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校長室ブログ

忙中閑あり~校長室より

6/14 プチ史跡2(6)羽生市探訪(続)

 めっきり暑くなってきました。

 私の通勤経路に広い庭のあるお宅があるのですが、つい数日前にはクチナシがきれいに咲いていたのに、急に気温が上がったせいか、今朝はもうすっかり萎れていました。また暑い夏が来るのかと思うと、今からちょっとうんざりです。

 さて、先月末に羽生に行った時の写真で、まだ紹介しきれていなかったものがあるので一気に紹介します。

 毘沙門塚古墳の前にある郵便ポストです。骨董品ではなく現役バリバリです。最近の四角いポストと違って、実用品にも美しさを求める意識が感じられていいですね。この型の鋳鉄製ポストはだんだん数が少なくなってきましたが、きちんとペンキを塗って錆を防いでいれば1,000年くらい大丈夫な耐久性はあると思います。末永く頑張ってほしいと思います。

 

 上のポストの道を挟んだ反対側にある句碑です。表面には芭蕉の「春もややけしきととのふ月と梅」の句が、裏面には、明治30年3月に「樨香菴起生」という人がまとめ役の地元の結社がこれを建てたことが刻んであります。

 現代では日本の文化は極端な東京一極集中になっていますが、江戸時代や明治・大正時代には地方の町や村にも文学や俳句などの愛好家の集まりがたくさんありました。芭蕉や小林一茶などがよく旅をしたのも、単に旅行好きとか取材のためとかではなく、地方を回って指導をして謝礼をもらう営業活動でした。

 「文学」、「羽生」とくれば、田山花袋の名作「田舎教師」ですが、それを見ても、明治時代の羽生、熊谷、行田などには、いつかは東京に出て文名を上げてやろうという夢を持った青年たちがいて、なかなか文化活動が盛んであったことがわかります。

 この碑の場所は今は線路近くのほったらかしの空き地、といった感じですが、行田から来た街道が羽生の町に入る所なので、昔はかなり人通りの多い目立つ場所だったと思います。「春もやや~」は芭蕉の句の中でも人気があったようで、この句の碑は全国各地に立っています。

 この句の裏側に、もう一つ石碑が立っていますが、私的にはこの碑がとても気になります。碑の表面に4、5行ほど文字が刻んであります。右側2行は割と文字が残っているのですが、これが微妙に判読できません。真ん中の行はなんとなく「餞田嘉平次(?)」と人名が刻んであるような気がします。左側はすっかり文字が薄れているますが、何か「羽生~」のような気もします。こういう読めそうで読めない石碑を見るとフラストレーションがたまります。

 最後の写真はさらにその数日前に、誠和福祉高校へ行った時のもので、同校の敷地の真ん中を流れる「会の川」です。この川は羽生と加須の市境になっていて北側が羽生市、南側が加須市です。今はちょっとした用水路くらいにしか見えない会の川ですが、江戸時代の利根川改修以前は利根川の本流の一つでした。市境はその名残をとどめているわけです。

 両岸に桜が植えてあるので、春にはものすごくきれいです。校内にこんな桜の名所があるとは、実に素晴らしい学校(本校とは生徒の通学区域がかぶらなそうなので、手放しでほめてしまいます)です。戸田翔陽高校には桜の木が少ないので実にうらやましい限りです。

 

 

6/6 「かけはしのカフェに行きました」他

 前回は学校外の話題でした。続きはそのうちに書きますが、今日は学校内の話題にします。

 とはいえ、ちょっとだけ前回の補足です。前回、前の学校ブログで与野周辺にたくさんある塚のことを書いたと書きましたが、それをまとめてみました。「与野塚めぐりまとめ.pdf」興味のある方は読んでみてください。

 それでは、今回の本編です。

小話(1)かけはしのカフェに行きました。

 今日は同じ敷地内にある戸田かけはし高等特別支援学校の「Cafe 虹のかけはし」の「翔陽デー」に御招待いただきました。戸田かけはしでは、生徒の自立する力を育てる様々な実習を行っていますが、このカフェもその一環です。戸田かけはしの生徒の皆さんが、飲み物や手作りのケーキやパンをサービスしてくれます。

