らかの関係があるのか気になります。

 さらに超マイナーですが、私の育った見沼区大和田に鷲神社(わしじんじゃ)という神社というのがあります。

 

 たまに縁の下から江戸時代の古銭が見つかるというので、子供のころは縁の下に潜って古銭探しをしたりアリジゴクをとったりしていました。この神社は名前の通り、鷲宮神社から勧請された末社なのですが、同時に見沼の竜神にまつわる「見沼の笛」伝承があります。前に書いたと思いますが、見沼の竜神と言えば氷川神社です。鷲神社の摂社(境内に祀られた小さな神社)には氷川社はないようですが、氷川神社と何らかの関係がありそうです。

 先述の鴻神社は、前身の一つが氷川社で白鳥伝説とも関りがありそう、こちらの鷲神社は白鳥伝説ゆかりの神社で氷川神社と関係がありそう。もしかするといろいろ隠れたつながりがあるのかもしれません。谷川健一の精緻な研究と比べれば、ザルもいいところですが、こんな風にいろいろ想像するのが歴史の楽しみというものです。

2/25 中学生の皆さん、あと一息です。& 読書案内8回目

 いよいよ明日、県公立高校の学力検査が行われます。

 県公立高校を受験する中学生の皆さんは、最後の追い込みを頑張っているかもしれません。まあ、しかしもうここまで来たら、あとは体力勝負です。今日は、しっかりとご飯を食べてゆっくり休んで明日に備えてください。

 ここから、またちょっと炎上の危険のあることを書きます。「試験前に縁起の悪いことを読みたくない」というひとは読まないでください。

 入学者選抜を受ければ、中学生の皆さんの中には不合格になる人がいるかもしれません。しかし、私は「万が一不合格になったとしても、それくらい、全然大したことではない」と思います。行きたかった学校に入学できないのは残念ですが、一回の不合格は、皆さんの人生において大した損害ではありません。あとから頑張ればいくらでも取り返すことができる程度のものです。

 

  このように書くと今のご時世では、「不合格の人の気持ちを考えられないのか?」などと批判されそうですが、私はあえて書きます。

 教員をしていると「うちの子には絶対挫折をさせたくないんです」という保護者の方に会うことがあります。しかしこういった方は一生にわたり、お子さんを守って安全・安楽な生き方をさせられると思っているのでしょうか。それに入試などは何とかなったとしても、異性に告白したのに振られてしまう、などという挫折は防ぎようがないと思います(それも避けさせる気なんでしょうか?)。またそういったご家庭のお子さんは、そんなに保護者に干渉されて満足なのでしょうか。

 また、近年は生徒の中にも「失敗をしたくないから、チャレンジはしたくない」という人も多くなってきています。しかし、そんな生き方で楽しいのでしょうか。世の中、勝ったり負けたりするのが面白いのではないでしょうか。私自身は大学受験や入社試験などは、ドキドキ・ワクワクするギャンブルのようで好きでした。

 それに生きていけば、自分の思い通りにならないことがあったり、もっと取り返しのつかない大失敗をしてしまうこともあるかもしれません(というか、あると思います)。そうであれば、今のうちに取り返しのきく程度の軽い挫折を体験しておくのも悪いことではありません。

 もし第1志望の高校に入学できずに第2志望の高校に入ったとしても、そこで夢中になれる部活や趣味、心を許しあえる友人に出会えるかもしれません。合格と不合格、長い目で見てどちらが自分にとって良かったかは、誰にもわからないことだと思います。

 まあ、とにかく明日からの県公立高校の入学者選抜を受ける人は、合否の心配などせずに、ガツンと全力をぶつけられるよう、今日は体調を整えてください。

 あと、読書案内「こんなものを読んできた」の8回目を配信しました。今回紹介したのは、私が小学生の時に最初に買ったハヤカワSF文庫「スターウルフ」シリーズです。読んでほしい、というよりは思い出話ですね…。

 こんなものを読んできた8HP.pdf

 

2/17 いつの間にか無くなったもの

 今日は本当にとりとめのないことを書きます。

 先日、バス停でバスが来るのを待っていた時ですが、ふと「最近のバスには『ワンマン』の表示がないな」と思いました。割と最近まで、バスの前面、フロントガラスの下の方に「ワンマン」という表示があったような気がするのですが…。

 といっても若い人たちにはそもそも「ワンマン」とは何か? がわからないかもしれません。

 私が幼稚園生のころ(昭和40年代中盤)までは、車掌さんが乗っているバスが残っていました。乗車するときに乗車口で車掌さんに行き先を告げて切符を買い、降りるときは車掌さんに切符を渡す、映画「となりのトトロ」に出てくるようなバスです。それに対し新型の整理券と料金箱で料金を精算する、運転手さんしか乗っていないバスが「One Man(ワンマン)」です。

 私はギリギリ車掌さんの乗ったバスを覚えていますが、古いボンネット型(運転席の前にエンジンルームが飛び出している)から、新型の箱型(今のバスのような形)の車両に置き換わるとともに、車掌のいるバスはどんどん減っていきました。私が小学校の中学年(3年・4年)になるころには、もうワンマンが当たり前になっていたように思います。そうなってくると別に「ワンマン」という表示はいらないはずですが、かなり最近までこの表示は残っていたように思います。

 これらのことを考えるにつけ、私は昔の人の方が今の私たちより優れていたのではないか? と思います。バスに関しても、昔は2人乗務で運転手と車掌の二人に給料を払ってもバス会社の経営が成り立っていたわけです。またバスの路線網も今よりずっと細かく隅々まで走っていました。ところが、ワンマン化により人件費の大幅な節約ができたはずなのに、現在では赤字等を理由にバス路線はずいぶん減っています。自家用車の普及などによる乗客減なども大きいのでしょうが、それだけではないのではないかという気がします。

 そんな感じで、いつの間にか無くなったものを考えていたら、「無人踏切」という言葉も死語だよね、と思いつきました。これもなぜ、「無人踏切」というのか、というと昔は「有人踏切」があったからです。踏切のところに保安員(踏切番)の詰め所があり、人が操作して遮断機を上げ下げするものです。もっともこれは大きな踏切だけで、小さな踏み切りは、遮断機も信号・警報機もなくてレールの間にわたり板が敷いてあるだけでした。

 そんなに高給ではなかっただろうと思いますが、昔は踏切番という職業があり、その分雇用が確保されていたわけです。今でいうワークシェアリングというやつでしょう。それでも世の中は回っていましたし、また遮断機のない踏切が多くても、踏切を渡るときには左右を確認するという常識は、子供が一人で歩けるようになると同時に叩き込まれたので、あまり事故は起きませんでした。注意力や危険回避力といった点でも昔の人の方が優れていたように思います。 

 もう一つなくなったのものといえば、電話のダイヤルです。

 

 ダイヤルとは、日時計の文字盤(サン・ダイヤル)のように、電話機の番号を打ち込む操作部が放射状になっていることからついた名前です。昔の電話はダイヤルの番号が書いてある穴に指を突っ込んで、かぎづめの位置まで回転させて離すと、ダイヤルがばねの力で元の位置に戻り、その時にリレースイッチを番号の回数だけ開閉させることで信号を電話交換機に送っていました。10桁の電話番号を送るのに、30秒以上はかかっていたと思います。

 今やダイヤルはすっかり見なくなり、若い人は操作法もわからないでしょうが、いまだに電話をかけることを「ダイヤルする」と言ったり、コンピュータやスマホの電話回線に接続するためのアプリを「ダイヤラー」と言ったりするところに名残がみられます。

 ダイヤルは今となっては信じられないほどかったるい装置でしたが、その一方でこの時代には、自宅、職場、親戚、仲の良い友人の家、行きつけの店など、よく使う電話番号の10件や20件は、覚えているのが当たり前でした。それに対し、現在はみんなスマホのメモリーに頼ってしまうので、下手をすると自分の家の電話番号も忘れてしまいます。これなども人間の能力の低下と言えるのではないでしょうか。

 世の中が便利になったように見えて、その分人間の基本的な力が低下したのでは、これは進歩と言えるのかな? と思います。

 

2/12 もったいないお祭り

 一昨日(10日)の夕方、私用で東京・虎ノ門の金毘羅宮の前を歩いていると、境内の神楽殿で月次祭の神楽を奉納していました。

 

 せっかくなので私もロウソクを献納して参拝してきましたが、こんな立派な衣裳をつけて神楽を舞っているのに見ている人が数人しかいませんでした。

 前任校のブログで紹介しましたが、虎ノ門の金毘羅宮は樹木が生い茂る境内にいきなり高層オフィスビルが建っていて、社務所はビルの1階、この神楽殿は地下駐車場の入り口の上に立っているという過去と現代が交差する面白い神社です。官庁・オフィス街のど真ん中なので、近所に住んでいる一般住民の氏子さんはあまりいないのかもしれませんが、せっかくの神楽を見る人が少ないのは、とてももったいない話です。

 さて、昨日は「建国記念の日」でした。一歩間違えると炎上必須の超危険な話題であることは承知していますが、ちょっとだけ書きます(以下は埼玉県教育委員会や戸田翔陽高校の意見ではありません。)

 現在2月11日が「建国記念の日」となっているのは、初代の神武天皇が即位した日付を、日本書紀では「辛酉年 春正月庚辰朔」としており、これを計算すると、紀元前660年の2月11日となるからです。この記述については「辛酉の年には王朝交代(革命)が起きる」とする中国の讖緯説の影響を受けているというのがもっぱらですが、今回話題としたいのは、建国に先立って神武天皇が九州の日向から畿内の大和へ攻め上ったとされる「神武東征」についてです。

 私も地歴科の教員の端くれですが、私個人としては、この「東征」は何らかの歴史的事実の反映ではないかと考えています。

 理由はいくつかありますが、第1に東征のルートや行動が合理的で現実味が感じられることです。神武天皇の一行(軍)は、九州の日向(宮崎・鹿児島)を出た後、豊の宇佐(大分)、筑紫の岡(北九州)、安芸(広島)、吉備(岡山)などに立ち寄り、場合によっては何年も滞在してから畿内にやってきます。これらはいずれも古代に有力な勢力があったところで、それらを一つずつ攻略したり味方に引き入れながら、進むのは理にかなっています。また、畿内に着いてからも、最初は大阪湾に上陸しようとしてニギハヤヒ、ナガスネヒコら大和の現地勢力によって撃退されてしまい、紀州の熊野から吉野地方へと迂回して背後から大和を攻めます。この正面攻撃失敗~迂回作戦へ切り替えという軍事行動もリアルで、この話を全くの空想とするのはむつかしいと思うのです。

 第2の理由としては、昔の人にこの話を創作すべき理由などなかったのでは、ということです。もし古事記や日本書紀が大和王権の正当性をアピールしたいのであれば、何も天皇家が九州から攻め上って大和を征服した話など書かずに、天皇家は最初から大和にある天の香具山あたりに降臨したような話にしておいた方が簡単です。それがそうなっていないということは、古事記や日本書紀が書かれた時代には、一般の人たちにも「神武東征」の記憶が残っていて、それを覆い隠すのが無理だったからではないでしょうか。

 第二次世界大戦のあと、戦前の皇国史観への反省から古事記や日本書紀の神話が徹底的に否定されていた時代がありました。私は、古事記や日本書紀に書いてあること(特に神代の部分)が、すべて歴史的事実とするのは困難ですが、そこにある程度の歴史的事実が反映しているものと見て研究すべきだろうと思います。

 

 

2/10 春の気配 & 読書案内配信しました。

 先週、ふと気がついたら校長室前の植栽の紅梅がきれいに咲いていました。

 

 この紅梅は、現在本校で行っている道路拡幅工事に伴い、最近植えられたものなので、どこかもっと暖かい地域で育てられていたものかもしれませんが、春の兆しを感じます。

 さて、生徒向け読書案内の第7回を配信しました。ほぼ週刊ペースですが、生徒に勧めたい本にそんなに代わりはないので、前任校の時の案内の書き直しも結構あり、完全新作はいまのところ半分くらいです。

 今回紹介したのはトレヴェニアンの「シブミ」です。日本文化をこよなく愛し、日本精神の真髄を追求するドイツ系ロシア人の殺し屋ニコライ・ヘルが主人公で、その行き過ぎ気味の日本愛から日本ではイロモノ扱いされていた作品ですが、現在のいろいろな面で地に落ちた日本の状況から見ると、高潔なニコライ・ヘルの精神を逆輸入したい気がします。よかったらみなさんも読んでみてください。こんなものを読んできた7HP.pdf

 

2/3 祝!打ち上げ成功 & でも壁が…

 生徒向けの読書案内「こんなものを読んできた」(5)と(6)を配信しました。(5)では日本のSF「なめらかな世界と、その敵」、(6)では海外SF「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を紹介しました。

 こんなものを読んできた5HP.pdf   こんなものを読んできた6HP.pdf

 さて今朝、日本のH3ロケット5号機が打ち上げに成功したというニュースをやっていました。今回の打ち上げではGPS衛星の「みちびき」の軌道投入に成功したとのことです。GPS衛星は非常に高い軌道に正確に打ち上げる必要があるので、技術的に難度の高いミッションです。日本の宇宙技術の高さが健在であることが示されたのは、宇宙やらロケットやらが好きな私には、大変おめでたく気持ちのいいニュースでした。

 とはいうものの、宇宙には私が子供のころから感じている憂鬱な壁があります。

 それは、何かというと「光速の壁」です。ご存じの通り、宇宙では光より早いものはないということになっています。宇宙は広く星々への距離は光の速さでも何年もかかるほど遠いので、SF小説で描かれているように自由に星の世界を飛び回るためにはこの「光速の壁」を越えなくてはなりません。

 従来の多くのSF小説ではこの光速の壁を越えるために、一瞬で空間を飛び越えるいわゆる「ワープ」のような技術を仮想していました。しかし、このような技術が実現できる可能性は極めて低いと思います。そうなると、光速を越えないスピードで宇宙を旅するしかないわけです。これだと一人の人間の寿命のうちに太陽系外の星へ行って帰ってくるのはほとんど無理そうです。

 私は自分たちはともかく、未来でも人類が太陽系に閉じ込められていて、SFのように自由に宇宙を飛び回ることができない、というのが本当に嫌でした。

 しかし近年になり、太陽のように惑星を持つ恒星は、昔考えられていたより沢山あり、中には地球とよく似た惑星を持っているものもありそうだということがわかってきました。上で紹介した「プロジェクト・ヘイル・メアリー」もそういう最近の成果を取り入れた小説で、主人公が目指すのは地球から12光年(光のスピードで12年かかる距離)しか離れていないタウ・セチ星系です。これくらいの距離なら光速に近いスピード(亜光速)が出せる宇宙船が作れれば、早く飛ぶ宇宙船上では時間がゆっくりになるという相対論的効果もあるので、人間の一生のうちに往復できそうです。

 しかし、これも実際にはなかなか困難です。なにしろそんなスピードまで加速するには莫大な燃料が必要で、そんな量を積める宇宙船は作れそうにありません。今朝、打ち上げに成功したH3ロケットでも巨大な機体のほとんどは燃料タンクで、宇宙に行くのは先端の小さなカプセルだけです。それでもようやく地球から3万~4万㎞程度の軌道までしか行けません。

 これまでに人類は月まで行きましたが、これは地球や月の引力を使ったスイングバイという方法によるものです。この方法では光速に迫るような加速は不可能です。この方法でも地球の隣の火星くらいまでは行けるかもしれません。しかし火星まででも片道数年という長い飛行が必要で、食料や水の確保、乗組員の士気や人間関係を保てるのかなどの問題があります。

  この「人類が地球から出るのは容易ではない」という事実は、今はまだあまり問題ではないでしょう。しかしこの先人類の文明が発展を続けることができれば、いずれはこれが壁として立ちはだかります。その時に、未来の人たちはどうするのでしょうか? 人類はSF小説のように宇宙にまで広がっていくのか、それとも地球に封じ込められたまま終わるのか、とても興味深い問題です。

1/21 読書案内4号 & 余計な心配

 生徒向け読書案内の4号を配信しました。今回はマンガ界の金字塔「ジョジョの奇妙な冒険」を紹介しています。私は小説でもマンガでも(その他でも)、元気や勇気をくれるのが名作だと思います。こんなものを読んできた4HP.pdf

 さて、どうも最近年を取ったせいか、いろいろ余計な心配をしてしまうときがあります。

 

 たとえば冬になると、温泉につかっているサルの映像がニュースで流れたりします。すごく気持ちよさそうですが、お湯から出た後はどうなっているのでしょうか。お湯からでたあと体をすぐに拭かないと湯冷めしてしまうのではないだろうか? とか、一度お湯に入ったら、もう出たくなくなってしまうのではないか? とか…。まあ、余計な心配で、おサルさんたちはなんとかやっているのだと思いますが…。

 それ以外にも、最近、日本でも世界でも心配なことが増えてきました。前回書いたように、昔(20世紀・昭和)だったら当然守られるべきとされていた建前や節度がなくなって、やりたい放題、言いたい放題な人々が増えてきています。それらの言動は昔だったら周囲からとがめられていたと思うのですが、最近はそういう言動におもねる人も増えてきて、とても暮らしにくい世の中になってきています。

 これらのほとんどは、一田舎校長の私などの及ぶところの問題ではないのですが、どうも気になります。

1/16 読書案内3号 & 「昭和の…」

 生徒向け読書案内の3号目を配信しました。こちらのブログからもダウンロードできるようにしますので、よかったらご一読ください。こんなものを読んできた3HP.pdf

 さて、最近よく「昭和の…」という表現を見かけます。「昭和レトロ屋台村」のようにノスタルジックな文脈の時もありますが(下の写真はフリー素材)、「時代おくれ」とか「古くさい」といったマイナスイメージのことが多いようです。「昭和のビジネスモデル」とか「昭和の価値観」とか…。しかし、バリバリ昭和生まれの私としては、それに異議を申し立てたいと思います。

 

 皆さんご存知のアニメの「ちびまる子ちゃん」は1970年代の小学生で、私とほぼ同世代です。同級生の一人に花輪君という子がいます。執事が自動車で送り迎えし、夏休みや冬休みには海外で休暇を過ごすとても裕福な家の子です。しかし彼は、あまり裕福ではない家の子のまる子や、いかにも貧乏長屋の子といった「はまじ」たちと対等に接しています。自分の裕福な家庭環境を隠しもしませんが、その一方で自分もまる子たちも人として平等だと思っている感じです。まる子たちも花輪君をうらやましがることはありますが、卑屈にはなりません。