 私は写真のラテアートとココアマーブルとチョコレートのパウンドケーキ2種類を買いました。ラテアートは戸田かけはしの校章ですね。ケーキは自宅に持って帰ってゆっくりいただきます。

 今月は7日(金)と28日(金)(いずれも10:10~11:50、ラストオーダー11:40)に開くそうですので、ぜひ皆さんもご来店ください。

  ところで皆さんは「インクルーシブ」という言葉をご存じでしょうか。日本は「障害者権利条約」という条約を批准しています。その条約では教育は原則インクルーシブで行うべきとなっています。インクルーシブ教育とは様々な障害のある子供を排除せず、全ての子供を一緒に教育するということです。とはいえ設備や人員、児童生徒の安全の問題などがあり、この理想を一気に達成するのがむつかしいのも事実です。

 戸田翔陽高校と戸田かけはし高等特別支援学校は同じ敷地を共有する兄弟校です。本日、カフェに招待していただいたように、今後も職員・生徒の交流を増やし、一緒にできる教育活動も増やしていき、インクルーシブの理想に近づいていけたらいいな、と思います。

 

小話(2)不思議な木の枝

 戸田翔陽高校の東側外周に沿った防球フェンスの一角に、下の写真のような木(枯れ木)の枝があります。

 

 この枝ですが、防球フェンスの金網をきれいに突き抜けるように生えています。今は根っこの方が伐採されているので、まるで宙に浮いたように見えます。フェンス内側に残っている切り株などから推測すると、元々は赤線で示したような感じに生えていたのだと思いますが、道路側に伸びてフェンスの外側に突き出た枝が太く成長するにつれ、枝の内部にフェンスの金網を取り込んでしまったようです。

 本校のフェンス沿いにはこれと同じようにフェンスに張り付いたようになっている木の枝の跡が何か所かあります。年月をかけて少しづつ成長し、フェンスを完全に取り込んでしまった植物の生命力に驚かされます。私たちも小さな努力をこつこつ積み重ねれば、すごい技術や能力を身につけられるかもしれません。頑張らなければ! と思います。

 

6/3 プチ史跡2(5)古墳のある街(羽生)

 先週は出張の関係で1週間のうちに2回も羽生市を訪問しました。出張の行き帰りに大急ぎでいくつかの史跡を見てきましたので、その成果を発表します。

 まず羽生駅におりますと駅で出迎えてくれるのが、ご当地キャラクターのいがまんちゃん(右)とむじなもん(左)です。いがまんちゃんの元になったのは、饅頭の上にお赤飯が乗っている「いが饅頭」です。何とも言えない不思議なお菓子ですが、私は結構好きですね。

 

 今回の出張の目的地、羽生市民プラザは東口ですが、あえて西口に降り、東亜酒造さんの工場の前を北へ進みます。行田へつながる古い街道に突き当たったところの小高い墳丘の上に保呂羽神社があります。地図では「神社」となっていますが、祀られているのは「蔵王権現」なので神仏習合の山岳信仰の祠です。鳥居などもありません。境内の看板には鎌倉時代の武将和田義盛と絡めた由来が書いてありましたが、名称といい祭神といいこの祠は秋田県の山岳信仰の霊場「保呂羽(ほろわ)山」と関係のあるものでしょう。岩手県内や三陸地方には保呂羽神社が点在し、信仰を集めているようですが、なぜ遠く離れたここ羽生に保呂羽神社があるのかはちょっと謎です。

 

 そこからいかにも昔の街道という感じの道を東に歩き、秩父鉄道の踏切(写真)と東武鉄道の踏切を渡ると、こんもりとした森のある一角が見えてきます。

 

 

 

 

 このこんもりとした森は、それ自体が墳丘長が60m以上もある前方後円墳「毘沙門山古墳」という史跡です。この古墳の前方部の上に地元の様々な神社を合祀した社があり、後円部のふもとに毘沙門堂があり、さらに境内には稲荷社や馬頭観音の石塔などが散在し、さながら「宗教センター」の様相を呈しています。