 これが昭和の雰囲気です。令和の今より、ずっと人権や平等の意識、民主主義の理想などが強く存在していました。学級の係や委員を決める時も、担任の先生は男女平等を今より強く意識して指導していたと思いますし、「人は見かけよりも能力・人柄」という考えも強く、男女を問わず人の美醜を論評することは、少なくとも公式な場では憚るべきこととされていました(陰ではブスとかデブの悪口もありましたが)。これは敗戦・占領による民主化から20年~30年しか経過しておらず、その雰囲気がまだ残っていたからかもしれません。それが実現していたかはともかくとして、人権とか平等とかの理想や建前を今よりはっきりと言うことができたのが「昭和」でした。

 これに対し今日の令和は、理想も建前も後退した本音丸出しの時代です。生まれた家庭の裕福さや親の社会的地位が子供の人生を決めるとする「親ガチャ」や、容姿に恵まれた者がそうでない者より優れているかのように振る舞う「ルッキズム」などが、批判されるでもなく「だってそれが世の中だろ。仕方ないじゃん」という妙な現実主義とともに横行しています。お年寄りを狙った「オレオレ詐欺」や「アポ電強盗」などは、昭和の悪人の皆さんも手口は思いつけたでしょう(なにしろ「3億円事件」をやってのけた人もいますし)。でもやらなかったのだと思います。ところが令和は、SNSで押し込み強盗の要員を募集すると素人の若者が躊躇なく集まってくる時代です。昭和に育った私から見ると、強いものの傲慢や横暴、差別が横行し、弱いものから奪うことを恥じない令和は、野卑で野蛮な時代に思えます。

 今の日本では、経済も技術も世界水準から立ち遅れ、国民の間に格差と分断も拡がる一方ですが、その背景にはこうした精神の劣化があると思います。今こそ理想や建前をきちんと語れる「昭和」の精神を復活させるべきではないでしょうか。

1/10 三学期開始 & 読書案内始めました。

 今週の8日(水)に始業式、9日(木)から通常授業が始まり、三学期が始動しました。

 始業式の校長講話(「講話」というほどためになる話はできないんですが)では、本校の校長室には歴代校長の写真がないことを題材に話をしました。

 上述のように本校の校長室には、校長室の必需品ともいえる歴代校長の写真がありません。通常だと写真が並んでいる場所には戸田翔陽高校初代(戸田高校から通算だと14代)の黒岩校長先生の書いた「一期一会」の色紙が一枚だけ掛かっています。

 私が20年前に本校にいたときに、黒岩校長が「俺は写真を飾るのは嫌い」と言っていたのを覚えているので、「言ったとおりにしたんだなぁ」と思いますが、そうした理由は、きっとこの「一期一会」なのだろうと思います。「一期一会」とはもとは茶道の言葉で、人と一緒に茶を喫し語り合うその瞬間は、一回限り、一回勝負の真剣さで向い会うべきであるというような意味です。写真の額があれば、取り合えず「昔、そういう校長がいたんだな」という形は残せます(それを眺めるのも結構、面白いのですが…)。しかし写真はただの写真、かつて存在した人の抜け殻のようなものです。黒岩先生としては、そんな抜け殻にこだわるのではなく、校長として在任している間に、校長として何ができるか? ということに集中すべきだと考えていたのだろうと思います。

 始業式では、生徒にその話から「毎日を一回勝負の真剣さで生きていきたいよね」と呼びかけました。

 さて、そんなわけで私も校長として何かしなくてはならないと思うわけですが、昨年末から生徒向けに読書案内の配信を始めました。

 私がこれまで読んできた本を生徒に紹介して、できれば読んでもらいたいというものですが、読まなかったとしてもこんな本があるんだ、と読んだようなつもりになってもらえればと考えています。それでいいのか?という方もいるでしょうが、私自身も新聞や雑誌の書評欄であらすじだけ読んで、読んだようなつもりになっている本が結構ありますので、それもありだろうと思います。大体2週間に一回くらいのペースで発信していきたいと思っていますが、少し遅れてこのブログにも載せていこうかなと思います。

 こんなものを読んできた1HP.pdf

 こんなものを読んできた2HP.pdf

 

 

1/6 年始御挨拶

 皆様、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 長かったはずの今年の正月休みも終わってみればあっという間でした(ふぅ)。特に私は先月27日の御用納めの後、28日の夕方からインフルエンザA型にかかってしまいました(年末に「皆さんお気をつけて」と書いたばかりなのに)ので、休み前半はほとんど何もできませんでした。

 29日は一日中38~39度台の熱が続き大変でしたが、30日に年末ぎりぎりまでやっているお医者さんに駆け込んでインフルエンザ特効薬「ゾフルーザ」を処方してもらいました。インフルエンザウィルスのRNA複製を阻害し、体内のウィルスを消滅させる薬だという話です。

 昔は風邪やインフルエンザというと、布団にくるまってビッショリ汗をかいて熱を下げたものです。大量の発汗で熱が下がった後のすっきりと脱力した感じが、台風一過の青空のようだったのを思い出します。

 今回は特効薬のおかげで汗をかくこともなく、一晩寝たら31日の朝には完全に熱が下がっていました。科学の発達はすごいですね。しかし、このゾフルーザにも抵抗力を持つ耐性株のウィルスが発生してきているというのですから、自然の力も恐るべしです。

 

 休み後半にはインフルエンザの隔離期間が終わったので、足慣らしを兼ねて上尾・二ツ宮の氷川神社に初もうでに行きました。この神社については前任校や前前任校の時のブログでも取り上げましたが、見事な浮彫のある本殿を持つ由緒正しい神社です。またここも大宮・高鼻の氷川神社の末社なのですが、埼玉県に住んでいるとそこら中にある氷川神社は、実は多くの謎を秘めた神社だったりします。この辺については昔まとめたので、よかったら下のリンクから読んでみてください。氷川神社.pdf

 いつもは無人で社務所も拝殿の扉もしまっているのですが、この日はまだ正月三が日のうちとあって、初もうでの人影もちらほらと見え、なんと赤袴の巫女さんまでいました。私もしっかり祈願してきました。

 

12/27 年末御挨拶ほか

 早いもので、今年もあと数日になりました。今日は昔風言いうと「官庁御用納め」というやつで、明日から新年5日まで公立学校を含むお役所は原則休みです。

 生徒の方はすでに25日から冬季休業に入っていますが、24日の終業式では「何を頑張ったかは、人それぞれですが、今、終業式の時にここにいるということさえも一つの成果です。冬休みには少しゆっくりできるでしょうから、2025年は何を頑張るか目標をたてましょう」という話をしました。

 今日の日本の状況の中で、明るく前向きに生きていくというのは、生徒たちのような若者にとってなかなか大変なことだと思います。戸田翔陽の生徒たちには、しっかり勉強して真っ当に生きていく人に成長してほしいと思います。

 それはさておき、今年の冬至は12月21日でした。クリスマスは25日、当たり前ですが大みそかは31日、新年は1月1日です。毎年考えるのですが、これらを一致させられないものかと。つまり、冬至を1年の終わり(12月31日)になるようにし、ついでにクリスマスイブもこの日に揃え、次の日を1月1日とするのです。なぜそうしたいと思うのかは、以前に別の学校のブログ(暦について抜粋.pdf)に書いたので、時間のある方はご覧ください。そうするとすごくすっきりすると思うのですが。

 今年は久しぶりに寒い冬のようです。インフルエンザも流行しているとかですので、皆様、年末年始もお体御自愛ください。

12/20 落語鑑賞会、とても楽しかったですね。

 すでに広報部の方でも投稿されていますが、昨日、今年度の芸術鑑賞会として、真打の三遊亭道楽師匠、同じく三遊亭朝橘師匠、二つ目の三遊亭らっ好さんの三方をお招きして、落語を鑑賞しました。(師匠と呼ぶのは真打の方だけだそうなので、らっ好さんだけ「さん」とさせていただきました。)

 

 道楽師匠の御挨拶をいただいた後、朝橘師匠とらっ好さんのテンポの良い掛け合いによる「落語入門」、「落語体験」と続き、みんなの気分がすっかり盛り上がった後、古典落語3本を聞きました。

 らっ好さんの「つる」は、日々精進に努められている若手の落語家さんらしく、とても丁寧に演じられていて、笑うべきところでしっかり笑わせてもらいました。

 次の朝橘師匠の「荒茶」は、関ケ原の合戦前夜に徳川家康の軍師本多正信が、豊臣家の家臣を取り込むために茶会を開く、という講談の演題を元にした落語です。私は他の方の「荒茶」を聞いたことがないので、朝橘師匠が、どの程度自分流にアレンジしたのかわかりませんが、重厚な豪傑なのにどこか間抜けな加藤清正とか、目立ちたがりで脳筋な福島正則とかのキャラクターが見事に演じ分けられていて、歴史好き・戦国時代好きなら思わずニヤリとしてしまう感じで、とても楽しめました。

 トリの道楽師匠には古典の「牛ほめ」を風格たっぷりにお話いただきました。「牛ほめ」には、今の高校生にはわからないような言葉(たとえば「其角の発句」とか「秋葉の火伏の札」とか(注))も結構出てくるので、ちょっとむつかしいかな?と思ったのですが、道楽師匠の落語の巧みさに引き込まれて、なんとなく伝わるのか、生徒たちは大爆笑をしていました。

 おりからの寒さを吹き飛ばすような熱気の楽しいイベントでした。

 

(注)

「其角の発句」 松尾芭蕉の弟子の宝井其角の俳句のこと。

「秋葉の火伏の札」秋葉神社のお札は、古くから火事の予防(火よけ・火伏)に御利益があるとして有名。ちなみに総本社は静岡県浜松市ですが、さいたま市西区中釘の秋葉神社も関東総社として高い格式を誇っています。

 

12/17 学期末 & 寝ながら考えたこと(2)他

 学校の方は期末考査・答案返却も終わりました。今週から来週にかけでは昨日の食育講演会のような普段はできない様々な講演や芸術鑑賞などの行事が続きます。

 今日の朝、自宅を出ると朝焼けの残る西の空に残月と電柱に止まったカラスがなかなかいい風景を作っていました。

 

 スマホのカメラなのでこんなものですが、冬らしく透明な空や複雑に絡み合った電線のシルエットもいい感じです。欲を言えば本格的な望遠レンズで月をもっと大きく写したかった気がしますが…。

 さて、私は先週に引き続き、この土・日(14・15日)も風邪がぶり返して寝込んでしまいました。そこで寝ながら前回の大阪城に続き、今回は戦国時代の戦いで各大名が動員した兵力はどれくらいだったのか、などということを考えました。

 たとえば関ケ原の戦い(1600年)では、諸説ありますが、東西両軍あわせて15万人を超える兵力がぶつかったとされています。この数について、私はそんなに動員できたのだろうか? と疑問に思っているわけです。

 こういう議論をするときによく出てくるのが石高1万石=軍役250人という目安です。これは明治時代の陸軍参謀本部の戦史研究の中から出てきた数字だそうです。税率が5公5民(50%)だとして、石高1万なら税収は5000石、米1石は人1人の1年分の消費量だそうで、5000石なら5000人分の食糧です。その5%の250人の軍役は確かに可能そうです。しかし、食料が足りればいいという問題ではないでしょう。

 一つ目は隊列の問題です。10万人の軍がいたとします。2列縦隊で前後1m間隔で行進すると隊列の長さは5万メートル=50㎞になります。もっと詰められるのではと思うかもしれませんが、私はこのくらいが限度だと思います。横に何列並べるかは道幅によりますが、現在各地に残っている江戸時代の宿場町では普通自動車のすれ違いがやっとのところが多いようです。戦国時代の街道もそんなものだったとするとせいぜい3m~4mくらいでしょう。電話も無線機もない時代、道の片側は前後を連絡する伝令のために開けておきたいので、道幅一杯には広がれません。前後の間隔も、刀や槍などの携行武器がぶつからないようにするためには、ある程度広くとる必要があります。

 次は補給や宿泊の問題です。当時の兵隊は各自、糒(ほしいい)などの携行食料を持っていたという話ですが、自分で持てる量で長期間の行動は不可能でしょう。昔の日本人は1人1日3合(約450g)の米を食べたという話なので、米だけに換算しても10万人だと1日4.5トン必要です。この量を上記のような道路事情で輸送し、間違いなく配給するのは大変です。道中の農村から調達(略奪)するとしても、隊列が50kmもありますから、先頭の部隊が立ち寄った村に後続の部隊が行っても、もう食料がないわけです。毎日、どの部隊がどの村で調達(略奪)するかの計画を細かく立てる必要があります。夜も全部隊が野天で野宿というわけにもいきませんし、衛生(トイレ)問題も大変です。食事中の方がいたら恐縮ですが、10万人がそこら中で大小の用をたしたら、その街道はどうなってしまうのでしょう…。

 さらに言えば、ずっと後の戊辰戦争の時は、最大の戦いであった鳥羽伏見の戦いでも、兵力は両軍合計で1万5千人くらいです。江戸時代の長い泰平で各藩とも軍縮が進んでいたこともあるのかもしれませんが、定期航路による輸送網が全国に発達し、さらに蒸気船などによる支援もある時代の戦争でも戦いの規模は数千人単位でした。

 これを考えると戦国時代の合戦で何万人もの軍勢というのは、ちょっと信じがたいなと思うのです。

 インターネットでは「中国の戦国時代(紀元前5~3世紀)と比べると日本はスケールが小さい」みたいな意見が聞かれます。たとえば紀元前262~260年に秦と趙が戦った長平の戦いでは、両軍で100万を超える兵力がぶつかり、敗れた趙の兵隊20万人が生き埋めにされた、とか書いてありますが、それこそ信じられません(20万人もの捕虜がおとなしく埋められるとは思えないですし…)。現在、長平の古戦場からは「生き埋め」の話を裏付けるかのように大量の人骨が発見されているそうですが、その遺骨の数を調べてみたりすれば、その辺の真偽が明らかになるかもしれません。

 

 

12/13 寝ながら考えたこと

 本日2本目の更新です。実は私、修学旅行から帰った後、風邪を引き、今週の初めは寝込んでいました。寝ているとやることもないので、いろいろと不要不急なことを考えてしまいますが、その時、考えていたのが修学旅行で見てきた大阪城は、「一体どうやって作ったのだろうか?」ということです。

 「どうやって」と言っても大型の機械などない時代ですから、人が手で持つ道具で作ったに決まっています(私はピラミッドは宇宙人や魔法使いが作った的な考え方はしませんので)が、どれくらいの人数でどのくらいの期間かければ、あんな広大で堅固な城を作れたのか? ということです。

   

 

 大阪城は南北の差し渡しがそれぞれ約1Kmで、外周だけでなく堀が二重・三重になっているため、石垣や塀の延長は10km前後はあると思います。石垣も雑然と石を積み上げたものではなく、ぴったりと石を切り合わせた精緻な作りです。石を積む作業そのものは農民や足軽などを動員するとしても、監督・指導には熟練の石工が何百人も必要でしょう。石垣の中に立つ建築物も巨大な木材を使った重厚なもので、大変高度な技術の産物です。素人をかき集めてどうにかできるようなものではありません。何百人、何千人という腕のいいとび職や大工さん、左官屋さんなどが必要でしょう。

 ネットで調べたらゼネコン大手の大林組が現代技術で大阪城を作ったらどうなるのか試算した結果というのがありました(https://www.obayashi.co,jp/kikan_obayashi/upload/image/016_IDEA.pdf))。それによると、石垣等の土木工事に工期32か月、天守閣や櫓などの建築工事に工期69か月、単純に工期を合計すると101か月(約8年半)。かかる人工(人数×日数)は木造で復元した場合は約88万(これは建築工事分だけ?)となっています。

 現在の大阪城は、豊臣秀吉が作った大阪城が大阪夏の陣・冬の陣で完全に破壊された後、徳川幕府が一から作り直したものです。この時かかった工期は1620年から1629年にかけての約9年から10年であることがわかっています。現代技術を使った試算と1年くらいしか違わないのですから、これはすごいことです。動員された労働者については、ちょっと調べられませんでしたが、整地や石垣積みなど土木工事をすべて人力でやるのであれば、建築部分と合わせて200万とか300万とかのスケールで人工が必要でしょう。「人工」は人数×日数なので、同時に働いている人数はもっと少ないはず(一人の人が何日も働くので)ですが、それでも同時に何千人も働いていたと思います。

 そしてこのように技術者・労働者を動員すれば、建築資材、衣食住の提供も膨大で現代で言うところの物流管理も重要になってきます。ソロバンと帳面だけでこれらをどうやって成し遂げたのか、考えるだけで気が遠くなりそうです。

 しかし、このことについて私が考えた一つの可能性は、現代の我々は、便利な機械や技術に頼って、自分たちの能力に勝手に限界を設けてしまっているのかも知れない、ということです。本来の人間の能力は我々が思うよりずっと高く、ピラミッドもストーンヘンジもモアイ像も、我々が忘れてしまった知恵やコツがあれば、案外、簡単に作れてしまうのかもしれません。

(追記) 上の大林組による試算のレポートは、専門的な工法や詳しい見積もりも載っていてとても面白いです。大林組は大阪城の復元天守閣を施工した会社なのですね。復元天守閣はコンクリート造りのビルなのですが、昭和の初めに建てられ、もはやそれ自体が歴史的な価値をもつので、国の登録文化財になっています。復元とは言え細かいところまで作りこまれたきれいなお城だと思います。

 

 

 

 

 

12/13 異文化体験授業に参加しました。

 韓国語の授業の一環として、異文化体験を実施したことについては、すでに広報部の方で掲載済みですが、(韓国語Ⅰ・体験授業!!)昨日、Ⅱ部とⅢ部で行われた体験授業(のⅡ部の方)に私も飛び入り参加しました。(写真。別に顔を隠す必要もないんですが…)

 李氏朝鮮時代の王様の装束(袞龍袍)で、昔、うちの家族がよく見ていた韓国ドラマ「チャングム」や「イ・サン」でおなじみの格好です。すっかり「私のことは大王様と呼んでね」という気分でしたが、この衣装のベルトが古代日本のものにそっくりであることに感慨深いものを感じました。

 下の写真は千葉県松戸市の小野遺跡から出土したもので、帯は腐食してなくなっていますが、金具と装飾板は残っています。バックルの形式は違いますが、上の衣裳のものとよく似ていることがわかると思います。(写真は「文化遺産オンライン」のページから借りました。著作権的に問題がある場合はご連絡下さい。)

 

 なぜ、このような類似があるのかというと、これらはいずれも中国に源流があるからです。 

 中国で三国~南北朝の数百年にわたる戦乱が終わり、強大な隋・唐帝国が成立したころ、周辺に当たる朝鮮や日本でも国家形成が進みました。これら周辺国では中国と交流し文化や制度を取り入れましたが、服装の制度についても、各民族の独自性を盛り込みながらも基本的には、中国風のものを整えました。上の写真のベルトはまさにその時代のものです。