 古墳の上に神社やお堂が立っているのは、結構よく見られる形で、この近所では羽生市立村君小学校の隣にある永明寺古墳 (墳丘上に薬師堂が立っている)などが有名です。このように古墳の上に神社等が建てられるのは、古墳が何かしらの宗教的畏敬を払うべきものとして地元の人々に扱われてきたためだと思います。ここの毘沙門山古墳の上の社は、明治時代に地元のいくつかの社を合祀して建てられたものということなので、比較的新しいものですが、下の毘沙門堂は建長8(1256)年に北条時頼により創建されたという長い歴史をもつものです。毘沙門堂が創建されたころは、後ろの古墳ももっとはっきり形が残っていたでしょうから、その麓にお堂を建てるということには意図的なものがあったはずです。

 

 毘沙門堂の隣に立っている大きな石碑は、お堂の創建と同じ建長8年に建てられた板石塔婆です。この巨大な石は古墳の石室の天井板を転用したものではないか? と言われています。きれいな緑色の石(緑泥片岩)で明らかに特別な用途のために遠くから運ばれてきたものでしょう。ちなみに板石塔婆としては日本最大とのことです。

 さて、この毘沙門山が古墳なので、さっき見てきた保呂羽神社の墳丘も古墳かな、と思ったら、やはりここも5世紀から6世紀ころに作られた円墳ないしはホタテ貝式古墳だそうです(羽生市のWebページによる)。私の前任地の与野高校にも学校周辺にこれと同じような墳丘の上に神社というパターンのものが密集しています。前任校のブログでこれは古墳群ではないか? と書いたのですが、羽生の例を見てますますそんな気がしてきました。

 ほかにも見どころがたくさんあった羽生ですが、長くなってきたので続きはまた今度にします。

 

5/28 夜の校舎

 戸田翔陽高校は3部制の高校です。朝から始まる1部、昼からの2部、夕方からの3部の三つの部があり、朝から夜まで授業をしています。全校生徒は600人以上いるのですが、それが三つの部に分かれているので、一度に授業を受けている人数はそんなに多くありません。

 校舎は昭和末期の生徒急増期に一学年10クラス、500人近い規模を受け入れた時代のものを使っているので、どうしてもあちこちの教室に分散して授業をうけている感じになります。

 だから夜などは、明かりのついている教室と暗い教室が入り混じって、ちょっと寂しげです。しかし明かりのついている教室の中では熱心な授業が展開しています。

 昔、夜間中学を舞台にした「学校」という映画がありましたが、本校も普通の全日制の学校スタイルにはなじめなくても、しっかり勉強をしたいという生徒たちが集まっています。なんとなく胸が熱くなるような風景です。

5/22 戸田というところ プチ史跡2(4)

 早いもので、戸田翔陽高校に赴任してからもうすぐ2か月になろうとしています。

 先週、戸田公園駅の近くの菖蒲川で鵜と亀が仲良く日向ぼっこをしているところを見かけました。

 菖蒲川は見ての通りあまりきれいな川ではないのですが、鵜や亀がたくさんいるところを見ると、餌になる生き物がいるのでしょうか。菖蒲川とつながっているボートコースのほうでは、これから初夏になると大きなハクレンがジャンプしているところなどをよく見かけますが…。

 さてこのブログでは「プチ史跡2」という副題がついた回が多いのですが、「なぜ2?」というと前任校(与野高校)のブログでも「プチ史跡」と銘打って、学校周辺や私の地元などの史跡ネタを書いていたからです。とはいうものの、戸田ではまだあまり周辺の史跡を回れていません。

 なぜかというと、戸田は現代になるまで大きな町が形成されたことがなかったので、史跡の密度が低いのです。羽根倉街道の宿場として発達した前任地の与野や、河岸場として有名だった前々任地の上尾市平方などでは学校の周辺にたくさんの史跡があったのですが。

 ですが戸田にももちろん歴史はあります。荒川(入間川)は古代から今と変わず流れていたので、自然堤防上には弥生時代以前から集落が築かれ、たくさんの遺跡が残っています。また、市内の笹目地区は鎌倉時代から鶴岡八幡宮の所領「篠目郷(笹目)」として文献に登場します。江戸時代には「戸田の渡し」は中山道の要衝として有名でした。古い歴史を持った神社やお寺もいくつかあるようですし、戸田市の笹目・美女木から、さいたま市の内谷や西堀に抜けていく昔の街道沿いには大小の神社や石碑・石仏の類が散在しているようです。今後、なるべく暇を見つけて回っていきたいと思います。