 中国とは海を隔てつかず離れずの交流をしていた日本では、その後、中国文化の影響を受けながらも自分流にアレンジして日本文化を形成し、服装もどんどん変化して和服が作られていきました。しかし、それでも貴族の正装の束帯には、石帯を締める形が残っています。

 一方、朝鮮半島は中国と地理的に近かったので、各時代により強く中国の影響を受けました。上の李氏朝鮮王国時代の王様の服装(袞龍袍)も、中国の明の時代の服制に準じたものです。

 このような違いはありますが、日本も韓国も東アジア文化圏の一員です。親子兄弟でも時にケンカをすることがあるので、いつでも仲良く、とはいかないかもしれませんが、近隣の諸国とは基本的に良好な関係を保っていけるといいなと思います。

 

12/7 さすがに疲れました…修学旅行最終日

 帰宅してすぐにブログ更新をする元気がなかったので、翌日になりましたが、修学旅行の記事を一応最後まで。

 最終日の12月6日は、大阪市内班別見学です。

 宅配してもらう荷物をトラックに積んだら出発です。

 生徒の皆さんが出発したら先生方は大阪市内に分散して巡回です。私は大阪城公園の方に行きました。途中何組かの翔陽生に出会いましたが、あまり大勢ではありませんでした。道頓堀とか心斎橋の方に行った人が多いのかもしれません。

 ここからはちょっと史跡巡りになります。大阪城には昔も来たことがあるのですが、今回改めて見て、その大きさと堅牢さにびっくりします。今残っている大阪城は豊臣秀吉が作ったものではなく、豊臣氏を滅ぼした後に徳川幕府が立て直したものですが、戦国時代を通じて発達した築城技術の頂点を感じます。巨大な石材を精密に組み合わせた石垣も見事ですし、石垣の裏側の兵隊を伏せさせておくための階段を見ても、城が軍事施設なのだということがよくわかります。

 それを見て考えたのが、15代将軍徳川慶喜公のことです。慶喜公は鳥羽伏見の戦いで幕府軍が薩長軍に破れた後、大阪城を放棄して江戸に引き上げました。このことについて大阪城で戦えば勝てたのではないか、と慶喜公の弱腰を批判する人がいます。しかし私は慶喜公のその後の身の処し方などから考えて、慶喜公はこの堅固な大阪城で戦って戦争が長期化することを避けたのではないかと思います。

 当時の薩摩や長州の後ろにはイギリスがくっ付いて武器や技術の支援をしていましたし、幕府にはフランスが接近して援助を申し出ていました。慶喜はイギリスやフランスの支援を受けて内戦をやった挙句、これらの国の植民地になってしまう危険を考えたのでしょう。臆病の批判を受けることを承知で日本のために決断した立派なリーダーだったと思います。

 場内にある豊臣秀吉を祭る豊国神社にやってきました。巨大な銅像は秀吉だそうですが、私的にはちょっとマッチョすぎる気がします。

 私のイメージだと秀吉は、武芸よりは頭脳で勝負する感じの細身で小柄な感じなのですが。

 織田信長から「サル」の愛称で呼ばれた秀吉にちなんでか、境内に猿回しの芸人さんが来ていました。おサルさんが妙に哲学的な雰囲気を漂わせています。

 

 集合場所の新大阪駅にみんな帰ってきました。「お疲れさまでした。」

 

東京駅に着いたところで解散です。週末はゆっくり休んで、また月曜日に会いましょう。

 

 

12/5 修学旅行も山場です。

 修学旅行の二日目は、いよいよ今回の山場、USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)です。

 下を歩く人の頭上をかすめるようにジェットコースターが疾走し、ゲスト(来場者)の歓声(悲鳴)が響き渡るところなど、東京の方の有名なランドとは、また異なった趣きを感じます。

 平日なのにとても賑やかで、まるでお祭りのようです。

 私なんかはもともと人混みが苦手なので、賑やかさと楽しさのエネルギーに当てられてへとへとになってしまいましたが、生徒のみんなは満足してもらえたでしょうか。

(おまけ)ゲストの食事やおやつのおこぼれをもらえるせいでしょうか、USJのすずめはフクフクに太っていてとてもかわいいです。

12/4 修学旅行1日目

 今日は修学旅行の1日目でした。旅行の様子は公式インスタグラムの方にもどんどんアップしていますし、年次の方でもWEBページにあげると思います。そちらもぜひ見ていただきたいのですが、それはそれとして、こちらにも私視点で掲載します。

 新幹線のぞみで出発です。集合時間が早かったのに、ほぼ定刻通りに行動できました。いいスタートになりました。

 

 Ⅰ部帯のクラスは時間調整をかねてポートタワーで記念撮影をしました。低い塔ですが赤い支柱が青空に映えて美しいですね。この形は鼓をイメージしたものだそうです。

 

 次に「人と防災未来センター」へ行きました。時間が押して駆け足になってしまいましたが、災害への備えを考えさせられる施設で、生徒からは「もっとじっくり見たかった。」などの声が聞かれました。

 午後の後半は市内自由見学です。私はまず豚まんの元祖と言われる老舗「老祥記」の豚饅頭を食べに中華街へ。

 小振りな豚まんですが、濃厚な味で美味です。お値段も5個600円と観光地らしからぬリーズナブルなものでますます良いですね。

 その後は北野の異人館の方へ、

 煉瓦塀の続く趣きのある路地があったり、

 

 

洋館の玄関の屋根に置物のような猫がいたり、ぶらぶらしながら、有名な風見鶏の家(トーマス邸)まで行きました。

 

 宿に帰って夕食です。バイキング形式でしたが、量も味も前任校で行った某有名ホテルよりずっと上で生徒の皆さんも満足できたのではないでしょうか。

 

大きなケガや病気もなく1日目は終了です。

 

12/3 明日から修学旅行 & コラッツ予想

 明日から2年次生は修学旅行で阪神方面へ行きます。私も「団長」ということで、一緒に行きますので、旅行中の様子もできたらこのブログで報告したいと思います。いつもと違う場所でいつもと違うものを食べたり、経験したりできるのが旅行の魅力ですから、二年次生の皆さんは大いに楽しんできてほしいと思います。

 さて、本日の2題目です。明日から旅行に行くぞ、という以外に今日はあまりネタがないので、前回のモンティ・ホール問題につづいて、もう一つ数学パズル的なネタを書いてみます。

 数学でまだ未解決の問題の一つに「コラッツ予想」というのがあります。

 「どんな整数(任意の整数)でも、偶数の(2で割り切れる)ときは2で割る。奇数の(2で割り切れない)ときは3倍して1を足す。この計算の結果にまた同じ操作を繰り返す。何回か繰り返せば必ず1になる。」

  というものです。試しにやってみると、たとえば「5」なら、5→16→8→4→2→1 と5回の計算で1になります。しかし、これが本当にすべての整数で成り立つかどうか? ということが、まだわかっていないのです。

 現代にはコンピュータがあるので、10数行の簡単なプログラムで上の計算を試してみることはできます(私もやってみました。下記参照)。しかし具体的な数字でどれだけ計算しても、もしかすると例外があるかもしれません。どんな数でも例外なく1になるということを理屈で説明できないと、数学的な証明とは言えません。

 なにしろ小学校で習う四則計算しか使われていない問題なので、中学校や高校で数学が得意だった人なら、「任意の整数を文字であらわして数式を書いていけば、すぐ証明できるのでは」と考えるかもしれません。ところがこれが80年以上にわたって解決していないのです。

 この問題には日本の企業の1億2千万円をはじめ、たくさんの懸賞金がかけられているので、もし解決できれば大金を手にすることができます。しかし、高々数億のお金よりも(お金も欲しいですが)数学の歴史上に不朽の名声を残せるという方が魅力的ですね。

(おまけ)下記はPythonで作った任意の整数についてコラッツ予想が成り立っているかを計算するプログラムです。計算したい数字を入力すると、途中経過と計算にかかったステップ数を表示します。GoogleColaboratoryなどのサービスを使えば、ブラウザー上で動かすことができますので、よかったらいろいろな数字を試してみてください。(あまり大きな数だとメモリオーバーでフリーズしてしまうかもしれませんが。)

 

##コラッツ予想の計算をするプログラム
n0=input("整数を入力")
n1=int(n0)
c=0
while True:
 if n1%2==0:
  n2=n1/2
  n1=n2
  c=c+1
 else:
  n2=n1*3+1
  n1=n2
  c=c+1
 print(int(n1))

 if n2==1:
  print("回数" ,c)
  break

 

11/27 モンティ・ホール問題(解答編)

 前回の解答です。正解はマリリンの言う通り「変えた方が得」です。

 こう書くと、「なんで!? 1つが外れのドアが分かっていて、残り2つのうち1つがあたりなんだから、正解の確率は50%。どっちを選んでも同じなのだから、変えても変えなくても同じはず。」と思った方も多いのでないでしょうか?