 

 

5/13 戸田と言ったら~プチ史跡2(3)

 ほぼ半月ぶりの更新です。

 プチ史跡2は3回目にして、早くも戸田最大の史跡「戸田ボートコース」を紹介してしまいます。

 

 戸田ボートコースは、戸田公園駅から徒歩5分の所にある戸田公園の中核で、全長約2500m、幅約100mの巨大な池です。下の地図で見るとわかるように、細長いきれいな長方形になっています。

 このボートコースは1940年に予定されていた東京オリンピックのために作られたものです。1940年のオリンピックは第二次世界大戦のため中止になりましたが、1964年の前回の東京オリンピックの時には再整備され、競技が行われました。

 

 上の写真は、ボートコースの観覧席の奥にある1964年東京オリンピックの聖火台です。メイン会場の国立競技場にあったものと比べると2/3の大きさだそうですが、川口の鋳物職人さんたちが精魂込めて鋳造した見事な一品です。

 2020年(実際には2021年でしたが)の2回目の東京オリンピックの時には、戸田ボートコースは現代の規格に合わなくなっていたため使われませんでした。

 2020東京オリンピックでは東京湾に作ったコースで競技が行われましたが、海では波の影響が大きく艇体の小さいシングルスカルなどは漕ぎにくそうでした。準備段階では埼玉の彩湖を一部拡張してボートコースを作る案と東北復興支援を兼ねて宮城の長沼で実施する案もありました。どちらをとっても東京湾で強行するよりはましだったと思います。

 しかし、一番根本的な問題は、日本に国際大会ができるようなボートコースがろくにない、ということです。戸田ボートコースは作られた当時、日本で唯一の人工ボートコースでしたが、80年以上たった今でも唯一の人工ボートコースです。ボートはタイム競技ではなく、その場で艇を並べて一番速かったものが優勝というシンプルで美しいスポーツですが、淡水・静水でしっかり競技のできる環境があるに越したことはありません。

 ボートコースに限らず日本のスポーツ施設や公共建築は貧弱です。日本が自国を先進国や文化国家だと主張するのなら、人工ボートコースを各都道府県に1本ずつくらい掘るような豪儀さが欲しいものです。

 

 

5/1 日本語教室&プチ史跡2(前回の続き)

 連休前半はいい天気でしたが、連休谷間の昨日今日は雨模様です。天気予報では連休後半は持ち直しそうです。ツツジやハナミズキなど花や緑の美しい季節ですから、ぜひ予報が当たってほしいものです。

 今週から本校を拠点に今年度の「オンライン日本語教室」が始まりました。県立高校には海外にルーツを持つ生徒が多数在籍し、その中には学習言語レベルまでの日本語力に達していない生徒もいます。「オンライン日本語教室」は、それらの生徒をサポートするための取り組みです。もし言語の壁のために本来の才能を伸ばしきれない生徒がいたとしたら、それは本人だけでなく日本の社会にとっても大きな損失です。「オンライン日本語教室」は、今のところ週1回(全日制・定時制各1回)の取り組みですが、少しでも彼らの力になれたらいいなと思います。

 さて、ここで前回紹介しきれなかった写真を1枚紹介します。

 前回、与野の赤山街道沿いにある石仏と石塔を紹介しましたが、そこから少し赤山街道を進んだ鴻沼川のほとりに、立派な「石橋供養塔」と橋の礎石らしいものが残っています。

 川に橋を架け通行を便利にすることは、世のため人のためになり、功徳を積むことです。その功績を記念するために、橋の建立年月日や、建築費用を寄付した人や世話人の名前を彫った石碑が「石橋供養塔」です。ここの石橋供養塔は享保十一年という年紀はよく見えるのですが、寄進者の名前は線が細くてよく読めません。しかし、こんな堂々たる供養塔が立っているからには、すごく立派な橋だったのでしょう。見てみたかったですね。

 これと同じようなものとして「敷石供養塔」などもあります。以前、上尾の堤崎の当たりだったか、さいたま市の中釘か高木の当たりだったかで見た気がするのですが、ちゃんと記録していなかったので、場所がはっきりしません。そのうち、また探しに行ってみようかと思います。

 

4/22 「やらかしてしまった!?」&プチ史跡2(2)赤山通りの石塔など

 先週金曜日(4/19)に前任校の与野高校に事務連絡(兼離任式)に行ってきました。

 「離任式」は人事異動で転出した教職員が、年度末に残してしまった事務的な処理や連絡を片付けるとともに、生徒諸君にお別れの挨拶をするという、学校の伝統的な行事です。ここ数年はコロナ禍とやらで、実施しなかったりオンラインやビデオメッセージに代えたりすることが多かったのですが、ようやく復活してきました。しかし「いやぁ、復活してよかった…」とのんきに出かけて行ったのですが、ふたを開けてみたら出席者はなんと私一人でした。コロナ以前はよほどのことがない限りみんな出席したものですが…。離任式の伝統もコロナのせいで断絶しかかっているのでしょうか。私が行かなければ、離任式は流会となり行事の手間を一つ減らせたのに、すっかりやらかしてしまいました。

 しかし、行ってしまった以上はせっかくなので、離任者を代表して「与野高生の多くが持っているまじめさは、得難い才能であり、今後の人生で大きな武器になる」、「自分の夢や目標を恥ずかしがらずに大きな声で語ることが、実現への第一歩である」という話をしてきました。

 さて、与野に行ったついでに与野近辺の史跡探索をしてきました。与野高校から本町通り(羽根倉街道)を北に数百メートル行くと赤山街道との交差点にぶつかります。赤山街道は江戸時代に関東郡代として関東の幕府直轄地の管理を任されていた伊奈氏の本拠赤山陣屋(川口)と、各地に置かれた陣屋を結ぶ道です。

 交差点を右(東)に曲がって少しいったうなぎ屋さんの店の前にお地蔵さんのお堂が大小2棟と石塔2基が立ち並んでいます。

  

 左側のお地蔵様(上の写真左)は、2mを超えそうな立派なもので、お堂も小さな銅鑼や鐘を備えた他ではあまり見ないほど立派なものです。見えるところには年紀などはありませんが、さいたま市のWEBページによれば江戸時代後期のものだそうです。

 並んだ石塔の中に道標を兼ねた「甲子塔」(上の写真右)があります。「甲子塔」とは「庚申塔」と同じようなもので、暦で「甲子」の日にみんなで集まる「甲子講」の人たちが建てたものです。ここの甲子塔は道標を兼ねていて、正面左側は「引又(志木市)二里」、正面右側は「川越四里」、右側面は「浦和一里」、左側面は「大宮十五丁、原市三里、一ノ宮鳥居十丁、岩槻三里」と刻んであります。

 この距離表示を見て気が付くのは「この甲子塔は元々はこの場所ではないところにあったのではないか?」ということです。なぜそう思うのかというと、「一ノ宮鳥居十丁」と「大宮十五丁」の記述です。昔の10丁は1~1.1㎞に相当しますが、石塔の現在位置から氷川神社の一の鳥居までは2㎞以上あります。「大宮十五丁」の記述についても同様で、この石塔は昔はもっと大宮に近い位置に立っていたのではないかと思います。たとえばここから赤山通りをずっと東に行った中山道との交差点(上木崎交差点)付近なら、距離的によく合います。

 

 それと同じく半ば地面にうずもれるように立っている「右秋葉大…(おそらく秋葉大権現)」「左石尊大…(おそらく石尊大権現)」と彫られた石塔も移設されてきたのではないかと思います。なぜなら、このあたりで「秋葉」といえばさいたま市西区中釘の秋葉神社ですが、今、石塔が立っている位置と向きでは、秋葉神社は左側になるはずだからです。