 これはマリリンに反対した多くの人(数学の専門家含む)の意見と同じです。しかしこれは間違いです。それはなぜか? という説明はネット上にたくさんありますが、どれもわかりづらいですね。私の感覚では、この問題は理系的に数式を使うより、ゲームの流れに沿って物語的(文系的)に説明した方が、すっと理解できるように思います。

 上のように当たりのドアがAだったとしましょう。その場合のゲームの流れは下の3パターンです。

①観客がAを選んだとします。観客が選んだドアを開けると勝ち負けがわかってゲームが終わってしまうので、モンティはAを開けることはできません。BとCのどちらかを開けることになります。この場合、観客はAのまま変えないか、モンティが開けなかった方(Bを開けたらC、Cを開けたらB)に変えるかを選べますが、変えなければ当たり、変えれば外れです。

②観客がBを選んだとします。観客が選んだドアを開けると勝ち負けがわかってゲームが終わってしまうので、モンティはBを開けることはできません。当たりのAも同じ理由で開けられないので、モンティはCを開けることになります。この場合にCは外れなので、観客はBのままで変えないか、Aに変えるかを選ぶことになりますが、変えなければ外れ。変えれば当たりです。

③観客がCを選んだとします。観客が選んだドアを開けると勝ち負けがわかってゲームが終わってしまうので、モンティはCを開けることはできません。当たりのAも同じ理由で開けられないので、モンティはBを開けることになります。この場合にBは外れなので、観客はCのままで変えないか、Aに変えるかを選ぶことになりますが、変えなければ外れ。変えれば当たりです。

 このように「変えたとき」に外れるのは最初にAを選んでいたときだけです。最初にBとCを選んでいた場合には、変えれば当たるので、変えたときに当たる確率は2/3、外れる確率は1/3で、変えた方が得です。

 これは正解のドアがBやCであっても、文字が入れ替わるだけで同じことです。自慢じゃありません(と言いつつ自慢です)が、私のこの説明の書き方が、一番わかりやすいんじゃないかと思います。

 筋道通りに考えればすぐに理解できるのに、数学者の中にはこの結論に納得がいかず、コンピュータシミュレーションで何億回も試行して検証した人もいたそうです。人間って面白いですね。

 

11/25 モンティ・ホール問題

 先日、「情報」の授業を見学しに行ったところ、その中で「モンティ・ホール問題」に触れていました。

 この問題については、前々任校の時にブログに書いたことがありますが、もう削除されてしまっていますし、また自分でも時々おさらいしないと忘れてしまうので、備忘録のようなつもりでまた書いてみます。

 この問題ですが、モンティ・ホールというのは昔、アメリカで人気があったテレビ司会者です。彼の番組に、観客が舞台に上がり、3つあるドアから高級車の入ったドアを当て、当たれば車がもらえる、というコーナーがあったそうです。

 そのコーナーでは、まず観客は3つのドアから一つ選びます。

 その答えを聞いた後、司会者のモンティが外れのドアを1つ開けて教えてくれます。

 ここでモンティは観客に、「選んだドアを変えてもいいですよ。変えますか?」と尋ねます。

 さて、ここでドアを変えたほうが得なのか、否か? というのがモンティ・ホール問題です。

 1990年に、当時アメリカで天才として有名だった女性マリリン・サバントの「マリリンに聞け」という新聞コラムに、読者がこの問題について質問したところマリリンは「変えた方が得」と答えました。

 それに対し、数学の専門家も含むたくさんの人たちが、「変えても変えなくても、確率は同じ、マリリンは間違っている」と反論しました。中には「やはり女性は頭が悪い」と差別的な批判をした人もいたようです。

 さて、マリリンと批判した人たちのどちらが正しかったのでしょうか? 皆さんはどう考えますか? というところで次回へ続きます。暇な人は考えてみてください。

 

 

 

11/19 月夜・失われつつあるものなど

 昨日の帰宅時に東の空を見るとちょうど月が昇ってくるところでした。とりあえずスマホのカメラで撮った写真がこれです。

 

 月は露出オーバーで滲んでいるし、デジタルズームと増感の影響でザラザラに粒子が荒くなっていますが、たなびく雲がまるで昔の中国の屏風絵のようですし、手前の傘を持った人のシルエットもちょっと不思議な感じで、なかなか面白い写真になりました。

 さて、話は全く変わりますが、先日、ちょっと用事があり久しぶりに秩父鉄道に乗りました。東行田で降りたのですが、いつの間にか無人駅になっていました。帰りに熊谷の駅で聞くと、秩父鉄道はほとんど無人駅になってしまったとのことでした。数年前にSUICAが使えるようになって、秩父鉄道も近代化したな、と思っていたのですが、それは無人化の前触れだったのですね。

 それに伴いなくなりつつあるのが、硬い紙の切符(硬券)です。今あるものを売り切ったらもう新しいものは作らないようなので、記念に1枚買っておきました。私が小さい時には、切符と言ったら硬券で、窓口で「○○まで子供1枚」と言うと、駅員さんが行先、金額別に斜めに切符がさしてあるフォルダーから引き抜いて渡してくれました。なお、子供用の場合には、はっきりわかるように切符の「小」と書いてあるところの斜め線をハサミでチョキンと切ってくれました。駅にある切符フォルダーがかっこよくて好きだったのに、もうすぐ見られなくなりそうです。

 なくなりつつあるといえば、日本といわず海外といわずなくなりつつあるのが「建て前」を守る精神です。なんとなく世の中では「建て前ばかり言うな」とか「本音で生きろ」のように、「建て前」というのは悪いもののように言われています。しかし、私は「建て前」を守ってこそ、人は立派に生きられるのだと思います。

 たとえば、人を人種や肌の色で差別してはいけないという「建て前」や人の物を盗んではならないという「建て前」は守らなければなりません。ところが近年は、日本でも海外でもそういう建て前を踏みにじり、言いたい放題、やりたい放題、自己都合丸出しの人がまかり通る世の中になりつつあるようです。従来は洋の東西を問わず、本音(欲望や感情)をコントロールし、建て前(公益や理性)と両立できる人が立派な人として尊敬され、そうなるために人は学問や修養を積むべきだとされてきたはずです。やはり人間は、「あるがまま」「そのまま」ではだめだと思うのですが。

11/7 後夜祭(2)花火!

 今年の翔陽祭は開校20周年ということで、後夜祭で花火をあげました。

 予算の関係もあり、そんなにすごいものではないだろうと思っていたのですが、ところがところが予想外にすごかったです。距離が近いせいもあるのでしょうが、本校上空に大輪の花が次々と開いて、感動しました。花火屋さんはかなりサービスしてくれたのでは…。ありがとうございます。

 スマホのカメラなので、今一つすごさは伝わらないかと思いますが。とりあえず写真を上げておきます。

 

 

11/7 翔陽祭、大詰め

 先週から休みを挟んで開催されている翔陽祭も、今日の体育祭と明日の総合閉祭式を残すのみです。

 今日の体育祭は北風は冷たかったものの、雲一つない青空となりました。100m競争や対抗リレーのようなガチな競技から、大玉運びや障害物競走のような色物競技まで、熱戦が繰り広げられました。それにしても今日は光が強く澄んでいて実に写真日和でした。本日のベストショットはこれです。

 

 本日の大トリ、男子対抗リレーです。バトンを振り上げてゴールをする瞬間の影が面白くとれました。

 ちなみに今これを書いているすぐそばの中庭では、土曜日に雨で延期になった中夜祭を後夜祭に改めてやっています。参加自由なのに、たくさんの人が残って盛り上がっています。周囲が暗くなっているとネオンも照明も映えますね。やはり文化祭は秋が深まってからがいいですね(ちょっと寒いですが…)。

 

 

11/1 20周年記念行事・翔陽祭始まる・憧れの苔玉

 今日から翔陽祭が始まりました。

 今日と明日(要事前予約)の文化祭、来週の体育祭を合わせて翔陽祭です。熱く楽しい1週間になると良いのですが。

 翔陽祭の開催式に先立って、本校の20周年記念行事を行いました。本校が平成17年4月に埼玉県で初めての「パレットスクール(多部制・単位制総合学科)」として誕生してから今年でちょうど20年です。第2代から第7代まで歴代の校長先生が、お祝いに駆けつけてくれました。初代の黒岩校長先生だけは、すでに亡くなられているので御招待できませんでしたが、私が以前、教員として本校に勤めていた時に直接ご指導いただいた校長先生でしたので、あまりに早い御他界が惜しまれてなりません。

 翔陽祭開催式では、有志による合唱や軽音楽部のバンド演奏などに加え、教員バンドの参加(写真下)もあり、大いに盛り上がりました。

 文化祭の校内公開では、お隣の戸田かけはし高等特別支援学校のお店で苔玉を購入しました。私は子供の頃から、盆栽とかつりしのぶとか、苔玉などのようなものが大好きで、苔玉は憧れのアイテムでした。小学校低学年のころ仲が良かった友達の家にたくさんの盆栽があって、遊びに行くと何かして遊ぶより、見事な盆栽を見る方が楽しかったのを思い出します。

 そのころ(小学校低学年)の私の夢は、一日も早く定年退職して盆栽や苔玉づくりでもしながら、のんびり引退生活をすることでしたが、実際自分が還暦を過ぎてみると、どうもそういうわけにはいかない感じになってきました…。せめて今日買った苔玉を心の友として大事にしたいと思います。

 

 

 

 

10/28 もうすぐ「翔陽祭」

 秋も深まりだいぶ寒くなってきました。近年は「暑い」から「寒い」までが、ほんの半月くらいで変化するので、この週末などは半そでの人もいればコートで冬支度を固めた人までいるというカオスな状態でした。

 さて、今週の金曜日から一週間にわたり「翔陽祭」が開催されます。文化祭と体育祭を合わせて「翔陽祭」ですが、今年はそれに20周年記念行事も加わります。その中の11月2日(土)は文化祭の一般公開です。(入場には事前予約(締め切り済み)が必要です。予約されていない方の御来校は申し訳ありませんがお断りします。)

 と、こう書くと「え、今頃文化祭なの!? 遅くない?」と思った方もいるかもしれません。現在、全日制普通科の高校の文化祭はほとんどが9月初めから中旬までで、専門高校も10月中旬くらいが多いので、11月初めに文化祭を開催する本校は、珍しく見えると思います。