 また「石尊」についてですが、ちょっと調べたら面白いことがわかりました。「石尊権現」というのは、山岳信仰の中心地大山(神奈川県)の神、阿夫利神の別名ですが、ネットで調べたらさいたま市南区関(中浦和の駅の近く)に「石尊大権現」の石塔が残っているそうです。もしかすると昔は南区関に「石尊権現」を祀った施設があったのかもしれません。そうだとするとその場所は本町通りを南下し突き当りの庚申堂の分岐を右側に行った先になります。この石塔が今の位置から少し離れた赤山通り交差点の西側に東を向いて立っていたとすれば、「右秋葉大権現、左石尊大権現」で方角がぴったり合います。

 南区関は与野から本校へ向かう道の途中ですから、なんとなく不思議な縁も感じます。関の「石尊大権現」については、もう少し調べたくなってきました。

 

 

 

4/17 幸手に行ってきました。プチ史跡めぐり2(1)

 昨日(4月16日)は本校の開校記念日で学校閉庁日でした。お休みを頂いてのんびり、と行きたいところでしたが、午後に幸手桜高校に出張する予定だったので、ついでに幸手の史跡を見て回ることにしました。(年次休暇取得済みです。念のため。)

 幸手は日光街道の宿場町ですが、歩いてみると南北に非常に長いことに驚きます。宿場町の面影を残す風情のある建物も残っていていい感じです。ただ、残念なのは1kmもある宿場にこれらが点在していることです。川越のように一区画にまとまった数の建物があれば、観光資源化できると思いますが…。

 古い街らしく、お寺や神社、石碑・石塔の類もたくさん見かけます。道すがら駆け足で見て回ります。

 

 幸手駅から幸手桜高校へ行く途中にある雷電神社です。この神社は別名が「田宮」でこの場所の地名も田宮になっています。境内が思いの外広く、摂社の稲荷の祠や様々な石碑や石塔、力石などが並んでいます。大正時代までは、ここが一体の総鎮守だったとのことですが、なるほど、そんな感じです。

 「雷電神社」は北関東にはたくさんありますが、他の地方には殆ど見られない神社です。祭神はまちまちですが、その名の通り雷の神様を祀るところが多いようです。カミナリの閃光は「イナビカリ」ですが、昔はこのイナビカリが、稲の魂を活性化して稲を実らせると考えられていました。ここの雷電神社の祭神は、別雷命、菅原道真、倉稲魂命の3柱だそうですが、納得のラインナップです。

 もう一つ、雷電神社の見どころは、写真の石鳥居です。白くてきれいなので新しく見えますが、左側の柱をみると、なんと享保14年と書いてありますから、約300年前に建てられたものです。また「別当龍興山宝持禅寺」と書いてあるので、江戸時代にはこの神社の別当(管理者)は近くにある宝持寺が務めていたことがわかります。この鳥居をみると、江戸時代の仏教と神道が混在していた時代が伺えます。

 

 上で出てきた龍興山宝持寺の門前にある石塔群です。左から3本目までは新旧取り混ぜた庚申塔、4番目は何やら仏様の刻んである石塔、5番目はまた庚申塔、右端の背の低いものは馬頭観音のようです。

 4番目を「お地蔵様」としているWEBページがありましたが、頭に螺髪(ブツブツ)をつけているところや、腕の構え方からして、私はこれは「阿弥陀如来ではないか」と思います。私は像容でパッと仏像の種類がわかるほど詳しくないので、間違っているかもしれません。 

 幸手にはこういう感じの石碑や石塔が他にもたくさんあるようです。またそのうちじっくりと回ってみたいものです。

  

4/15 季節も急展開

 すっかり暑くなりました。

 昨日(4月14日)のさいたま市の最高気温は25.6℃、最低気温は 10.8℃だったそうです。ひと月前の3月14日は最高気温15.8℃、最低気温 0.7℃ですから、1か月の間に冬から初夏に季節が移り替わってしまいました。展開の速さに追いつけないのか、本校の構内では初夏の花ツツジ咲き始めた隣には、まだ冬の花の椿が鈴なりに咲いています。

 みなさん、体調管理には気を付けましょう。

 

 

 学校の方では今週から授業が本格的に始まりました。あとでぶらぶらと様子を見に行こうかなと思います。