 しかし私が高校生の頃は、いわゆる進学校と言われるような学校でも文化祭は、早いところで9月中旬、遅いところでは10月上旬ころに実施していたと思います。当時の文化祭にはグラウンドでキャンパスファイヤーをして盛り上がる「後夜祭」がつきものでした。ある程度、日が短くなって後夜祭の時間に暗くなっていないと、焚火や花火が映えないので、あまり早い時期には文化祭を設定しにくかったと思います。本校の「翔陽祭」は古式ゆかしい伝統を受け継いだもの、ということになります。

 ところが、1990年代から「大学受験に向けての切り替えを早くするため」というのを理由に、いわゆる進学校から文化祭を前倒しするところが増えてきました。その動きがあっという間に広がり、文化祭と言ったら9月初めという今日の状況が作られました。

 しかし私は、文化祭はそろそろ10月~11月に戻してもいいのではないか? と思います。

 現在の9月初めの文化祭では、暑すぎて様々な弊害が起きています。まず食中毒が怖くて迂闊に食べ物の模擬店などはできません。次に生徒やお客さんの健康を考えると、冷房をフル回転させざるを得ませんが、電気代は一年間のピーク電力によって決まりますので、文化祭の日にどんどん電気を使うと、そのあと1年間の電気代すべてが引き上げられてしまいます。

 そもそも、文化祭を早めた大きな理由は大学受験でしたが、それが一番厳しかったのは、第2次ベビーブームと言われた1970年代生まれの人たちの時代でしょう。子供の数は今の2倍、大学の数は今の半分くらいだったので、ざっくり言って大学に入るのは、今の4倍むつかしかったことになります。それに比べれば、現在の大学受験は楽なものですし、さらに年々、同世代の人口は減少し、大学受験は易化の一途です。もはや、大学受験は文化祭を早める理由とはなりにくくなっています。

 それに昔の大学受験が厳しかった時代にも、難関大学に受かるような高校生は、部活動や文化祭準備などと勉強のメリハリをきちんとつけて両立させていました(私はダメでしたが)。文化祭と受験勉強の両立もできないようでは先が思いやられます。

 現代は何かというと「自己責任」と言い出す時代なのですから、この辺も自己責任でいいのではないでしょうか。

10/19 小話3編

 中間考査も終わり2学期後半です。

 本日は土曜日ですが、中学生向けの体験授業を行っています。多くの中学生の皆さんに来ていただきました。私が昔、本校で体験授業をやっていた時は、エジプト象形文字で御札を作ろう、みたいなことをやっていた気がするのですが、今日の体験授業は、わりといつも通りのガチな感じのものが多かったように思います。ですが、妙に甘い授業をしたりしない方が、「高校に入学したらこんな感じなんだ」と理解していただけて良いかもしれません。

 さて、先日のスーパームーンは見ましたか?

 今年一番に大きな月、というだけあってすごい明るさでした。上の写真もF5.8で1/150という普通に昼間にスナップをとるような絞りとシャッタースピードでとったものです。ご近所の家からも月見をしているような会話が聞こえてきて、秋には月見という伝統文化が根強く残っている感じでした。

 秋、といえば、本校の裏庭に2本あるのザクロの木の実が赤く色づいてきました。

 

 まだちょっと熟し方が足りませんが、もう少しして実が割れてきたら食べごろになります。ザクロの実は、中の種をくるんでいる赤いゼリーのような部分が食用で、甘酸っぱいベリー系の味がします。

 20年前の本校の生徒にはザクロの実をとってきて食べる人が結構いましたが、今の生徒たちはどうなのでしょうか。最近のなんでもきれいに加工されたものしか食べたことのない人たちには、はじけて割れた実の中から赤いぶつぶつをすくいだして食べる、などというのは汚らしいような感じがしてだめかもしれません。

 

 試しに1個切ってみましたが、まだ皮に割れ目も入っていない実なので、中身も青臭い味がして食べられませんでした。よく時期を見計らって鳥に食べられないうちに収穫したいと思います。

 

 

10/14 「人間性のある社会」

 朝夕の空気が冷たくなってきて、どこからともなく金木犀の花の香も漂ってくるようになりました。今日は休みですが、この先、予定が立て込んでいてしばらく更新できないかもしれませんので、更新しておきます。

 先週の金曜日、「全国高校総合学科教育研究大会」に行ってきました。研究発表の後の講演は、ハッシャダイソーシャル共同代表の三浦宗一郎氏でした。ハッシャダイソーシャルは、"すべての若者に自分の人生を自分で選ぶ力を"をヴィジョンに若者のキャリア教育や自立支援を行う一般社団法人です。団体名のハッシャダイは英語とかではなく、若者たちを世の中に飛び立たせる「発射台」という意味だそうです。

 

 三浦氏の講演で、心に一番残ったのは「子供たちに『社会性のある人間になれ』というなら、社会も『人間性のある社会』になるべきだ」というところでした。

 「社会性」とは何か、というそもそもの問題はおくとして、一般的に「社会性のある人間になれ」とは、「元気よく挨拶ができ、場の雰囲気を読んで、人とうまく楽しく付き合える人になれ」というような意味だと思います。こういった人であれば、仕事をしていくうえで困ることも少ないでしょうし、会社やら社会やらにとって「使い勝手」の良い便利な人材(人財)でしょう。しかし、全ての人にそういう人間であることが求められるとすると、恥ずかしがり屋で人と一緒にいるより一人で何かをしている方が好きだ、という人はどうしたらいいのでしょう。

 前回、私は「子供たちに望ましい個性だけを求めるのでは、本当の個性尊重ではない」という話を書きました。三浦氏のお話は、それと同じところに根があるもので「子供たちに集団(社会)に溶け込むように強制するのではなく、社会の方が様々な子供を受け入れる寛容で優しさのある社会になるべきだ」という趣旨だと思います。非常に共感させられる講演でした。

 「昔はよかった」という話をするのは年寄りの証拠ですが、老人の特権でもあります。その観点で言いますと、今の社会は、私が若かったころ(1980~90年代)にくらべてあらゆる面でずっと不寛容だと感じます。芸能人などは私生活の問題やちょっとした言葉遣いの誤りなどがあれば、ものすごい勢いでバッシングされますし、一般人の我々も周囲から非難されないために、わずかな落ち度もないように神経をすり減らして生きています。私にはこういった現代の不寛容は、正義感からというより人の非をあげつらって叩くのを楽しむといった貧しい品性から発しているように思えます。

 それに比べ1980~90年代はバブル全盛で経済的に余裕があったからかもしれませんが、人々は今よりもずっと機嫌がよく人に思いやりがありました。このように書くと、現在の方が様々な面で人権意識などは進歩していると反論する人もいると思います。しかし少なくともこの時代に「新幹線のグリーン車に子供を乗せるな」とか「高齢者は社会負担だから自決しろ」とか、そういったことを真顔で恥ずかしげもなく発言する人はいませんでいた。景気の良い時代には、自分と他人の差異や他人の不手際に目くじらを立てて差別したりいじめたりしなくても、人々にはもっと楽しいことがありました。

 孟子は「恒産なくして恒心なし(人心を安定させるためには、経済的に安定させることが必要、という意味)」と言いましたが、人にやさしい社会を作るためには、衰退した経済力を立て直し、生活に不安のない社会を作るしかないと思います。

 

10/7 生活体験発表会に行きました。

 本校では明日から中間考査です。生徒の皆さんは頑張ってください。

 さてこの前の土曜日(10月5日)に、桶川のさいたま文学館で開かれた埼玉県高等学校定時制通信制「生徒生活体験発表会」(定時制通信制教育振興会主催)に行ってきました。

 

 県内の定時制高校に通う15人の生徒の皆さんが、自分の生活体験を発表しましたが、どの人も率直に自分の体験を語っていて、今、この時代に定時制・通信制高校に通う皆さんのリアルを感じました。特に一人の人が、「小学校や中学校で、個性が大切、個性を伸ばせと言われたのに、自分らしくあろうとすると先生たちから厳しく指導され、つらかった」というようなことを話していたのは、心に響きました。

 現行の学習指導要領ではあまり使われていないようですが、以前は教育関係の様々な文書で「望ましい集団活動」とか「望ましい人間関係」とかのような形で「望ましい」という言葉をよく見かけました。そして、これらを通じて最終的に「望ましい」個性や資質を育成しようという考え方がありました。私はこれが、ずっと疑問でした。個性というのは本来、方向性がないものです。個性を伸ばすと言っておきながら、それに「望ましい」というフィルターをかけたら、それはもう個性の尊重ではありません。それにその「望ましい」というのは誰にとって望ましいのか、誰がその基準を決めるのか、その主語を隠したまま漠然と「望ましい」というのはとても胡散臭い感じです。学校や教育は、個性の領域にまで口を出すべきではないような気がします。

 また近年のこの「個性尊重」で、「自分らしく」とか「かけがえのない自分」とか言いすぎたせいで、「自分は何のとりえもない。全然、特別な存在じゃない」と苦しんでいる子供たちも少なくないような気がします。

 私などは、自分がそんなに「特別」じゃなくてもあまり気になりません。仕事の面でも県内に100人以上いるごく普通の校長の一人で、仮に私がいなくなったとしても、すぐに誰かがその穴を埋めるでしょう。趣味に関しても。模型工作はキャリアが長いだけあってそこそこの腕前ですが、プロモデラー(そういう仕事が世の中にはあります)になれるほどではないし、ランニングも近所の運動公園のジョギングコースを走っている週末ランナーの中では早いほう、という程度です。しかし、まあそれで充分で、それ以上になろうとは思いません。

 最近の教育施策のキーワード「個別・最適化」に真っ向から喧嘩を売るようで、ちょっとまずいかな、とは思うのですが、私個人としては、教育において無理に「個性を伸ばせ」とかいうのはやめたらどうかと思っています。「学校は一般的な社会人としての標準的な能力を目的とした教育をする場である」と明言して、一定の水準を保つ努力をしたほうが、教える側、教えられる側ともに楽になるのではないか、と思います。「それでは個性や資質がつぶれてしまう」とおっしゃる方もいるかもしれませんが、私は別に個性的な生徒を抑圧しろと言っているわけではありません。本当に優れた個性や資質なら、放っておいても伸びていくはずです。それに学校がとやかく言うこともないでしょう。繰り返しになりますが、無理にすべての人が「特別な自分」になる必要などないのですから、そういった「特別な自分」プレッシャーを子供たちにかけるのはやめようというだけです。

 と、そんな感じでいろいろなことを考えさせられた1日でした。

9/27 突然、料理教室!?

 今月中にやらなければならないことがたくさんあるのですが、そういうときほどブログの更新とかをしたくなります。思えば、昔も試験前とかになると机や本棚の片づけを始めたりしてました…。

 まずはご近所でよく見る野草シリーズです。

 

 アベリアというスイカズラ科のつる状の植物で、生垣のツツジにからまり覆い隠すようにはびこっています。引っこ抜かないと下のツツジが枯れてしまいそうなのですが、蜜の香りでたくさんの虫を引き寄せているので、うっかり手を出すとハチに刺されそうです。これもこの植物の防衛手段のひとつなのでしょうか?

 さて、いよいよ今日の本題です。秋は果物のおいしい季節ですが、果物の良しあしはなかなか見分けにくいですよね。私も先日、洋ナシを食べようとしたら、まだ身が固くて味も薄く青臭いものに当たってしまいました。そのまま食べる気はしませんが、捨てるのももったいないので、何とかならないかと考えました。

(1)電子レンジ用の皿に、切った洋ナシを入れる。

(2)上からちょっと多めにはちみつをかける。

(3)ラップをして電子レンジ(500W)で1分半から2分程度加熱する。

(4)冷めるまで待って、冷蔵庫に入れしばらく冷やす。

 じゃん! 洋ナシのコンポート風です。

 フォークで切れるほど柔らかくなって、ハチミツの甘味がしみていい感じです。まだちょっと青臭い感じが残っているので、ハチミツと一緒にレモン汁をかけるとか、仕上げにシナモンを振りかけるとかすると良かったかもしれません。もしかするとこの作り方はありふれたものなのかも知れませんが、手軽な割に意外なくらいうまくできたので、紹介してしまいます。洋ナシ以外にも応用できそうです。

 料理教室と言えば、今度10月12日(土)にPTAの研修会で、給食メニューを作る教室があります。いまから楽しみです。

9/24 ようやく秋? & 可愛い花には…

 先週末から急に涼しくなりやっと秋が来たようでホッとしました。本当はいろいろとやるべきことがあるのですが、ちょっと一息、ブログを更新させていただきます。

 この3連休は関東では最低気温が久しぶりに20度を下回り、過ごしやすい天気でしたが、能登の方では大雨による水害で大変な被害が出ているようです。被災した方々に心からお見舞いを申し上げます。それにしても能登の方の皆さんは我慢強いのか、マスコミの関心が低いのか、半年前の大地震も今回の水害も被害の大きさの割に報道が少ないような気がします。これがもし関西などだったら、もっと大きな扱いになっていたのではないでしょうか。なにか少しでも能登の皆さんのお役に立てることをしたいと思います。

 さて最近我が家の近所ではこの野草をよく見かけます。たくさん集まった小さな花の中央の方が黄色、周辺部がピンクでとても可愛らしい花です。

 

 葉っぱの形、花の付き方などからてっきりアジサイの仲間か?と思いましたが、頼りになるCopilot君によれば「クマツヅラ科のランタナ」という中南米原産の花でした。さらになんでも知っているWikipedia君によると、アジサイとはよく似ているが全くの別種で、強い繁殖力から「世界の侵略的外来種ワースト100」に選定されているとのことです。しかも実にランタニンという強い毒があり、うっかり食べると最悪死ぬこともあるそうです。

 日本ではこれまでは沖縄や小笠原などの他は野外で冬を越えられないので、あまり警戒されず庭などに植えられることも多かったそうですが、我が家の近所のこのランタナは、どう見ても人が植えたというより勝手に生えてきたような感じです。最近の温暖化で、埼玉近辺でも冬を越えて繁殖できるようになったのかもしれません。

 だとすると、のんびり眺めていないで駆除しなければいけないはずなのですが、これだけきれいな花が咲いていると、ちょっと引っこ抜きにくいですね。バリバリ引っこ抜いていたら、せっかく花が咲いているのを荒らす悪人、みたいに見られてしまいそうです。この花はそうやって分布を広げてきたのかもしれませんね。「可愛い花には毒がある」というところでしょうか、まさに恐るべしです。

9/13 プチ史跡2(11) 秋葉原駅のミルクスタンド

 残暑が厳しいですね。

 今日は久しぶりに都内に出張だったので、秋葉原駅のミルクスタンドに寄ってきました。

 京浜東北線のホームから総武線のホームに上がったところにあるパンや牛乳を売っている売店です。千葉方面行のホームの側は「ミルクスタンド『酪』」という店名ですが、新宿方面はストレートに「ミルクスタンド」です。

 

なぜ、ここに寄ったのかというと、この店は昔懐かしい菓子パンの品ぞろえが素晴らしいからです。

 

 このスタンドには普通のあんパンや小倉あんパンだけでなく、白あんパン、うぐいすパン、ジャムパン、クリームパンなどが勢ぞろいしています。最近のコンビニでは、「〇〇香る××パン」のような自社ブランドのパンばかり売っていて、上の写真のようなシンプルな菓子パンはほとんど売っていません。私は妙にひねったパンではなく、上のようなシンプルなパンが食べたいので、秋葉原駅に行った際は、必ずここに寄るようにしています。

 また「ミルクスタンド」の名にふさわしく、ここではミルク系飲料も何十種類も売っています。しかもそのほとんどがビン入りです。たとえば「コーヒー牛乳」と注文すると、店員さんが手早く牛乳ビンのふた(厚紙製)を開けて渡してくれます。このレトロ感がたまらない、ということで、ネット上にもこのミルクスタンドの愛好家の方はたくさんいるようです。

 このミルクスタンドはネット上の記事によれば昭和25年(1950年)の開業で70年以上の歴史を誇ります。戦後の復興期から高度経済成長期を支えたサラリーマンたちも、ここで慌ただしく栄養補給をしていたわけで、もはや史跡、産業遺産と言って過言ではないと思います。

 

 秋葉原もこの20年くらいでつくばエクスプレスの開通や駅周辺の再開発などがあり、ずいぶん様変わりしましたが、駅内の京浜東北線から総武線の高架に上る部分などは、おそらく昭和初期に作られたままでしょう。無骨なリベットと優雅な曲線が同居した鉄骨がいい感じです。戦前の秋葉原駅には、当時珍しかったエスカレーターや50人も乗れるエレベーターがあったそうです。私は鉄道そのものにそんなに趣味はないですが、東京都内のJRや地下鉄の駅舎にはところどころ戦前の名残を感じさせる部分があって、好きですね。

 

 

9/7  土曜日ですが… & AIってすごい!

 今日は土曜日ですが、学校説明会のため学校に来ています。

 本校は三部制の定時制、単位制総合学科と属性を盛りすぎているので、本校に興味関心のある方は、ぜひ一回本校に足を運んでいただくとよいと思います。

 今年度はあと2回の説明会(12月14日、1月18日)、体験入学会(10月19日)、学校公開(11月12・13・15)を予定しています。申し込みの告知はこのWEBサイトで行いますので、チェックをお願いします。

 さて、今日も通勤途中に見かけた花シリーズ(いつの間にシリーズになったのでしょう?)です。

 

 細かいところまでよく見ていただきたいので、写真をいつもより大きめにしています。細かい雄蕊、雌蕊までくっきりです。前回も書いたのですが、ちゃちなスマホのレンズでよくここまで撮れるものです。少し青っぽい感じですが、私はこういう寒色系の色合いが好きなので良しとします。

 さて、この花ですが、「ハナトラノオ」という北米原産の植物です。シソ科ということですが、確かに花の形も付き方もシソによく似ていて、シソの花を巨大化したようです。

 私は花や植物にはそんなに詳しくないので、この花の名前も知らなかったのですが、ふと思いついて、最近、Windowsの標準ブラウザーEdgeに搭載されたCopilot(この辺りの名称はすべてマイクロソフトの商標)というAIで調べてみることにしました。Copilotの質問欄に花の写真をペーストして、「この花の名前は何ですか」という質問を打ち込み、待つこと数秒、見事に手短なレポートにまとめられた答えが返ってきました。

 学校現場でAIをどのように取り扱うかという議論も行われていますが、これだけ便利なものの使用を禁じて、調べ物は図書館でやれ、というのは無理でしょう。それはさながら、マッチやライターがあるのに、「木の棒とわらで火を起こせ」と言っているようなものです。

 AIの力をうまく借りて、人の力を拡大していくような方策を考えなければと思います。